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2016年7月の14件の記事

2016年7月29日 (金)

A・G・リドル「アトランティス・ジーン2 人類再生戦線 上・下」ハヤカワ文庫SF 友廣純訳

「世の中でいちばん成功しているのは、何かに夢中になっている人ばかりよ」

〝我々の軍隊のために”

「人生には、死よりもはるかに忌まわしきものがある――誇りをもてない人生を生きることだ」

〝我々はどこから来たのか? 我々は何者なのか? 誰が我々を創ったのか? 我々が存在する意味は何なのか?”

【どんな本?】

 個人出版から火が付いた、アメリカの新鋭作家による娯楽アクション伝奇SF長編小説三部作の第二幕。

 南極の氷山から見つかったナチス・ドイツの潜水艦と、ジャカルタで誘拐された二人の天才自閉症児に始まった事変は、世界の人類すべてを巻き込む最悪の事態へと陥ってゆく。アトランティス人の目的は何か。彼らは人類に何をしたのか。圧倒的な科学力を持つ彼らに、人類は抗しえるのか。

 人類史上のミッシングリング,世界各地に残る神話や伝説,歴史上の自然および社会の大異変などの謎に、最新科学の話題をふんだんに盛り込み、ノンストップのアクションで描く、痛快娯楽SF小説。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Atlantis Plague, by A. G. Riddle, 2013。日本語版は2016年7月15日発行。文庫本上下巻で縦一段組み、本文約324頁+302頁=626頁に加え、著者あとがき2頁+古山祐樹の解説5頁。9ポイント40字×17行×(324頁+302頁)=約425,680字、400字詰め原稿用紙で約1,065枚。標準的な上下巻の分量。

 文章はこなれている。内容も特に難しくない。第一部はナチの潜水艦やロズウェルなど比較的に有名なネタが多かったが、今回はマルタ騎士団などややマニアックなネタもあるので、詳しい人ほど楽しめるだろう。もちろん、知らなくても、ジェットコースターなアクションとストーリーで充分に楽しめる。

 また、このパートの舞台が地中海周辺なので、その辺の地図があると、更に楽しめる。なお、お話は第一部の終わりから素直に続いているので、読むなら「第二進化」から続けて読もう。

【どんな話?】

 ドリアンの計画通り、疫病は世界中に広がり、人々は次々と倒れてゆく。幸いにも新薬オーキッドにより症状の進行は抑えられるものの、根本的な治療には至らず、また製造も追いつかない上に、次第に効果も薄れてゆく。軍すら正常に機能しなくなっているスキに、秘密組織イマリがついに姿を現し、南半球から世界を制圧しはじめる。

 目覚めたケイトとディヴィッドは、それぞれにイマリの計画を押しとどめようとするが…

【感想は?】

 ネタはややマニアックになったものの、相変わらず語り口はケレン味たっぷり。

 派手なアクションと気がかりな謎、そしてあっと驚くドンデン返し満載で読者を引っ張っていく、サービス満点の娯楽作品だ。多少、盛り付けがラフな面はあるものの、素材の目利きと裁き方は見事。

 なんといっても、ブチ込んだネタの量が半端ない。それも、第一部で使ったナチスの潜水艦やロズウェルなど、扱い方を間違えばソッチに陥りかねないアブないネタを、最新科学のトピックを巧く盛り込んで、ギリギリの所でSFに留まっているのがスリリングで楽しい。

 こういった微妙な危なっかしさはこの巻でも健在で、相変わらず怖いもの知らずのハッチャケぶりを見せてくれる。第一部でほのめかされたスペイン風邪(→Wikipedia)もそうだが、今回も大洪水伝説や使徒パウロ(→Wikipedia)、そしてマルタ騎士団(→Wikipedia)など、扱い方によっては大炎上しかねないネタがわんさか。

 これは伝奇やオカルト系に限らず、科学でも微妙に危なっかしいようで、実はソレナリに(娯楽作品としては)理屈があってるから楽しい。

 例えば上巻の表紙にある、巨大な銃または砲。形は銃みたいだけど、サイズは砲みたいだ。なぜ大きな砲が銃みたいな形なのかというと、これがチャンと意味があるのですね。

 最近の戦争は機動戦ばかりで、砦を巡る攻防なんて滅多にないから、地上に据え付けた巨砲なんぞというシロモノはとんとご無沙汰してるし、現在開発中のブツもソレナリの機動力を持たせる前提で考えてるけど、その性質を考えると、確かに固定して使う砦の守りには格好の兵器だわ。

 砦の規模を考えると、ちとオーバースペックすぎる気もするが、これも読者サービスの一環と考えれば、確かにアレが火を噴く場面は燃えたから許すw やたら大げさな割に連発が効かないあたりも、実用上は問題だけど、ドラマのガジェットとしては、カウントダウンの場面が盛り上がるし。

 若い著者だけあって「ゼルダの伝説」なんてネタも使っちゃいるが、同時に「洞窟の女王」なんて年寄りを喜ばせるネタも盛り込んでたりするから油断できない。笑っちゃったのが、連立するピカピカのビルを、空中通度が結んでるなんて場面。変な日本語だけど、これぞ「懐かしい未来」。いったい何歳なんだ、この著者。

 でも、考えてみたら、「ズラリと並ぶ透明なチューブの中で冷凍睡眠してるエイリアン」なんて場面も、懐かしのB級SF映画の香りプンプンだゆなあ。そういう、胡散臭いB級SFのフレイバーをタップリ残しつつ、最新の科学で理屈をつけたのが、この作品ならではの魅力なんだろう。なにせ、そういう場面が出てくるだけで、私みたいなオジサンは喜んじゃうし。

 そして、今回も大暴れしてくれるのが、「順調に悪化してる」敵役のドリアン・スローン。

 組織の幹部なんだから椅子に座ってドッシリ構えてりゃいいものを、騒ぎ立てる兵士の血を抑えきれないのか、このパートでも海で陸で空で大暴れ。コイツさえいなけりゃデヴィッド&ケイトも少しは休めるのに、相変わらず無限大の行動力と無限小の忍耐力で、部下の尻を叩きまくり縦横無尽に駆け巡る。

 どこぞのブラック企業の社長よろしく無茶ぶりで部下を振り回す暴走野郎っぷりは変わらないものの、意外な変化を見せるあたりも、このパートの読みどころ。良くも悪くも戦場の人なんだよなあ。普段は悪い所ばっかりが目立つけどw

 殺人ベル,奇妙な蘇り,ミロの旅など、第一部で示された様々な謎に解を示しつつも、更に多くの謎と、より大きな危機と物語のスケール・アップを予感させつつ、第三部へとつなげてゆく。

 懐かしいB級SFの素材を、最新の科学・考古学そして歴史学のトピックで鮮やかに現代に蘇らせた、痛快娯楽大作。著者の騙りの波に乗って楽しもう。

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2016年7月27日 (水)

オリヴァー・サックス「レナードの朝」ハヤカワ文庫NF 春日井晶子訳

 本書の主題は、特異な症状を来たした患者たちの人生と、彼らが見せた反応であり、そこから医学と科学がなにを学ぶべきかということである。(略)彼らの人生と反応は医学界で前例のないものであり、それを詳しく症例あるいは伝記の形で紹介することが本書の軸となっている。
  ――前書き(初版)

「先生の目でご覧になれるような平凡な症状はいろいろあります。でも、一番大変なのは、なにかを始めたり終わらせたりできないことなんです。無理やりじっとさせられているか、無理やりスピードを速めさせられるかのどちらかなんですよ。その中間の状態は、もう存在しないみたいです」
  ――症例1 フランシス・D

「この薬のせいで頭がおかしくなってしまいますけど」と彼女は言う。「やめたら死んでしまいますもの」
  ――症例9 マーガレット・A

「パーキンソン症候群の患者は、錯覚に苦しむものなんだよ!」
  ――付録5 パーキンソン症候群の空間と時間

【どんな本?】

 第一次世界大戦直後、嗜眠性脳炎が大流行した。一部の罹患者は様々な潜伏期間を経て、パーキンソン病(→Wikipedia)に似た症状を示す(パーキンソン症候群、→Wikipedia)。マウント・カーメル病院は、特に重篤な状態に陥った患者が多く長期入院していた。

 1969年、画期的な新薬 L-DOPA(→Wikipedia)が登場した。これにより、今まで時間が止まってたかのようなパーキンソン症候群の長期入院患者たちが「目覚め」る。だが、その目覚め方は、患者ごと・治療回数ごとに全く異なり、これまでの医学や科学の常識が全く通用しないものだった。

 急激に回復したかと思えば、様々な発作を起こす。そこで投与を止めると元に戻るが、再度投与を始めると、以前とは違った容量で違った発作が起きる。一定容量までは全く反応しないのに、ある量を超えると奇跡的なまでの回復をしめす。次第に容量を減らしても反応は変わらず、どころか困った作用が急激に増えてゆく。

 投与量と症状の関係が、単純な比例関係では表せないどころか、常に予測不能な反応になるのだ。

 何度もの調整を経て、L-DOPA と巧く折り合いをつけた者もいれば、服用をあきらめた者もいる。薬の副作用を受け入れ、折り合いをつける方法を見つけた者もいる。

 病に苦しみ、時には屈服し、時には克服し、時には折り合いをつけた、様々な人々の症例と生きざまを描き、後に舞台やラジオドラマとなり、更には「レナードの朝」として映画化された、話題の医学ノンフィクション。

 なお、新版では、舞台化・ドラマ化・映画化についてのコメントも追加されている。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は AWAKENING, by Oliver Sacks, 1973, 1976. 1982, 1983. 1987, 1990。日本語版は2000年4月ハヤカワ文庫NFより刊行、のち解説をつけて2015年4月15日発行。文庫本で縦一段組み、本文と付録で約610頁に加え、訳者あとがき3頁+中野信子の解説6頁。9ポイント41字×19行×610頁=約475,190字、400字詰め原稿用紙で約1,188枚。上下巻に分けた方が相応しい大容量。

