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2017年1月の13件の記事

2017年1月29日 (日)

吉見直人・NHK取材班「終戦史 なぜ決断できなかったのか」NHK出版

日本の終戦工作は失敗だったし、原爆投下とソ連参戦といういわば「外圧」によって慌てて戦争終結に至るのではなく、それよりも早く、いわば「自律的」に戦争を終わらせるタイミングが存在したし、それは可能だった。
 それが我々のたどり着いた答えである。
  ――プロローグ 「終戦」というフィクション

もし方向転換ができたとしても、その決定が誤りであったとなれば、方向転換をした者に全ての責任が押し付けられる。一方、方向転換をしないということは、皆の合意形成を尊重するということであり、仮にそれで失敗をしたとしても個人に責任を押し付けられることにはならない。
  ――第一章 「ソ連参戦」を日本は知っていた

結局のところ、六、七月の実相として、敵のわずか1/30程度の戦力しか本土にはなかった、というのが井本(忠夫、梅津参謀総長の秘書官)の総括である。
  ――第二章 日本陸軍 終焉の実態

すなわち、当時の陸軍が叫んだ「本土決戦」とは、おそらくただの作文であった。
  ――第二章 日本陸軍 終焉の実態

木戸幸一「今の日本の状態からすればもうかまわない。ロシアと手を握るがよい。英米に降参してたまるものかと云う機運があるのではないか。結局、皇軍はロシアの共産主義と手をにぎることになるのではないか」
  ――第三章 東郷茂徳の「ロードマップ」

多くの関係者が戦後主張した内容のうち、かなりの部分が事実ではない。これまで述べてきたように、当時おそらく政府と軍の責任ある立場にあった多くの者が、にわかには信じがたいが、傍観者であった。「自分ではない誰か」が言い出してくれるのをただ待っていた。
  ――第四章 なぜ決断できなかったのか

【どんな本?】

 日本では1945年8月15日が終戦の日となっている(→Wikipedia)。沖縄戦・本土空襲・原爆投下・ソ連参戦など、戦争末期の三カ月だけでも60万人以上の日本人が亡くなった。敗色は明らかで挽回の望みはないにも関わらず、なぜもっと早く降伏できなかったのか。

 残念ながら国内の重要文書は終戦のドサクサで焼却され、多くは謎に包まれている。しかし幸か不幸か、当時の日本の暗号はイギリスに解読されており、傍受された駐在外交官や陸海軍武官との通信が、イギリス国立公文書館で公開されている。

 これらに加え、生存者の証言や、残された手記・日本国内の公開資料などを元に、戦争末期である1945年6月~8月に焦点を当て、陸軍参謀総長の梅津美治郎と外務大臣の東郷茂徳を中心に、当時の日本の意思決定プロセスを検証する、衝撃のドキュメンタリー。

 2012年8月15日放送のNHKスペシャル番組「終戦 なぜ早く決められなかったのか」の書籍版。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2013年7月25日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約334頁に加え、NHKスペシャル「終戦」チーフプロデューサー内藤誠吾の「あとがきにかえて」4頁。9.5ポイント46字×20行×334頁=約307,280字、400字詰め原稿用紙で約769枚。文庫本なら厚めの一冊分。

 文章はこなれている。内容も実はあまり難しくないのだが、ちと敷居が高い。というのも、背景である1945年6月~8月の戦争の経過が、ほとんど語られていないので、知らない人には情勢がよくわからないのだ。今なら大体の所はネットで調べられるけど、できれば年表をつけて欲しかった。

【構成は?】

 プロローグではテーマを示し、第一章では傍受電文から内外の事情、第二章は陸軍・第三章は外務省の動きを描き、第四章で結論を示す構成になっている。

  • プロローグ 「終戦」というフィクション
    明治維新・太平洋戦争・現在/映画「日本のいちばん長い日」と、刷り込まれた陸軍像/「クーデター騒ぎ」の実態/「わたくし自身はいかようになろうとも」/戦後利用された「クーデターの恐怖」/終戦史研究の“地殻変動”/終戦史の「三つの間違い/戦後の肉声証言とその信憑性」
  • 第一章 「ソ連参戦」を日本は知っていた
    日本はヤルタ密約を知らなかった?/在外日本武官の諜報ネットワーク/ヤルタ密約を伝える海軍武官電/ソ連参戦を警告するリスボン陸軍武官電/リスボン陸軍武官・松山直樹/陸海軍武官電から読みとれること/ヤルタ密約電は握りつぶされたのか?/情報将校・小野寺陸軍武官の評価/小野寺への奇妙な指令電/スウェーデン王室との和平仲介会談/当時の参謀本部の対ソ判断/小野寺が送ったヤルタ密約電の本当の意味/ホプキンス・スターリン会談でのスターリン発言/参謀本部の判断「ソ連は熟柿的好機を狙っている」/小野寺電は活かされていた?/ヤルタ会談直後の小野寺と参謀本部の往復電/小野寺はヤルタ密約情報をどれだけ確信していたか/「ソ連は直ちに参戦しない」/小野寺電を握りつぶす参謀はいなかった/参謀本部の情報管理術/楽観情報は小野寺からもたらされた?/神格化された小野寺武官/スルーされたヤルタ情報と「ベストシナリオ」/軍を見下していた外務省/「小さい規模」のセクショナリズム/リスボン電は活かされたのか?/遮断された組織、見過ごされた情報/日本型組織の「慣性の法則」/岡本公使の決定的な仕事/神田襄太郎の悲痛な意見電
  • 第二章 日本陸軍 終焉の実態
    陸軍は本気で「一億玉砕」を考えていたのか/梅津美治郎という地味な軍人/梅津美治郎と東郷茂徳/鈴木貫太郎内閣発足・対ソ工作の開始/梅津参謀総長の「終戦工作」/海軍の早期和平工作/梅津を読めなかった和平派/「恬淡軽率」な米内光政の挫折/六月八日の「強硬」決定/「戦争完遂」と「戦争終結」/隠された「第三案」/中間派・梅津の「衝撃告白」/昭和天皇が気づいたこと/継戦不能・陸軍の理想と現実/「水際決戦構想」にみる陸軍上層部の本音/「カカシ」だった関東軍/壊滅状態だった本土防空体制/「陸軍という権威」は既に地に堕ちていた/その時、陸軍はパニックに陥っていた/機能不全に陥っていた軍組織/現実逃避としての「徹底抗戦」/運命の六月二二日/梅津の「ギブアップ宣言」/見過ごされた転換点、埋まらぬ齟齬/「木戸試案」のルーツ/ありえた「六月終戦」/「陸軍・早期講和派」の筆頭格・松谷誠/「陸軍・中間派」梅津の懐刀・種村佐孝
  • 第三章 東郷茂徳の「ロードマップ」
    広田・マリク会談/「スローモー」東郷の謎/統帥部の「東郷詣で」/対ソ工作の何が「手遅れ」だったのか/有末証言の信憑性/対ソ工作は本当に「東郷のゴリ押し」だったのか/「日ソ提携論」という底流/スターリンの確信/対ソ交渉の実現性/「外交上の余裕」/天皇の意向、目覚めた首相/いつも通りの堂々巡り/実現しなかった特使派遣/「空白」の七月/対米英直接交渉という目論見/スタート地点としての「ポツダム宣言」/ジェスチャーとしての対ソ交渉/「対米直接交渉はソ連参戦を誘発する」との意見電/情勢変化を警告する海外電/「スルー」された対米直接対話のチャンネル/「残存戦力」という前提条件/「一撃」をめぐる東郷外相と阿南陸相/「九月終戦」構想/統帥と国務の奇妙な逆転/外交電の絶望的な「甘さ」/東郷の「一撃和平論」/八月九日・180度の方針転換/一撃要請は「ブラフ」ではなかった/八月九日の東郷発言を支えたもの/軍の現状を知らなかった対ソ交渉の関係者たち/東郷は関東軍の現状も知らなかった?/なおも「一撃」に固執した阿南の未練/誤報に踊らされた末期日本軍/梅津が固執した「東郷外し」/結局、何が問題だったのか
  • 第四章 なぜ決断できなかったのか
    鈴木貫太郎首相は何をしたか/「よろしく合戦」/開戦時との共通点/「腹の中はともかく」の問題点/官僚機構の問題/「中間派」と戦争終結/「天祐」発言の無責任さ/「終戦」は誰を納得させるものだったのか/革新官僚の戦後構想/「日本国家再建方策」とは/終戦構想にみる松谷と毛里の相違点/理想のために国民を騙した官僚たち/高木惣吉が革新官僚を警戒した理由/昭和天皇の「決断」の真意と謎/戦後の「功労者レース」/「違和感」の正体/甘い感傷よりも勇敢な反省
  • 資料編/あとがきにかえて/凡例・用語説明等/註

【感想は?】

 正直、かなり細かい話では、ある。が、同時にショッキングな事柄も多く出てくる。

 最初から、強烈なブローをかまされた。それも三連発だ。まずは、終戦に関する私の思い込みを三つ覆してくれる。

  1. 通説:日本はヤルタ密約によるソ連の対日参戦を知らなかった。
    事実:一部の者は情報を掴んでいたが、適切な人に届いていなかった。
  2. 通説:陸軍は一億玉砕に凝り固まり、下手に降伏を言い出すとクーデターが起きかねなかった。
    事実:当時の陸軍の大半は様子見で、本土決戦すらタテマエ論だった。
  3. 通説:日本はソ連の仲介に望みをかけていた。
    事実:むしろ日本の残存戦力を勘違いしていた。

 こういった通説の多くが、半藤一利「日本のいちばん長い日」およびその映画版で流布した、としているのも、ちょっとした驚き。

 ブログをやっていると、ごく稀に一時間ほど極端にアクセスがハネ上がる事がある。記事で扱っているネタをテレビが取り上げた時だ。本好きとしては、映像の影響の大きさを思い知る切ない瞬間だ。私は「日本のいちばん長い日」を見ていないのに、間接的に通説で思い込みを刷り込まれていたわけ。

 本書が主に扱っているのは、陸軍の参謀総長・梅津美治郎(→Wikipedia)と、外務大臣の東郷茂徳(→Wikipedia)。奇妙なことに、首相である鈴木貫太郎(→Wikipedia)の影はとても薄い。自ら先頭に立つタイプではなく、周囲の意見をまとめ上げるタイプだったらしい。

 と書くと梅津美治郎と東郷茂徳が勝手に走ったようになっちゃうが、それも違うようで、両者とも多くの腹案を抱えながら周りの様子を見て、通りそうな案を出す、そんな人みたいだ。

 第一章では、イギリスに傍受・解読された陸海軍および外交官の電文がズラズラと出てくる。もうほとんど筒抜けで、ちと情けなくなるが、同時に大日本帝国が築き上げたスパイ網も見えてきて、野次馬根性を刺激される。ヤルタ会談の中身も多少は掴んでて、結構やるじゃん。でも筒抜けだけどw

 全般として見えてくる、当時の中枢部、特に外相の東郷茂徳の考え方がある。「一発かまして英米がヨロめいた所で和平を切りだそう、それならちったあ向こうも譲るだろう」。

 アホかい。

 なんの事はない、これ開戦時の発想と同じなのだ。開戦時も本気で総力戦に勝てるとは思ってなかった。テキトーに暴れて、こっちが有利な戦況になった所で停戦を切りだそうぜ、である。ところがミッドウェイ以降は負けが続き、ズルズルと後退が続く…将兵や軍属・商船員の屍を後に残しながら。

 ところが、1945年6月の時点では、既に一発カマす余力は軍になかった。が、それを外相に伝えていなかった。ばかりか、軍すら現場の状況を掴んでいなかったフシがある。「軍中央の作戦立案当事者においてすら、実際に現地を見ることでしか実情を正しく把握できない状況にあったことは間違いない」。

 ソ連の出方も、6月時点で「三カ月以内にソ連は対日戦の準備を終える、以降はいつ攻めてきてもおかしくない」ぐらいは掴んでいた様子。だったら戦う前にゴメンしよう、みたいな発想もあったようだ。ポーランドがどうなったか、知らなかったんだろうか。

 このあたりも掘り下げると怖い物が出てきそうだが、残念ながらソ連崩壊による情報公開でも、対日関係の資料はガードが固くて、なかなか出てこない様子。ソ連側の立場で考えると、巧く立ち回れば、労なくして日本を属国にして満州と朝鮮半島も手に入る、格好の機会を逃したわけで、ソ連外交史上の最大のポカでもあり、隠しておきたいんだろう。

仮にそうなっていたら、朝鮮戦争がないかわりに沖縄戦争になるのかな、でもソ連は大規模な強襲揚陸作戦の経験がないし…とか妄想が止まらないから、軍ヲタは罪深い生き物だよなあ。

 などを通してたどり着く結論は、ハッキリ言って愉快なシロモノじゃないし、そこに向かって検証を重ねるプロセスも、相当に地味な作業の積み重ねだ。爽快な気分が欲しいなら、読まない方がいい。だが、この国の将来だけでなく、組織の意思決定プロセスに興味があるなら、充分に読む価値がある。

