ポール・キンステッド「チーズと文明」築地書館 和田佐規子訳
本書の第一の目標はチーズの科学と技術を、チーズの歴史を解釈する中で捉えなおして、どんな下界の変化がきっかけとなって、それぞれのチーズが生み出されてきたのかを理解することにある。
(略)
本書の第二の目的はチーズの歴史と、より大きな<物語>である西洋文明史が交差する数々の地点を検証することにある。
(略)
本書の最後の目的はチーズの歴史を一つのレンズとして、そこからアメリカとヨーロッパの食文化の不一致の道筋をながめ、激しく対立する今日の食に関するそれぞれの制度の是非を考察することにある。
――はじめに
【どんな本?】
モッツェレラ,パルメザン,チェダー。世の中には色々なチーズがある。日本人に馴染みなのは柔らかいチーズだが、下ろし金ですりおろす硬いチーズもあるし、厚い皮にくるまれたチーズもあるし、スパイスを混ぜたチーズもある。味も色も形も様々だ。
なぜこんなに様々なチーズができあがったのか。それぞれのチーズには、それぞれの歴史と成立事情があった。それは気温や湿度などの気候、塩の入手や搾り機など技術的な発展、交通の便や原材料の制限など地理的な事情、税制や農制など制度的な原因が複雑に絡み合っていた。
人類の農耕や酪農の始まりからチーズの起源、地中海周辺の国際的な貿易から西欧の勃興、そして現代における米国とEUの対立の原因となっている自由貿易協定と原産地名称保護まで、歴史の流れに伴い時には変化し時には伝統を守り、枝分かれを繰り返しながら発展してきたチーズの足跡を欧米中心に描く、美味しい歴史書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は CHEESE and CULTURE : A History of Cheese and Its Place in Western Civilization, by Paul S. Kindstedt, 2012。日本語版は2013年6月10日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約303頁に加え、訳者あとがき6頁。9ポイント46字×18行×303頁=約250,884字、400字詰め原稿用紙で約628枚。文庫本ならやや厚めの一冊分。
文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。当然ながら、様々なチーズを知っている人ほど楽しめる。また、序盤では聖書を引用してたり、中盤では教会が大きな役割を果たしているので、キリスト教に詳しいと、更に楽しめる。ただし、体重が気になる人は夜更けに読まない方がいい。
【構成は?】
穏やかに時系列に沿って進むが、各章は比較的に独立しているので、美味しそうな所だけを拾い読みしてもいい。
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【感想は?】
ひとことでチーズとっても、実に色々あるんだなあ。
私が思い浮かべるチーズは柔らかいプロセスチーズと、ピザに乗っているモッツェレラチーズぐらいだが、そんなものはごく一部なのだった。
この本に出てくるチーズは西欧が中心で、前半に少し東地中海周辺の話が出てくるぐらいだ。それでも、サイズが小さい物から大きいもの、新鮮なものと熟成したもの、皮があるものとないもの、しょっぱいものと酸っぱいもの、羊のものと牛のものなど、食べる立場でもバリエーションは様々だ。
加えて、製法も、加熱するものとしないもの、レンネットを使うものと使わないもの、圧搾が強いものと弱いもの、夏に造るものと冬に造るものなど、眩暈がするほど多くの種類がある。そして、それぞれの製法について、ちゃんとそうなった理由がある。
第1章で、いきなりチーズの起源神話を覆してくれる。神話はこうだ。
旅人がヤギか羊の胃で作った水筒に、新鮮なミルクを入れて旅に出た。ところがイザ飲もうとしたら、ミルクは固まっていた。胃が含むレンネット(→Wikipedia)が、ミルクをチーズに変えてしてしまった。
だが、これはおかしい、と著者は異議を出す。というのも。