 文章は比較的にこなれている。医学物で専門用語も頻繁に出てくるが、末尾に用語集がついているので、特に前提知識は要らないだろう。敢えて言えば、パーキンソン病とパーキンソン症候群について知っていた方がいい。俳優マイケル・J・フォックスやボクサーのモハメド・アリが有名。

 ただ、この著作は、異様に註が多く、かつ長い。本文のリズムを大事にして、後で註をまとめて読んでもいいと思う。註は各章の末尾についているので、本文と同時に読み進めたい人は、複数の栞を用意しよう。

【構成は?】

 中心となるのは「第2部 目覚め」。ここはそれぞれの症例が独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

  • 謝辞
  • 前書き(初版)
  • 前書き(1990年版)
  • 序文(1990年版)
  • 第1部 プロローグ
    • パーキンソン病とパーキンソン症候群
    • 嗜眠性脳炎(眠り病)について
    • 嗜眠性脳炎の経過(1927年~1967年)
    • マウント・カーメル病院の生活
    • L-DOPAの開発
  • 第2部 目覚め
    • 症例1 フランシス・D
    • 症例2 マグダ・B
    • 症例3 ローズ・R
    • 症例4 ロバート・O
    • 症例5 ヘスター・Y
    • 症例6 ロランド・P
    • 症例7 ミリアム・H
    • 症例8 ルーシーK
    • 症例9 マーガレット・A
    • 症例10 マイロン・V
    • 症例11 ガーティ・C
    • 症例12 マーサ・N
    • 症例13 アイダ・T
    • 症例14 フランク・D
    • 症例15 マリア・G
    • 症例16 レイチェル・I
    • 症例17 アイーロン・E
    • 症例18 ジョージ・W
    • 症例19 セシル・M
    • 症例20 レナード・L
  • 第3部 展望
    • 展望
    • 目覚め
    • 試練
    • 順応
    • エピローグ(1982)
    • あとがき(1990)
  • 付録
    • 付録1 嗜眠性脳炎の歴史
    • 付録2 奇跡の薬 ジークムント・フロイト、ウィリアム・ジェイムズ、ハブロック・エリス
    • 付録3 目覚めの脳波的基礎
    • 付録4 L-DOPA以後
    • 付録5 パーキンソン症候群の空間と時間
    • 付録6 カオスと目覚め
    • 付録7 『レナードの朝』の演劇と映画
  • 用語解説/訳者あとがき/解説 中野信子/参考文献

【感想は?】

 発表当初は医学雑誌から総スカンを食らったそうだ。さもありなん。

 なんたって、薬の投与の結果が全く予想できないんだから。私たちは、薬について、普通こう考える。「投与量を増やせば、効果も大きくなるが、副作用も大きくなる。だから最初はごく僅かから始めて、少しづつ増やそう。副作用が強すぎたら、減らせばいい」。

 そうやって量を調整し、最もバランスの取れる量を見つけ出していこう。途中であまりに副作用が強すぎたら、いったん止める。暫く時間をおいて、また少しづつ投与していこう。

 この常識が、L-DOPA の場合、全く通用しないのだ。最初のフランシス・Dは、多すぎると呼吸発作を起こし、少な過ぎると眼球回転発作を起こす。中間だと、両方の発作を起こす。

 こういった「適量が見つからない」ばかりでなく、中断して再投与を始める度に異なった反応を示す人も多い。反応は、人それぞれなのだ。プログラムでいえば、「再現性のないバグ」みたいなものだろう。そりゃ納得いかないよなあ。

 薬の効果が人により異なるばかりでなく、効果への対応も人それぞれだ。この本が単なる医学論文と大きく違うのも、この点だろう。症状や薬の反応への対応の仕方に、それぞれの人が歩んできた人生が強く反映している。

 書名にもなり、映画にもなった「症例20 レナード・L」が有名だが、最も私の印象に残っているのは、「症例10 マイロン・V」。

 靴修理職人として働いて自分の店を持つまでに至る。奥さん曰く「なによりも仕事が好きでした」。ところがパーキンソン症状が重くなり、「世の中の全ても嫌うようになってしまいました。きっと、自分のことだって嫌っていたんでしょうね」。腕のいい働き者の職人が、仕事を取り上げられて腐っちゃったわけだ。

 そこに L-DOPA がやってくる。無口で無表情、椅子に座ったまま動かず、ときおりチック(→Wikipedia)を示すだけ。L-DOPA 投与の是非を聞いても、「どっちでもいいよ」と投げやりな答え。

 ところが投与を始めると、「過度に衝動的で活発で、軽躁病的であり、挑発的であつかましく、淫らでもあった」と目覚ましい回復を示すと同時に、チックも増える。もともと手先が器用な職人なので、「病棟でもとても役立つ働きをするようになった」。最大の転機は、工房に靴修理の道具が揃った時。マイロンおじさんは張り切って仕事に精出しはじめる。

「また人間になった気分だよ。自分がこの世の中に存在する理由や場所が見つかったような気がするんだ……。それなしじゃ、生きていられないものなんだよ」

 マイロンおじさんにとって、最良の特効薬は仕事、というか、「自分は世の役にたっている」という実感だったんだろう。人間ってのは、何かをせずにはいられないんだなあ。

 逆の意味で印象的なのが、症例3 ローズ・R。豊かな家の末娘として生まれ、家族に愛されて育つ。高校を卒業してからは、旅行とパーティ三昧。ええとこの遊び好きなお嬢様だね。ところが1926年、御年21歳の時に想い嗜眠性脳炎となり、最終的にマウント・カーメル病院に入院する。以来、40年以上も彼女の人生は凍り付いてしまう。

 著者は迷った挙句に L-DOPA を投与する。思った通り、予測不能な発作が続くが、なんとか彼女は現実に復帰する。家族も彼女を頻繁に見舞う。

そんなとき、彼女はうきうきして、それまで仮面のようだった顔には笑顔が弾ける。彼女は家族のゴシップが大好きだが、政治的なことや現在の「ニュース」にはまったく興味を示さない。

 1926年に発症し、彼女の時は止まった。再び目覚めたのは1969年だが、ローズはこの現実を拒み、今も1926年に21歳のまま生きている。陽気で頭の回転も速く、辛辣なユーモアのセンスも持つローズだが、50年近い時を失った事実からは眼を背け続けている。

 症状との付き合い方も人それぞれ。感心しちゃうのが、症例7 ミリアム・H。生後半年で孤児となった彼女の生涯は悲惨極まりないが、発作への対応は彼女の本質的な賢さとしなやかさを伺わせる。だいたい週に一度、水曜日に眼球回転発作が起きる。が、これは「多少の融通をきかせることができた」。

 発作が定期的なんで、医学生に実地観察させるのにちょうどいい。そこで水曜日が観察の日となったんだが…

 あるときミリアムに、学生たちは水曜日ではなく木曜日に来ることになったと伝えると、彼女は言った。「そうですか。じゃあ木曜日に延ばしましょう」そして、実際にそうなった。

 ここまで見事に症状と巧く付き合える人も珍しい。人間、歳を取れば体に色々と不調が出てくるもんだが、彼女みたく巧く付き合えるといいなあ。

 パーキンソン症候群の複雑怪奇な症状、L-DOPA の予測不能な効果、その動作メカニズムなど、科学的・医学的な面も面白かったし、終盤に出てくるデザイナーズ・ドラッグの惨劇は実に怖かった。が、それ以上に、病気に立ち向かう姿勢が人それぞれで、またそれぞれの人生や環境を反映しているのに感心する。

 それと。ロバート・デ・ニーロの役者魂も凄いなあ。

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2016年7月24日 (日)

大森望・日下三蔵編「年刊日本SF傑作選2008 超弦領域」創元SF文庫

クンマーとヒューマヤンは、ハイペースで彼らの方程式を拡張し、2047年、ついにノーベル文学賞の栄冠に輝いた。
  ――法月綸太郎「ノックス・マシン」

創作とは、無からではなく混沌から成されるものである。
  ――樺山三英「ONE PIECES」

【どんな本?】

 2008年に発表された日本のSF短編から、大森望と日下三蔵が選び出した作品を集めた、年間日本SF短編アンソロジー。

 生活に入り込むテクノロジーの向こうを仰ぎ見る工学的な作品や、スケールの大きい宇宙空間を舞台としたもの、ホラーとの境界をまたぐ作品、どこがSFなのか頭をかしげるものから、徹底的にバカバカしいものまで、バラエティ豊かなラインナップが揃っている。

【いつ出たの?分量は?】

 本文2009年6月30日初版。文庫本で縦一段組み、約541頁。8ポイント42字×18行×541頁=約408,996字、400字詰め原稿用紙で約1,023枚。上下巻でもいい分量。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 著者 / 初出。