 賢い人が集まっている筈の会議で、なぜ愚か極まりない結論が出てくるのか。その格好のケース・スタディを、この本は描いているのだから。

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2017年1月25日 (水)

ケイト・ウィルヘルム「翼のジェニー ウィルヘルム初期傑作選」アトリエサード 尾之上浩司他訳

「先生、私、羽があるんです!」
  ――翼のジェニー

「教えてほしいのだ、セア。なぜ、彼女はあのような彫刻を創ったのだ? 彼らのような芸術家たちは、なぜ詩や戯曲を書いたり、絵を描いたりするのだ? なぜ?」
  ――エイプリル・フールよ、いつまでも

【どんな本?】

 1956年にデビューし、日本ではサンリオSF文庫から「鳥の声いまは絶え」「杜松の時」などが紹介されたが、以降はとんとご無沙汰のアメリカのSF作家、ケイト・ウィルヘルムの初期作品を集めた作品集。

 理不尽で奇妙な状況を設定し、そこに追い込まれた者たちの姿を描く、SFとホラーと幻想小説にまたがる、ジャンル不定で奇妙な味わいの作品が多い。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2016年10月21日発行。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約230頁に加え、尾之上浩司の解説8頁+ケイト・ウィルヘルム作品一覧5頁。9.5ポイント43字×18行×230頁=約178,020字、400字詰め原稿用紙で約446枚。文庫本なら標準的な厚さの一冊分。

 文章はこなれている。SFとして特に小難しい仕掛けはないので、理科が苦手でも充分に楽しめる。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 原題 / 初出 / 訳者 の順。

翼のジェニー / Jenny with Wings / 第一短編集 The Mile-Long Spaceship 1963 / 佐藤正明訳
 幼い頃に両親を失ったジェニーは、祖父のパプと共に各地を旅しながら育つ。彼女には翼があり、パプは彼女が飛ぶのを誇りに思っていたが、それを知った周囲の者は大騒ぎするのだった。やがて年頃になったジェニーにも、気になる男の子ができて…
 書名にもなっているが、ハッキリいってこの作品集の中では異色。人と違っている事に悩む年毎の女の子を主人公に、70年代の少女漫画みたいな物語が展開する、素直でストレートで可愛らしいお話。今と違い当時のSF者は変わり者扱いされていたので、余計に突き刺さったんだろう。そういう意味では、「図書室の魔法」とも相通じるかも。
決断のとき / A Time to Keep / ザ・マガジン・オブ・ファンタジイ&サイエンス・フィクション誌1962年1月号 / 安田均訳
 ハリスンは、目立たず文学部に25年間務めてきた。22年前に妻を失い、ずっと一人暮らし。職場のミス・フレイザーは何かと気遣ってくれる。だが、最近は奇妙な事が起きる。ドアを開けると…
 平穏に波風立てず、やもめ暮らしを静かに続けてきた男に、突然降りかかってきた理不尽な災難。覇気のないオッサンをイジっているのか、エスカレートする冷戦などの時代背景があるのか、または誰か特定のモデルがいるのか、どうなんだろう?
アンドーヴァーとアンドロイド / Andover and the Android / 第一短編集 The Mile-Long Spaceship 1963 / 安田均訳
 好きな本や音楽に浸り、気ままな独身生活を楽しんでいるロジャーだが、同僚のフレンチ夫妻は結婚しろと煩い。会社で人事権を握るマティルダも、独身男は昇進させないつもりだ。暫くは彼らがセッティングしたパーティーに付き合っていたロジャーだが、妙案を思いつき…
 長く一人暮らしを続け、それに馴染んじゃうと、ペースを乱される他人と一緒に暮らすのが耐えられなくなったりする。おまけに職場に大きな不満がなく、入れ込める趣味があったりすると、もう手の施しようがない。んだけど、周囲はほっといてくれないんだよなあ…って、誰の事だw
一マイルもある宇宙船 / The Mile-Long Spaceship / アスタウンディング・サイエンス・フィクション1957年4月号 / 安田均訳
 アラン・ノーベットは病院で目覚めた。交通事故で頭に大けがを負い、大手術を受け、六日間も鎮痛剤漬けになって意識が戻らなかったのだ。だが、目覚めたアランの第一声は「船に何が起こったんだ? 一体どうして俺がこの地球に戻っているんだ?」だった。
 ちょっと構成がトリッキーで、一回読んだだけじゃよくわからなかった。そこで読み返すと、更に混乱してきた。えーっと…
惑星を奪われた男 / The Man Without a Planet / ザ・マガジン・オブ・ファンタジイ&サイエンス・フィクション誌1962年7月号 / 増田まもる訳
 地質学んだロッドは、鉱山探査のあために火星へ向かう宇宙船で、十三号座席の男を見つけた。乗客の一人ウイラード・ベントンとは仲良くなったが、ずっと、十三号座席の男が気になっていた。
 13なんぞという不吉な数字が何を意味してるのかと思ったら、そういう事か。土壇場に追い込まれた者が下す、究極の選択。それを後悔するか乗り越えるか。
灯かりのない窓 / No Light in the Window / 第一短編集 The Mile-Long Spaceship 1963 / 増田まもる訳
 人類最初の恒星間宇宙船のクルーに志願した、ハンクとコニーの新婚夫婦は、二人そろって残り一年間の選抜試験に臨む。他の候補者たちと共に多くの課題をこなし、理不尽な仕打ちに耐え、志願者四千人中の合格者六百人に二人そろって選ばれるよう踏ん張るのだが…
 トム・ウルフの「ザ・ライト・スタッフ」やジェイミー・ドーラン&ビアーズ・ビゾニーの「ガガーリン」などで、宇宙飛行士選抜の厳しさや理不尽さが描かれているが、この作品は同時代に書かれたもの。雰囲気、ハンクは完璧超人のニール・アームストロングっぽくて、コニーは愉快なピート・コンラッドっぽい。にしてもやっぱり心理学者は嫌われ者なんだなあ。
この世で一番美しい女 / The Most Beautiful Woman in the World / 第二短編集 The Downstairs Room and Other Speculative Fiction 1968 / 伊藤麻紀訳
 この世で一番美しい女が目覚めた時、彼はすでに去っていた。銀のベルを鳴らすと、ムラートのフェリシアが静かに入ってきて、女の世話をし朝食の用意を整える。重役会議に出なければならない。女の腕には青あざが残っているが、隠す必要はないだろう。
 中世ヨーロッパっぽい時代を舞台にしたファンタジイに出てくるお姫様かな、と思った所に出てくる「重役会議」なんて現代風の言葉。男も女も、同性に対しては腹の底が透けて見えるだけに、意地悪く見ればいくらでも意地悪く見れるもので。
エイプリル・フールよ、いつまでも / April Fool's Day Forever / アンソロジー Orbit 7 1970 / 尾之上浩司訳
 ジュリアとマーティの夫婦が住む家では、ときどき赤ん坊の声が聞こえてくる。空耳じゃない。二人とも聞こえるんだから。マーティの上司ヒラりーは辣腕で、手掛ける番組はみな当てている。そのヒラりーの勘では、どうも大掛かりでヤバい事が起きているらしく…
 本書の4割ほどを占める中編。冷戦下の終末感覚が伝わってくる作品で、世界全体を覆う異常気象・病気の蔓延と門戸を閉ざす各国家などの不安が漂う世界設定で、主人公ジュリア&マーティの周囲にはさらに科学的な新発見や流産などの不気味な要素が集まってくる。
 ジワジワと不安材料が集まり嫌な予感が募る語り口はホラーの味わいだし、もっと大掛かりな仕掛けを扱って高所から俯瞰するサイエンス・フィクションでもあるけど、冒頭の引用が示すように著者が訴えたいのは創作者の魂がテーマなのかも。当時のSF界はニューウェーブ(→Wikipedia)なんて動きもあったんで、その影響も感じるなあ。
解説:尾之上浩司/ケイト・ウィルヘルム作品一覧

 やっぱり書名が「翼のジェニー」ってのは、ちとアレかも。全般的に暗いトーンで不安にさせるの作品が多い中で、表題作はまっすぐで心地よい作品だし。いや好きですけどね、こういうのも。

 中でも特に気に入ったのは、最後の中編「エイプリル・フールよ、いつまでも」。長いだけあって多彩なテーマを盛り込み、中編に相応しくケリをつけてる。が、これだけ意欲的にテーマを盛り込むなら、長編化してじっくり書き込んで欲しくなったり。ドクター・ワイマンの立場とか、実に妄想を刺激してくれるし。

 ついでに「杜松の時」も復活して欲しいなあ。買い逃しちゃって、今でも悔やんでるんです、はい。

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2017年1月24日 (火)

イアン・ゲートリー「通勤の社会史 毎日5億人が通勤する理由」太田出版 黒川由美訳

通勤はいまでこそ日常的な活動ではあるが、かつては紛れもなく革新的な行為だった。それは過去との決別を意味し、新たなライフスタイルの扉を開く鍵でもあった。通勤の短い歴史の大半において、人々はそれをよきものを考えてきた。
  ――序章 誰もいない土地を抜けて

ヘンリー・フォード「都市の問題は都市を離れることで解決する」
  ――4 自動車の発達

「ロシアに道はない、あるのは方角だけだ」
  ――7 二輪は最高

二十世紀の大半で、通勤は移動の自由と経済成長のバロメーターだった。
  ――8 超満員電車

2004年、IT企業の<ヒューレット・パッカード>は、鉄道利用者に電極付きの帽子をかぶらせ、心臓と脳の活動のさまを測定する実験を行った。その結果、場所を奪い合う通勤者の興奮度と緊張度は、交戦中の戦闘機パイロットや暴徒と対峙する機動隊員と同じくらい高いことが判明した。
  ――12 流れをコントロールする

いまでは世界の電力の10%がIT関連で使用され、それは航空業界全体を合わせた消費量より50%も多いのだ。
  ――13 仮想通勤

【どんな本?】

 満員電車はひどく疲れる。奥に詰めればいいのに出位置口で踏ん張る奴がいるし、揺れる度に人にもたれかかってくる者もいる。痴漢と間違われるのは嫌だから吊革につかまりたいが、一人で二つの吊革を占領する横着者もいる。

 なんだってこんなしんどい想いをして通勤せにゃならんのか。そもそも通勤なんて不愉快な習慣が、なぜ始まったのか。

 通勤なる苦行は、いつ・どこで始まったのか。それは私たちの暮らしや社会をどう変えたのか。国や地域による通勤事情はどう違うのか。公共交通機関・自転車・自動車、それぞれの通勤方法にどんな長所・短所があり、どんな影響があるのか。そして今後の通勤事情はどうなるのか。

 イギリスの鉄道開通に始まり、宅地開発・都市形成や自動車の普及などを通した通勤の歴史と、それが社会・産業そしてライフスタイルに与えた影響を辿り、またイギリス・アメリカ・日本・インドなど世界各地の通勤事情を描きつつ、在宅勤務などを視野に入れた未来の通勤事情を探る、身近ながらも意外なトリビアにあふれた、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は RUSH HOUR : How 500 Million Commuters Survive the Daily Journey to Work, by Iain Gately, 2014。日本語版は2016年4月15日第1版第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約339頁。9.5ポイント44字×17行×339頁=約253,572字、400字詰め原稿用紙で約634枚。文庫本なら少し厚めの一冊分。

 文章はこなれている。内容も難しくない。敢えて言えば、必要なのは通勤・通学の経験。酷暑や雪の中でなかなか来ないバスを待ったり、ギュウギュウ詰めの満員電車に苦しんだり、渋滞にハマってイライラした事があれば、更に楽しめる。

【構成は?】

 第1部は歴史篇。時系列に進むので、素直に頭から読むといい。第2部・第3部は各章が比較的に独立しているので、つまみ食いしてもいい。

  • 序章 誰もいない土地を抜けて
  • 第1部 通勤の誕生と成長、そして勝利
    • 1 一日に二度ロンドンへ行った男
    • 2 郊外の発展
    • 3 スネークヘッドと美食
    • 4 自動車の発達
    • 5 中間地域
    • 6 山高帽とミニクーパー
    • 7 二輪は最高
  • 第2部 粛々と通勤する人々
    • 8 超満員電車
    • 9 ロード・レージ 逆上するドライバーたち
    • 10 移動は喜びなのか?
    • 11 通勤が日常生活に及ぼす影響
    • 12 流れをコントロールする
  • 第3部 顔を合わせる時間
    • 13 仮想通勤
    • 14 すべては変わる
  •  訳者あとがき

【感想は?】

 通勤の意外な側面に気づかされる。

 私は大雑把に分けて二種類の通勤を経験した。電車やバスの通勤と、自転車・バイクでの通勤だ。今から思うと、この両者には大きな違いがある。

 電車やバスだと、通勤中に本が読める。自転車やバイクだと、本が読めない。電車やバスだと自然に本を読む時間が取れるが、自転車やバイクだと意識しないと本を読む時間が取れない。これは私だけじゃないらしい。

 通勤なる習慣は、イギリスでの鉄道の発達に伴って普及し始めた。三等車の庶民は乗り合わせた者同士で仲良くダベっていたが、一等車の紳士淑女はダンマリだったそうな。かといってずっとダンマリなのも気まずい。そこで活用されたのが、活字。

