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2017年6月 4日 (日)

シャロン・バーチュ・マグレイン「異端の統計学ベイズ」草思社 福永星訳

ベイズの法則は、一見ごく単純な定理だ。曰く、「何かに関する最初の考えを、新たに得られた客観的情報に基づいて更新すると、それまでとは異なった、より質の高い意見が得られる」
  ――序文、そして読者の皆さんへのただし書き

「数値を状況から切り離すことはできない」
  ――第10章 ベイズ派の巻き返しと論争の激化

「ベイズの法則はまちがいなのだ……実際に機能するという事実を別にすれば」
  ――第17章 世界を変えつつあるベイズ統計学

【どんな本?】

 迷惑メールを自動的に捨ててくれるベイジアン・フィルタなどで使われており、コンピュータの普及と共に大きな役割を担っているベイズ派統計学。だが、それは統計学の世界では長く異端とされ、何度も葬り去られては復活するゾンビのような歴史を持っていた。

 なぜ異端なのか。厳密な筈の数学の世界で、なぜ綺麗にケリがつかず長く論争が続くのか。ベイズは何が嬉しくて、何が困るのか。そもそもベイズとは何か。そして、数学界での論争とはどのようなものなのか。

 現代の情報技術で脚光を浴びているベイズ統計学の歴史を、個性豊かな登場人物の戦いと活躍で彩り、波乱に満ちたベイズ統計学の物語を綴る、数学と歴史のドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Theory That Would Not Die: How Bayes' Rule Cracked the Enigma Code, Hunted Down Russian Submarines, and Emerged Triumphant from Two Centuries of Controversy, by Sharon Bertsch McGrayne, 2011。日本語版は2013年10月29日第1刷発行。

 単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約437頁。9ポイント47字×18行×437頁=約369,702字、400字詰め原稿用紙で約925枚。文庫本なら上下巻に分けてもいい分量。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。確率については、「釣り鐘型のグラフが正規分布」ぐらいに知っていれば充分に読みこなせる。少し数式も出てくるが、読み飛ばしても特に問題はない。というか、私は読み飛ばした。

 「統計や確率って、やたら沢山の数字を測ったり計算したり、面倒くさいよね」ぐらいに思っていればいい。むしろ計算や面倒くさいことが苦手な人ほど、登場人物の想いが伝わってくるだろう。