序文 : 大森望
ノックス・マシン / 法月綸太郎 / 野生時代2008年5月号
 ノックスの十戒(→Wikipedia)。それはイギリスの探偵小説家ロナルド・ノックスが1928年に発表した、「フェアな探偵小説」が守るべき10個のルールだ。「超自然現象の類は排除すべし」など妥当なルールが多い中で、奇妙に浮いたルールがある。「中国人を登場させてはならない」。これは一体何を示すのか。
 と書くと、メタな本格推理小説のようだが、とんでもないw 本格推理小説はもちろん、文学全般から計算機テクノロジー、数学から物理学に至るまで、何がどう関係してくるのか見当もつかない実在の法則・知見・仮説にハッタリを混ぜ込み、思いもよらぬ方向にスッ飛んでゆく、大法螺SF。
エイミーの敗北 / 林巧 / 異形コレクション 未来妖怪
 検閲に引っかかったのは、いかにも冴えない普通の若い男だった。ゲート管理官のおれは、男を取り調べつつ、エイミーの報告をこっそり聞いているが、探索処理にやたらと時間がかかっている。やっと出てきた結果は、極めて物騒なものだった。、何もかも偽装の確信犯だ、と。
 集合的無意識の第一階層であるエイミーが管理する、遠未来を舞台とした作品。法に触れる事を考えただけで違法となるとは、ディック的なディストピアみたいだが、そういうオチかいw
ONE PIECES / 樺山三英 / SF Japan 2008年冬号
 メアリ・シェリーが創り出した、フランケンシュタインの怪物。フランケンシュタインは怪物を造ったマッド・サイエンティストの名であって、怪物そのものには名前がない。映画と異なり、原作の怪物は優れた知性と高い倫理観を持つ。そんな怪物が現代に蘇り…
 SFの原点と言われるフランケンシュタインの怪物。狼男や吸血鬼と並び、今でも人気のモンスターだ。メアリ・シェリーが生み出した怪物の印象が現代まで変転する過程を追いつつ、蘇った怪物へのインタビューや怪物が現代に巻き起こす騒動を描き、私たちの中にいる怪物を浮かび上がらせてゆく話…だと、思う。
時空争奪 / 小林泰三 / 天体の回転について
 平安時代末期から鎌倉時代に描かれた、鳥獣戯画。漫画の原点としても有名な作品で、教科書にも載っている。それに、異変が起きた。人に模した兎や蛙を描いた作品のはずが、見たこともないような生物に変わっている。美術館のレプリカばかりでなく、オリジナルにも…
 時の流れを川に例えることはよくあるし、それを使ったSF作品も珍しくないが、この発想はなかった。最初は意地が悪い程度だった教授たちが、次第に悪意を露わにしつつ、その正体が見えてくるあたりで、「おお、そうきたか!」と一部の読者は拍手喝さいするだろう。
土の枕 / 津原泰水 / 小説すばる2008年4月号
 日露戦争に駆り出され、大陸で戦う吉村寅次と井出六助。共に郷が近い小作農のため話が合い、苦しい行軍でも一緒に行動してきた。野営の苦しみと悲惨な食事で身も根も尽きかけたその日、やっと進撃の号令が出た。寅次は嬉しそうに云う。「やっと戦が始まる」
 語り口の巧さが際立つ作品。SFというより、奇談の一種だろうか。体裁としては近代国家の形を整えた日本が、国際社会への存在感を示した日露戦争から、経済成長を成し遂げた昭和までの姿を、田舎の農民の目で描く、短く読みやすいながらも、中身は濃い作品。
胡蝶蘭 / 藤野可織 / モンパルナス2号
 その日の朝。近所の洋菓子店の店先の胡蝶蘭は、猫の血できらきらと輝いていた。鉢の前には、猫の首が一つ。若い男が後始末をしている所に通りがかった私は、捨てられそうになった胡蝶蘭がいじらしく、おもわず胡蝶蘭を引き取る羽目になる。
 リトル・ショップ・オブ・ホラーに連なる、化け物植物を巡る話なのだが、主人公や彼のボケっぷりがいい味だしてるw 気味悪げな胡蝶蘭に、敢えてチョッカイを出して挑む小学生には、幼い頃を思い出して懐かしくなったり。加えて、女から見た男のチョロさが、これまたよく書けててツラいw
分数アパート / 岸本佐和子 / モンキービジネスvol.1
 「ワタシには小さな弟が一人いて、ワタシの右腰の後ろのあたりから生えている」と、何がナニやらサッパリわからない話で始まったと思ったら、賑やかな飲み会やら編集との打ち合わせやら、日常的な事柄も織り交ぜて書いた「日記」。タイトルにもなっている「分数アパート」には、おもわず「ぷよぷよかい!」と突っ込みたくなったりw
眠り課 / 石川美南 / モンキービジネスvol.2
 勤め先の会社に存在するが、組織表には載ってない謎の組織<眠り課>。それは密かに社を牛耳っているとも噂され…
 などと不気味な設定で始まる、短歌集。設定は不気味だが、歌われている事柄は、午後の気だるい時間を巧みに表していて、「あるある」と頷けることしきり。
幻の絵の先生 / 最相葉月 / SF Japan 2008年春号
 緻密な取材により、日本SFの巨星・星新一の姿をよみがえらせた力作「星新一 1001話をつくった人」のスピンオフ。星新一が幼い頃に通っていた絵画教室をきっかけに、彼の父である星一の隠された姿へと迫ってゆく。
 どこまでが事実でどこからが創作か全くわからないけれど、最相葉月がドキュメンタリー作家として事実を掘り起こしてゆく過程がうかがえるあたりが、ノンフィクション好きな者としてゾクゾクくる。一冊の本が出来上がるまでに、どれほど大量の事実が切り捨てられるのか、ジワジワと伝わってくる。
全てはマグロのためだった / Boichi / 週刊モーニング2008年31号
 漫画。地球で最後のマグロを食べ、その美味しさに感激した少年、汐崎潤。マグロの絶滅は国際的な大問題となり、長じた汐崎潤はマグロを蘇らせるためあらゆる努力を注ぎ込み…
 劇画調でベタの多い、ややクドい調子でじっくり書き込まれたリアルな絵を基調としながら、ひょっこり紛れ込むデフォルメした絵の軽さが、物語のドタバタ風味と相まって、ポンポンと気持ちのいい強烈なリズムを生み出している。
アキバ忍法帖 / 倉田英之 / パンドラ vol.1 SIDE-B
 北畠旗子、人気声優。またの名を旗姫様、ツンデレなキャラを演じさせれば並ぶ者のない最高峰アイドルだ。某店での握手会で、忌まわしい呪いが彼女にかかってしまう。折悪く、そこには悪名高き十二人の強者が揃っていた。己の求める物のために、極寒の深夜も真夏の日中もものともしない肉体に鍛え上げた化け物たち。
 山田風太郎の忍法帖を、現代の秋葉原に蘇らせた、強烈な匂いたつ作品…というか、まあ、アレだw 姫の呪いもいい加減に酷いが、語りもやりたい放題w 魔神たちの異能力は、オタクが既に幾つもの種族に枝分かれしている実態を嫌になるほど見せつけてくれる。しかしやっぱり紙使いがいるのかw
笑う闇 / 堀晃 / サイエンス・イマジネーション
 様々な職種にロボットが進出しつつある近未来。大阪駅南側の「旧地下街」の居酒屋で軽く一杯やっていた時、声をかけてきたのは、かつて縁があったゴロー師匠だった。ロボットの芸術的利用を研究するプロジェクトで、師匠は協力してくれたのだが…
 初音ミクなど、芸能の世界にもコンピュータが進出しつつあるとはいえ、その多くは予め綿密に設定されたプログラムに従って動いており、リアルタイムでのアドリブはさすがに難しい。ってな技術的な問題とは別に、大阪ならではのテーマ「お笑い」を取り上げているのが貴重。特にゴロー師匠が選ばれるあたり、実に大阪だよなあ。
青い星まで飛んでいけ / 小川一水 / SFマガジン2008年7月号
 人類が宇宙に向けて送り出した、自己増殖型の探索船団エクス。それは約二千隻の巨大な宇宙船団と、それを取り巻く無数のロボットからなる。目的は知性を探し、接触すること。何万年であろうと、マシーンたちは根気強く虚空を渡り、己を再構成して旅を続け…
 延々と虚ろな空間が続く恒星間宇宙なだけに、その時間スケールも相当なもの。一種の積極的なSETIだが、向こうにも色々と事情があるわけで。光速の壁を越えられないとすれば、やっぱりこういう形になるんだろうか。語り口は軽妙ながら、ちょっとした寂寥感が漂う作品。
ムーンシャイン / 円城塔 / 書き下ろし
 無数の塔の街で、私は育った。地球の全ての原子の数より多い塔。私は17と19、双子の兄弟と一緒に育つ。双子はこの街の者だが、私はいずれ出ていく。
 双子素数(→Wikipedia)やらムーンシャイン予想(→Wikipedia)やらモンスター群(→Wikipedia)やらといった、数学ネタに、共感覚(→Wikipedia)やサヴァン症候群を組み合わせた(→Wikipedia)、いつもの円城塔テイスト全開の作品。
From the Nothing, With Love / 伊藤計劃 / SFマガジン2008年4月号
 「子供たちが殺されている」。上司がそう告げtた。彼らの共通点は、みな<所有物>であること。誰の犯行であるにせよ、この件は私が担当するしかない。私に関して知っているのは、ごく少数の選定委員と上司、そして首相のみ。そしてもう一人、女王陛下。
 007パロディに、ナチスが遺した忌まわしき秘密技術を絡め、ヒトという存在の奥深くへと分け入ってゆく作品。<所有物>にプロパティ、英国臣民にサブジェクト、首都警察にヤードとルビを振るセンスが、雰囲気を盛り上げている。
2008年の日本SF界隈概況 : 大森望
後記 : 大森望
初出一覧
2008日本SF短編推薦作リスト

 SFとは言いがたいが、津原泰水の語り口の巧さには完全にKOされた。ノックス・マシンの評判は聞いていたが、こんなお馬鹿(褒めてます)な作品だったとはw 時空争奪も、あのネタにつなげる意外性にやられた。笑う闇も、師匠の意地が輝く作品。つかもっと書いてくれ堀晃。

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2016年7月22日 (金)

ポール・キンステッド「チーズと文明」築地書館 和田佐規子訳

本書の第一の目標はチーズの科学と技術を、チーズの歴史を解釈する中で捉えなおして、どんな下界の変化がきっかけとなって、それぞれのチーズが生み出されてきたのかを理解することにある。
(略)
本書の第二の目的はチーズの歴史と、より大きな<物語>である西洋文明史が交差する数々の地点を検証することにある。
(略)
本書の最後の目的はチーズの歴史を一つのレンズとして、そこからアメリカとヨーロッパの食文化の不一致の道筋をながめ、激しく対立する今日の食に関するそれぞれの制度の是非を考察することにある。
  ――はじめに

