マーク・カーランスキー「紙の世界史 歴史に突き動かされた技術」徳間書店 川副智子訳
紙の歴史を学ぶことは歴史上の数々の誤解を白日のもとにさらすことでもある。(略)すなわち、テクノロジーが社会を変えるという認識である。じつはまったくその逆で、社会のほうが、社会の中でおこる変化に対応するためにテクノロジーを発達させている。
――序章 テクノロジーの歴史から学ぶほんとうのことヨーロッパ人にこの(11~13世紀の)スタートを切らせたさまざまな理念はアラブ世界に起源をもつものがほとんどで、アラブ文化に触れる機会が一番多かったイタリアが先導役となった。
――第五章 ふたつのフェルトに挟まれたヨーロッパ印刷は仏教の需要に応じて生まれた技術である。
――第六章 言葉を量産する技術紙の歴史をたどると、なぜ(北アメリカの)入植者たちがイギリスからの独立を望んだかがわかる。硬貨、製紙場、新聞――入植者が欲するのもは国王からたびたび禁止されてきた。そうして、製造を制限された入植者がやむをえずイングランドから輸入しようとすると、その物品に税が課され、それが本国の歳入となる。
――第十三章 紙と独立運動ナポレオン戦争時、人影の消えた吹きさらしの戦場では、兵士の亡骸が葬られるまえにぞっとする場面が繰り広げられていた。古着の収集屋が遺骸をつぶさに調べて、血の付着した軍服を剥ぎ取り、製紙業者に売っていたのだ。
――第十五章 スズメバチの革新新しいテクノロジーが古いテクノロジーを排除することはめったになく、新たな可能性を生み出すだけだ。
――第十七章 テクノロジーの斜陽日本には紙によく似た食品がある。寿司を巻いたり、米を包んだりする、紙のように薄い海藻を「海苔」という。海苔の製法は実際、手漉き紙の製法に驚くほど似ている。それどころか、無作為に織り合わさった繊維という紙の定義はそのまま海苔の定義でもあるのだ。
――第十八章 アジアへの回帰
【どんな本?】
カレンダー、ティッシュペーパー、段ボール。紙は私たちの身の回りに溢れている。昔はエジプトのパピルスが紙の起源と言われたが、今は中国の蔡倫(→Wikipedia)が祖とされている。
本やノートに代表されるように、紙は記録し伝える情報媒体として大きな影響力を持ち、それゆえ「グーテンベルクの42行聖書が宗教改革のきっかけとなった」などと、テクノロジーが社会を変えた例として引き合いに出される事も多い。
果たしてそれは本当なのか。ヨーロッパ・中東・極東そして南北アメリカなど、世界各地における製紙と紙の使われ方、そしてその背景にある社会事情を探り、テクノロジーと社会の変化の関係を見直すと共に、古いテクノロジーの行方も追ってわれわれの未来を占う、一般向けの歴史解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は PAPER : Paging Through History, by Mark Kurlansky, 2016。日本語版は2016年11月30日第1刷。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約435頁に加え、宮崎正勝による付録5頁。9ポイント45字×18行×435頁=約352,350字、400字詰め原稿用紙で約881枚。文庫本なら厚い一冊分。
文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。一部にリグニンや亜硫酸など化学物質の名前が出てくるが、わからなかったら読み飛ばして構わない。それよりエッチングやリトグラフなど、美術や印刷に詳しいと、後半に入ってから楽しみが増す。
【構成は?】
だいたい時系列順に話が進むが、各章は比較的に独立しているので、気に入った所をつまみ食いしてもいい。できれば索引が欲しかった。
- 序章 テクノロジーの歴史から学ぶほんとうのこと
- 第一章 記録するという人間だけの特質
- 第二章 中国の書字発達と紙の発見
- 第三章 イスラム世界で開花した写本
- 第四章 美しい紙の都市ハティバ
- 第五章 ふたつのフェルトに挟まれたヨーロッパ
- 第六章 言葉を量産する技術
- 第七章 芸術における衝撃
- 第八章 マインツの外から
- 第九章 テノティチトランと青い目の悪魔
- 第十章 印刷と宗教改革
- 第十一章 レンブラントの発見
- 第十二章 後れをとったイングランド
- 第十三章 紙と独立運動
- 第十四章 ディドロの約束
- 第十五章 スズメバチの革新
