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2016年8月12日 (金)

篠田節子「夏の災厄」角川文庫

「何が、エイズだ。本当の疫病はあんなものではない。まず弱いものから死んでいく。はじめは、子供と年寄り。そのうち働き盛りの男や女、毎日毎日、どこかの家から白木の棺桶が運びだされる」

正確な知識を持っていて合理的判断のできる市民なんてものが、この町のどこにいるのだ。うろたえ、混乱した住民たちの対応をするのは、こちらだ。情報公開の原則を盾に、ひとりよがりの正義を振りかざすのもいいが、現場の迷惑も少しは考えてくれ。

【どんな本?】

 ホラー・ミステリ・SFなど多方面で活躍する篠田節子による、医療サスペンス長編小説。

 舞台は埼玉県昭川市、池袋まで特急で43分。かつては農林業中心の町だったが、近年は住宅開発が進み、現在の人口は約8万6千人に至る。

 1994年の4月、日によっては暑くなり蚊が出始める季節。保健センターや開業医に、妙な患者が増え始める。頭が痛く吐き気がすると訴え、熱がある。ペンライトなどの光を極端にまぶしく感じ、甘いにおいがすると言う。あちこちの診察室で熱中症や急性上気道炎など、様々な病気と診察された初期の患者は、恐ろしい惨劇の始まりだった。

 保健センターに勤める看護師や市の公務員など、地方行政の末端で働く者の視点で、医学的なツボはキチンと抑えつつも、人間臭い臨場感たっぷりに描く、パニック群像劇。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 1995年3月に毎日新聞社より単行本で刊行。1998年6月に文春文庫から文庫版が出る。これを加筆訂正した角川文庫版が2015年2月25日初版発行。文庫本で縦一段組み、本文約582頁に加え、海棠尊の解説「藤田節子は、激情を透徹した物語に封じ込める。」7頁。8.5ポイント39字×19行×582頁=約431,262字、400字詰め原稿用紙で約1,079枚。上下巻に分けてちょうどいいぐらいの大容量。

 文章はこなれている。内容も特に難しくない。敢えて言えば、菌による病気とウィルスによる病気の違いと、日本脳炎(→Wikipedia)ぐらいだが、いずれもお話を楽しむのに必要な所は作品内で説明してある。一般に菌は抗生物質が効くが、ウィルスには効かない。そのため、ウィルス性の病気は、予めワクチンを接種して防ぐのが最も効果が高い。

【感想は?】

 暑い季節に読むんじゃなかった。蚊が怖くなる。

 謎の疫病が、埼玉県の新興ベッドタウンで流行り始める、そういうお話だ。謎といっても、症状が日本脳炎(→Wikipedia)に似ているのがタチが悪い。

 突然のトラブルでも、かつて経験したトラブルに「似ていたら、昔の経験を生かして対応するだろうし、マニュアルに対処法が載っていたら、マニュアルに従って対処するだろう。人間は、そういう生き物だ。この作品の巧みなところは、謎の疫病の症状が、日本脳炎によく似ている点。

 かつて日本では日本脳炎が猛威を振るったが、ワクチンにより劇的に患者が減った。そのため若い医師は日本脳炎を診る機会が減り、経験を積む機会を失った。政府や行政はかつての成功があるので、同じ対処法を使おうとする。そして多くの国民は、日本脳炎の恐怖を忘れ、ワクチンの副作用だけに目が行く。

 これは多少の歴史がある現場で働く人なら、何度も経験している事だろう。たいていの現場には、素人から見ると、一見無駄手間に見えるアクションや工程がアチコチに入っている。鉄道の運転手や駅員が、発車の際、笑っちゃうぐらいオーバーなアクションでホームを確認したり。

 でも、アレはちゃんと意味があるのだ。わざとオーバーに手足を動かし、確認を徹底して、僅かでもミスが起きる可能性をなくしている。

 ただ、人間ってのは、起きた問題は印象に残るけど、巧く予防できたため起きなかった問題には気づかない。防げた列車事故は気づかないけど、駅員の変なアクションは目につく。そのため、「なんか特撮アクションみたいな事やってんなあ」などと、遊んでるみたいに感じてしまう。

 この作品で踊る駅員の役割を果たすのは、まずワクチンだ。ワクチンのお陰でインフルエンザの被害が出ずに済んでいるが、肝心の被害が目に見えないため、副作用の害ばかりが目に付く。だが、かつてのスペイン風邪(→Wikipedia)は、第一次世界大戦より多くの人間を殺した(「史上最悪のインフルエンザ」)。