【どんな本?】

 モッツェレラ,パルメザン,チェダー。世の中には色々なチーズがある。日本人に馴染みなのは柔らかいチーズだが、下ろし金ですりおろす硬いチーズもあるし、厚い皮にくるまれたチーズもあるし、スパイスを混ぜたチーズもある。味も色も形も様々だ。

 なぜこんなに様々なチーズができあがったのか。それぞれのチーズには、それぞれの歴史と成立事情があった。それは気温や湿度などの気候、塩の入手や搾り機など技術的な発展、交通の便や原材料の制限など地理的な事情、税制や農制など制度的な原因が複雑に絡み合っていた。

 人類の農耕や酪農の始まりからチーズの起源、地中海周辺の国際的な貿易から西欧の勃興、そして現代における米国とEUの対立の原因となっている自由貿易協定と原産地名称保護まで、歴史の流れに伴い時には変化し時には伝統を守り、枝分かれを繰り返しながら発展してきたチーズの足跡を欧米中心に描く、美味しい歴史書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は CHEESE and CULTURE : A History of Cheese and Its Place in Western Civilization, by Paul S. Kindstedt, 2012。日本語版は2013年6月10日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約303頁に加え、訳者あとがき6頁。9ポイント46字×18行×303頁=約250,884字、400字詰め原稿用紙で約628枚。文庫本ならやや厚めの一冊分。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。当然ながら、様々なチーズを知っている人ほど楽しめる。また、序盤では聖書を引用してたり、中盤では教会が大きな役割を果たしているので、キリスト教に詳しいと、更に楽しめる。ただし、体重が気になる人は夜更けに読まない方がいい。

【構成は?】

 穏やかに時系列に沿って進むが、各章は比較的に独立しているので、美味しそうな所だけを拾い読みしてもいい。

  • はしがき
  • はじめに 文明史と交差するチーズの歴史
  • 第1章 チーズの起源 古代南西アジア
    旧石器時代の始まり/新石器時代の革新/酪農とチーズ製造の始まり/レンネットの発見/新石器時代人の大移動
  • 第2章 文明のゆりかご チーズと宗教
    神にささげるチーズ/メソポタミアの繁栄/ウシの画期的活用法の発見/女神の結婚の決め手はチーズ/チーズなしではいられない女神イナンナ/シュメール人のチーズ/エジプト人のチーズ/インド亜大陸と中国にチーズはあったか
  • 第3章 貿易のゆくえ 青銅器とレンネット
    ダビデもチーズを食べていた?/アナトリアの台頭/ヒッタイト文明とチーズの進化/チーズは海を越えて/ミノア文明とミケーネ文明/北へ、ヨーロッパへ/青銅器時代の終わり
  • 第4章 地中海の奇跡 ギリシャ世界のチーズ
    チーズ作りと人類の起源/蘇ったギリシャ文明/ギリシャ宗教におけるチーズ/チーズの好みにうるさいギリシャの神々/日常生活の中のチーズ、商業の中のチーズ/ギリシャ人たちを骨抜きにしたシチリアチーズ/衛兵の交代
  • 第5章 ローマ帝国とキリスト教 体系化されるチーズ
    エトルリアの起こり/家畜の季節移動と「ミルク沸かし」/エトルリアの変貌/チーズの下ろし金と熟成ペコリーノ/ローマとケルトの台頭/ローマ人による支配/農業の移り変わり/人々に上質な食べ物を カトー/チーズ製造の詳細を記したウァロ/チーズの品質管理が重要だ コルメラ/大型チーズの出現/ケルト人の奮闘/帝国の融合/チーズと異端
  • 第6章 荘園と修道院 チーズ多様化の時代
    ローマによる植民と荘園の誕生/大農場ヴィラから荘園へ/修道院の繁栄/荘園と修道院のチーズ作り/フレッシュチーズから熟成チーズへ/カール大帝も愛した熟成チーズ/イングランドの荘園チーズ/“乳搾り女”たちが担うチーズ作り/チーズ製造に合理化の流れ/山で作られるチーズ/山岳チーズの隆盛/洞窟で生まれたロックフォールチーズ
  • 第7章 イングランドとオランダの明暗 市場原理とチーズ
    新たな農民階級の台頭/イーストアングリアのチーズ/グルメ志向の高まり チェシャーチーズ/チーズ商とチーズ製造者の熱き戦い/スコールディング製法の発明 イギリス南部/“乳搾り女”の遺産/全ヨーロッパにチーズを供給する国オランダ/北海に戦いを挑んだオランダ農業/赤色表皮のスパイスチーズ/絶妙なバランスのエダムチーズ/甘い風味のゴーダチーズ
  • 第8章 伝統製法の消滅 ピューリタンとチーズ工場
    アメリカのチーズの源流/大移民時代の始まり/西インド諸島の黒い誘惑/膨らむ奴隷貿易とチーズ製造/「仕上げ塗り」チーズの登場/二つの革命/農地を求めて西部へ/チーズ工場と「規模の経済」/アメリカ産チーズの凋落/モッツェレラチーズの躍進
  • 第9章 新旧両世界のあいだ 原産地名称保護と安全性をめぐって
    原産地名称保護の流れ/チーズは誰のものか/生乳とチーズの安全性/等価性の原則は一体何を守っているのか
  • 参考文献/索引/訳者あとがき

【感想は?】

 ひとことでチーズとっても、実に色々あるんだなあ。

 私が思い浮かべるチーズは柔らかいプロセスチーズと、ピザに乗っているモッツェレラチーズぐらいだが、そんなものはごく一部なのだった。

 この本に出てくるチーズは西欧が中心で、前半に少し東地中海周辺の話が出てくるぐらいだ。それでも、サイズが小さい物から大きいもの、新鮮なものと熟成したもの、皮があるものとないもの、しょっぱいものと酸っぱいもの、羊のものと牛のものなど、食べる立場でもバリエーションは様々だ。

 加えて、製法も、加熱するものとしないもの、レンネットを使うものと使わないもの、圧搾が強いものと弱いもの、夏に造るものと冬に造るものなど、眩暈がするほど多くの種類がある。そして、それぞれの製法について、ちゃんとそうなった理由がある。

 第1章で、いきなりチーズの起源神話を覆してくれる。神話はこうだ。

 旅人がヤギか羊の胃で作った水筒に、新鮮なミルクを入れて旅に出た。ところがイザ飲もうとしたら、ミルクは固まっていた。胃が含むレンネット(→Wikipedia)が、ミルクをチーズに変えてしてしまった。

 だが、これはおかしい、と著者は異議を出す。というのも。

 そもそも、旅人がミルクを持って旅に出る事がおかしい。日本人にはミルクを飲むと腹を下す人が多い。これは遺伝的なもので、ミルクの中のラクトース(乳糖、→Wikipedia)を分解できないためだ(→Wikipedia)。一般に哺乳類の子どもは乳糖を分解できるが、成長するとできなくなる。これはヒトも昔は同じで、新石器時代人の多くは耐性を持たなかった。

 わざわざ腹を下すような飲み物を持って旅に出ないだろう。だが、新石器時代には、既に乳製品の製造が始まっていた。耐性を得るより前に、ヒトはチーズを作っていたらしい。紀元前七千年ごろの話だ。ちなみに、当時のチーズは羊かヤギの乳が原料である。

 などと、この本には科学的な知見がふんだんに盛り込まれているのも、最近の歴史書らしく斬新な味わいがある。

 だけでなく、キワモノ好きにも嬉しいネタが盛り込んであった。

 舞台はメソポタミアのウルク(→Wikipedia)に移る。ここの女神イナンナ(→Wikipedia)にはチーズとバターもささげられた。イナンナはあまり聞いたことがなかったが、彼女はイシュタールになりアスタルテを経てアフロディーテとヴィーナスになり…へ? アスタルテ? なんか聞いたことがある…と思ったら、やっぱり(→Wikipedia)。酷いことするなあ。

 かと思うと、ちと笑っちゃうネタもあったり。

 厳しい教育で有名なギリシャはスパルタの話。若者の食事は質素で、とても足らない。そこで、彼らには盗みが許されていた、というか、奨励すらされていた。これは優れた兵士になる訓練の一環なのだ。主な獲物はアルテミスの神殿に捧げられたチーズで、少年たちは記録を巡り熱く競争を繰り広げる。

 奨励されたとはいえ、捕まったら少年は厳しく鞭うたれた。ただし、これは盗んだからではない。盗みに成功したら、感心だと褒められるのだ。捕まるほど間抜けでトロい事がイカん、というわけ。戦場じゃはしっこくないと困るし、敵陣に忍び込んで破壊工作できるなら頼もしいから、理屈はあってるけどさあw

 舞台がローマに移り西欧へと向かう中盤以降では、資料も充実してきて、製品の詳細や細かい製法も見えてくる。ここでは、税制や消費地との関係もチーズの種類に影響を与えてきたり。

 例えば、チーズの大きさだ。私たち日本人が目にするのは、小さく柔らかいチーズが多い。水分を多く含む新鮮なチーズだ。あまり長く放置するとカビが生えたりウジが沸いたりする。輸送機関や冷蔵技術の発達した現代ならいいが、自動車も冷蔵庫もない時代には、貿易に向かない。

 小さいチーズは乾きやすく、腐りにくい。または車輪のように薄くしてもいい。だが、中には枕みたいに大きいチーズもある。大きいチーズは乾きにくいから、腐りやすい。が、輸送はしやすいので、巧く作れば貿易に向く。そこで、人は様々な工夫を凝らす。

 加熱して水分をトバす。圧搾してホェイ(→Wikipedia)を絞り出す。塩を入れて水分を吸収させる。予め小さいチーズを作って乾かし、塩を混ぜた上で再び圧搾し固める。

 などといった製法上の工夫もあるが、原材料であるミルクの調達も重要な要素だ。当然ながら大きなチーズは沢山のミルクを使う。牛を数頭しか飼えない小農では作れない。村の牛をまとめて預かる牧夫が造るスイス・ドイツ・オーストリアの山岳チーズや、豊かな修道院が造るグラナチーズなどが生まれてゆく。