そもそも、旅人がミルクを持って旅に出る事がおかしい。日本人にはミルクを飲むと腹を下す人が多い。これは遺伝的なもので、ミルクの中のラクトース(乳糖、→Wikipedia)を分解できないためだ(→Wikipedia)。一般に哺乳類の子どもは乳糖を分解できるが、成長するとできなくなる。これはヒトも昔は同じで、新石器時代人の多くは耐性を持たなかった。
わざわざ腹を下すような飲み物を持って旅に出ないだろう。だが、新石器時代には、既に乳製品の製造が始まっていた。耐性を得るより前に、ヒトはチーズを作っていたらしい。紀元前七千年ごろの話だ。ちなみに、当時のチーズは羊かヤギの乳が原料である。
などと、この本には科学的な知見がふんだんに盛り込まれているのも、最近の歴史書らしく斬新な味わいがある。
だけでなく、キワモノ好きにも嬉しいネタが盛り込んであった。
舞台はメソポタミアのウルク(→Wikipedia)に移る。ここの女神イナンナ(→Wikipedia)にはチーズとバターもささげられた。イナンナはあまり聞いたことがなかったが、彼女はイシュタールになりアスタルテを経てアフロディーテとヴィーナスになり…へ? アスタルテ? なんか聞いたことがある…と思ったら、やっぱり(→Wikipedia)。酷いことするなあ。
かと思うと、ちと笑っちゃうネタもあったり。
厳しい教育で有名なギリシャはスパルタの話。若者の食事は質素で、とても足らない。そこで、彼らには盗みが許されていた、というか、奨励すらされていた。これは優れた兵士になる訓練の一環なのだ。主な獲物はアルテミスの神殿に捧げられたチーズで、少年たちは記録を巡り熱く競争を繰り広げる。
奨励されたとはいえ、捕まったら少年は厳しく鞭うたれた。ただし、これは盗んだからではない。盗みに成功したら、感心だと褒められるのだ。捕まるほど間抜けでトロい事がイカん、というわけ。戦場じゃはしっこくないと困るし、敵陣に忍び込んで破壊工作できるなら頼もしいから、理屈はあってるけどさあw
舞台がローマに移り西欧へと向かう中盤以降では、資料も充実してきて、製品の詳細や細かい製法も見えてくる。ここでは、税制や消費地との関係もチーズの種類に影響を与えてきたり。
例えば、チーズの大きさだ。私たち日本人が目にするのは、小さく柔らかいチーズが多い。水分を多く含む新鮮なチーズだ。あまり長く放置するとカビが生えたりウジが沸いたりする。輸送機関や冷蔵技術の発達した現代ならいいが、自動車も冷蔵庫もない時代には、貿易に向かない。
小さいチーズは乾きやすく、腐りにくい。または車輪のように薄くしてもいい。だが、中には枕みたいに大きいチーズもある。大きいチーズは乾きにくいから、腐りやすい。が、輸送はしやすいので、巧く作れば貿易に向く。そこで、人は様々な工夫を凝らす。
加熱して水分をトバす。圧搾してホェイ(→Wikipedia)を絞り出す。塩を入れて水分を吸収させる。予め小さいチーズを作って乾かし、塩を混ぜた上で再び圧搾し固める。
などといった製法上の工夫もあるが、原材料であるミルクの調達も重要な要素だ。当然ながら大きなチーズは沢山のミルクを使う。牛を数頭しか飼えない小農では作れない。村の牛をまとめて預かる牧夫が造るスイス・ドイツ・オーストリアの山岳チーズや、豊かな修道院が造るグラナチーズなどが生まれてゆく。
ここでも、塩の入手が難しい山岳チーズは塩分が少なく、貿易の要所で塩が手に入りやすいグラナは塩分多めなど、お国事情がチーズのバリエーションを増やしてゆく。
やがて舞台はイギリスやフランドルを通って新大陸へと渡り、お家芸の工業化へと突き進む。最初はイギリス系が多かった植民者も、やがてドイツやフランスなど国際色豊かになり、同時にアメリカのチーズも種類が増えてくるが、大規模大量生産の安いチーズに伝統的チーズは押し流され
…てはいないのが、チーズの面白いところ。EUでは原産地名称保護の動きが国策として進められ、アメリカでもアメリカチーズ協会が伝統的な製法を保とうと立ち上がった。当然ながら職人が作るチーズは高くつく。そもそもチーズは貴族や金持ち向けの贅沢品だった。とまれ、値が張っても美味しいモンが食べたいって人は現代でも多い。
などと、考古学・冶金史・神話・宗教史・科学・気候・経済史・農業史など、多岐にわたる内容を含みながら、美味しいチーズの由来と秘密を解き明かす、お腹がすく本だった。
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