望まない会話を防ぐ最良の手段は書物と新聞だった。
  ――1 一日に二度ロンドンへ行った男

 この流れは現代でも続き…

通勤しない人はかなり前から本を読むよりテレビを観るようになったのに対し、通勤者はいまでも読書習慣を保ち続けている。
  ――11 通勤が日常生活に及ぼす影響

 と、通勤ある限り本の需要も続くようだ。もっとも今は紙の本を読む人は減り、スマートフォンで電子書籍を読む人が目立ってきてるけど。まあ確かにデカくて重たいハードカバーを通勤電車の中で開くのは無理だしねえ。

じゃ自動車通勤の人は本を読まないのかというと、ネイサン・ローウェルの「大航宙時代」の解説によれば、アメリカじゃ自動車通勤者向けにオーディオ・ブックが流行っているそうな。

 鉄道の発達は都市から離れた所、すなわち郊外の宅地需要を掘り起こす。そして人は「もう一つの人生」を手に入れる。地元の暮らしと、都会の暮らしだ。これが結婚や家族にも関わってくるから面白い。若者が早く親から独立し、核家族化が進んでゆくのだ。

 これがアメリカだと、T型フォードに代表される自動車が郊外の発展の原動力となる。当時のアメリカじゃ自動車は環境にやさしい乗り物だったのだ。少なくとも、馬車に比べれば。

1899年<サイエンティフィックス・アメリカン>誌
「街全体で自動車を使用すれば、どれだけ効率的に環境が改善されることか、評価してもしきれない。通りは清潔になり、ちりも悪臭もなくなる」
  ――4 自動車の発達

 対してイギリスでは自転車が大流行で、自転車専用道路の要望が上がっている。これも意外なんだが、自転車専用道路を望んだのはドライバーで、サイクリストは反対している。出ていくべきは自動車だろ、って言い分。当時はサイクリストの方が声が大きかったのだ。羨ましい。

 これはイタリアでも同じで、自転車泥棒(→Wikipedia)なんて映画ができるぐらい、自転車が流行った…第二次世界大戦後あたりまで。この先が実にイタリアで、画期的な手段が出てくた。ヴェスパだ。これまた映像が関わってて、「おかげでヴェスパは売上を十万台伸ばした」。そう、松田優作主演のTVシリーズ「探偵物語」…じゃない、グレゴリー・ペック&オードリー・ヘップバーンの映画「ローマの休日」。

 公共交通機関が都市化を促し、自動車の普及が渋滞を引き起こすのは、世界のどこでも共通の現象だが、先進国では再び自転車が注目を集めている。

アムステルダムやコペンハーゲンのような、ヨーロッパの平坦な都市や狭い都市では、通勤者の1/3が自転車を利用しており…

 と、自転車への回帰が始まっている。これは日本でもそうだよね。ただ、かなり汗かくんで、シャツをもう一枚余計に持って行かなきゃならないけど。

 日本の満員電車も酷いが、インドは更に過酷で、「<ムンバイ近郊鉄道>の通勤路線では毎日平均十名が死亡する」というから大変だ。なんたって、屋根の上にまで乗ってるんだから。当然黒字だろうし金で解決できりゃするんだろうけど、土地の収用とかややこしい問題が多いんだろうなあ。

 こういう問題は世界のどこも同じなんだが、「残念ながら、快適性と利便性の追求は政策立案者や輸送計画の主たる関心事ではない」のが実情。日本でもリニアモーターの路線は話題になるけど、満員電車を話題に挙げる政治家は小池百合子都知事ぐらいなんだよなあ。

流石に二階建て列車はトンデモだと思うが、満員電車を問題視した点はポイント高いと思う。

 日本に関しても、スーパーカブから恋空、イメクラの痴漢プレイまで調べてて、著者の視野の広さを感じさせる。他にもサンセリフ体がロンドン地下鉄由来だったり、ソ連じゃ都市から農村に通勤してたり、運転手や駅員にインタビュウしてたり、話題は広くて豊富。

 ソフトカバーとはいえ単行本なためサイズ的に満員電車で読むには少し辛いが、次から次へと話題が変わってゆく流れは車窓からの眺めにも似ているし、短いエピソードが続く構成は通勤電車で読むのにも向いている。親しみやすくバラエティ豊かで、とっつきやすいわりに視野を広げてくれる本だった。

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2017年1月22日 (日)

六冬和生「松本城、起つ」早川書房

おまえは死ぬんだぞ。わかってるのか、加助。そのうえ願いは聞き届けられない。無駄死にに向かって突き進んでいるんだぞ。

【どんな本?】

 2013年の第一回ハヤカワSFコンテストの大賞を「みずは無間」で射止めデビューを飾った新鋭SF作家による、最新長編。

 大学生の巾上岳雪は家庭教師のバイトを生活費の足しにしていた。教え子は大学受験を控えた高校三年の矢諸千曲。松本城で落ち合った二人は、松本城の倒壊事故に巻き込まれ気を失う。

 時は江戸時代、徳川綱吉の治世・貞享三年(1686年)。この年は未曽有の凶作だった。例年の三斗に対し領民は二斗五升へと減免を求めるが、藩は逆に三斗五升と増税を告げる。追い詰められた領民は多田加助を中心として一揆を画策していた。

 目覚めた巾上岳雪は、藩士・鈴木伊織として目覚める。藩主・水野忠直の内偵として、藩内の動静を藩主に報告する役目である。矢諸千曲は、なんと二十六夜神さまとして祀られていた。藩内を見回る巾上岳雪=鈴木伊織は、加助らの窮状を知り、悲劇を避けようと奔走するが…

 貞享騒動(→Wikipedia)、二十六夜神さま(→国宝松本城)、松本城の傾いた天守(→Wikipedia)などの史実と伝説を元に、そこに生きた人々の姿を織り込んで編み上げた、みずみずしい歴史改変SF長編小説。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2016年7月25日発行。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約259頁。9ポイント43字×18行×259頁=約200,466字、400字詰め原稿用紙で約502枚。文庫本なら標準的な厚さの一冊分。

 SFとしての仕掛けは特に難しくない。タイムトラベルに関して多少ややこしい部分はあるが、それだけだ。わからなくても、「なんかしらんが〇〇が××だと困るんだな」ぐらいに思っていれば充分。

 文章はこなれているが、一部に濃ゆい松本弁が出てくる。一見わかりにくいように思えるけど、コツをつかんだ。声に出して読んでみるか、またはお気に入りの声優の声をあてて脳内で読んでもらおう。文字じゃわからなくても、声だとおおよその意味が掴めたりする。

【感想は?】

 松本版バック・トゥ・ザ・フューチャー。

 「みずは無間」がかなりクセの強い作品だったので、どうなるのかと思ったら、意外や意外、素直に楽しめる娯楽作品だった。

 メイン・ヒロインの千曲ちゃんからして、屈折しまくりのみずはの対極みたいな、明るく気まぐれな天然娘。お祖母ちゃんっ子で、蚕の繭に大喜びしたりする。可愛いじゃないか。アイドルマスターだと、図体だけ大きくなった田舎育ちの双海亜美・真美あたりか?

 などと可愛いのはいいが、役どころが実にツボで、なんと神様だ。それも松本城の守り神である。こんなのが守り神で大丈夫なのか松本城。

 サブ・ヒロインのおしゅんもなかなか魅力的。小柄で色黒、照れ屋の働き者で、近隣を身軽に走り回る気丈な元気娘。やはりアイドルマスターだと菊地真かな? なんでこんな可愛い女の子たちが巾上岳雪なんぞにブツブツ…

 などの輝く女性陣に対し、男性陣はちとくすんでいるのは、巾上岳雪/鈴木伊織の視点で物語が進むからだろうか。

 バック・トゥ・ザ・フューチャーのマーティーが高校生なのに対し、巾上岳雪は大学生。特に野望があるわけでもなく、平穏な就職を望む普通の男。気まぐれな千曲に振り回された挙句に江戸時代に飛ばされ、わけもわからないなりに実直に職務をこなしてたりする。

 天然娘の千曲やSFならではのタイムトラベルといった常識破りの仕掛けに対し、こじんまりしてカチカチの常識人である巾上岳雪が、意外と柔軟かつ現実的に対処しつつ、随所で入れる突っ込みが、語りに軽やかさを加えている。松本芋虫トレーディングスクールには笑った。

 などと笑っちゃいるが、そこはバック・トゥ・ザ・フューチャー。単なるユーモア作品ってわけじゃなく、かなり厳しい場面も、中盤以降は増えてくる。鈴木伊織が使命を持って松本と江戸を駆け抜ける旅とかは、それだけで一つの冒険小説になりそうな場面。

 なのに、アッサリ数頁で終えちゃうあたりが、芸風なんだろうなあ。細かい描写を見る限り、かなり綿密に調べてあるように思うんだけど。あの辺は直線距離じゃ短く思えるけど、実際の道は曲がりくねってるし、そもそも徒歩で一日40km移動するってのは、慣れてないと若くてもかなりキツい。

 平穏な生活を望んでいた普通の貧乏学生が、いきなり投げ込まれた貞享騒動。状況に流されるように勤めを果たしつつ、21世紀へ戻る道を探っていた巾上岳雪/鈴木伊織は、多くの人びとの望みと命がかかった騒動の中で、次第に目的が変わってゆく。

 終盤の伊織に突きつけられる厳しい選択、限られた役割の中で思いを遂げようと動く意外な人々、そして彼らの焦点となる松本城。

 それとなく書き込まれた城内や近隣の風景も鮮やかで、「次の夏には松本に行ってみようかな」とふと思ってしまう、ちょっと切ない歴史青春SF。松本に行く予定のある人は、是非読んでおこう。

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2017年1月20日 (金)

オリヴァー・サックス「妻を帽子とまちがえた男」ハヤカワ文庫NF 高見幸郎・金沢泰子訳

固有感覚というのはからだのなかの目みたいなもので、からだが自分を見つめる道具なんですね。
  ――3 からだのないクリスチーナ

「チック症を治すことができたとしても、あとに何が残るっていうんです? ぼくはチックでできているんだから、なんにも残らなくなってしまうでしょう」
  ――10 機知あふれるチック症のレイ

「病気を治療してほしいのかどうか、自分でもわからないんです。病気だってことはわかるんですが、おかげで気分がいいんですからねえ」
  ――11 キューピッド病

われわれは「物語」をつくっては、それを生きているのだ。物語こそわれわれであり、そこからわれわれ自身のアイデンティティが生じると言ってもよいだろう。
  ――12 アイデンティティの問題

【どんな本?】

 モノの色や形はわかるが、「それが何か」がわかならくなった男。1945年より後の記憶を失ってしまった元海兵、自分の足をベッドから放り出そうとする男、いつも傾いた姿勢の元大工、忘れられた病気、次から次へと話を作りだす男、頭の中で音楽が鳴り響く女。

 脳神経科医として働きながら、彼が出会った不思議な患者を温かいまなざしで描き、ヒトの神経系の巧妙さや、普段は意識しない感覚のしくみを伝えると共に、神経系の不調を抱えながらも社会との折り合いをつけて生きていこうとする人間の逞しさを描く、オリバー・サックスの医学エッセイ集。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Man Who Mistook His Wife for a Hat, by Oliver Sacks, 1985。日本語版は1992年1月に晶文社より単行本を刊行。2009年7月15日にハヤカワ文庫NFより文庫版刊行。私が読んだのは2015年4月15日の四刷。着実に売れてます。

 文庫本で縦一段組み、本文約410頁に加え、訳者あとがき6頁。9ポイント40字×17行×410頁=約278,800字、400字詰め原稿用紙で約697枚。文庫本としては厚い部類。

 文章はこなれている。時々、脳の部位を示す側頭葉などの専門用語が出てくるが、わからなければ「脳のどこかだな」ぐらいに思っておけば充分。ただ、個々の症状は多少ややこしいので、症状を説明している部分は注意深く読もう。そこさえ気を付ければ、中学生でも楽しめる。

【構成は?】

 個々の章は独立しているので、美味しそうな所からつまみ食いしてもいい。

  • はじめに
  • 第一部 喪失
    • 1 妻を帽子とまちがえた男
    • 2 ただよう船乗り
    • 3 からだのないクリスチーナ
    • 4 ベッドから落ちた男
    • 5 マドレーヌの手
    • 6 幻の足
    • 7 水準器
    • 8 右向け、右!
    • 9 大統領の演説
  • 第二部 過剰
    • 10 機知あふれるチック症のレイ
    • 11 キューピッド病
    • 12 アイデンティティの問題
    • 13 冗談病
    • 14 とり憑かれた女
  • 第三部 移行
    • 15 追想
    • 16 おさえがたき郷愁
    • 17 インドへの道
    • 18 皮をかぶった犬
    • 19 殺人の悪夢
    • 20 ヒルデガルドの幻視
  • 第四部 純真
    • 21 詩人レベッカ
    • 22 生き字引き
    • 23 双子の兄弟
    • 24 自閉症の芸術家
  • 訳者あとがき/参考文献