 ここでも、塩の入手が難しい山岳チーズは塩分が少なく、貿易の要所で塩が手に入りやすいグラナは塩分多めなど、お国事情がチーズのバリエーションを増やしてゆく。

 やがて舞台はイギリスやフランドルを通って新大陸へと渡り、お家芸の工業化へと突き進む。最初はイギリス系が多かった植民者も、やがてドイツやフランスなど国際色豊かになり、同時にアメリカのチーズも種類が増えてくるが、大規模大量生産の安いチーズに伝統的チーズは押し流され

 …てはいないのが、チーズの面白いところ。EUでは原産地名称保護の動きが国策として進められ、アメリカでもアメリカチーズ協会が伝統的な製法を保とうと立ち上がった。当然ながら職人が作るチーズは高くつく。そもそもチーズは貴族や金持ち向けの贅沢品だった。とまれ、値が張っても美味しいモンが食べたいって人は現代でも多い。

 などと、考古学・冶金史・神話・宗教史・科学・気候・経済史・農業史など、多岐にわたる内容を含みながら、美味しいチーズの由来と秘密を解き明かす、お腹がすく本だった。

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2016年7月20日 (水)

A・G・リドル「アトランティス・ジーン1 第二進化 上・下」ハヤカワ文庫SF 友廣純訳

「これは人類のための、まさしく生き残りをかけた戦いなのだ。我々が目指すものはただひとつ。人類の存続だ」

「やつは順調に悪化してるよ」

【どんな本?】

 個人出版から火が付いた、アメリカの新鋭作家による娯楽アクション伝奇SF長編小説三部作の開幕編。

 南極の氷山の中に眠っていたナチスの潜水艦・ロズウェル事件(→Wikipedia)・人類進化上のミッシングリング・911陰謀論そして失われた大陸アトランティスなどお約束のネタを新旧取り混ぜ、人類史の陰に潜む秘密組織や人類の存続にかかわる災厄をめぐる闘争を描く、ジェットコースター作品。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Atlantis Gene, by A. G. Riddle, 2013。日本語版は2016年4月25日発行。文庫本上下巻で縦一段組み、本文約356頁+360頁=716頁に加え、著者あとがき3頁+鳴庭真人の解説6頁。9ポイント40字×17行×(356頁+360頁)=約486,880字、400字詰め原稿用紙で約1,218枚。上下巻としては少し厚め。

 文章はこなれている。内容もわかりやすいし、読み始めるとグイグイ引っ張られる吸引力がある。敢えて言えば、アトランティスやロズウェルやナチス残党生存説などのアレなネタに詳しければ、更に楽しめるだろう。

【どんな話?】

 南極大陸の沖合で氷山を調べていた研究者は、第二次世界大戦時のドイツ海軍の潜水艦を発見する。詳しく調べるため潜水艦へと赴いた研究者は、氷山の崩壊に巻き込まれてしまった。

 キャサリン(ケイト)・ワーナーはジャカルタで自閉症児の治療法を研究していた。二名の自閉症児が画期的な知能を示した時、研究所は暴徒に襲われ、天才児二名が誘拐されてしまう。

 国際的なテロに対抗するため創られた超国家的諜報組織クロックタワー。だが何者かが組織に大規模な一斉攻撃を仕掛け、多数の支局が壊滅してしまう。ジャカルタ支部も攻撃を受け、支局長のデヴィッド・ゲイルは奇妙な暗号文書を受け取る。そこにはこう書かれていた。

 「トバ計画は実在する」

 ナチスの潜水艦、誘拐された自閉症児、同時多発的なクロックタワー襲撃。これらは、人類の生存に関わる大事件の始まりにすぎなかった。

【感想は?】

 まさしくジェットコースター。とにかくスピード感が半端ない。

 タイトルからして、B級感プンプンだ。なんたって「アトランティス遺伝子」である。プラトンが記した謎の大陸アトランティス。いい加減、使い古されたネタだよね、と思ってしまう。

 そして開幕が、南極の氷山に埋もれたナチスの潜水艦だ。しかも、U-977(→英語版Wikipedia).。アルゼンチンに亡命し、後のナチス残党生存説の元になった艦。キッチリと定石を守ったオープニングで、知っている人はニヤリとする所だろう。

 これに、天才的な知能を示した自閉症児の誘拐が続く。ここまではともかく、この次が実に胡散臭い。クロックタワー、国際的なテロに対抗するため立ち上げられた、国際的な秘密情報機関。実態も最高責任者も資金源も本拠地も不明。だが、能力と実績は折り紙付き。わはは。昭和の仮面ライダーの世界だ。

 こういった懐かしい定番の舞台装置や小道具を使い、すれっからしの読者に「ふふん、なるほどね」などと思わせつつ、お話はスピーディーなアクションの連続でコロコロと転がってゆく。

 この話の転がりの速さはまさにジェットコースターで、場面は次々と切り替わってゆく。終盤で少しネタ明かし的にインディー・ジョーンズの名が出てくるんだが、まさしくあの映画のスピード感そのものだ。それだけに、少々無茶しすぎの感もあるけどw

 構成も見事で、数頁ごとに章が切り替わる形を使っている。これがインディー・ジョーンズ風のせわしなさを巧く再現し、アップテンポな雰囲気を盛り上げてゆく。主人公のデヴィッド・ゲイルが無敵にタフなのも、そういう事なら仕方がないかw

 U-977 やアトランティスなどネタは古臭いが、その料理法は意外と誠実で、最近の科学ネタを巧みに盛り込みながらも、要所で大げさなハッタリをカマすのも楽しい。

 アトランティスとくれば洪水伝説だが、これに人類史の大飛躍(→Wikipedia)やトバ・カタストロフ理論(→Wikipedia)とか、サラリと読むと「どうせネタだろ」と思いそうなのも、今調べたらちゃんと学者の支持を受けた理論なのに驚いた。他にもエピジェネティクス(→Wikipedia)なんてネタを折り込んでたり。

 などと、キチンとした小道具で脇を固めながらも、それらの理論がもたらす結論は実にお馬鹿な大風呂敷。いいねえ「トバ計画」。なんか矛盾してるような気もするが、いいんです。ナチスが絡んでるんだから、これぐらい残酷で大げさで頭悪くないと。

 こういった無茶なお話を引っ張っていく主人公二人は、研究者のキャサリン(ケイト)・ワーナーと、クロックタワーの支局長デヴィッド・ゲイル。なんだが、二人とも体育会系ではなく学究肌なのが奇妙なところ。

 それより、物語を強烈に牽引するのが、悪役のドリアン・スローン。若い頃のルドガー・ハウアーみたいな、酷薄な感じの偉丈夫。部下をグイグイ引っ張る強力なリーダーシップを誇り、世界中を飛び回る軽快な行動力も併せ持つ。ただ、困ったことに、やたらめったら気が短くて…

 彼が組織の研究者と話す場面は、現場の仕事に携わる者なら「おうおう、いるねえ、こういう困ったクライアント」とニヤニヤする所。要求仕様を細かく詰めるなんて発想は微塵もなく、大ざっぱに欲しいものを伝えるだけで、納期は異様に短い上に、こっちの話なんか聞きやしない。その分、予算だけはたっぷりとブン取ってくるんだが…

 わがままで気の短いガキが、そのまんま大人になったような奴で、高い所になっている林檎を収穫するために木ごと伐り倒すような真似ばかりやらかす、台風みたいな男。あんまし親しく付き合いたくない類の奴なんだが、成功するにせよ失敗するにせよ、動けばド派手で人の目を引く結果になるのだけは確実な奴。

 最初は単に不気味なだけの奴なんだが、話が進むに従いどんどんとパワーアップし、同時に暴走具合もエスカレートしていくからたまんない。こういう、イカれている上に突進力だけはある悪役がいると、実に物語は盛り上がる。

 ナチスの潜水艦やアトランティス,ロズウェルなど手垢のついた定番ネタを、最近の科学トピックを交えて鮮やかに蘇らせ、ノンストップのアクションで読者を惹きつけつつ、壮大な大風呂折敷を広げた娯楽作品。怪しげなモノが好きなら、頭を空っぽにして楽しもう。

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2016年7月19日 (火)

スティーヴ・ファイナル「戦場の掟」ハヤカワ文庫NF 伏見威蕃訳

 イラクの傭兵の数は、はっきりわかっていない。国際平和活動協会やイラク民間警備会社協会(PSCAI)のような連合組織や同業者組合ができても、変わりはなかった。(略)推定数は二万五千人ないし七万五千人もしくはそれ以上というように、かなり幅がある。
  ――2 きょうはだれかを殺したい

「なにもかもが不正行為ばかりだ」クウェートに着くと、ホーナーはイタリア軍の身分証明書を渡された。じつはクレセントが偽造したものだった。身元を洗うことなく雇ったイラク人を含めた社員を米軍基地やグリーン・ゾーンに出入りさせるために、クレセントはこの偽造身分証明書を使っていた。
  ――4 われわれは軍を護っている

「あいつら(ブラックウォーター)はアメリカ人が憎悪される原因をこしらえている。(略)
 ブラックウォーターはイラク人にまったく経緯を示さない。イラク人を動物だと思っている。(略)
銃を撃ちながら水筒をまわし、悪態を叫ぶ。子供や年寄りの女性を怯えさせ、自分の車を運転しているなんの罪もない市民を殺すことを、テロリズムと呼ばずしてなんと呼ぶ?」
  ――8 権限の範囲・神と同一

「兵士として国に派遣されたときには、ひとの命を奪っても罪に問われない。結局は自分を許せる」
「でも、家を買いたいというような理由から、商売としてやるときには、自分の存在に関わる問題を抱えることになる」
  ――エピローグ 知恵の書