【構成は?】

 原則として時系列順に話が進むので、素直に頭から読もう。できれば年表が欲しかった。

  • 序文、そして読者の皆さんへのただし書き
  • 第1部 黎明期の毀誉褒貶
    • 第1章 発見者に見捨てられた大発見
      ベイズ師のすばらしい発見/ベイズが生きた時代ととの人物像/ベイズの天才的ひらめきはいかにして生まれたか/ベイズの大発見はほとんど注目されたかった
    • 第2章 「ベイズの法則」を完成させた男
      数学者ラプラス誕生の背景/天文学と確率論を結びつける/ラプラスはどのようにベイズの法則を発見したか/ラプラス、ベイズを知る/確率の理論を男女出産比率調査で実践/18世紀フランスの政治と統計学/太陽系の安定を示したラプラスの偉業/フランス科学界のリーダーへ/ついにベイズの法則を定式化する
    • 第3章 ベイズの法則への厳しい批判
      誤解に満ちたラプラス像/等確率と主観的信念が攻撃の的になった/フランス軍のなかで生きつづけたベイズの法則/アメリカ電話電信会社を救ったベイズ/アメリカの労災保険料率算出での利用/反ベイズの大物、フィッシャーの人物像/フィッシャーとネイマン、二人の反ベイズ同士の諍い/ベイズの法則が復活の兆しを見せた領域/フィッシャーの有人となったベイズ派、ジェフリーズ/ジェフリーズ対フィッシャー またもベイズ派が負ける
  • 第2部 第二次大戦時代
    • 第4章 ベイズ、戦争の英雄となる
      どうしても答えを出さなければならない問題/ドイツ軍の暗号エニグマを解読せよ/数学者に活躍の出番が回ってくるまで/数学者チューリングがベイズの手法で解読をはじめる/暗号解読に必要なものを手に入れる/ロシアでもベイズは軍用統計学となった/より強力な暗号「タニー」の登場/エニグマ暗号機にホイールが追加される/チューリングとシャノン 戦時下での二人の天才の対話/ユーボート探索の作戦にもベイズが使われた/世界初の大規模電気式デジタル計算機での暗号解読/暗号解読にベイズを使ったチューリング以外の人たち/ベイズの手法の貢献が挺機密扱いになる
    • 第5章 再び忌むべき存在となる
      「頻度主義にあらずんば統計学にあらず」という時代
  • 第3部 ベイズ再興を志した人々
    • 第6章 保険数理士の世界からはじまった反撃
      反ベイズへの逆襲を試みる男/なぜかうまくいくベイズ流損保保険料率に驚く/保険数理士の世界からアカデミズムの世界へ広まる
    • 第7章 ベイズを体系化し哲学とした三人
      統計学者の数が爆発的に増える/外部からは嫌われ内部では分裂する統計学者たち/ベイズを再生に導いた変わり者、グッド/転向して熱烈なベイズ派となった理論家、サヴェッジ/イギリスにベイズ派の拠点を築いたリンドレー
    • 第8章 ベイズ、肺がんの原因を発見する
      がんとたばこの関連を調べた世界初の症例対照研究/たばこと肺がんの因果関係をベイズの手法で証明する/コーンフィールドの大活躍とベイズの復活
    • 第9章 冷戦下の未知のリスクをはかる
      未経験の危機に関する研究へと誘われた若者たち/核兵器事故が起きる不安は募りつつあった/事故の危険を予知した報告書は何を引きおこしたか
    • 第10章 ベイズ派の巻き返しと論争の激化
      ベイズ理論の驚くべき多様化/反ベイズの立場の理論家も密かにベイズを使った/反ベイズの大物たちとの対立はどうなったか/ベイズに注目が集まり他分野にも影響及ぼす
  • 第4部 ベイズが実力を発揮し始める
    • 第11章 意思決定にベイズを使う
      ベイズ派も頻度派も現実の問題に使われてこなかった/情熱と好奇心のアウトサイダー、シュレイファー/意思決定に頻度主義が無力だと悟ったライファ/ライファとシュレイファーがベイズを使えるものにした/二人はベイズの普及に成功したか
    • 第12章 フェデラリスト・ペーパーズを書いたのは誰か
      非軍事分野における最大規模のベイズ手法実践例/現実の問題を扱うことで表出したベイズの困難さ/研究を指揮したモスラーの並外れた能力/著者判別の手がかりとなる単語の発見
    • 第13章 大統領選の速報を支えたベイズ
      テレビ業界の熾烈な競争と世論調査/軍事関連研究の大物、テューキー/なぜテューキーは大統領選速報の仕事を受けたのか/テューキーのベイズ派と頻度主義に対する態度/安全保障のためにベイズの手法は隠された?
    • 第14章 スリーマイル島原発事故を予見
      ベイズ派が停滞期に陥った原因/ベイズ派内でも著しい見解の相違があった/ベイズの手法による分析で原発事故を予見
    • 第15章 海に消えた水爆や潜水艦を探す
      爆撃機が空中爆発して載せていた水爆が行方不明に/仮説を幾つも立てて確率を付与する/水爆探索の現場で何が起きていたか/目撃証言と潜水艇による探索で水爆にたどりつく/ベイズ統計を使う次なる機会 潜水艦探索/潜水艦探索で使われた先進的手法「モンテカルロ法」/探索の理論が漂流船を救助するシステムに応用される/ソビエト潜水艦の発見・追尾にも応用され成功
  • 第5部 何がベイズに勝利をもたらしたか
    • 第16章 決定的なブレークスルー
      コンピュータ発達後も統計学者たちは足踏みを続けた/各分野でベイズの手法を使った成果が出はじめる/ベイズが画像解析に革新をもたらす/ベイズの手法に革命をもたらす数値積分法の発明/マルコフ連鎖モンテカルロ法がもたらしたインパクト/ベイズの手法がソフトウェア化され他分野で大活躍/医学分野でもベイズが使われはじめる/海洋は乳類保護でもベイズが活躍
    • 第17章 世界を変えつつあるベイズ統計学
      ベイズは受け入れられ活用され、論争は沈静化した/ニュースとなり、賞を生んだベイズ統計/金融市場の予測から自動車運転にまで応用されるベイズ/スパムメール除去やWindowsヘルプにも/Eコマーズにもネット検索にもベイズの知見が/ベイズが機械翻訳を大躍進させる/人間の脳もベイズ的に機能している/ベイズ統計は完璧な思考機械を生み出すか
  • 補遺a 「フィッシャー博士の事例集」:博士の宗教的体験
  • 補遺b 乳房X線撮影と乳がんにベイズの法則を適用する
  • 謝辞/用語解説/訳者あとがき/参考文献/原注