 この問題は、ワクチンなしだと何人が死んで、ありだと何人が死ぬか、と計算すれば答えは出るんだが、そういう理屈通りにいかないのが世の中ってもんで。

「病気で死ぬのは、この際市民の責任だが、副反応で死んだら行政の責任なんだよ」

 ということで、この作品でスポットを浴びるのが、小役人。

 小西誠、20代の地方公務員。正職員ではあるが、コネがないためか出先の保健センターに回され、パートのおばさんたちに小突き回される毎日。立場としちゃおばさんより上の筈だが、現場の経験はおばさんたちの方が遥かに豊かだし、数でも負けてる。わはは。最近じゃ民間企業でもありがちだよね。

 この小西、若いわりに熱血でもなく、とことん小役人なのがいい。といってもチンケな権力を振りかざしてデカいツラするわけではなく、その場その場で丸く収めようとする今風の若者。上司にはドヤされ、パートのおばさんには突き上げをくらい、住民からは苦情の嵐。けっこう悲惨な立場なんだが、どうにも同情できないのは、やっぱり小役人根性のせいかw

 そんな小西を突き上げるおばさんが、看護師の堂本房代。亭主の定年退職に伴い現役復帰した、ベテラン看護師だ。だいたい看護師ってのは豪快な人が多く、特にベテランは肝が据わってる。彼女も御多分に漏れず大胆な行動力と強引な統率力で小西をひきまわし、かと思えばベテランらしい細やかな気遣いも披露する。

 一種の医療サスペンスだが、この作品の特徴は、主な視点が医師ではなく、現場の小役人と看護師である点。疫病の正体や感染経路など、医学・疫学的なネタもキチンと書いているものの、描写の多くは、その対応に追われる役所や、医療の現場で働く看護師に費やされる。

 実際、日本で感染症が流行ったら、ワクチンや医師や会場の手配など、小役人の仕事は山ほどある。民間企業で働く者にとって役人は煙たい奴らだし、住民の目で見れば融通の利かない頭の固い連中だが、イザって時には頑張ってもらわにゃ困る人だったり。

 マニュアル化って点じゃお役所は相当に進んでいるようで、小西が四角四面な書類仕事に右往左往する場面は「ざまあw」とか思いつつも、お偉方のハンコを貰うためだけに駆けずり回る所では、ちょっと同情しちゃったり。いるんだよね、とにかく一言ケチつけないと収まらないジジィって。

 など行政の事情を語る小西と堂本に対し、民間を代弁するのが岡島薬品の御用聞き、森沢。御用聞きったって、馬鹿にしちゃいけない。営業としての図々しさも大したもんだが、医学や薬剤の知識も相当なもの。あまし印象のいいキャラじゃないけど、IT系の技術者は「ウチの営業もこれぐらい専門知識があれば…」と羨ましく思うだろう。

 彼が語る製薬会社のワクチン製造・販売の事情も、なかなか難しい。一般に薬は異様に原価率が低くて、単にそこだけ見るとボロ儲けみたく思えるけど、それなりに事情はあるらしい。「新薬誕生」によると、新薬の開発費がバカ高い上に打率が低いので、そうしないと採算が採れないとか。しかもワクチンには別の事情もあって…

 などの他、素人から見た「専門家」の鼻持ちならない部分も体現してたり。

「業界じゃだれだって知ってますよ。別に価値ある情報でもないから、大騒ぎしないだけで」

 こういうのも、何らかの業界に長く勤めて経験を積んだ人なら、何回か経験してるはず。最初は驚くけど、次第に慣れて自分の中ではソレが常識になっちゃう。そこで世間が騒ぐと、「何を今さら」とか思ったり。

 加えて、パニック発生時の住民の対応が、これまた実に嫌な感じにリアルなのがたまんない。新興住宅地だけあって、古くからの住民と新しい住民の軋轢があったり、商売によって流行り廃りがあったり、噂に尾ひれがついて収集がつかなくなったり。噂に関しちゃ、今はネットがある分、余計にタチが悪くなってるなあ。

 などと、「あるある」と身につまされる場面もあれば、「そうだったのか」と小役人に同情する場面もあり、また役所の階級感覚にムカついたりと、読み手の気分は頁をめくるたびに揺さぶられる優れた娯楽作ながら、民間療法の問題点など社会問題もドッサリ盛り込んだ、ゴージャスな作品だった。

 でもやっぱり、夏に読むのはお勧めしない。マジで蚊が怖くなり、引きこもりがちになりそう。

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