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2017年6月20日 (火)

アミタヴ・ゴーシュ「カルカッタ染色体」DHC 伊藤真訳

マラリアはおそらくあらゆる病気の中で史上最高の死亡者数を誇る。
  ――p67

「もし『カルカッタ染色体』が本当に存在するのなら、俺は絶対に探しだす」
  ――p127

「俺じゃないんだ。問題は、俺の中にいるやつなんだ」
  ――p313

【どんな本?】

 インドのカルカッタ(現コルカタ)に生まれニューヨークに住む著者が1995年に発表した、SF/ファンタジイ/ホラー/ミステリ/歴史小説。

 近未来のニューヨーク。エジプト出身のアンタールは、非営利団体ライフ・ウォッチに勤めている。仕事の多くは自宅勤務で、端末AVA/Ⅱeを使った目録整理だ。その日、AVAはIDカードの切れ端について尋ねてきた。かつての同僚ムルガンの物だ。回収地はカルカッタ。

 ムルガンは、カルカッタ出身だ。彼はロナルド・ロス(→Wikipedia)の足跡を辿る事に熱中していた。ロスはノーベル生理学・医学賞を受賞している。ハマダラカがマラリアを媒介すると示した、1898年の功績によるものだ。ムルガンは、ロスの足跡を追い1995年にインドに渡り、カルカッタで消息を絶った。

 ロナルド・ロスの何がムルガンを夢中にさせたのか。カルカッタでムルガンに何があったのか。

 近未来のニューヨーク、1995年のカルカッタ、そして英国支配下の1890年代のインド各地とマラリア研究の歴史を交え、謎めいた物語が展開する。

 1997年アーサー・C・クラーク賞受賞のほか、SFマガジン編集部編「このSFが読みたい!2004年版」のベストSF2003海外篇でも6位に躍り出た。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Calcuttta Chromosome, by Amitav Ghosh, 1995。日本語版は2003年6月24日第1版。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約331頁に加え、訳者あとがき8頁。9ポイント43字×19行×331頁=約270,427字、400字詰め原稿用紙で約677枚。文庫本なら少し厚めの一冊分。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。マラリアが物語の鍵を握るが、蚊が媒介する、ぐらいに分かっていれば充分。というか、SFとしては科学の部分がかなり怪しいw むしろ、熱気と混沌が渦巻くカルカッタの空気を知っていると、カルカッタのパートの楽しみが増す。

【感想は?】

 そう、これはサイエンス・フィクションじゃない。だから、科学や工学の部分はあまり突っ込まないように。端末AVA/Ⅱeもちと便利すぎるし、マラリアについても少々誤解してるっぽい。

 それより、作品名にも入っている「カルカッタ」こそが、この作品の大きな魅力だ。

 インドの東、ベンガル湾の奥。気候は蒸し暑く、冬でも日中の気温は20℃を超える。ベンガルの中心都市で、市中はヒンディー語・ベンガル語・英語が飛び交う。住む者はベンガル人が多いが、ネパールからの出稼ぎや派手なターバンを巻いたシーク教徒も目立つ。

 都市化の波もあり、近隣から続々と人々が押し寄せ、都市圏の人口密度は世界屈指の高さで、貧富の差も激しい。交通網など社会資本の麻痺は常態化しつつあり、道路はいつも渋滞だし、突然の停電は日課のようなものだ。

 そこに暮らす人々も慣れたもので、レストランなどは自前の発電機を常備してて、停電で明かりが消えた時も、暫く待てば発電機が動き出して明かりがともる。結婚式の場面とかも、さすがカルカッタ出身とニヤリとしたり。そういう土地なんです。

 そして、何より、血を求める殺戮の女神カーリー(→Wikipedia)を崇める土地である。インドの神様ってのは、単に数が多いだけでなく、それぞれの神様が多くの化身を持ってるのも大きな特徴で、カーリーも単に残酷なだけの神様じゃないのが、実にややこしい所。

 などのインドの神話世界が持つ独特の構造を、コッソリ隠し味として組み込んでるあたりは、純文学系とは思えぬ巧みな仕掛けだろう。

 こういった多文化が混在する様子は、アンタールが登場する冒頭のニューヨークの場面にも出てくる。アンタールが通うドーナッツ店に集まるのは、スーダン人・ガイアナ人・バングラデッシュ人・エジプト人など。彼と同じアパートに住むのも、クルド人・タジク人などで、実に国際色豊かだ。

 いずれも大家族で、やたら騒々しいあたりも、ちょっとニヤリとしたり。もともと移民の受け入れ口で人種のるつぼなんて言われる土地だが、最近は中東から東アジアまで、更にバリエーションに富んだ人々が流れ込んでいる。これもまた、ちょっとした伏線になってたり。

 1995年代のカルカッタ・近未来のニューヨークに続く第三の舞台は、1890年代のインド。

 当然ながら当時のインドは独立前で、大英帝国の支配下にある。インドに住むイギリス人たちを語る文章は世の中に多いが、大半はイギリス人の視点で描かれている。それに対し、この物語は、カルカッタ出身のムルガンがロスの足跡を追う形で進むために、おのずと視点は違ってくる。

 カルカッタ出身の作家だけに、社会風刺的な意味とも取れるが、同時に物語の骨組みをなす大事な仕掛けにもなっているのが憎い。

 加えて、大きな役割を果たすのが、19995年のカルカッタで登場する二人の女。一人は元映画女優で今は地元の名士となっている年配のソナリ、もう一人は若い雑誌記者のウルミラ。

 新しい世代を代表するウルミラは、自らの力で人生を切り開こうと張り切っている。若くキャリアも少ない彼女が、憧れの先輩ソナリの気を引こうとジタバタする場面は、P.A.WORKS のアニメみたいで、なかなか可愛い。

 またウルミラの家族との暮らしを描く場面は、伝統文化と新しい価値観がぶつかりあうインドの現状を、ぬかみそ臭い生活感たっぷりに描いていて、実に生々しい。いや漂うのはぬかみそじゃなくてカレーの香りなんだけど。

 SFというより、ミステリ風味のインド流伝奇小説といった所か。それも、蒸し暑い混沌の街カルカッタ風味。半村良の伝説シリーズが好きな人にお薦め。

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