【どんな本?】

 2006年11月16日、クウェート国境に近いイラク南部のサフワン付近で、四人のアメリカ人と一人のオーストリア人が拉致される。五人はトレイラートラック37台からなる輸送隊の護衛中だった。彼らの身分は民間警備会社クレセントのオペレーター(武装警備員)、平たく言えば傭兵である。

 著者スティ-ヴ・ファイナルは、ほんの数日前まで取材でイラクを訪れ、クレセント社の彼らと共に行動していた。被害者の一人ジョン・コーテとは特に親しく、陽気であけっぴろげなコーテの性格もあり、生まれ育ちやアメリカでの生活、そしてイラクに来た理由なども話し合う仲だった。

 家族に愛され明るく社交的で同性・異性問わず多くの者に好かれるアメリカン・ボーイのコーテが、なぜ傭兵などという胡散臭い立場で危険なイラクに赴いたのか。彼以外には、どんな者がどんな理由でイラクくんだりまで傭兵稼業に来ているのか。傭兵企業クレセントの内幕は、どんなものなのか。

 そもそも、多くの正規軍人が駐留するイラクに、なぜ傭兵が要るのか。傭兵は何をやっているのか。何人ぐらいの傭兵がイラクに入り込んでいるのか。誰がどのように傭兵を管理し取り締まるのか。誰がどんな目的で拉致するのか。そして、政府は事件の捜索や交渉をどう行うのか。

 拉致されたコーテらの被害者を追う過程で、著者はイラクでの傭兵の実態をつぶさに見せつけられる。

 「前線」で戦う傭兵たちの姿、彼らを管理するはずの合衆国政府の対応、イラク人から見たアメリカ人の姿などを通し、イラクでの戦乱がズルズルと続く理由、イラク人がアメリカ人を憎む理由が浮かび上がり…

 2008年に同テーマでピュリッツァー賞を受賞したジャーナリストによる、迫真のルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は BIG BOY RULES : America's Mercenaries Fighting in Iraq, by Steve Fainaru, 2008。日本語版は2009年9月に講談社より単行本で出版。私が読んだのは2015年9月25日発行のハヤカワ文庫NF版。文庫本縦一段組みで本部約330頁に加え、訳者あとがき3頁。9ポイント41字×18行×330頁=約243,540字、400字詰め原稿用紙で約609枚。文庫本としては少し厚め。

 文章はこなれている。内容も特に難しくないが、軍の階級や銃の種類がわかると、細かいニュアンスも伝わるだろう。M4カービン(→Wikipedia)は米国の自動小銃、M14(→Wikipedia)は米国のライフルで、AK-47(→Wikipedia)はソ連製自動小銃、PKはソ連製機関銃(→Wikipedia)。

【構成は?】

 多少は前後しつつも、だいたい時系列に進むので、素直に頭から読もう。

  • プロローグ 国境にて
  • 1 社会勉強株式会社
  • 2 きょうはだれかを殺したい
  • 3 最後の旅路
  • 4 われわれは軍を護っている
  • 5 あなたがたの物語
  • 6 おまえはこれから死ぬんだ
  • 7 おまえの血族
  • 8 権限の範囲・神と同一
  • 9 人質問題
  • 10 特殊警備にはブラック・ウォーター
  • 11 死をも乗り越える信仰
  • エピローグ 知恵の書
  •  謝辞/訳者あとがき/情報源について

【感想は?】

 ジェレミー・スケイヒルの「ブラックウォーター」と並ぶ、民間軍事企業に警鐘を鳴らす作品。

 「ブラックウォーター」は、同社が発展してゆく歴史を辿りつつ、合衆国政府のネオコン勢力との関係を暴く内容だった。衝撃的ではあるが、大企業ブラックウォーターを内側から眺める視点で描かれている。

 対してスティーヴ・ファイナルは、比較的小規模なクレセント社に同行して取材している。ブラックウォーター関係のエピソードも多く出てくるが、この作品で見えるのは、外側から見たブラックウォーターだ。それは米軍から見たブラックウォーターであり、零細企業の傭兵から見たブラックウォーターであり、イラク人から見たブラックウォーターである。

 特に最後の視点は強烈で、イラクの戦乱が収まらない理由が嫌というほどよく分かる。終盤で描かれる「イラク人から見たアメリカ人」の姿には、恐怖すら感じてしまう。サマワの自衛隊が無事で帰ってきたのは、つくづく奇跡だと思う。

 そもそもブッシュJr政権は占領事業を甘く見て、兵力をケチりすぎたのだ。

 復興を支援する役人がオフィスを構える。起業を目論むビジネスマンがどこかを訪ねる。トラックで何かを運ぶ。いずれにしても、護衛が要る。だが兵が足りない。かといって派遣する兵員を増やすと、議会が煩い。また、起業を目指す民間の起業家は、世界各国から気ままにやって来るので、軍じゃ対応しきれない。

 そこで傭兵だ。軍と違いフットワークは軽く、法的に細かい事も言わない。金さえ出せば柔軟に対応してくれる。

 ただし、ハード・ソフト共に品質は様々だ。著者が取材したクレセント社のオーナーはイタリア人で、当然ながらM1エイブラムス戦車(→Wikipedia)なんかない。銃だってソ連製のAK-47やPKも使う。

 オペレーター(警備員)もピンキリ。本書でスポットを浴びるジョン・コーテは、陸軍第八二空挺師団の一員としてアフガニスタンとイラクで戦い、優れた働きで三等軍曹に昇進した退役兵だ。同僚のルーベンは元警官で、無資格だが衛生担当。家庭内暴力で米国内での銃保持を禁じられた者もいる。

 国籍も国際色豊かだ。米国人はもちろん、南アフリカ人、フィジー陸軍の退役兵、ネパール人。なぜかトレーラー・トラックの運転手はパキスタン人が多いみたい。そして、イラク人もいる。コンボイ護衛では車外で機関銃を構える最も辛く最も危ない仕事を担いながら、月給は米国人の1/10の600ドル。

 しかも、彼らを縛る法はなく、裁くものは誰もいない。軍には政府に説明する義務があり、交戦規則もあるが、傭兵には何もない。中には「自分たちが法の支配を尊重しなかったら、イラク人にそうしろといえないじゃないか」と語る者もいるが、大半は BIG BOY RULE=強者の論理に従う者ばかりだ。

 合衆国政府もイラク政府も傭兵の全貌は把握しておらず、管理も統率もできない。CPA(暫定当局)代表ポール・ブレマーの発した指令第十七号により、彼らが人を殺してもイラクの法では裁けない。

 とはいえ、傭兵に都合のいい話ばかりじゃない。政府は軍の将兵の死傷者数は発表するが、傭兵はお構いなしだ。傭兵が襲われた事件は表に現れない。工兵隊を傭兵が護衛する時もあるが、その際に傭兵が死傷しても統計には現れないし、傭兵企業も報告なんかしない。

 そんなわけで、傭兵たちの行動は下手なヤクザよりはるかに無謀で危険なものとなる。待ち伏せを避けるために道路を時速120kmで逆走し、警官の停止命令にも従わない、どころか時として警察に向かって発砲する事もある。これがブラックウォーターになると更に無茶苦茶で、民間人が相手でもお構いなく撃ちまくっている。

 そんなわけで、警官やイラク軍将兵にも傭兵を憎む者がおり、反政府勢力と繋がる者もいる。冒頭二番目の引用にあるように、身元確認もザルだから、いつどこでテロが起きても不思議はない状況だ。

 軍や警察関係者ならともかく、普通のイラク市民には正規軍と傭兵の区別なんかつかない。無法の限りを尽くし暴れまわる傭兵を見れば、「アメリカ人は冷酷非情」と思うだろう。かくして、傭兵の活動はアメリカの印象を悪化させ、現イラク政府への信頼を失わせ、反政府勢力を支持する者を増やしてゆく。

 特にタチが悪いのがブラックウォーターなのだが、米軍すら彼らに手を出せない。その理由はジェレミー・スケイヒルの「ブラックウォーター」に詳しい。

 拉致事件の真相は藪の中だが、著者による調査の過程で見えてくる事柄は、読者の絶望を更に深めるものばかりだ。もはやイラクでは誘拐が産業になっているし、合衆国政府ですら民間人の被害者に対してはロクな捜査もできない体たらくを晒している。

 軍や反政府勢力と異なり、民間の軍事企業が報道される事は、特に日本では滅多にない。だが、軍属などの肩書で既に日本にも入り込んでいるし、イラクではクレセント社が自衛隊の仕事も請け負っている。ジャーナリストの護衛も、その多くは傭兵の仕事だ。傭兵は、既に紛争地帯における必需品となっている。

 だが、管理も統率もできない状態で傭兵が跳梁跋扈すればどうなるのか。それをつぶさに観察し、描いたのがこの本だ。内容は残酷で、グロい場面も多いが、それだけに衝撃も大きい。現代の戦争がどんなものなのか、それを知るためにも、多くの人に読んでほしい。

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2016年7月17日 (日)

R.D.レイン「結ぼれ」みすず書房 村上光彦訳

わたしの欲しいものときたら、手に入ったためしがない。
手に入ったのは、いつだって、欲しくないものだった。
欲しいものは
        わたしの手には入らないだろう。

【どんな本?】

 反精神医学(→Wikipedia)を掲げた20世紀の精神医学者 R.D.レイン(→Wikipedia)が著した、詩集。

 ここに描かれるのは、人の心の情景だ。絡み合いもつれあい、身動きが取れなくなった、または更にもつれてゆく、人と人との関係である。お互いがお互いの気持ちや思惑を探り合い、投影しあい、反射しあう形で、わだかまりが膨れ上がってゆく様を、詩にすることで戯画化し、わかりやすく読者に示す。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は KNOTS, by R. D. Laing, 1970。日本語版は1973年11月25日第1刷発行。私が読んだのは1985年8月5日発行の第10刷。だいたい年に一回の増刷だから、着実に売れている。

