オリヴァー・サックス「レナードの朝」ハヤカワ文庫NF 春日井晶子訳
本書の主題は、特異な症状を来たした患者たちの人生と、彼らが見せた反応であり、そこから医学と科学がなにを学ぶべきかということである。(略)彼らの人生と反応は医学界で前例のないものであり、それを詳しく症例あるいは伝記の形で紹介することが本書の軸となっている。
――前書き(初版)「先生の目でご覧になれるような平凡な症状はいろいろあります。でも、一番大変なのは、なにかを始めたり終わらせたりできないことなんです。無理やりじっとさせられているか、無理やりスピードを速めさせられるかのどちらかなんですよ。その中間の状態は、もう存在しないみたいです」
――症例1 フランシス・D「この薬のせいで頭がおかしくなってしまいますけど」と彼女は言う。「やめたら死んでしまいますもの」
――症例9 マーガレット・A「パーキンソン症候群の患者は、錯覚に苦しむものなんだよ!」
――付録5 パーキンソン症候群の空間と時間
【どんな本?】
第一次世界大戦直後、嗜眠性脳炎が大流行した。一部の罹患者は様々な潜伏期間を経て、パーキンソン病(→Wikipedia)に似た症状を示す(パーキンソン症候群、→Wikipedia)。マウント・カーメル病院は、特に重篤な状態に陥った患者が多く長期入院していた。
1969年、画期的な新薬 L-DOPA(→Wikipedia)が登場した。これにより、今まで時間が止まってたかのようなパーキンソン症候群の長期入院患者たちが「目覚め」る。だが、その目覚め方は、患者ごと・治療回数ごとに全く異なり、これまでの医学や科学の常識が全く通用しないものだった。
急激に回復したかと思えば、様々な発作を起こす。そこで投与を止めると元に戻るが、再度投与を始めると、以前とは違った容量で違った発作が起きる。一定容量までは全く反応しないのに、ある量を超えると奇跡的なまでの回復をしめす。次第に容量を減らしても反応は変わらず、どころか困った作用が急激に増えてゆく。
投与量と症状の関係が、単純な比例関係では表せないどころか、常に予測不能な反応になるのだ。
何度もの調整を経て、L-DOPA と巧く折り合いをつけた者もいれば、服用をあきらめた者もいる。薬の副作用を受け入れ、折り合いをつける方法を見つけた者もいる。
病に苦しみ、時には屈服し、時には克服し、時には折り合いをつけた、様々な人々の症例と生きざまを描き、後に舞台やラジオドラマとなり、更には「レナードの朝」として映画化された、話題の医学ノンフィクション。
なお、新版では、舞台化・ドラマ化・映画化についてのコメントも追加されている。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は AWAKENING, by Oliver Sacks, 1973, 1976. 1982, 1983. 1987, 1990。日本語版は2000年4月ハヤカワ文庫NFより刊行、のち解説をつけて2015年4月15日発行。文庫本で縦一段組み、本文と付録で約610頁に加え、訳者あとがき3頁+中野信子の解説6頁。9ポイント41字×19行×610頁=約475,190字、400字詰め原稿用紙で約1,188枚。上下巻に分けた方が相応しい大容量。
文章は比較的にこなれている。医学物で専門用語も頻繁に出てくるが、末尾に用語集がついているので、特に前提知識は要らないだろう。敢えて言えば、パーキンソン病とパーキンソン症候群について知っていた方がいい。俳優マイケル・J・フォックスやボクサーのモハメド・アリが有名。
ただ、この著作は、異様に註が多く、かつ長い。本文のリズムを大事にして、後で註をまとめて読んでもいいと思う。註は各章の末尾についているので、本文と同時に読み進めたい人は、複数の栞を用意しよう。
【構成は?】
中心となるのは「第2部 目覚め」。ここはそれぞれの症例が独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。
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【感想は?】
発表当初は医学雑誌から総スカンを食らったそうだ。さもありなん。
なんたって、薬の投与の結果が全く予想できないんだから。私たちは、薬について、普通こう考える。「投与量を増やせば、効果も大きくなるが、副作用も大きくなる。だから最初はごく僅かから始めて、少しづつ増やそう。副作用が強すぎたら、減らせばいい」。
