グレッグ・イーガン「エターナル・フレイム」新☆ハヤカワSFシリーズ 山岸真・中村融訳
「おれの子どもたちのうち、ふたりを殺さなくてはならない」
「化学者になにか質問すると、その答えに漏れなく爆発がついてくるのは、なぜなんです?」
「ひとつの例外には困惑させられるが、それがふたつになると途方に暮れさせられ……一ダースぐらいになるとひとつにまとまって、まったく新しい世界の見かたを示してくれる」
「わたしは可能なかぎり単純にしているのですが」カルラは答えた。「それ以上単純にならないんです」
「化学は物質の再配置に関する学問だ。物体が消滅する場合には、化学はまったくお呼びでない」
「政治では目的がいちばん重要だと思ったのに」
(略)
「政治では人々の感情が重要なんだ」「<孤絶>の上で生きることは、途中まで解決した問題を子孫に手渡すことを意味する」
【どんな本?】
激辛のサイエンス・フィクションを得意とするグレッグ・イーガンによる、「クロックワーク・ロケット」に続く<直交>三部作の第二弾。
われわれの宇宙とは少しだけ物理法則が違う世界。光は色により速さが異なり、紫は速く赤は遅い。植物は夜に光る。液体は存在せず、あるのは固体と気体だけ。そして速く動く物体は、時間の進み方も速くなる。
崩壊の危機に瀕した母星を救う手段を求め旅だった世代型ロケット<孤絶>は、既に四世代目を迎えていた。船内の人口が増えすぎ、食物は厳しい配給制が敷かれている。
天文学者のタマラは、観測中に物体を見つけた。<孤絶>の進路に近い。どうやら直交物質らしい。その性質はわからないが、補給の利かない<孤絶>にとって貴重な物資になるかもしれない。
物理学者のカルラのチームは、奇妙な現象に悩まされる。真空中で使うカメラの鏡に、不思議な曇りが起きる。空気中よりはるかに速く曇ってしまう。実験を続けると、更に奇妙なパターンが現れた。光のスペクトルにより、曇り方がクッキリと違うのだ。
宇宙の法則を少しだけ変えた上で、厳密な数学・物理学に基づき創り上げた世界を舞台に、異様な生態のエイリアンたちによる物理法則探求の旅を、豊富な数式と図とグラフで描く、究極の異世界ファンタジイ。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Eternal Flame, by Greg Egan, 2012。日本語版は2016年8月25日発行。新書版で縦二段組み、本文約500頁に加え、著者あとがき4頁+前野昌弘「<直交>宇宙の量子場の理論入門」11頁+山岸真の訳者あとがき5頁。9ポイント24字×17行×2段×500頁=約408,000字、400字詰め原稿用紙で約1,020枚。文庫本なら軽く上下巻になる大容量。
私が慣れたせいか、他のイーガンの小説に比べると、文章そのものはこなれてきたように感じる。が、あくまでも「イーガンにしては」で、相変わらず二重否定などのややこしい言い回しが多い。今までは三回読み返さなければわからなかったのが、二回でわかるようになったって程度。
内容は前作「クロックワーク・ロケット」以上に難しい。「クロックワーク・ロケット」は相対論が中心なため、時間×空間の二次元のベクトルまたは複素数で表せたし、図で近似できたが、今回は量子力学が主なテーマだ。そのためか、波動方程式が重要なネタとなり、四次元のベクトル(スピノル、→Wikipedia)を扱う場面が沢山出てくる。
正直言って、私は話の1/4は全く意味がわからず、1/4は「きっと勘違いだよなあ」と思ってたらやっぱり勘違いで、1/4は勘違いしてるけどわかったつもりになっていて、わかってるのは話の1/4ぐらいな気がする。波動方程式が扱えて、スピノルの掛け算と割り算ができる人でないと、完全に理解はできないと思う。
また物理法則に加え登場人(?)物の形や生態などの世界設定も極めて異様であり、前作の「クロックワーク・ロケット」を読んだ人でないと、ついていけない。必ず「クロックワーク・ロケット」から読み始めよう。