 単行本ハードカバー縦一段組みで本文約147頁。なにせ詩なので、行は長短いろいろだし空行も多い。単純に文字数を見積もると、400字詰め原稿用紙で100枚を切るぐらいで、小説なら短編の分量だろう。

 文章はこなれていて読みやすい。が、内容はややこしい。というか、じっくり味わって読む本だ。とまれ、文学としての詩とはいっさか異なり、語られるのは風景ではない。まっさらな背景の中で展開する、人と人の心がスレ違いほつれてゆく過程だ。そんなわけで、「私はブンガクは苦手で」という人でも、親しい人と仲たがいした経験のある人なら、楽しめるだろう。

【感想は?】

 ややこしい。

 なにせ、描かれる情景がしち面倒臭いシロモノばかりだから。たいていループしてたりマトリョーシカみたく再帰してたり合わせ鏡みたく反射に反射を重ねてたり。

 しかも、辛気くさい。

 「これは凄い、感動した」というタイプの詩ではなく、二人の人間の関係が、ちょっとしたスレ違いからもつれ、互いに自分の気持ちや勘ぐりで深みにハマり、身動きが取れなくなってゆく過程を描くものばかりだから。

 詩とはいっても、風や林や海は出てこず、歴史的な人物や事件も出てこない。どこにでもいるような人たちが、家族や恋人どうしなどの親しい関係の中で、いつでも演じているような場面を、お互いの心の声を拾い上げて言葉にしたような、そんな物語が続いてゆく。

 そして、人それぞれ好き勝手に解釈できる。具体的な事柄は出てこないので、読者が都合のいいように、最近の経験に当てはめて考える事ができる。たとえば、こんな部分は…

それゆえ
 私たちは彼を手助けして悟らせなくてはならない――
 彼にはなにか問題があるなどとは
 彼が考えもしないという、その事実こそ
 彼にいろいろ問題があるなかの
 ひとつなのだ、と

 考えようによっては、自称霊能者や健康食品のセールスマンが、カモを脅す文句とも取れる。また精神医学者という著者の立場を考えると、「俺は狂ってない」「狂ってる人はみんなそう言うんです」的な場面も思い浮かぶ。逆に人を狂人扱いする者こそ狂っている、みたいな場面でもいい。そして、結局、回答編はない。

 詩だけでなく、図を使った作品もある。これなんかは、ありがちな風景かもしれない。

ジャックは思う(ジャックが思うから)ジルは
  ↑             ↓
 なぜなら     けちだと 欲張りだと
  ↑             ↓
 けちだと 欲張りだと   なぜなら
  ↑             ↓
ジルは思うから(ジルは思う)ジャックは

 ケチな奴ほど相手を欲張りだと思う。ありがちな構図かも。これがけちと欲張りの関係なら、単に仲が悪くなるだけだが、もっと物騒な関係もある。

ジャックがジルを恐れていると
    ジルが思っていると
    ジャックが思うならば
ジャックはジルをますます恐れる

 そして互いに「お前なんか怖くないぞ」ってフリをして、それが更に互いの恐怖を煽ってゆく。この本ではジャックとジルだからただの痴話げんかみたいに思えるけど、同じ構図がイスラエルととパレスチナや、キリスト教徒とイスラム原理主義者に置き換えても成り立っちゃうから、わたしはますます恐れる。

 などの、相手があって成り立つ風景もあるが、一人でも成り立っちゃう詩もあったり。

わたしはそれをする、なぜなら、それが正しいから。
それは正しい、なぜなら、わたしがそれをするから。

 ヒトゴトだと思うと気楽に読めるし、嫌いな奴を思い浮かべれば「うんうん、アイツはそういう奴だよ」と思えるんだが、自分を振り返ると、そういう部分もあるんんだよなあ、困ったことに。

 そう考えると、別に病的な風景を描いた作品集ってわけでもなく、「ヒトってそういうモンだよね」みたく気楽に構えて読むのも、いかもしれない←と、自分の欠点を人類全部の欠点にスリ変えて誤魔化してます

 難しくはないけれど、ややこしいし、しち面倒くさい内容が多い。とはいえ、人と人が親しく付き合っていると、よく嵌り込みやすいドツボな構図を、余分な背景や風景を排し、敢えて顔なしの人形に演じさせたような形にすることで、多くの人が「ああ、こういう事ってあるよね」と思い当ってしまう作品にした、そんな情景を集めた本。

 メタな記述にアレルギーがないなら、またはメタな構成が好きなら、とりあえず読んでみよう。

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2016年7月15日 (金)

掛尾良夫「『ぴあ』の時代」キネ旬総研エンタメ叢書

「『ぴあ』の返品率は5%以下ですよ」
  ――第3章 『ぴあ』の躍進

それは事業というより、お祭り騒ぎのような時間だった。
  ――第6章 『ぴあ』の時代

【どんな本?】

 1972年7月、画期的な雑誌が登場する。月間『ぴあ』。首都圏の映画館の上映予定・劇団の公演予定・ライブハウスの出演予定などを並べた、エンタテインメント情報誌。創刊時は無名だった『ぴあ』だが、順調に部数を伸ばし、首都圏に住む若者の必携品となった。

 単に雑誌を出版するばかりでなく、若い映画作家を応援する「ぴあフィルムフェスティバル」などのイベントも開催し、また時代を先取りしたオンライン型チケット販売「チケットぴあ」などにも進出、多角化へと進んでゆく。

 映画界は斜陽化のきざしが現れながらも、映画好きな若者は池袋文芸座など入場料の安い名画座に通っていた。彼らを映画館へと導いた『ぴあ』は、どんな者たちが、どんな想いを抱で創り、どのように流通させたのか。社長の矢内廣を中心に、『ぴあ』の仲間たちの奮闘と、その時代背景を綴る。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2011年12月30日初版第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約231頁に加え、あとがき9頁+年表11頁。9ポイント41字×15行×231頁=約142,065字、400字詰め原稿用紙で約356枚。文庫本なら薄めの一冊分。今は小学館文庫から文庫版が出ている。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。70年代~80年代が中心なので、その頃を良く知っている人は、更に楽しめる。当然、かつて『ぴあ』を買っていた人なら尚更。

【構成は?】

 話は時系列に進むが、興味のある所だけを拾い読みしても楽しめるだろう。

  • 序章 『ぴあ』の休刊
  • 第1章 『ぴあ』の胎動
    甘納豆ビジネス/パイオニア創業者からの手紙/上京、新宿へ/学生運動に翻弄されて/中大映画研究会/映画の森へ/運命の出会い/自分たちに必要なもの/時代が『ぴあ』を求める
  • 第2章 『ぴあ』の誕生
    アパートで編集会議/父親の30万円/奇跡の“出会い系”人脈/読者と“対等”であること/立ち込める暗雲 流通の壁/ふたりの救世主/押入れの8000部/汗だくの飛び込み営業/8万人の潜在読者/飛躍の切り札 マルぴ作戦/高須基仁の協力/及川正通を口説き落とす/『ぴあ』の編集に集う人々/最後の自前配本
  • 第3章 『ぴあ』の躍進
    取次との攻防/映画業界に即応する『ぴあ』/映画ファンと名画座に支えられて/イベントに結実する読者とのつながり/オールナイト、34時間ぶっ通し/「ぴあ展」で成長した『ぴあ』/マガジンハウスカルチャーの対極にあるもの/ぴあの社員教育/『ぴあMAP』と『ぴあ手帳』/押し寄せる「ニューメディア」の波/「ぴあ世代」の映画監督たち/隔週化する『ぴあ』/世界の作家に目を向ける/歌舞伎町を疾走/「ぴあフィルムフェスティバル」誕生
  • 第4章 『ぴあ』の挑戦
    目白押しのイベント/“残り半分”/『CALENDER』の試行錯誤/トリュフォーを呼びたい/フライト代はトリュフォーが負担/ヌーヴェル・バーグの旗手、来日す/「チケットぴあ」プロジェクト、始動/電電公社のトップに接見/チケット検印問題/プレスタートは「キャッツ」/“そっちの勢力”に対する対策/ぴあをやっている意味
  • 第5章 『ぴあ』の成熟
    絶妙の3人体制/「よし、やろう」 PFFスカラシップ/ラテン系に振り回される/スカラシップ作品の1作目/85年、レンタルビデオ元年/ビデオ市場の誕生がもたらしたもの/ビデオブームを背景としたPFF/ねっと以前の映画バイブル『ぴあシネマクラブ』/黒川文雄の退社/より広範なエンタテインメントの地へ/ホウ・シャオシェン秘録
  • 第6章 『ぴあ』の時代
    駆け抜けた、最後の昭和/変わりゆく組織とぴあ/変わりゆく人とぴあ/ふたりの恩人
  • あとがき
  • 付録 『ぴあ』の時代 年表

【感想は?】

 ズバリ、矢内廣のサクセス・ストーリー。

 読む前は、雑誌『ぴあ』の歴史を期待していた。確かにそういう部分もあるんだが、本としては社長である矢内廣をヨイショする部分が多く、ビジネス書の色が濃い。なんたって、「はみだしYouとPIA」に触れていないのが悲しい。

 とはいうものの、1970年代~80年代の風俗が、自然に書き込まれているのは嬉しかった。随所にキネ旬のベストテンが載っていて、「俺たちに明日はない」とか「旅の重さ」とか懐かしい名前が出てくると、「ああ、これはあそこで見なたあ」なんて記憶が蘇ってくる。

 そう、確かに『ぴあ』は画期的だった。当時はDVDもなくインターネットもない。映画を観たけりゃ映画館に行くしかないんだが、どの映画館でどんな映画をやってるのかわからない。そもそも、映画館がどこにあるかすらわからない。そこで『ぴあ』だ。

 銀座・池袋・新宿など地域別に、映画館と上映作品と時間が載っている。いつ・どこで・何が観られるか、『ぴあ』があれば分かるのだ。当時としては、これは画期的なことだった。今ならうじゃうじゃとライバル誌が出そうなもんだが、当時はなぜか「シティロード」ぐらいしかなかった。不思議な話だ。