【感想は?】

 人間って、すごい。

 計算機屋は、よくそう感じる事がある。一見、簡単そうな仕様なのに、いざ実装しようとすると、とんでもなく難しい問題がうじゃうじゃ出てくる事がある。

 ヒトの頭や体は、コンピュータにできない事を一瞬でやってのける。あまりに簡単なので、そんな機能がある事すら気づかない。だから簡単な仕事だろうと思い込んで安請け合いし、後で地獄を見るなんて経験を、計算機屋は何度もしている。

 断水や停電の経験はあるだろうか? いつでもソコにあって、何の不調もなく動いていると、それがソコにあって大切な役割を担っているのに気が付かない。何か問題が起きて初めて、「ああ、水道や電気って大事なんだなあ」と気が付く。

 この本に出てくる症例の多くは、そんな感じの、私たちが気づかないヒトの体の機能を教えてくれる。

 例えば「固有感覚」。今、あなたは、どんな姿勢でいるだろうか? たいていの人は、目をつぶっていても、自分が立っているか座っているか、右手を上げているか下ろしているか、わかる。自分の手や足がどこにあるか、教えられなくても知っている。これは、脳と神経系が、常に体を監視しているからだ。

 これが壊れると、自分の手足や胴体がどうなっているか、分からなくなる。自分の足が他人の足のように思えてきてしまう。「毛むくじゃらで気持ち悪い足が俺のベッドに入り込んでいる」と思い込み、蹴りだそうとする。

 素人には頭のおかしい人にしか思えないけど、そういう病気なのだ。こんなふうに、今までは奇妙な癖に思われていたのが、実際には病気だと判明する事は、結構あるみたいだ。

 これで怖いのがトゥレット症候群(→Wikipedia)。軽ければチックや突発的な罵倒などで済む。これが見つかったのは1885年なんだが、1970年頃まで病気が医学界から忘れられてしまう。病気がなくなったわけじゃない。著者はニューヨークの繁華街で「三人のトゥレット症患者を見つけたように思った」。とてもありふれた病気らしい。

 などの医学的な内容も面白いが、サックス先生が本領を発揮するのは、この後だ。

 サックス先生の特徴は、その視線にある。患者を単なる症例として見るのではなく、生きている人間として見る。そして、彼らが病気と折り合いをつける姿を、温かく見守ってゆく。

 トゥレット症候群には問題もあるが、利益もある。落ち着きはないが機転が利き、反射もいい。ここに出てくるレイは、この性質を生かし優れたジャズドラマーとして生計を立てていた。治療法もあるんだが、治すとリズムセンスも消えてしまう。そこで彼は…

ミュージシャン、特にロックの人には激しい性格の人が多いけど、実はこういう症状を抱えている人も多いんじゃなかろか。キース・ムーンとか。

 やはり患者との交流を感じるのが、「7 水準器」。元大工のマクレガー爺さんは、パーキンソン病で固有感覚を病み、水平感覚が20度ほどズレる。傾いた姿勢を水平だと感じるのだ。そこで症状の説明を聞いたマクレガー爺さん曰く…

「大工をやってたんでね。いつも、水平かどうか、垂直線からぶれてないかどうか見るために水準器を使ったもんだ。脳の中にも水準器みたいなものがあるんですかい」

 と呑み込みは早い。ばかりでなく、「じゃ常に使える水準器があればいいじゃん」と、眼鏡に水準器を付ける工夫を思いつく。サックス先生も乗り気で、何回か試作を繰り返し使いやすくしていく。こういう解決に向けた動きが出来たのも、マクレガー爺さんとサックス先生の間に、気持ちが通い合っていたからだろう。

 それとは別に、人間の思考過程について考えこみたくなるのが、「12 アイデンティティの問題」に出てくるトンプソン氏。コルサコフ症候群(→Wikipedia)で、数秒しか記憶が持たない。だが人柄は明るくほがらかで、彼と話す人はみな愉快な人だと感じる。

 彼は自分が誰なのかすら、ほとんど覚えていない。「自分は誰で相手は誰か、なぜ相手と話しているのか」などの設定を、即興で創り上げるのだ。しかも無意識に。

 「そりゃ病気だからだろう」で納得するのは簡単だが、改めてじっくり考えると、自分も含めたいていの人は似た傾向を持っている。私は北朝鮮人民の暮らしについて何も知らないが、勝手にイメージを創り上げている。ノンフィクション系の本を読めば、いつだって思い込みを覆されてばかりだ。

 私たちが知らない人体についての知識が得られるのはもちろんだが、それ以上に、不調を抱えながらもなんとか世界と折り合いを付けようとする、病気を抱えた人々の生きざまに心を動かされ、またじっくり読めばヒトの心の働きも少しだけ見えてくる、七色の読み方ができる本だ。

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2017年1月19日 (木)

勝手に宣伝:日本翻訳大賞

 

第三回日本翻訳大賞の推薦が始まっている。

 嬉しいことに、誰でも推薦できる。対象は2015年12月1日~2016年12月末までに出版された翻訳書。12月がカブっているが、これにはちゃんとワケがあるそうな。

 元は著名な翻訳者が集まって始めた賞だが、私は面白い本を探す手段の一つとして使っている。SFはSFマガジン関係を漁ってればだいたいカバーできるんだけど、それ以外はなかなか目がいかない。そのせいで見逃した美味しい獲物を補うには、とても都合がいいのだ。

 私も推薦してきた。面白そうだし。あなたが好きな本を布教する格好の機会だ。ということで、是非あなたも好きな本を売り込んでいただきたい。そして私に美味しい本を教えて、私の読書生活を充実させるのだ。ふっふっふ。

 なお、締め切りは2017年2月5日(日)23:59まで。

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2017年1月17日 (火)

ロバート・シェクリイ「人間の手がまだ触れない」ハヤカワ文庫SF 稲葉明雄他訳

「まずい!」とコードヴァー。「家へ帰って、女房を殺しちまわなきゃ」
  ――怪物

「おれたちはみんな罠にかかっているんだ」
  ――あたたかい

【どんな本?】

 1951年にデビューしたアメリカのSF作家ロバート・シェクリイの、デビュー短編集。

 小難しい理屈もなければウザい心理描写もなく、登場人物はカキワリ。当時のSFらしい大らかな仕掛けを使いながらも、読者の思い込みをひっくり返すアイデア・ストーリーの書き手で、やや皮肉でブラックな味わいが特徴。

 お話の筋書きで読ませる作品が多いためか、1950年代と古い作品ばかりなのに、家電製品など小道具の名前さえ変えれば、今でも充分に通用する短編が多いのが驚き。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Untouched by Human Hands, by Robert Sheckley, 1954。日本語版は1985年12月にハヤカワ文庫SFより刊行。私が読んだのは2007年1月31日発行の新装版。文庫本で縦一段組み、本文約300頁に加え、中村融の解説「時代を築いた作家 ロバート・シェクリイの人と作品」13頁。9ポイント39字×17行×300頁=約198,900字、400字詰め原稿用紙で約498枚。文庫本なら標準的な分量。

 文章はこなれている。内容も難しくない。ロケットや悪魔は出てくるが、基本的に皮肉の効いたアイデア・ストーリーなので、理科が苦手な人でも大丈夫。

【収録作は?】

 それぞれ作品名 / 原題 / 初出 / 訳者 の順。

怪物 / The Monster / F&SF 1953年3月号 / 宇野輝雄訳
 金属製らしいとがった物体が、尻から炎を出しながらふわふわと動き回り、盆地に止まる。コードヴァーとハムは、この異様な物体を見に山頂まで出かけ、日が暮れる前に村に帰った。翌朝は、村の男が総出で物体を見に行くと、物体から異様な生き物が出てくる。
 ファースト・コンタクト物といえばそうなんだが、いきなり「女房を殺しちまわなきゃ」ときたのにはビビった。この黒さがシェクリイの味なんだろう。22頁と軽く読める作品ながら、植民地主義を皮肉っているようにも読める。
幸福の代償 / Cost of Living / ギャラクシー1952年12月号 / 小尾芙佐訳
 先週ミラーが自殺したせいか、どうも気分が晴れない。細君は機嫌がいいが、息子は最近ぶつぶつ言うだけで、どうもはっきりしない。オート・クックが作る食事は美しいし、オート・タオルはマッサージまでしてくれる。今日はA・E電気の財務課員がくる日だ。
 当時のアメリカは電化製品が爆発的に普及し始めた頃。個々のガジェットの名前さえ現代風に改めれば、今でも充分に愉しく読めちゃうあたりが、ちと情けなかったり。最後の一行がグサリと突き刺さる人は私だけじゃないはず。そうだと言ってよ。
祭壇 / The Altar / ファンタスティック1953年7・8月号 / 風見潤訳
 気分のいい春の朝。出勤中のスレーター氏は、外国人らしい男に道を聞かれる。「バズ=マティンの祭壇はどこにあるかご存じじゃないでしょうか?」ここは小さな町だし、スレーター氏も20年ちかく住んでいるが、マズ=マティンの祭壇なんか知らない。
 列車が止まる程度には人が住んでいるけど、ニューヨークのような大都会じゃない。こじんまりとした穏やかな町だからこそ成り立つ、奇妙な話。ドラマ「世にも奇妙な物語」などの原作にピッタリの作品。
体形 / Shape / ギャラクシー1953年11月号 / 福島正実訳
 その恒星系では、みどりの第三惑星が唯一、生物の生存可能な惑星だった。今まで何度もグロム星人の探検隊が訪れたが、全ての探検隊員が消息を絶っている。いったい、この惑星にどんな危険が潜んでいるのか。
 お約束の逆転がシェクリイの得意技の一つらしく、ここでも「他星系を探索し消息を絶つ調査船」なんてSFの定番を、「地球を訪れたエイリアンの調査隊が消息を絶つ」形にひっくり返している。
時間に挟まれた男 / The Impacted Man / アスタウンディング1952年12月号 / 風見潤訳
 今日、ジャックとケイの夫婦は、家を出てアイオワに向かう。今は文無しだが、向こうで教師の仕事が見つかったのだ。早くしないと、ガメつい家主のハーフが家賃を取りに来る。出かけようと階段を下りたジャックだが…
 とんでもなく壮大なスケールの仕掛けと、ハーフ vs ジャック&ケイのセコい対決のギャップが楽しい作品。もっとも「壮大な仕掛け」の中にも、なかなかセコい裏事情を仕込んであるんだけど。藤子不二雄あたりが漫画化してそうだなあ。
人間の手がまだ触れない / Untouched by Human Hands / ギャラクシー1953年12月号 / 稲葉明雄訳
 中継ステーションでの手違いで、ヘルマンとキャスカーは食料を積み忘れた。おまけにこの星域は未調査で、近くに食料を補給できる所はない。幸いなことに、見つかった惑星には酸素がありそうなばかりか、なんと建造物まである。
 不思議なもので、一つの家に長く住んでいると、だんだん狭くなってきたりする。別にどこかが壊れるとかじゃなく、正体不明なモノが幾つも部屋を占領し、何がどこにあるのかわからなくなる、ばかりでなく、ソコにあるモノが何なのかもわからなくなる。そんな経験、ありませんか? にしても、本好きとしてはヘルマンの役立たずっぷりが身に染みるw
王様のご用命 / The King's Wishes / F&SF 1953年7月号 / 峯岸久訳
 ボブとジャニスは電気屋を始めた。商売が軌道に乗れば、結婚資金も貯まる。ところが、困った事になった。この一週間、毎晩泥棒が入り、発電機や冷蔵庫を盗んでいくのだ。今夜こそ捕まえてやろうと張り込んだ二人の前に、ついに泥棒が姿を現したが…
 頼りがいのあるジャニスと、へっぴり腰のボブのカップル、そして一見コワモテなくせに意外と真面目な泥棒のキャラクターが楽しい短編。にしても二人の柔軟な適応力はたいしたものw
あたたかい / Warm / ギャラクシー1953年6月号 / 小笠原豊樹訳
 今日、アンダースはジューディーに結婚を申し込む。準備も万端、キッチリめかしこんで、これから出かけようとした時に、いきなり声がした。「助けてくれ!」
 一つの文字をじっくり見つめていると、次第に文字が単なるパターンや模様に見えてきて、読み方や意味がわからなくなる。そんな奇妙な感覚が味わえる作品。
悪魔たち / The Demons / ファンタシー・フィクション1953年2月号 / 風見潤訳
 出勤中に九丁目の角を曲がった時、保険外交員のアーサー・ガメットは消えた。気が付いたら濃い霧が立ち込める部屋の中で、目の前には赤い鱗に覆われた巨大な化け物がいる。逃げようにも、チョークで描かれた線から出られない。
 シェクリイの定番、ひっくり返しで始まる作品。人が悪魔を呼び出すんじゃなく、悪魔に人が呼び出され、無茶な要求を突きつけられる。何が欲しいのか自分でもわかっていない顧客に悩まされる計算機屋には、別の意味で突き刺さる作品かも。
専門家 / Specialist / ギャラクシー1953年5月号 / 小笠原豊樹訳
 宇宙船は光子嵐に巻き込まれたが、幸い被害はプッシャー(推進係)だけで済んだ。だがプッシャーは一人しかいない。近くの星域を調べたが、プッシャー族は少ない。なんとか原始プッシャー族がいそうな惑星を見つけたが…
 すべてが生物で出来ている宇宙船ってアイデアは他にもあるだろうが、この「専門家」って仕掛けは独特だろう。微妙な選民&賎民意識を持つSF者には、別の意味でジーンとくる作品。これを歌って大ヒットしたのがブルース・スプリングスティーンの「明日なき暴走」で←ウソつくな
七番目の犠牲 / Seventh Victim / ギャラクシー1953年4月号 / 小尾芙佐訳
 待っていた通告が、やっとスタントンに届いた。これで7人目だ。今回の獲物はジャネット・マリー・パチグ。なんと女だ。ヒトは戦うのが好きだ。この性向を満たすため、合法的な殺人制度ができた。精神浄化局に登録した者は、ハンターになり、次に獲物となる。
 映画「華麗なる殺人」の原作。ヒトが持つ闘争本能を制御して戦争をなくすため、厳格かつ公平なルールを定めて殺人を合法化した未来のお話。
儀式 / Ritual / クライマックス1953年5月号 / 風見潤訳
 神の船がやってきた。遠巻きにした村人の前で、ふたりの神がハッチから出てくる。五千年前の書物『神々大全』にならい、今度の神に相応しい歓迎をしなければならない。長老歌手は「入港許可の踊り」を命じ…
 「怪物」同様、訪れた人類(らしき者)を迎えるエイリアンの目線で描いた作品。神様ってのも、辛いもんです。
静かなる水のほとり / Beside Still Water / アメージング1953年10・11月号 / 風見潤訳
 探鉱者のマーク・ロジャーズは、引退して厚さ800mほどの岩板に住み着く。ささやかな貯えで空気ポンプや土壌や水など必要な物と雑用ロボットを買いそろえた。機械いじりが得意なマークはロボットを少しづつ改造し…
 ある意味、究極の引きこもりを描いた作品。わかりいやすいオチがつく作品ばかりの本書の中では、静かに時が流れてゆく宇宙での孤独な暮らしを淡々と描いた、特異な作品だろう。
解説:中村融