- 第十六章 多様化する使用法
- 第十七章 テクノロジーの斜陽
- 第十八章 アジアへの回帰
- 終章 変化し続ける世界
- 謝辞/年表/参考文献
- 宮崎正勝 日本語版付録
世界を巡る「紙」の歴史に
新たな一ページを加えたイスラム経済
【感想は?】
紙、すなわち製紙の歴史でもあるが、冒頭では文字の歴史が、中盤以降では印刷と美術が深く関わってくる。
著者のメッセージは強烈だ。テクノロジーが社会を変えるんじゃない。社会が変化を求めたとき、それに応じられるテクノロジーが登場する。そして新しいテクノロジーが登場しても、古いテクノロジーはなかなか消えない。
確かにレコードが登場しても、生演奏は消えなかった。ただ、音楽を記録する技術はメガ・ヒット曲を生み出し、やがてロックやヒップホップなど様々な流行音楽を作りだしてゆく。録音技術がなければピンクフロイドは誕生しなかっただろう。
そんな風に、媒体が表現に影響を与えることはある。粘土板は楔形文字を生む。これが羊皮紙になると、曲線も書けるようになる。ギリシアの角ばったデルタΔはローマで丸みを加えたDに変わった。
ヨーロッパじゃアルファベットは滅多に変わらないが、中国じゃ事情が違う。商(殷)の頃に三千、紀元100年頃(後漢)は九千、五世紀(晋~南北朝)に二万、十世紀(唐~北宋)には三万万近くの文字ができた。漢字の特徴で、次から次へと新しい文字が増えるのだ。
お陰で日本の計算機屋は外字に苦しめられている。今は「とりあえずユニコードでいいじゃん」な雰囲気だが、「使いながら新しい文字を生み出してゆく」漢字の性質を、コンピュータの都合で切り捨てていいんだろうか。
こういったメディアの変化が表現に与える影響は、中盤以降、主に絵画の世界で大きなテーマとなるが、それはさておき。
序盤でいきなり「蔡倫伝説は二十世紀になってから瓦解する」と、こっちの常識をひッくり返してくれる。中央アジアの砂漠地帯で、「105年よりまえに作られた無数の紙を考古学調査団が発掘したのだ」。アラブやヨーロッパへの伝播も、唐とアッパース朝が戦った751年のタラス河畔の戦い(→Wikipedia)でアラブに伝わったとされているが、もっと前から中央アジアに紙があったのだ。
だけじゃない。アメリカ大陸のアステカにも紙があった。「『コデックス・メンドーサ』によれば、毎年、48万枚の紙が貢ぎ物としてテノチティトランに送られていた」。
どうも紙は世界のアチコチで何度も発明されているらしい。商取引や行政府が大きくなると、大量の記録が必要になる。そこで紙が登場するわけだ。
やがてヨーロッパにも製紙が伝わり、製紙工場が登場する。大事なのは立地条件。流れのはやい川と、原料のぼろ布を調達できる人口密集地。水質も大事で、「鉄やマグネシウムをふくむ硬水は石鹸を溶かさず、製紙には向かない」。日本で和紙が発達した理由の一つが、川の流れが速く軟水が多いためかも。
中盤、特にグーテンベルクの登場以降、紙の需要は増えていくが、なかなか供給が追い付かない。というのも、原料のぼろ布がなかなか集まらないのだ。この問題は深刻で、ドイツの博物学者ヤーコブ・クリスティアン・シェファーは1771年に「製紙の代替原料の調査結果を全六巻の本に著し」ている…が、あまり流行らなかった模様。
19世紀に木材パルプが登場して一気に紙が普及、しまいには紙製ペチコートや紙製カヌー、果ては紙製棺まで登場する始末。紙は使い捨て文化の象徴となってゆく。
現代の製紙事情を伝える終盤では、日本と中国がスポットライトを浴びる。昔は数人の職人でやっていた製紙も、今は大規模化が進みつつある。廃水処理など環境対策設備に多くの資金が要るので、家族経営じゃ賄えないのだ。
そのため昔ながらの手漉き職人さんは後継者がなく先細りだが、希望もある。レンブラントが和紙を好んだように、書家や画家などのアーティストには紙質にこだわる人もいて、彼らは好みの紙を求め職人に注文を出すのだ。
資金はないけど独立したい人は、このあたりでインスピレーションを得るかも。職人仕事なら少ない資金で起業できるのだ。その分、仕事はシンドイけどね。
分量は多いし、扱う範囲も幅広い。単に製紙技術だけじゃなく、その背景となる社会事情や利用状況などもじっくり書き込み、大きな物語を綴ってゆく。容赦なく動いてゆく歴史の流れを感じさせると共に、未来へのほのかな期待も見せてくれる、重量級の本だ。これだからモノの歴史は面白い。
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