そうやって量を調整し、最もバランスの取れる量を見つけ出していこう。途中であまりに副作用が強すぎたら、いったん止める。暫く時間をおいて、また少しづつ投与していこう。
この常識が、L-DOPA の場合、全く通用しないのだ。最初のフランシス・Dは、多すぎると呼吸発作を起こし、少な過ぎると眼球回転発作を起こす。中間だと、両方の発作を起こす。
こういった「適量が見つからない」ばかりでなく、中断して再投与を始める度に異なった反応を示す人も多い。反応は、人それぞれなのだ。プログラムでいえば、「再現性のないバグ」みたいなものだろう。そりゃ納得いかないよなあ。
薬の効果が人により異なるばかりでなく、効果への対応も人それぞれだ。この本が単なる医学論文と大きく違うのも、この点だろう。症状や薬の反応への対応の仕方に、それぞれの人が歩んできた人生が強く反映している。
書名にもなり、映画にもなった「症例20 レナード・L」が有名だが、最も私の印象に残っているのは、「症例10 マイロン・V」。
靴修理職人として働いて自分の店を持つまでに至る。奥さん曰く「なによりも仕事が好きでした」。ところがパーキンソン症状が重くなり、「世の中の全ても嫌うようになってしまいました。きっと、自分のことだって嫌っていたんでしょうね」。腕のいい働き者の職人が、仕事を取り上げられて腐っちゃったわけだ。
そこに L-DOPA がやってくる。無口で無表情、椅子に座ったまま動かず、ときおりチック(→Wikipedia)を示すだけ。L-DOPA 投与の是非を聞いても、「どっちでもいいよ」と投げやりな答え。
ところが投与を始めると、「過度に衝動的で活発で、軽躁病的であり、挑発的であつかましく、淫らでもあった」と目覚ましい回復を示すと同時に、チックも増える。もともと手先が器用な職人なので、「病棟でもとても役立つ働きをするようになった」。最大の転機は、工房に靴修理の道具が揃った時。マイロンおじさんは張り切って仕事に精出しはじめる。
「また人間になった気分だよ。自分がこの世の中に存在する理由や場所が見つかったような気がするんだ……。それなしじゃ、生きていられないものなんだよ」
マイロンおじさんにとって、最良の特効薬は仕事、というか、「自分は世の役にたっている」という実感だったんだろう。人間ってのは、何かをせずにはいられないんだなあ。
逆の意味で印象的なのが、症例3 ローズ・R。豊かな家の末娘として生まれ、家族に愛されて育つ。高校を卒業してからは、旅行とパーティ三昧。ええとこの遊び好きなお嬢様だね。ところが1926年、御年21歳の時に想い嗜眠性脳炎となり、最終的にマウント・カーメル病院に入院する。以来、40年以上も彼女の人生は凍り付いてしまう。
著者は迷った挙句に L-DOPA を投与する。思った通り、予測不能な発作が続くが、なんとか彼女は現実に復帰する。家族も彼女を頻繁に見舞う。
そんなとき、彼女はうきうきして、それまで仮面のようだった顔には笑顔が弾ける。彼女は家族のゴシップが大好きだが、政治的なことや現在の「ニュース」にはまったく興味を示さない。
1926年に発症し、彼女の時は止まった。再び目覚めたのは1969年だが、ローズはこの現実を拒み、今も1926年に21歳のまま生きている。陽気で頭の回転も速く、辛辣なユーモアのセンスも持つローズだが、50年近い時を失った事実からは眼を背け続けている。
症状との付き合い方も人それぞれ。感心しちゃうのが、症例7 ミリアム・H。生後半年で孤児となった彼女の生涯は悲惨極まりないが、発作への対応は彼女の本質的な賢さとしなやかさを伺わせる。だいたい週に一度、水曜日に眼球回転発作が起きる。が、これは「多少の融通をきかせることができた」。
発作が定期的なんで、医学生に実地観察させるのにちょうどいい。そこで水曜日が観察の日となったんだが…
あるときミリアムに、学生たちは水曜日ではなく木曜日に来ることになったと伝えると、彼女は言った。「そうですか。じゃあ木曜日に延ばしましょう」そして、実際にそうなった。
ここまで見事に症状と巧く付き合える人も珍しい。人間、歳を取れば体に色々と不調が出てくるもんだが、彼女みたく巧く付き合えるといいなあ。
パーキンソン症候群の複雑怪奇な症状、L-DOPA の予測不能な効果、その動作メカニズムなど、科学的・医学的な面も面白かったし、終盤に出てくるデザイナーズ・ドラッグの惨劇は実に怖かった。が、それ以上に、病気に立ち向かう姿勢が人それぞれで、またそれぞれの人生や環境を反映しているのに感心する。
それと。ロバート・デ・ニーロの役者魂も凄いなあ。
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