 「祭壇」「時間に挟まれた男」「人間の手がまだ触れない」「王様のご用命」「悪魔たち」「七番目の犠牲」など、時代背景や小道具を現代風にアレンジして漫画家・ドラマ化すれば、今でも充分に当たりそうな作品が多い。日本には梶尾真治や草上仁がいるけど、若手も出てきて欲しいなあ。

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2017年1月16日 (月)

マーク・カーランスキー「紙の世界史 歴史に突き動かされた技術」徳間書店 川副智子訳

紙の歴史を学ぶことは歴史上の数々の誤解を白日のもとにさらすことでもある。(略)すなわち、テクノロジーが社会を変えるという認識である。じつはまったくその逆で、社会のほうが、社会の中でおこる変化に対応するためにテクノロジーを発達させている。
  ――序章 テクノロジーの歴史から学ぶほんとうのこと

ヨーロッパ人にこの(11~13世紀の)スタートを切らせたさまざまな理念はアラブ世界に起源をもつものがほとんどで、アラブ文化に触れる機会が一番多かったイタリアが先導役となった。
  ――第五章 ふたつのフェルトに挟まれたヨーロッパ

印刷は仏教の需要に応じて生まれた技術である。
  ――第六章 言葉を量産する技術

紙の歴史をたどると、なぜ(北アメリカの)入植者たちがイギリスからの独立を望んだかがわかる。硬貨、製紙場、新聞――入植者が欲するのもは国王からたびたび禁止されてきた。そうして、製造を制限された入植者がやむをえずイングランドから輸入しようとすると、その物品に税が課され、それが本国の歳入となる。
  ――第十三章 紙と独立運動

ナポレオン戦争時、人影の消えた吹きさらしの戦場では、兵士の亡骸が葬られるまえにぞっとする場面が繰り広げられていた。古着の収集屋が遺骸をつぶさに調べて、血の付着した軍服を剥ぎ取り、製紙業者に売っていたのだ。
  ――第十五章 スズメバチの革新

新しいテクノロジーが古いテクノロジーを排除することはめったになく、新たな可能性を生み出すだけだ。
  ――第十七章 テクノロジーの斜陽

日本には紙によく似た食品がある。寿司を巻いたり、米を包んだりする、紙のように薄い海藻を「海苔」という。海苔の製法は実際、手漉き紙の製法に驚くほど似ている。それどころか、無作為に織り合わさった繊維という紙の定義はそのまま海苔の定義でもあるのだ。
  ――第十八章 アジアへの回帰

【どんな本?】

 カレンダー、ティッシュペーパー、段ボール。紙は私たちの身の回りに溢れている。昔はエジプトのパピルスが紙の起源と言われたが、今は中国の蔡倫(→Wikipedia)が祖とされている。

 本やノートに代表されるように、紙は記録し伝える情報媒体として大きな影響力を持ち、それゆえ「グーテンベルクの42行聖書が宗教改革のきっかけとなった」などと、テクノロジーが社会を変えた例として引き合いに出される事も多い。

 果たしてそれは本当なのか。ヨーロッパ・中東・極東そして南北アメリカなど、世界各地における製紙と紙の使われ方、そしてその背景にある社会事情を探り、テクノロジーと社会の変化の関係を見直すと共に、古いテクノロジーの行方も追ってわれわれの未来を占う、一般向けの歴史解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は PAPER : Paging Through History, by Mark Kurlansky, 2016。日本語版は2016年11月30日第1刷。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約435頁に加え、宮崎正勝による付録5頁。9ポイント45字×18行×435頁=約352,350字、400字詰め原稿用紙で約881枚。文庫本なら厚い一冊分。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。一部にリグニンや亜硫酸など化学物質の名前が出てくるが、わからなかったら読み飛ばして構わない。それよりエッチングやリトグラフなど、美術や印刷に詳しいと、後半に入ってから楽しみが増す。

【構成は?】

 だいたい時系列順に話が進むが、各章は比較的に独立しているので、気に入った所をつまみ食いしてもいい。できれば索引が欲しかった。

  • 序章 テクノロジーの歴史から学ぶほんとうのこと
  • 第一章 記録するという人間だけの特質
  • 第二章 中国の書字発達と紙の発見
  • 第三章 イスラム世界で開花した写本
  • 第四章 美しい紙の都市ハティバ
  • 第五章 ふたつのフェルトに挟まれたヨーロッパ
  • 第六章 言葉を量産する技術
  • 第七章 芸術における衝撃
  • 第八章 マインツの外から
  • 第九章 テノティチトランと青い目の悪魔
  • 第十章 印刷と宗教改革
  • 第十一章 レンブラントの発見
  • 第十二章 後れをとったイングランド
  • 第十三章 紙と独立運動
  • 第十四章 ディドロの約束
  • 第十五章 スズメバチの革新
  • 第十六章 多様化する使用法
  • 第十七章 テクノロジーの斜陽
  • 第十八章 アジアへの回帰
  • 終章 変化し続ける世界
  •  謝辞/年表/参考文献
  •  宮崎正勝 日本語版付録
    世界を巡る「紙」の歴史に
    新たな一ページを加えたイスラム経済

【感想は?】

 紙、すなわち製紙の歴史でもあるが、冒頭では文字の歴史が、中盤以降では印刷と美術が深く関わってくる。

 著者のメッセージは強烈だ。テクノロジーが社会を変えるんじゃない。社会が変化を求めたとき、それに応じられるテクノロジーが登場する。そして新しいテクノロジーが登場しても、古いテクノロジーはなかなか消えない。

 確かにレコードが登場しても、生演奏は消えなかった。ただ、音楽を記録する技術はメガ・ヒット曲を生み出し、やがてロックやヒップホップなど様々な流行音楽を作りだしてゆく。録音技術がなければピンクフロイドは誕生しなかっただろう。

 そんな風に、媒体が表現に影響を与えることはある。粘土板は楔形文字を生む。これが羊皮紙になると、曲線も書けるようになる。ギリシアの角ばったデルタΔはローマで丸みを加えたDに変わった。

 ヨーロッパじゃアルファベットは滅多に変わらないが、中国じゃ事情が違う。商(殷)の頃に三千、紀元100年頃(後漢)は九千、五世紀(晋~南北朝)に二万、十世紀(唐~北宋)には三万万近くの文字ができた。漢字の特徴で、次から次へと新しい文字が増えるのだ。

 お陰で日本の計算機屋は外字に苦しめられている。今は「とりあえずユニコードでいいじゃん」な雰囲気だが、「使いながら新しい文字を生み出してゆく」漢字の性質を、コンピュータの都合で切り捨てていいんだろうか。

 こういったメディアの変化が表現に与える影響は、中盤以降、主に絵画の世界で大きなテーマとなるが、それはさておき。

 序盤でいきなり「蔡倫伝説は二十世紀になってから瓦解する」と、こっちの常識をひッくり返してくれる。中央アジアの砂漠地帯で、「105年よりまえに作られた無数の紙を考古学調査団が発掘したのだ」。アラブやヨーロッパへの伝播も、唐とアッパース朝が戦った751年のタラス河畔の戦い(→Wikipedia)でアラブに伝わったとされているが、もっと前から中央アジアに紙があったのだ。

 だけじゃない。アメリカ大陸のアステカにも紙があった。「『コデックス・メンドーサ』によれば、毎年、48万枚の紙が貢ぎ物としてテノチティトランに送られていた」。

 どうも紙は世界のアチコチで何度も発明されているらしい。商取引や行政府が大きくなると、大量の記録が必要になる。そこで紙が登場するわけだ。

 やがてヨーロッパにも製紙が伝わり、製紙工場が登場する。大事なのは立地条件。流れのはやい川と、原料のぼろ布を調達できる人口密集地。水質も大事で、「鉄やマグネシウムをふくむ硬水は石鹸を溶かさず、製紙には向かない」。日本で和紙が発達した理由の一つが、川の流れが速く軟水が多いためかも。

 中盤、特にグーテンベルクの登場以降、紙の需要は増えていくが、なかなか供給が追い付かない。というのも、原料のぼろ布がなかなか集まらないのだ。この問題は深刻で、ドイツの博物学者ヤーコブ・クリスティアン・シェファーは1771年に「製紙の代替原料の調査結果を全六巻の本に著し」ている…が、あまり流行らなかった模様。

 19世紀に木材パルプが登場して一気に紙が普及、しまいには紙製ペチコートや紙製カヌー、果ては紙製棺まで登場する始末。紙は使い捨て文化の象徴となってゆく。

 現代の製紙事情を伝える終盤では、日本と中国がスポットライトを浴びる。昔は数人の職人でやっていた製紙も、今は大規模化が進みつつある。廃水処理など環境対策設備に多くの資金が要るので、家族経営じゃ賄えないのだ。

 そのため昔ながらの手漉き職人さんは後継者がなく先細りだが、希望もある。レンブラントが和紙を好んだように、書家や画家などのアーティストには紙質にこだわる人もいて、彼らは好みの紙を求め職人に注文を出すのだ。

 資金はないけど独立したい人は、このあたりでインスピレーションを得るかも。職人仕事なら少ない資金で起業できるのだ。その分、仕事はシンドイけどね。

 分量は多いし、扱う範囲も幅広い。単に製紙技術だけじゃなく、その背景となる社会事情や利用状況などもじっくり書き込み、大きな物語を綴ってゆく。容赦なく動いてゆく歴史の流れを感じさせると共に、未来へのほのかな期待も見せてくれる、重量級の本だ。これだからモノの歴史は面白い。

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2017年1月11日 (水)

ランドール・マンロー「ホワット・イフ? 野球のボールを光速で投げたらどうなるか」早川書房 吉田三知代訳

光速の90%の速さで投げられた野球のボールを打とうとしたら、どんなことが起こりますか?

地球にいる人間全員が一斉にレーザー・ポインターを月に向けたら、月の色は変わるでしょうか?

マシンガンを何挺か束ねて下向きに撃ってジェットパックの代わりにし、飛ぶことはできますか?