【感想は?】
と、それぐらい歯ごたえのある作品だが、数学的・物理学的にわからない所は「うん、わからん」と飛ばして読もう。多少なりとも科学関係のゴシップを知っていれば、楽しめる場面は多い。
いや科学を知らなくても、自分で何かを工夫して作った経験があれば、身に覚えのある所はチラホラある。工夫と言ってもたいした事じゃない。例えば料理の味付けだ。
私はカレーが好きだ。作りたても美味しいが、一晩おいたのも美味しい。では何晩ぐらいまで保つだろう? バーモントカレーとジャワカレーでは? ジャガイモをいれるのと入れないのとでは? などと色々と試し、好みの味を追い求めるのは、私だけじゃないはずだ。
当然、失敗もする。例えばジャガイモは、すぐに崩れてグズグズになってしまう。結局、私はジャガイモを入れないことにした。でも「ジャガイモがないと納得できん!」と言って、大きめに切ったり、角を取ったり、ジャガイモだけ分けて煮る人もいる。
料理なら対策は幾つもあるが、物理学はそうじゃない。正しい理論はひとつだけのはずだ。
この作品では、まず鏡の曇りが問題に上がる。観測に使った鏡が曇ってしまう。これだけなら機械の不調だが、曇り方のパターンが少しづつ見えてくる。空気中より、真空中の方が早く曇る。また当たる光の周波数により曇り方が違う。
そこで様々な周波数を当てて曇り方を調べると、綺麗なパターンを見せる。だが、そのパターンは予想もしないもので、まして説明は全くつかない。
なんて書くのは簡単だが。こういった効果を見つけるために、どんな実験をすればいいのか。仮に説明がついたとして、それを確かめるためには、どんな実験が必要で、どんな器具がいるのか。その器具は何をどうやって作るのか。
こういった泥臭い事柄を、細かく書いているあたりが、この作品の醍醐味の一つ。
そうやって浮かび上がってきた仮説を数式化するあたりは全くお手上げだったけど、その数式が何を意味するのかと問うあたりも、物理学がただの屁理屈じゃないと感じさせてくれるところ。中間子とかクォークとかも、こういう議論と実験から出てきたんだろうなあ。
また、「やはり科学者の考え方は違うなあ」と感じたのが、パウリの排他律(→Wikipedia)みたいな法則を見つけるくだり。
エンジニアだと、「そういうものか、これ何かに使えないかなあ」と勝手に納得して使い道を考えちゃうんだが、科学者は違う。「なんで2なの?1じゃダメなの?3は?」と、突っ込んでゆく。「そういうものだ」で納得しないで、「なんでそうなの?」と更に問うのが科学者らしい。彼らは永遠の三歳児なのだ。
かと思うと、生物学者はまた違った意味でクレイジーだ。こっちで活躍するのはカルロ君で、生物を動かす信号を研究しはじめる。ハタネズミやトカゲで実験しているうちはいいが、計測器具のサイズの問題で「もっと大きい実験動物が欲しいよね」となり…
などと部屋に籠ってるばかりじゃなく、第二部では<物体>捕獲を目指す宇宙飛行ミッションなど、なかなか派手なアクションも展開する。これがまた大変なシロモノかつ大変なミッションで。
ってなアクションに加え、イーガンらしい思想が出てるのが、カルロの実験が大きな騒ぎを引き起こすくだり。これには彼らの人生観を根こそぎ揺らがしかねないシロモノで、技術の進歩によっては私たちにとっても近い将来に大騒動を引き起こすかもしれない。
ちょっと物理法則を変え、かつ数学を駆使して厳密に検証した上で創り上げた、異様な異世界で繰り広げられる、科学の進歩の物語。歯ごたえは充分にあるので、相応の時間を確保し、かつ意味がわからない所は仕方がないと諦める覚悟もした上で挑もう。
にしても、「永遠の炎」って、ウィッシュボーン・アッシュあたりのアルバムにありそうな名前だなあ。
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