イアン・トール「太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 下」文藝春秋 村上和久訳
「誰も心の奥底の感情を表せなかった」と戦時中、砺波で召集令状を配達していた兵事係は語った。「世間は彼らを歓呼の声で送り出した。『万歳! 万歳!』そういわなければならなかった」
――第七章 ABDA司令部の崩壊戦争のつぎの段階の具体的な作戦計画は存在していなかった。正直なところ、日本の軍事指導者たちはすでに達成した征服以上は、もっとも基本的な戦略の方向にまだ合意していなかった。
――第七章 ABDA司令部の崩壊(アメリカ)海軍が12月7日の大失態のすぐあとに一つやったことがあるとしたら、それは学習と向上に集団で取りつかれることだった。
――第十一章 米軍は知っている生産管理局(OPM)の長であるウィリアム・クヌードセンは、希少な原料がデトロイトの自動車組立ラインに供給されることを許さなかった。もはや国内に軍用以外の自動車を生産する余裕はない、と彼はいった。タイヤ用のゴムがじゅうぶんにないからである。
――終章 何が勝敗を分けたのか
【どんな本?】
イアン・トール「太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 上」文藝春秋 村上和久訳 から続く。
海軍は真珠湾で画期的な勝利をあげる。陸軍はマレー半島やフィリピンを席巻した。続けてニューギニアのポートモレスビーを落とせばオーストラリアが視野に入り、連合軍の一角が崩れるだろう。
だが海軍は真珠湾で取り逃がした空母の行方を気にしていた。艦隊決戦を挑むべく、なけなしの燃料をさらいミッドウェイ攻略へと向かう。その頃、ハワイでは異様な風体の男たちが、奇妙な機械と数字を相手に頭を掻きむしっていた。
アメリカの海軍史家イアン・トールが、日米双方の丹念な取材に基づき、主に海軍を中心に描く、太平洋戦争の壮大なドキュメンタリー三部作の開幕編。
【構成は?】
基本的に時系列で進むので、素直に頭から読もう。
- 上巻
- 序章 海軍のバイブル
- 第一章 真珠湾は燃えているか
- 第二章 ドイツと日本の運命を決めた日
- 第三章 非合理の中の合理
- 第四章 ニミッツ着任
- 第五章 チャーチルは誘惑する
- 第六章 不意を打たれるのはお前だ
- ソースノート
- 下巻
- 第七章 ABDA司令部の崩壊
- 第八章 ドゥーリットル、奇跡の帝都攻撃
- 第九章 ハワイの秘密部隊
- 第十章 索敵の珊瑚海
- 第十一章 米軍は知っている
- 第十二章 決戦のミッドウェイ
- 終章 何が勝敗を分けたのか
- 謝辞/ソースノート/参考文献/訳者解説
【感想は?】
上巻にもあるように、日米両海軍を中心とした太平洋戦争のドキュメンタリーだ。
上巻では兵器や産業よりローズヴェルトや山本五十六などの人間に焦点をあてていた。下巻に入ると、海軍を中心としたことによる優れた特色が出てくる。
なにせ太平洋戦争は長く続き、また戦場の範囲も広い。そのため、全体の流れを掴むのが難しい。この巻では、東京空襲→珊瑚海海戦→ミッドウェイ海戦へと続く。東京空襲はともかく、なぜ珊瑚海やミッドウェイが戦場になったのか。
この本は、日米両海軍を視野の中心に据えることで、太平洋戦争全体を眺めながら、戦争の流れを大雑把に掴みやすくなった。その代償として陸軍の戦いはバッサリと割愛されてしまうが、初心者が太平洋戦争を大雑把に理解するには適した本になっている。
海軍中心の本としても、この本は異色の内容になっている。というのも、戦闘場面の大半が空母と艦載機に割かれているため。実際、中盤で描かれる珊瑚海海戦(→Wikipedia)と終盤のミッドウェイ海戦(→Wikipedia)ともに、戦いは艦載機vs空母で、戦艦・巡洋艦・駆逐艦はお互いほとんど敵艦の姿を見ていない。海での戦いは、全く様相が変わってしまった。
その空母、索敵と攻撃の範囲はやたらと広い反面、極めて打たれ弱い。