【感想は?】

 最初にお断りしておく。この本を読んでも、ベイズ統計学は身に付かない。

 この本は数学の本ではない。だから数学が苦手な人でも楽しめる反面、実際にベイズ統計を使って何かを予測できるようにはならない。ベイズ統計学の入門書ではないので、そこはお間違えないように。

 では何の本かというと、一つの思想の伝記と言っていい。つまり歴史の本だ。

 一つの思想が生まれ、時の流れの中に埋もれ、それが何度も発掘・再発見されては忘れられ、または陰で利用されては葬られ、その度に磨きをかけられて成長し、現代において格好のパートナーを得て大成功を収める、そんな物語だ。

 そう、ベイズ統計そのものを主人公として、艱難辛苦の末に栄光を勝ち取る物語として読むと、とっても気持ちがいい。

 そもそも誕生からして切ない。生んだのは18世紀のアマチュア数学者、トーマス・ベイズ師(→Wikipedia)。今はベイズ統計が情報技術で散々使われているのに、日本語版 Wikipedia の記述もあっさりしたもの。ベイズの法則(→Wikipedia)を見つけたものの、ほったらかしにしたまま亡くなってしまう。

 生まれたはいいが親は何の期待もしなけりゃ育てもせず、橋の下に捨てました、そんな感じ。哀れ。

 この捨て子を拾ったのがピエール・シモン・ラプラス(→Wikipedia)。あの「ラプラスの悪魔」で有名なラプラスだ。男女の出生比などから、ベイズとは無関係にベイズの法則を見つけ、磨きをかけてゆく。ナポレオンと同時代で激動のフランスにありながら、名声を築き上げたラプラスの威光で、ベイズ統計も日の目を見る…かと思ったら。

 いかな天才ラプラスといえど、所詮は人、寿命はある。後援者がいなくなれば生意気な若造は叩かれる。そんなわけで、ラプラスの没後、後ろ盾を失ったベイズの法則は頻度主義者たちから袋叩きにされ、路頭に迷う羽目に…

 なるかと思ったら、世の中捨てる神あれば拾う神あり。今度の救いの神は軍人さん。

 数学者ジョセフ・ルイ・フランソワ・ベルトラン率いるフランス軍が、砲兵将校向けに使い始める。当時は大砲も弾も職人が作っていてバラツキがある上に、撃つ時の風向きや気圧などでも落下地点が変わる。それ全部を計算してたらキリないし、どころか戦場じゃ正確な情報なんてまず手に入らない。

 ってんで、「よーわからん要素」が沢山ある時に、とりあえず使える数字を出すのに向いてるのが、ベイズ統計ってわけ。

 と書くとベイズ統計はいい加減なシロモノみたく思えるが、当然ながらそんな事はない。いや本当に何も分からなけりゃ精度もソレナリなんだが、データが集まってくれば次第に精度も上がってくるのがベイズらしい。

 と、こんな風に、世に出てきては宿命の敵の頻度主義者たちに袋叩きにされ、隅に追いやられては数学の部外者である軍人や保険業者に拾われ、コッソリと実際的な実績を積み重ねる、そんなパターンを何度も繰り返してゆく。

 こういったあたりが、まるきし冒険物語みたいで楽しい。話を創ったんじゃないか、と思うぐらい何度も繰り返すのだ。

 中でも切ないのが軍人さんがパトロンになった時。そうでなくたって秘密主義な人たちで、オープンな学問の世界とは性格が正反対だ。そのため、鮮やかな実績を上げても、軍事機密を理由に全く報われなかったり。これを最もわかりやすく象徴してるのが、かのアラン・チューリング(→Wikipedia)とコロッサス(→Wikipedia)のお話。

 など軍隊とのパートナーシップと秘密主義は今でも続いているようで、画像処理技術なども軍からの払い下げが相当にあるらしい事が、終盤で見えてくる。Photoshop のフィルタも、米軍が開発したアルゴリズムを結構使ってるんだろうなあ。

 やたらと計算量が多いのもベイズの弱点だったが、これもコンピュータなら黙々と計算してくれるわけで、今後もベイズは活躍し続けるだろう。特に学習型AIとかでは、必須の技術になる…というか、既になっている様子。

 厳密な論理に従って話が進むと思っていた数学の世界でも、確率と統計は毛色が違ってる事がわかったし、それ以上に一つの技術が辿った紆余曲折が小説みたいにドラマチックだ。また統計という理論と実践が交わる部隊だけに、個性あふれるコンビが優れたチームワークを発揮する話も気持ちいい。

 と、お話としては抜群に面白い本だった。ただし、繰り返すが、ベイズ統計の入門書としては全く使えないので、お間違いのないように。

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