オリヴァー・サックス「妻を帽子とまちがえた男」ハヤカワ文庫NF 高見幸郎・金沢泰子訳
固有感覚というのはからだのなかの目みたいなもので、からだが自分を見つめる道具なんですね。
――3 からだのないクリスチーナ「チック症を治すことができたとしても、あとに何が残るっていうんです? ぼくはチックでできているんだから、なんにも残らなくなってしまうでしょう」
――10 機知あふれるチック症のレイ「病気を治療してほしいのかどうか、自分でもわからないんです。病気だってことはわかるんですが、おかげで気分がいいんですからねえ」
――11 キューピッド病われわれは「物語」をつくっては、それを生きているのだ。物語こそわれわれであり、そこからわれわれ自身のアイデンティティが生じると言ってもよいだろう。
――12 アイデンティティの問題
【どんな本?】
モノの色や形はわかるが、「それが何か」がわかならくなった男。1945年より後の記憶を失ってしまった元海兵、自分の足をベッドから放り出そうとする男、いつも傾いた姿勢の元大工、忘れられた病気、次から次へと話を作りだす男、頭の中で音楽が鳴り響く女。
脳神経科医として働きながら、彼が出会った不思議な患者を温かいまなざしで描き、ヒトの神経系の巧妙さや、普段は意識しない感覚のしくみを伝えると共に、神経系の不調を抱えながらも社会との折り合いをつけて生きていこうとする人間の逞しさを描く、オリバー・サックスの医学エッセイ集。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Man Who Mistook His Wife for a Hat, by Oliver Sacks, 1985。日本語版は1992年1月に晶文社より単行本を刊行。2009年7月15日にハヤカワ文庫NFより文庫版刊行。私が読んだのは2015年4月15日の四刷。着実に売れてます。
文庫本で縦一段組み、本文約410頁に加え、訳者あとがき6頁。9ポイント40字×17行×410頁=約278,800字、400字詰め原稿用紙で約697枚。文庫本としては厚い部類。
文章はこなれている。時々、脳の部位を示す側頭葉などの専門用語が出てくるが、わからなければ「脳のどこかだな」ぐらいに思っておけば充分。ただ、個々の症状は多少ややこしいので、症状を説明している部分は注意深く読もう。そこさえ気を付ければ、中学生でも楽しめる。
【構成は?】
個々の章は独立しているので、美味しそうな所からつまみ食いしてもいい。
- はじめに
- 第一部 喪失
- 1 妻を帽子とまちがえた男
- 2 ただよう船乗り
- 3 からだのないクリスチーナ
- 4 ベッドから落ちた男
- 5 マドレーヌの手
- 6 幻の足
- 7 水準器
- 8 右向け、右!
- 9 大統領の演説
- 第二部 過剰
- 10 機知あふれるチック症のレイ
- 11 キューピッド病
- 12 アイデンティティの問題
- 13 冗談病
- 14 とり憑かれた女
- 第三部 移行
- 15 追想
- 16 おさえがたき郷愁
- 17 インドへの道
- 18 皮をかぶった犬
- 19 殺人の悪夢
- 20 ヒルデガルドの幻視
- 第四部 純真
- 21 詩人レベッカ
- 22 生き字引き
- 23 双子の兄弟
- 24 自閉症の芸術家
- 訳者あとがき/参考文献
【感想は?】
人間って、すごい。
計算機屋は、よくそう感じる事がある。一見、簡単そうな仕様なのに、いざ実装しようとすると、とんでもなく難しい問題がうじゃうじゃ出てくる事がある。
ヒトの頭や体は、コンピュータにできない事を一瞬でやってのける。あまりに簡単なので、そんな機能がある事すら気づかない。だから簡単な仕事だろうと思い込んで安請け合いし、後で地獄を見るなんて経験を、計算機屋は何度もしている。
断水や停電の経験はあるだろうか? いつでもソコにあって、何の不調もなく動いていると、それがソコにあって大切な役割を担っているのに気が付かない。何か問題が起きて初めて、「ああ、水道や電気って大事なんだなあ」と気が付く。