「……金曜日までに答が知りたいんだ」

【どんな本?】

 ロボット工学者として NASA に勤めた著者のサイトに寄せられた難問・珍問・奇問に、数学や科学の知識に加え、関連分野・非関連分野の論文、Google や Mathmatica はもちろん友人・知人から見知らぬ専門家までも巻き込み、それなりに妥当な解を漫画を交えユーモラスに示した、一般向けの楽しい科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は WHAT IF? : Serious Scientific Answers to Absurd Hypothetical Questions, by Randall Munroe, 2014。日本語版は2015年6月25日初版発行。単行本ソフトカバー横一段組みで本文約369頁に加え、訳者あとがき1頁。9ポイント33字×19行×369頁=約231,363字、400字詰め原稿用紙で約579枚。文庫本なら標準的な厚さの一冊分だが、著者のイラストがたくさん載っているので、実際の文字数は6~7割程度。

 文章はこなれている。内容も特に難しくない。理科と数学が得意なら、中学生でも楽しく読めるだろう。アメリカのTVドラマに詳しければ更によし。

【構成は?】

 おことわり/はじめに
読者からの質問と著者の解答
 謝辞/参考文献/訳者あとがき

 質問と回答は、一つの質問に5~10頁程度の解答が続く形。それぞれ完全に独立した記事なので、美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいい。

【感想は?】

 肩の力が抜けた著者のユーモアが楽しい一冊。

 科学というと構えちゃう人でも大丈夫。アチコチに幾つか数式が出てくるけど、分からなかったら無視しよう。それがこの本を楽しむコツだ。ちゃんと著者が計算して、答えを出してくれるし。

 やっぱりタイトルにもなってる「野球のボールを光速で投げたらどうなるか」が、この本の面白さを見事に表してる。この項だと、最初は真面目に考えているのだ。光速で動くボールを、その前にある空気は避ける暇がない。そのため空気とボールは核融合を起こしガンマ線を発し…

 と、そんなわけで、色々と大変な事になるわけだが、最後のオチが「ソコかい!」と突っ込みを入れたくなるハズし方。こういうユーモアのセンスが随所で光ってる。

 やはりハズし方が光るのが、「世界中の人間全員が一斉にジャンプしたらどうなるか」ってな質問。確かセシル・アダムス先生も中国人バージョンの質問に答えてたが、誰でも似たような事を考えるらしい。が、ランドール君のセンスが生きるのは、ジャンプした後。そっちの心配かいw

 こういったユーモアを際立たせているのが、彼の描くマンガ。ったって、人は〇の頭に線の胴体と手足をつけただけの単純なシロモノなんだが、ポニーテールやヒゲで細かい表情を付け、ソレナリに違いがわかるようになってる。

 いかにも子供のラクガキっぽい単純さなのに、ちゃんと何がどうなってるのかが分かるのは大したもの。こういう風に、最低限の線でモノゴトを分かりやすく表すのも、一つの巧さと言っていいんだろうか。私は絵に疎いのでよくわからないんだけど。

 などのユーモラスな雰囲気ではあるけど、やっぱりエンジニアだなあと思うのが、いい加減な質問に対し、「現実にはどうやるか」を考えて相応しい制限事項を設ける所。

 「人間全員が月にレーザーポインタを向けたら?」なんて質問には、まず「人間全員が月をレーザーポインタで狙うにはどこに集まればいいか」なんて考えてる。そりゃそうだ、日本とブラジルから同時に月を狙うのは無理だしね。

 ここじゃギャグの基本、「繰り返し」を使って事態をグングンとエスカレートさせた挙句のオチが…

 かと思えば、「さすが NASA のエンジニア」と思わせる所も多い。NASA だけあって、運動エネルギーと反動の問題はお手の物。束ねた銃を下に向けて撃ったら飛べるか? なんて質問じゃ、ちゃんと射出速度と弾丸の重さなどから計算してる。

 だけでなく、友人知人の知恵も遠慮なく拝借してたり。やっぱり顔の広さは大事だね。先の質問でも、銃器に詳しい友人(当然、テキサス人)の知恵を借りて、一見現実的な解を出してる。にしても、アベンジャー(→Wikipedia)にそういう使い道があったとはw

 エンジニアというと、小数点以下の細かい数字に拘る生き物だと思う人も多いが、常にそうとは限らない。開発や設計の最初期、つまり「できるかできないか」を見積もるあたりだと、相当に大雑把な計算をする。桁が2つまでなら違っててもいいや、ぐらいのテキトーさで。

 なにせ質問もテキトーなので、計算の元の数字もテキトーにデッチあげている。架空の数字の見積もり方も、この本の魅力の一つ。「ヨーダはどれぐらいのフォースを出せますか?」では、ヨーダがXウィングを沼から引き上げる場面を元に、出力を見積もってたり。

 こういう、「どこからどうやって数字を持ってくるか」ってセンスも、なかなか感心するところ。

 そんなランドール君のセンスに加え、質問も面白いのが揃ってる。「太陽がなくなったらどうなる?」「ホッケーのパックでキーパーをブッ飛ばせる?」なんて誰もが考える疑問もあれば、「猫を鳴かせてッ飛行機を落とす」なんて「一体お前は何が知りたいんだ」的な質問も。

 あまりお堅いことは考えず、楽しみながら読もう。読み終えた後、もしかしたらたまには何かを計算したくなるかも知れない。猫の毛は何本あるのか、とかの役に立たない計算を。

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2017年1月 9日 (月)

飛浩隆「自生の夢」河出書房新社

眼はマテリアルを見るためにある。光ではなく。
  ――曠野にて

ものを書くとは、いったんその外部へ出ることだからだ。
  ――自生の夢

【どんな本?】

 キャリアは長く、発表する作品は必ず多くのファンから絶賛されるのだが、極端に寡作なSF作家の飛浩隆が、この十年で発表した作品を集めた、珠玉の短編集。

 透明な寂寥感の漂う文章で、読者の想像力の限界を試すかのような奇想に加え、スケールの大きい世界を描きながらも、どこか冷たい感触と無常観が漂う芸風が私は好きだ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2016年11月30日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約242頁。9.5ポイント40字×17行×242頁=約164,560字。400字詰め原稿用紙で約415枚。文庫本なら少し薄めの一冊分。

 文章はこなれている。内容は…うーん。SFとしては、かなり濃い。が、グレッグ・イーガンのようなゴリゴリの理系ではなく、かといってバリトン・J・ベイリーのようなお馬鹿SFでもない;いや改めて考えるとお馬鹿な発想のような気もするんだが、語り口が静かで端正なので、とてもクールで詩的な香りがするのだ。なんにせよ、オツムを心地よくシェイクされるのは確実。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 初出 の順。

海の指 / Webコミックサイト「モアイ」2014年10月14日更新
 すべての海洋と陸地の大半は灰洋と化し、人類もほとんどが消えた。泡州は、わずかに残った陸地の一つだ。内川和志と志津子の夫婦は朝食を終え、職場に出かける。街には<海の指>が陸地に押し出した世界中の建物が居座っている。
 出だしから、四国らしき島で普通の家庭の朝食風景から、ニョキニョキと建つイスラム風の建物なんてケッタイな風景への展開がたまらん。極端に人口が少ない状態で、どうやって文明生活を維持してるのかと思ったら、ちゃんと理屈がついてた。ある意味、和志は漁師だよなあ。海の凶暴さは桁違いだけど。
星窓 remixed version / SF Japan 2006年春号
 17歳の夏、ぼくは親友との旅行の予定をキャンセルした。特に理由はない。最悪の気分で冷やかしに入った星窓屋で、それを見つけた。ここミランダでは星が見えない。特異航法船のステーションがある代償で、星が見えなくなった。だが星窓はリアルタイムの星空を映し出す。
 怪しげな店で曰くありげなシロモノを買ったら…というグレムリンやリトルショップ・オブ・ホラーのバリエーション。別に餌を与えるわけでもないのに、変異が起こるあたりが独特。ボブ・ショウのスローグラスのようでもあるけど、星空ってのが面白い。
#銀の匙 / 書き下ろし日本SFセレクションNOVA8 2012年7月刊
 社会保障の一環として、BI:最低保証情報環境基盤が整備され、誰もが情報環境にアクセスできるようになった未来。Cassy はBI を基盤とし、所有者の履歴をテキストで残す。温度や場所などの行動に加え、所有者の考えた事や気持ちまで。
 いつでも誰でもネットにアクセスできる環境となると、プライバシーやらセキュリティに発想がいきそうだが、そこで敢えてテキストに拘り、かつアートな方面へと向かうのが、この著者の個性だろう。私が Cassy をつけたら…いやあまし公開したくないぞ。
曠野にて / 書き下ろし日本SFセレクションNOVA8 2012年7月刊
 Cassy に異能者を集めた<キャンプ>で、五歳のアリス・ウォンと七歳の石川克哉は出会う。参加者の中では最年少のコンビだ。二人は、曠野でゲームを始める。二つのセンテンスを互いが選び、それを操作・拡張して…
 寡作な作家の作品だけに、何か裏があるんじゃないかと勘ぐってしまうw 極論すれば大喜利と囲碁を合わせたようなゲームを描く作品だが、それを通じて情報空間の社会への浸透が及ぼす影響を示してもいる…のだが、やはり著者のイマジネーションは一筋縄じゃいかず…
自生の夢 / 書き下ろし日本SFセレクションNOVA1 2009年12月刊
 間宮潤堂。著名な作家にして稀代の殺人者。<ぼく>/<わたし>は、間宮へのインタビューを試みる。ただし間宮潤堂は30年も前に亡くなっている。これは、公共計算資源を最大3%も消費して実現したものだ。<忌字禍>(イマジカ)との闘争のために。
 「#銀の匙」「曠野にて」「野生の詩藻」とのシリーズを成す本編。間宮潤堂の特異能力もなかなか怖いが、読み進むにつれて誰がどっちの側なのか分からなくなるのも怖い。人は昔から呪文や言霊などで、言葉やテキストに力が秘められていると考えていた。それがデジタル・メディアになると、こうなるのかも。
野生の詩藻 / 現代詩手帖 2015年5月号
 砂礫がどこまでも続く曠野に改造ピックアップトラックで赴いたジャック・ウォンと石川克哉。二人が追っているのは、アリス・ウォンが遺した「禍文字」だ。それはテオ・ヤンセンが創ったストランドビースト(→Youtube)に似ているが…
 グラフィカルなプログラミング環境って発想は昔からあるけど、なかなか実用的なものは難しい。ましてネットワーク上で動いているプロセスを、中の状態で見えるように、なんて考えると更に難しそうだよね、などと悩んだが、ネットワーク上の計算資源を一つのコンピュータと考えればいいのか。下手に詳しいと細かい事に気を取られて大きな視野を無くすから困る。
はるかな響き / Webマガジン TORNADO BASE 2008年6月20日更新
 はるかな過去、夜明け。仲間と身を寄せ合って夜を過ごし、目を覚ましたヒトザルは、忽然と現れた漆黒の滑らかな板に驚いた。
 かの「2001年宇宙の旅」へのオマージュ、または新解釈。
ノート

 「グラン・ヴァカンス」シリーズもそうなんだが、コンピュータとネットワークが発達し、暮らしの隅々まで行き渡った果ての世界の描き方に、「その発想はなかった」と驚かされ、センス・オブ・ワンダーを堪能できる貴重な作品集だった。著者をせかした娘さんに感謝。

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2017年1月 8日 (日)

サイモン・ガーフィールド「オン・ザ・マップ 地図と人類の物語」太田出版 黒川由美訳

地図が人を魅了するのは、そこに物語があるからだ。
  ――序文 地図を愛する人々のために デーヴァ・ソベル

一時期、カリフォルニアはアメリカのほかの地域とはまったく異質な土地として知られていた。よりによって、ここは島だと思われていたのだ。
  ――島としてのカリフォルニア

ロバート・ルイス・スティーヴンソン「地名、森の形状、道筋や川の流れ。丘や谷にはっきり残った先史時代の人類の足跡。製粉所や遺跡、池や渡し船。荒れ地に建てられた石、またはドルイド教徒の円形遺跡……。地図は、それを見る目か、理解できるだけの想像力がある人にとっては、無限の興味をかきたててくれるものである」
  ――13 宝島、×印の場所を探せ

アレックス・カム「地図を教育に使う、今はこれが熱いんですよ!」
  ――19 世界最大の地図ディーラー、世界最悪の地図泥棒

この55年のあいだにパトリック・ムーアが執筆したこれらの本には、火星がテーマであるということ以外に、共通点がひとつある。それは、どの本もほかの本の内容をほぼ完全に否定していることだ。
  ――火星の運河

コンピューターゲームの地図は、古代の<マッパ・ムンディ>と同じくひとつの物語を表しているのだ。
  ――21 ビデオゲームと未来の地図

リチャード・ドーキンス「人類の祖先はほかの類人猿が越えられなかった重要な壁を越えたが、それを後押ししたのは地図だったのではなかろうか?」
  ――22 脳の地図を描く

【どんな本?】

 観光ガイドマップ,地下鉄路線図,デパートの売り場案内図,Google Map,宝の地図。世の中には様々な地図が、様々な目的で作られていて、それぞれが別々の物語を秘めている。

 今まで人類はどんな地図を、どうやって作ってきたのか。誰がどんな目的で買い求め、どう使ったのか。現在の地図のようになるまで、どんな経緯を辿ったのか。そんな地図の歴史に加え、地図を売り買いする地図ディーラーたち・地図が変えた旅行の形・物語の中の地図、そしてカーナビから Google Map まで、地図にまつわる面白ネタや地図の楽しみ方を集めた、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は ON THE MAP : Why the World Looks the Way it Does, by Simon Garfield, 2012。日本語版は2014年12月11日第1版第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約406頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント48字×19行×406頁=約370,272字、400字詰め原稿用紙で約926頁。文庫本なら上下巻でもいい分量だが、図版を豊富に収録しているので、実際の文字数は8~9割ぐらい。

 文章はこなれている。内容も特に難しくない。東京の複雑な鉄道路線図に悩んだり、旅行ガイドブック片手に観光地を歩いたり、ゲームでダンジョンを探索してマップを埋めていったりなど、地図に関する思い出があれば更によし。