空母は一撃離脱の交戦に適した武器だった。艦自体はきわめて脆弱だったが、敵を発見して先に攻撃できれば、長距離から敵に強烈な打撃を与えることができた。(略)
「空母とは突進して、強打を浴びせ、姿を消すことができる武器だ」
――第十章 索敵の珊瑚海
こういった空母の性質を、ドゥーリットルの帝都攻撃や珊瑚海海戦を通して読者に紹介しながら、史上最大の空母同士の戦いミッドウェイへと導いてゆく。
ドューリットルの帝都攻撃(→Wikipedia)も陸海軍の仲が悪い当時の日本じゃ考えられない作戦で、陸軍航空隊が空母から飛び立とうってんだから無茶だ。おまけに陸上機にはただでさえ滑走距離が足りない空母発進だってのに、長距離飛行用の補助燃料タンクを機内のアチコチに追加して重量を増やしてる。下手に煙草も吸えない。
ここでは空母が向かい風に向かって全力で進むことで対気速度を稼ぎ、艦載機が離着艦しやすくなる性質を語り、珊瑚海海戦では索敵の難しさと魚雷の避け方を教えてくれる。
雷撃機としては、敵艦の真横から攻撃したい。そうすれば的が大きくなり当たりやすくなる。逆に艦が魚雷を避けるには、艦の向きを魚雷と同じまたは逆向きにすれば、的が小さくなって当たりにくい。艦のスピードが速いほど舵が効きやすいんで、機関全力で走りながら舵を回す。
すると自動車が猛スピードでカーブを曲がる時のように横向きの強いGがかかると共に、艦も傾く。んな状況で攻撃機に爆弾や魚雷を取り付ける整備兵も災難だ。
と、こんな風に、敵機の攻撃を受けている最中の空母は、艦の向きがコロコロ変わるんで、おちおち反撃用の戦闘機を離発着させることもできない。波状攻撃の怖い点がこれで、攻撃が続いている限り反撃もできないのだ。
などと空母の性質を読者にわからせたところでミッドウェイへと突入し、評判の悪い南雲提督の指揮を擁護してくれるから憎い。著者の結論としては「運が悪かった」。
ってな緊張の場面が続く本書の中で、異彩を放っているのが暗号解読を描く「第九章 ハワイの秘密部隊」。暗号じゃイギリスのブレッチリー・パークが有名だが、ジョセフ・ロシュフォート海軍中佐がハワイで率いた暗号解読部隊ステーション・ハイポも型破り。
「階級や上下関係はほとんど意味を持たなかった」「人の地位は階級以外の要素に左右された」。才能ある解読員のトマス・ダイアー少佐曰く「ここで働くのにイカれている必要はないが、そうだったらずいぶんと役に立つ!」 ったく、ハッカーって奴は、どいつもこいつもw 面白いのは、意外な才能と共通点があるらしいこと。
12月7日に戦闘不能になった戦艦カリフォルニアの軍楽隊全員が選抜されて、生の無線傍受から暗号群をIBMのパンチカードに移す作業に配属された。(略)楽団員たちは仕事を簡単におぼえたので、「音楽と暗号解読には心理学的な関連があるにちがいないという仮説が唱えられた」
などの変人に囲まれ苦労したにも関わらず、当時のロシュフォート中佐の評判は芳しくなかった。暗号解読なんて表沙汰にできない立場もあるが、米国内にも強力なライバルがいて…ってなスキャンダルも、容赦なく暴いてる。幸いにして今は…
2003年、ネット上の従軍経験者と歴史家のコミュニティである<ミッドウェイ海戦円卓会議>は、海戦で、“もっとも重要な戦闘員”一人の名を挙げるよう求められた。アンケートの結果は、ふさわしくニミッツとロシュフォートの引き分けとなった。ロシュフォートへの支持は、とくにミッドウェイ海戦の体験者のあいだで強かった。
――終章 何が勝敗を分けたのか
と、情報が公開されたためか、充分な評価を得ている模様。
海軍を中心としたためか、戦争全体の姿がわかりやすく浮かび上がる構成になっていると同時に、この書評では敢えて割愛したが、被害を受けた艦内の地獄絵図のエグさも半端ない。全体を見通しながらも現場の兵卒にまで目を配り、物語形式で初心者にはとっつきやすい優れた戦記ドキュメンタリーだ。
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