この本に出てくる症例の多くは、そんな感じの、私たちが気づかないヒトの体の機能を教えてくれる。
例えば「固有感覚」。今、あなたは、どんな姿勢でいるだろうか? たいていの人は、目をつぶっていても、自分が立っているか座っているか、右手を上げているか下ろしているか、わかる。自分の手や足がどこにあるか、教えられなくても知っている。これは、脳と神経系が、常に体を監視しているからだ。
これが壊れると、自分の手足や胴体がどうなっているか、分からなくなる。自分の足が他人の足のように思えてきてしまう。「毛むくじゃらで気持ち悪い足が俺のベッドに入り込んでいる」と思い込み、蹴りだそうとする。
素人には頭のおかしい人にしか思えないけど、そういう病気なのだ。こんなふうに、今までは奇妙な癖に思われていたのが、実際には病気だと判明する事は、結構あるみたいだ。
これで怖いのがトゥレット症候群(→Wikipedia)。軽ければチックや突発的な罵倒などで済む。これが見つかったのは1885年なんだが、1970年頃まで病気が医学界から忘れられてしまう。病気がなくなったわけじゃない。著者はニューヨークの繁華街で「三人のトゥレット症患者を見つけたように思った」。とてもありふれた病気らしい。
などの医学的な内容も面白いが、サックス先生が本領を発揮するのは、この後だ。
サックス先生の特徴は、その視線にある。患者を単なる症例として見るのではなく、生きている人間として見る。そして、彼らが病気と折り合いをつける姿を、温かく見守ってゆく。
トゥレット症候群には問題もあるが、利益もある。落ち着きはないが機転が利き、反射もいい。ここに出てくるレイは、この性質を生かし優れたジャズドラマーとして生計を立てていた。治療法もあるんだが、治すとリズムセンスも消えてしまう。そこで彼は…
ミュージシャン、特にロックの人には激しい性格の人が多いけど、実はこういう症状を抱えている人も多いんじゃなかろか。キース・ムーンとか。
やはり患者との交流を感じるのが、「7 水準器」。元大工のマクレガー爺さんは、パーキンソン病で固有感覚を病み、水平感覚が20度ほどズレる。傾いた姿勢を水平だと感じるのだ。そこで症状の説明を聞いたマクレガー爺さん曰く…
「大工をやってたんでね。いつも、水平かどうか、垂直線からぶれてないかどうか見るために水準器を使ったもんだ。脳の中にも水準器みたいなものがあるんですかい」
と呑み込みは早い。ばかりでなく、「じゃ常に使える水準器があればいいじゃん」と、眼鏡に水準器を付ける工夫を思いつく。サックス先生も乗り気で、何回か試作を繰り返し使いやすくしていく。こういう解決に向けた動きが出来たのも、マクレガー爺さんとサックス先生の間に、気持ちが通い合っていたからだろう。
それとは別に、人間の思考過程について考えこみたくなるのが、「12 アイデンティティの問題」に出てくるトンプソン氏。コルサコフ症候群(→Wikipedia)で、数秒しか記憶が持たない。だが人柄は明るくほがらかで、彼と話す人はみな愉快な人だと感じる。
彼は自分が誰なのかすら、ほとんど覚えていない。「自分は誰で相手は誰か、なぜ相手と話しているのか」などの設定を、即興で創り上げるのだ。しかも無意識に。
「そりゃ病気だからだろう」で納得するのは簡単だが、改めてじっくり考えると、自分も含めたいていの人は似た傾向を持っている。私は北朝鮮人民の暮らしについて何も知らないが、勝手にイメージを創り上げている。ノンフィクション系の本を読めば、いつだって思い込みを覆されてばかりだ。
私たちが知らない人体についての知識が得られるのはもちろんだが、それ以上に、不調を抱えながらもなんとか世界と折り合いを付けようとする、病気を抱えた人々の生きざまに心を動かされ、またじっくり読めばヒトの心の働きも少しだけ見えてくる、七色の読み方ができる本だ。
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