【構成は?】

 だいたい時系列順に並んでいるが、それぞれの章はほぼ独立しているので、美味しそうな所をつまみ食いしてもいい。

  • 序文 地図を愛する人々のために デーヴァ・ソベル
  • プロローグ 新たな地図が浮かびあがる
  • 1 いにしえの賢人たちの功績
  • 2 世界を売った男たち
  • 3 概念としての世界地図
  • 4 ヴェネツィアと中国の地図
  • 5 ヴィンランドの謎
  • 6 アメリゴへようこそ
  • 7 メルカトルの投影図
  • 8 本になった世界地図
  • 9 シティ・マップを作る
  • 10 陸地測量局をめぐる物語 定まりゆく座標
  • 11 伝説のコング山脈
  • 12 コレラの感染を止めた地図
  • 13 宝島、×印の場所を探せ
  • 14 世界最悪の旅、地図のない最後の地へ
  • 15 ミセスPと『ロンドンA-Z』
  • 16 誰もが携帯する地図 旅行ガイド略史
  • 17 カサブランカ、ハリー・ポッター、そしてジェニファー・アニストンの家
  • 18 超大型の地球儀を作る
  • 19 世界最大の地図ディーラー、世界最悪の地図泥棒
  • 20 いかにしてカーナビは普及したのか
  • 21 ビデオゲームと未来の地図
  • 22 脳の地図を描く
  • エピローグ いつでもどこでも自分の居場所がわかる地図
  •  訳者あとがき
  • Pocket Map
    • 時は1250年、私は巡礼の旅に出る
    • ここはドラゴンの地
    • 島としてのカリフォルニア
    • 秘密にされたドレークの世界一周
    • ライオンとワシとゲリーマンダー
    • 19世紀のマーダー・マップ
    • ベンジャミン・モレルの浅はかな嘘
    • バークとウィルズのオーストラリア大陸横断
    • ベックのロンドン地下鉄路線図
    • ピーターパンの作者は、ポケット地図を折りたためなかった
    • 絵本に隠された宝の地図
    • チャーチルのマップルーム
    • 女は本当に地図が読めないのか
    • 火星の運河

【感想は?】

 幼い頃、宝の地図を作ったことがある。オモチャなどを地面に埋めて、立ち木や曲がり角などの目印を書き入れ、お宝の場所には×印をつけた。あの頃のワクワクする気持ちが、蘇ってくる。

 そう、地図には何か人を引きつけるものがある。そこには、何か新しい世界が広がっている。

 自転車に凝り始めた頃は、国土地理院の地勢図を買った。色々と無愛想だが、等高線が入っているので、坂のキツさがわかって便利なのだ。走った経路を赤で書き入れ、次のルートを考えるのも楽しみの一つだった。

 この本の物語は、古代アレクサンドリアの図書館から始まる。パピルスの供給地でもあったのが幸いし、多くの書物を集めた。エラトステネス(→Wikipedia)の地図は、不明な所は空白のままとしたが、クラウディウス・プトレマイオス(→Wikipedia)が困った習慣を持ち込む。空白を想像で埋めたのだ。

 無名の者ならともかく、天下のプトレマイオス様が書いたことに間違いはあるまいと信じた後世の者は、お陰で大変な苦労をしょい込む羽目になるし、地図を作る者にもこの悪癖が受け継がれちまうから被害は甚大だ。

 おかげでマッパ・ムンディ(→Wikipedia)などでは、ユニコーンやマンドレイクやスフィンクスなど、奇矯な化け物が並んでいたりする。「山海経」もそうだけど、遠い所にはケッタイな生き物がいると考えるのは、洋の東西を問わないらしい。

 旅行ガイドは、13世紀に既に登場している。修道士マシュー・パリス(→英語版Wikipedia)が、エルサレムへの巡礼向けガイドブックを書いている。ここでの「旅程」が、ラバで一日で移動できる距離なあたりが、なかなか実用的。にしても、ラバも大変だ。

 ヴィンランド(→Wikipedia)再発見にも、地図がかわっていた。その名もズバリ、<ヴィンランド地図>なるものが発掘されたのだ。ただしこれで「イタリア人やイタリア系アメリカ人が激怒」したあたりは、ちょっと笑ってしまう。

 プトレマイオスの因習はカリフォルニアを島にしたりするが、現代ではワザと間違いを入れたりする。現代ロンドンの街路地図「ロンドンA-Z」では、「セキュリティ目的の架空の道路」を加えているとか。パクられたら、これを証拠にすればいい。確か似たようなことをゼンリンもやっているとか。

 この辺まで読んでくると、そこまでしてパクリを防ぐ理由もわかってくる。ロンドンA-Zの母ミセスPことフィリス・ピアサルの伝説では、「夜明けから、ロンドンに二万三千本あるという街路を歩く旅を始めた」ことになっている。初版は自費で一万部を刷ってから、売ってくれる店を探すあたり、なかなか強気。

 こういった「普通の人が使う地図」の話は、「『ぴあ』の時代」の<ぴあマップ>でも出てきたなあ。次の貧乏旅行者向け旅行ガイド「ロンリープラネット」「ラフガイド」だと、扱う地域の広さに対し資金が足りず…

ネパールのある村の場合は、ガイドブックの調査員がナプキンにさっと描いた絵が唯一の地図だったりする

 なんてのも、「『地球の歩き方』の歩き方」や「あの日、僕は旅に出た」とカブってたり。

 目的によって全く異なるのも、地図の面白い所。ぴあだと大事なのは映画館や劇場で、旅行ガイドだと飯屋やホテルになる。「犯罪は『この場所』で起こる」だと、近所の安全マップを作ろうなんて話も出てきた。

 今はデジタル化・オンライン化で紙の地図ビジネスは難しいようだが、こういった視点の違いを活かした情報ビジネスで生き残りを図っている模様。Ingress やポケモンGOなど、現実に「違った次元」を重ねる手法も出てきたしねえ。

 ニワカ軍ヲタとしては、第二次世界大戦でミシュランやモノポリーが果たした役割や、ニカラグアのコスタリカ侵攻の際のイチャモンなど、物騒な話も面白かった。自分でも近所の特殊地図を作りたくなる、そんな本だ。とりあえず猫のナワバリ地図とか面白そうだなあ。

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2017年1月 4日 (水)

W.P.キンセラ「シューレス・ジョー」文春文庫 永井淳訳

「きみがそれを作れば、彼はやってくる」

【どんな本?】

 カナダ生まれの野球狂作家 W. P. キンセラによる、野球狂に捧げる長編ファンタジイ小説で、映画「フィールド・オブ・ドリームス」の原作。

 レイ・キンセラは小さな農場を営む青年。愛する妻アニーと可愛い娘カリンに囲まれたアイオワでの暮らしは気に入っているが、農場の経営は苦しく借金はかさむ一方。ある日、不思議なメッセージに導かれたレイは、トウモロコシ畑の一角を潰して野球場を作り始める。レフトの芝が整い始めた頃、なんとジョゼフ・ジェファスン・ジャクスンが球場にやってきた。そう、あのシューレス・ジョーだ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は SHOELESS JOE, by W. P. Kinsella, 1982。日本語版は1985年発行。のち文春文庫版より1989年11月10日に第1刷発行。文庫版で縦一段組み、本文約367頁に加え、訳者あとがき6頁。8.5ポイント42字×18行×367頁=約277,452字、400字詰め原稿用紙で約694枚、文庫本としては少し厚め。

 文章はこなれている。内容も特に難しくないが、プロ野球や高校野球を楽しめる程度には野球のルールを知っている方がいい。特にメジャーリーグを頂点とするアメリカのプロ野球に詳しいと、更に楽しめる。

 重要なネタは、あと二つ。いずれも作品中で充分に説明があるので特に前提知識を仕込む必要もないが、気になる人のために余計なおせっかいをやいておく。

 まずは作品名にもなっているシューレス・ジョー(→Wikipedia)は、シカゴ・ホワイトソックスの選手。1919年に八百長疑惑で球界追放となる。もうひとつは作家のJ. D. サリンジャー(→Wikipedia)。「ライ麦畑でつかまえて」が有名だが、晩年は作品も発表せずマスコミから隠れて暮らしてた。

 でも最も大事なのは知識じゃなくて経験。野球場でドリンク片手に応援した事があれば文句なし。

【感想は?】

 熱烈な野球ファンの妄想話。

 正直、私は特に野球が好きなわけじゃない。昨年の日本シリーズ勝者も覚えてないし。でも、70年代ごろのロックならわかる。そこのロックおやぢやヘビメタ青年、こんな妄想した事はないか?

 ジミ・ヘンドリクス、あっちで何やってんだろ。やっぱバンド組んでんのかなあ。キース・ムーンやフェリックス・パパラルディとつるんだら、とんでもねえ変態な音になるだろうなあ。ロニー・ジェイムズ・ディオも、ランディ・ローズと組んでフィル・リノットとコージー・パウエルを捕まえ…

 うひゃあ、涎が止まらん。

 そういう妄想の野球版を小説にした、そんな作品だ。「ボクの考えた最高の野球チーム」を作る話と言ってもいい。

 主人公はドン詰まりの農家。妻アニーと娘カリンとの暮らしは満ち足りているし、アイオワの土地も気に入っている。ただこのご時世、小さな農場の経営は苦しく、借金で首が回らないってのに、畑の一角を潰して野球場を作るなんてイカれた真似を始める。

 それというのも、天啓を受けたから。「きみがそれを作れば、彼はやってくる」。どう考えてもアレな人だが、奥さんのアニーは温かく見守ってくれる。よくできた奥さんだ。

 やがてシューレス・ジョーが姿を現すが、当然、野球は一人じゃできない。そこで再び声が聞こえる。「彼の苦痛をやわらげてやれ」。声に導かれ、レイは旅立つ。

 こうやってお話の筋書きを取り出すと、主人公のレイは頭のおかしい人みたいだし、本人もそれはわかってる。確かにバカバカしい話ではあるのだ。

 それでも、細かい場面の描写が読者を引きこんでいく。冒頭の野球場を作る所でも、寒い冬の間に芝生を労わる方法なんてマニアックなのもあるが、やはり真に迫っているのは野球観戦のシーン。

 サッカーと違い、野球はインターバルが多い。だもんで、プレイを観ながらおしゃべりしたり飲み食いしたりして、それが野球観戦の欠かせない味でもある。球場で売ってる食べ物なんて、決して高級なモノじゃないんだけど、やっぱりホット・ドッグは欠かせない。そういう決まりなのだ。

 「ボクの考えた最高の野球チーム」を作る話だけに、レイの道中はスカウト道中でもあって、これがちょっとしたロード・ノベルの楽しみを添えている。サリンジャーを連行するために訪れるヴァーモント州ウィンザーの静かな様子もいいが、次の鉱山町チザムは、まさにアメリカならでは。

 日本と違い、アメリカの歴史は浅い。だけでなく、国の成り立ちが全く違う。

 アメリカはボトムアップでできた国だ。植民者たちが住み着き、地域を収める自治政府を住民たちが自ら作り、それが集まって州になり、州が集まって連邦政府になった。そのためか、住民の町に対する関心も深いし、新聞も地域の小さい新聞が多く、地元の人の結婚や訃報がニュースになる。

 ここでレイとジェリーがドックを蘇らせてゆくあたりも、名前だけだった人物が次第に血肉を備え、細かい出来事や困ったクセを伴った人間となってゆくあたりは、人探しの話としてありがちといえばありがちだが、読んでいくと次第にドックとチザムが好きになってくる。

 それとは別にアメリカだよなあ、と思うのが、夜のスタジアムに忍び込むシーン。なんと「たぶん西海岸ではまだ試合中ですよ」ときた。アメリカは東西に広いから、時間帯が四つもあるんだよなあ。深夜のプロ野球ニュースとか、どうしてるんだろ?

 まあいい。野球ってスポーツの独特な所は、プレーの記録が細かく残っていること。ピッチャーが投げる一球ごとに球種とコースを残す事も出来る。おかげで、この作品じゃベースボール・エンサイクロピーディアが大活躍したり。これに疑問を呈した「マネー・ボール」なんてのもあるけど。

 かと思えば、記録に残らないプレイもある。エディが語る、石ころを12個ポケットに入れるショートの話とかは、もう爆笑もの。ったく、何がフェアプレーだw

 古き良きアメリカと、それを象徴する野球を、現代に無理やり蘇らせ、「ボクの考えた最高の野球チーム」を創り上げる、ホンワカしたファンタジイ。読むなら野球シーズンの方がいいかも。東京ドームみたいな大きい球場もいいけど、神宮みたいな球場も選手が間近に見えるので違った楽しみがあります。

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2017年1月 2日 (月)

ブルース・ブエノ・デ・メスキータ&アラスター・スミス「独裁者のためのハンドブック」亜紀書房 四本健二&浅野宣之訳

…指導者というものは、権力を握り、権力者の地位を守るという目的を達成するためなら何でもする。
  ――日本語版へのはしがき

…小さな盟友集団を頼みとする支配者はより専制的な支配に、大きな盟友集団を頼みとする支配者はより民主的な支配に傾く傾向がある。
  ――訳者まえがき

利害を持っているのは、「国家」ではなくて「人」である。
  ――序章 支配者を支配するルール

権力の頂点にのし上がるために必要な能力と、それを維持するために必要な能力は、まったく違う。また、権力の座で生き残るための支配と「より良い」支配を行うための能力の間にさえ、共通点はないのが常である。
  ――第3章 権力の維持 見方も敵も利用せよ

金になる資源を持つ国は、そうした資源を持たない国よりも制度的にうまく統治されないという、しばしば「資源の呪い」と呼ばれる現象が起こる。経済成長を伴わない資源産出国は、内戦が起こりやすく、資源の乏しい国よりも独裁的になる。
  ――第4章 財政 貧しき者から奪い、富める者には与えよ

【どんな本?】

 スターリンは最後まで巧くやったのに、なぜゴルバチョフは失脚したのか。多額の援助が送り込まれるアフリカは、なぜいつまでも貧しいままなのか。パキスタン政府は、なぜビン・ラディンを匿ったのか。独裁的な国家において、往々にしてマイノリティー出身の閣僚がいるのはなぜか。エジプトのムバラクは、なぜ失脚したのか。FIFAやIOCから腐敗を一掃する方法はあるのか。

 今も昔も、世界には独裁者が君臨する国があり、その多くで国民は貧しく飢えている。それは、その方が独裁者に都合がいいからだ。地震や津波などの災害でも、専制的な国は国民を見捨てる。どころか、他国からの支援を断ることさえある。なぜそんな非業な真似をするのだろう?

 著者は主張する。独裁的な国も民主的な国も、権力者の目的は同じであり、従っているルールも同じだ。違うのは、権力者が置かれた状況であり、ゲームバランスが違うだけだ、と。

 では、彼らはどんなルールに従っているのか。どうすれば独裁者として君臨できるのか。独裁者に都合がいいのは、どんなゲームバランスなのか。

 国際政治学者が、自ら唱えた権力支持基盤理論を元に、過去現在の独裁的な政治体制と民主的な政治体制を比べ、独裁者が権力を維持する秘訣を明らかにし、その結果として打ち出される政策の裏にある法則を明らかにしながら、逆に独裁者を倒す方法や、企業や委員会などの組織の腐敗を防ぐ手立てを探る、一般向けの刺激的な政治学の解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Dictator's Handbook : Why Bad Behavior is Almost Always Good Politics, by Bruce Bueno de Mesquita & Alastair Smith, 2011。日本語版は2013年11月21日第1刷発行。私が読んだのは2014年1月6日発行の第2刷。

 単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約329頁に加え、訳者あとがき4頁。9.5ポイント45字×19行×329頁=約281,295字、400字詰め原稿用紙で約704枚。文庫本なら厚めの一冊分。

 文章は比較的にこなれている。国際政治学と聞くと難しそうだし、ところどころに二重否定などのまわりくどい表現もあるが、たいていは何度か異なった表現で繰り返し説明しているので、思ったよりとっつきやすい。

 世界各国の指導者や政策が例として出てくるが、国際情勢に疎くても大丈夫。ソコはどんな国でどんな状況でどんな指導者がどんな政策をいつ打ち出したか、大ざっぱに説明しているので、知らなくてもだいたいの雰囲気は掴めるようになっている。

【構成は?】

 「訳者まえがき」が、とても巧く「独裁者のルール」をまとめているので、できれば最初に読もう。以降は、美味しそうな所をつまみ食いしてもいい。

  • 日本語版へのはしがき/訳者まえがき
  • 序章 支配者を支配するルール
    • 一般市民の困惑
    • ベル市の底知れない憂鬱
    • イデオロギーでもなく、文化でもなく
    • 偉大な思想家の思い違い
    • 注目すべきはリーダーの利害と行動
  • 第1章 政治の原理 「金」と「仲間」をコントロールせよ
    • ルイ14世を支えたもの
    • あらゆる政治の土台となる三つの集団
    • 独裁と民主主義の間に境界はない
    • カギを握るのは「3D」のサイズ
    • 支持者は金でつなぎとめる
    • 搾りとった税金の使い道は
    • 裏切られる前に切り捨てる
    • 独裁者のための五つのルール
    • 民主主義国家にもルールは通用する
  • 第2章 権力の掌握 破綻・死・混乱というチャンスを逃すな
    • 独裁者の理想のスローガン
    • 現リーダーを排除する三つの方法
    • 「善」は急げ
    • 金の切れ目が縁の切れ目
    • リーダーの死は絶好のチャンス
    • 生きていることが最大のアドバンテージ
    • オスマン帝国の「兄弟殺害法」
    • 財政破綻を逆手にとったロシア革命
    • 沈黙は金である
    • ゴルバチョフが陥ったジレンマ
    • 民主国家で権力を握るには
    • 民主国家における世襲
    • アトリーがチャーチルに勝利できた理由
    • 盟友集団の力学
    • ドウ曹長の末路
  • 第3章 権力の維持 味方も敵も利用せよ
    • ヒューレット・パッカードの政治事情
    • フィオリーナの改革と失墜
    • ビジネスの正解が政治的失敗に
    • アドバイザーを粛清して権力を固めたフセイン
    • 盟友集団を不安定にしておく
    • 功労者でも躊躇なく粛清する
    • 民主主義者は天使か
    • 「票が値下がり 一山いくら」
    • リーダーが生き残れる確率
  • 第4章 財政 貧しき者から奪い、富める者には与えよ
    • 金の流れを掴め
    • 理想の税率
    • 国を豊かにしてはいけない
    • どれだけ、どのように搾り取るか
    • 石油は「悪魔の排泄物」
    • 借金を返すのは次のリーダー
    • 債務は削減すべきか?
  • 第5章 公共事業 汚く集めて、きれいに使え
    • リーダーの地位を保証する公共財
    • 優れたリーダーに市民意識はない
    • 高等教育という潜在的脅威
    • 国の豊かさは子どもを救うか?
    • 水と政治体制の関係
    • その道路は誰のため?
    • 公共の利益のための公共財
    • 地震からの復興と政治体制
    • 公共財の整備はリーダーを長生きさせる
  • 第6章 賄賂と腐敗 見返りをバラ撒いて立場を強化せよ
    • 腐敗はリーダーを力づける
    • 成功するリーダーは汚れ仕事を厭わない
    • 私的な見返りのコストパフォーマンス
    • 娯楽と金を追及するIOC
    • オリンピックは一票10万ドル、ワールドカップは80万ドル
    • 善行は万死に値する
    • 盟友が常に味方だと思うな
    • 私腹を肥やすか、人々に施すか
    • 国庫の金をうまく使ったフセイン
    • 腐敗した民主主義者、高潔な独裁者
  • 第7章 海外援助 自国に有利な政策を買い取れ
    • 海外援助の政治的論理
    • 援助が人々を苦しめたケニア
    • 海外援助の損得勘定
    • 高くついたアメリカの中東政策
    • 貧困を救わない援助をなぜ続けるか
    • 「病院が患者を殺す」のか
    • 海外援助を効果的にするために
    • 評価基準は「比較優位性」
    • 災害援助は誰のふところに入る?
    • 目的達成の報酬としての援助
    • 「貧しい国は助けたいが、自腹は切りたくない」
  • 第8章 反乱防止 民衆は生かさず殺さずにせよ
    • 抗うべきか、抗わざるべきか
    • 大衆運動の芽を摘み取れ
    • 民主国家における反乱と独裁国家における反乱
    • 反乱の引き金
    • 災害というチャンスに何をすべきか
    • ビルマの「理想的な」独裁政治
    • パワー・トゥ・ザ・ピープル
    • しぶしぶ民主主義国となったガーナ
    • 経済崩壊が革命のチャンス
  • 第9章 安全保障 軍隊で国内外の敵から身を守れ
    • 「戦争とは、他の手段をもってする政治の継続である」
    • 「六日間戦争」の損得勘定
    • 民主国家が奮闘する条件
    • 湾岸戦争という政治的サバイバル劇
    • 独裁国家は勝敗に鈍感
    • 兵士一人を救うために軍隊を投入する
    • 民主国家の本音
    • 民主国家が戦争を仕掛けるとき
  • 第10章 民主化への決断 リーダーは何をなすべきか
    • 今の苦境は変えられる
    • 曲げられないルール
    • 盟友集団は縮小すべきか拡大すべきか
    • 盟友が民衆と手を結ぶ前に
    • グリーン・ペイ・パッカーズの教訓
    • 民主主義を定着させる
    • 移民の効果
    • 苦難を終わらせる変革のために
    • 民主化を目指す動機
    • 「自由で公正な選挙」 偽りの自由
  • 謝辞/訳者あとがき/人名・事項索引

【感想は?】

 かなり単純化し、割り切った理屈に沿って書いた本だ。しかも、その理屈が実に実もふたもない。

 理屈の原則は経済学と同じだ。「人は誰でも利に従う」。なんとも殺伐とした世界観だし、そういうのが嫌いな人には向かない。そもそも権力なんて綺麗事じゃ済まないよね、と考える人向き。

 この理屈だと、福祉予算を削る右派政党が貧乏人に人気がある理由を説明できないと思うでしょ? でも、よく読むと、回りくどいながらも、うっすらと理由が見える仕掛けになっている。この辺は「選挙の経済学」にも少し説明があったが、この本ではIOCとFIFAや、中東戦争のイスラエル軍とエジプト軍の例で説明している。

 人はカネで転ぶ。大金なら、より転びやすい。あなた、幾らなら選挙権を売ります?

 有権者が多い大都市だと、買収は難しい。軍資金は限られている。一億円あっても、有権者が十万人いたら、うち半分を買収するにしても、一人当たりせいぜい二千円しか配れない。これで転ぶ人は少ないだろう。

 でも有権者が少なければ、一票の価値はグンと高くなる。IOCで開催地を獲得するには、理事のうち58票を得ればいい。とすると、一億円あれば一人頭約170万円を配れる。FIFAの理事は24人なので、必要な13票を得るには一人約770万円。実際にはもう一~二桁多いんだけど。

 報酬が少なければ、人は買収に応じない。日本の国会議員選挙じゃ、一票の価値は軽い。貧しい人にとって、そりゃ福祉などは魅力的かもしれないが、自分に大きな利益があるとは思えない。それより、家族観や歴史観や国家観が似てる人を応援したほうが、気分がいい。

加えて右派の政治家は演説が上手だと思う。学のない人にもわかりやすい話を、親しみやすい言葉遣いで語りかけてくる。おまけに地元のイベントやお祭りに足蹴く通い、名前と顔を覚えてもらう努力を惜しまない。こういった姿勢はリベラルや左派も見習って欲しい。

 そう、この本のキモは、「一票の価値」にある。

 独裁者も、本当に一人じゃ支配はできない。取りまきが要るのだ。いかに取りまきをつなぎとめるかが、独裁者の運命を決める。

 適切な選挙が行われる場合、取りまきとは有権者になる。日本のように議内閣制だと、第一党の過半数の票が必要で、だいたい全有権者の1/4以上の支持、約2500万票が要る。これを買収で賄うのは、まず無茶だろう。

 だが取り巻きが少なければ、話は違ってくる。軍の要人など10人の支持さえあれば権力を維持できるなら、買収は現実的だ。油田などの財源を押さえていれば、そこからあがる利益を山分けすればいい。国民? なにそれ美味しいの?

 だからサウド家は安泰で、エジプトのムバラクは失脚した。ムバラクはアメリカの支援から分け前を手下に分けていたが、アメリカが財布の紐を締めたために取り巻きが見捨てたのだ。対してサウド家は独自の財源=油田を持っているので、ヨソ者に頼る必要はない。

 今でも冷戦構造の名残は残っていて、特に軍の装備がわかりやすい。旧東側は戦車や戦闘機がロシア製だし、西側はアメリカ製が多い。西側には専制的な国もあれば民主的な国もあるのに対し、旧東側はみな専制的で、民主的な国はない。民主的な方向を目指すと、ウクライナのようにゴタゴタが起きる。

 これも「一票の価値」で説明できる。傀儡政権は専制的な方が安上がりなのだ。民主的な政権だと、多くの有権者を買収しなきゃいけないが、専制的なら独裁者にだけカネを渡せばいい。二千円じゃ買えない忠誠も、二億ドルなら違ってくる。断ったら、ライバルに同じ話を持ち掛ければいい。

 革命などで権力を奪った新しい支配者が、それまでの同志を粛清するのも同じ理屈だ。山分けするなら、仲間の数はなるべく少ない方がいい。盟友は同時にライバルでもある。伸びそうな芽は早めに摘め。だから独裁者はインフラや教育を放置する。インフラは成金を生み、教育はインテリを育てる。成金やインテリはライバルになりかねない。

 などの理屈を、エチオピアのハイレ・セラシエやビルマのタン・シュエなど、世界中の独裁者の陰惨なエピソードと、その裏にある力学をわかりやすく解き明かし、賢くなった気分になれるだけでなく、ヒューレット・パッカードの事例などで、「ビジネスにも応用できますよ」とそれとなく伝え、その気になって読めばいくらでも黒い応用が出来そうな、困った本だ。

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