 『ぴあ』が便利なのは、それだけじゃない。地域ごとに地図が付き、映画館の場所がわかる上に、冒頭には東京の国鉄・地下鉄路線図がつく。ややこしい東京の路線図がわかるだけでも、大変に有り難いシロモノだ。

 そんあ便利な雑誌を作るきっかけが、「本人たちが欲しかったから」というのが、「なるほど!」と感心する所。ただ、それをミニコミ誌ではなく、キチンとした雑誌として立ち上げたあたりが、姿勢の違いだろう。

 また、編集の姿勢も、他のミニコミ誌とは大きく違う。大抵の雑誌は何かしら編集部の意向みたいのがあるもんだが、『ぴあ』の場合は…

「いつ」「どこで」「誰が」「何を」という客観情報を漏れなく掲載する一方、編集部の主張といった主観を一切排除し、情報の取捨選択は読者がする

 と、あくまで「客観情報を提供する」姿勢を貫いている。このあたりは、1970年の安保闘争を境に学生たちの政治熱が冷めてゆく時代背景も、しつこいぐらいに繰り返し描かれる。

 そう、創刊時のメンバーはみな学生だった。学生起業家だ。これも今ならともかく、当時としては珍しい事だった。

 単に思いついただけじゃ、雑誌は作れない。映画館に問い合わせて上映予定を聞き、整理して編集し、印刷し、書店に配らなきゃいけない。売れてる雑誌なら名前を出せば相手も相応しく応対してくれるが、なにせ素人が初めて作る雑誌だ。映画館も怪しく思って上映予定を教えてくれなかったりする。

 特に詳しく描かれているのが、流通である。今も昔も、雑誌や書籍の流通は東販や日販などの取次が仕切っている。これを通さないと、各地の書店に自分で本を持って行かなきゃいけない。かといって任せると、どの書店に何冊置くかを、取次に仕切られる。そこで『ぴあ』は…

 こういった部分は、伸びゆく企業がブラック化する理由もわかる気がする。第一回「ぴあ展」のくだりだと、「男女問わず、みんな臭かった」って、ブラックなんてもんじゃないw

 なにせ社長以下役員は、みんな創業時のメンバーだ。無茶な突貫作業の連続で会社を立ち上げ、事業を軌道にのせてきた。そういう経験があるから、無茶な働き方が当たり前だと思っている。新規採用の従業員も少なく、全体としては徹夜の連続で切り抜けてきた人が大半を占める集団じゃ、どうしても超過勤務が常識となってしまう。

 なんて創業時の苦労も、彼らにとっては「お祭り騒ぎ」の楽しさが続いてるような感じだったんだろう。

 やがて『ぴあ』は、単に雑誌を出すだけでなく、「ぴあ展」を皮切りに「」ぴあフィルムフェスティバル」などのイベント開催や、「チケットぴあ」など流通へと進出し…

 ユーミンが荒井由実だった頃。及川正通やおおやちきなど、かつて『ぴあ』を買っていた人には懐かしい名前も続々と登場し、「悲情城市」製作秘話などの意外なネタ、そして『ぴあ』読者すべてが抱く謎・雑誌名命名の謎もある。雑誌『ぴあ』を知る人なら、楽しんで読めるだろう。

 でも、「はみだしYouとPIA」に触れてないのは、やっぱり悲しいぞ。

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2016年7月14日 (木)

グレッグ・イーガン「クロックワーク・ロケット」新☆ハヤカワSFシリーズ 山岸真・中村融訳

生きている者はすべて、光を作る必要があるが、すべての化学反応と同じく、それは危険を伴う事柄だ。

星々を数学でくるみこんで、自分たちの心のなかに引きこむことなど、だれに望めるだろう?

時間は空間におけるもうひとつの方向にすぎない。

<孤絶>は変化をもたらすために存在する。

【どんな本?】

 現代のサイエンス・フィクションの旗手・グレッグ・イーガンが、その本領を存分に発揮した「直交」三部作の開幕編。

 われわれの宇宙とは少しだけ異なる物理法則が成り立つ宇宙を舞台に、そこで生まれ育ち気鋭の物理学者として革命的な理論を打ち立てるヤルダを主人公に、「ちょっとした物理法則の違い」が生み出す異様な世界と、その世界の姿としくみを解き明かしてゆく者たち、そして迫りくる世界の危機を、数式とグラフをたっぷり織り交ぜて描く超硬派のSF長編小説。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Clockwork Rocket, by Greg Egan, 2011。日本語版は2015年12月25日発行。新書版縦二段組みで本文約516頁に加え、著者あとがき3頁+板倉充洋による「『回転物理学』虎の巻」8頁+山岸真の訳者あとがき6頁。9ポイント24字×17行×2段×516頁=約421,056字、400字詰め原稿用紙で約1,053枚。文庫本なら上下巻ぐらいの大容量。

 文章は先の「白熱光」に比べればだいぶ読みやすいが、相変わらず二重否定の文章も多く、相当にクセは強い。たぶんこれは数学者としてのクセなんだろう。

 内容的な難しさは「白熱光」すら越えている。重要な仕掛けは、少なくとも三つある。

 一つは時間と空間の性質で、かなりややこしい理屈ではあるんだが、頻繁にグラフが出てくるため、私は少しだけ理解できた…んじゃ、ないかな。もう一つは「波」の性質で、ほとんどわからなかった。日頃から電波や音波などを扱っている人なら、読み下せるんじゃないだろうか。最後の一つは非ユークリッド幾何学で、私は完全にお手上げでした、はい。

【どんな話?】

 ヤルダが三歳になるころ、祖父のダリオの具合が悪くなった。医者のリヴィアは言う。「深刻な光欠乏症だ。もっと強い自然光の全域が要る。しばらく森で過ごしなさい」。体の大きいヤルダは四足歩行になり、父のヴィトと共にダリオを森へ連れてゆくが…

【感想は?】

 究極の異世界ファンタジイ。

 なんてったって、世界の物理法則からして違う。呪文が云々とか、そんな甘っちょろいモンじゃない。そもそも光の性質からして違うのだ。これは、最初の頁から医師リヴィアの台詞で、読者に「どうも変だな」と思わせるよう示唆している。

「日光は青すぎる」「速すぎて体がつかまえられない。一方、畑の光はあまりに遅い赤ばかり」

 われわれの宇宙だと、光の速さは波長に関わらず一定だが、この世界では違うらしい。われわれの宇宙だと赤は波長が長く青は波長が短い(→Wikipedia)が、この世界では赤は遅く青は速いらしい。この予想は、夜空の星の見え方で裏付けられる。星の光は虹色の尾を引いているのだ。しかも、尾の色の順番は決まっている。

「片方の端が紫色で、順に青、緑色、黄色」

 そう、(われわれの宇宙の)光の波長の短い順に並んでいるのだ。だが、同じ恒星でも、太陽の光は白い。この謎を、ヴィトとヤルダの会話が解き明かしてゆく。

 光が奇妙なのは、それだけではない。草花は、夜になると光りはじめるのだ。ホタルが光るのは雌を引き付けるためだし、アンコウは獲物をおっびきよせるためにチョウチンを光らせる。だが、動けない植物が、なぜ光る? 光を発するにはエネルギーが要る。なぜエネルギーを無駄遣いする?

 エネルギー的に奇妙な事は、他にも幾つかある。例えばヤルダたちの眠り方だ。われわれは温かい布団にくるまって眠る。体から出る熱を逃さないためだ。だが、ヤルダたちは違う。冷えた砂や土に埋まって眠るのだ。熱を逃がすため。

 加えて、病んだ祖父の症状だ。「おじは、祖父の体が夜中に黄色く輝いていたといった」。ヤルダたちの肉体も、バランスを失うと光を発するらしい。この懸念は、祖父ダリオの壮絶な最後で裏付けられる。その原因は不明なままだが。

 エイリアンとしての異様さも、際立っている。ある程度は体を変形できて、腕や脚を増やしたり減らしたりできるらしい。ただし、生やしたばかりの腕や脚は不器用で、巧く動かすには暫く慣らさなきゃいけない。この辺も、ファンタジイとしては実によく考えられている。つまり、ベンフィールドのホムンクルス(→脳の世界)だ。

 腕を動かすのは脳だ。脳が新しい腕を巧く扱えなければ、新しい腕は単なる邪魔者でしかない。肉体だけでなく、それを扱う脳の調整も必要になる。幸いにして、ヒトの脳はこの辺が比較的に柔軟で、棒や箸などの道具を扱い慣れると、脳も道具を体の一部と認識し始めるらしい(ミゲル・ニコレリス「越境する脳」)。

 そんなわけで、祖父を運ぶために四足歩行を始めた時も、ヤルダは暫く慣らし運転をして脳と神経系と筋肉を順応させている。とはいっても、ほんの数分ぐらいで慣れちゃってるから、相当に柔軟な脳だよなあ、と思ったが、体が変形自在なんだから、脳もそうなってて不思議はないよね。

 単位系も独特で、12進法だ。これは恐らくヤルダらの体の形によるものだろう。数を表現する形としては、10進法より便利かも。

 ってな異世界のセンス・オブ・ワンダーは、生殖など他にも幾つかあるんだが、加えて科学そのものが発達していく際のワクワク感も、「白熱光」と同様、アチコチに散りばめられている。

 その最初は、ヤルダが観測所に籠り、星の光を観測する場面だろう。この世界にはコンピュータなんて便利なモノはない。だから、星を観測し記録するには、ヤルダが実際に望遠鏡を操り、観測して、記録を取る必要がある。地味で根気のいる作業だ。だが、この作業を繰り返し、グラフに描いた結果、パターンが見つかったら…

 ほんと、今でこそ、こういった作業は Excel 一発だけど、昔は地味に記録して計算してたんだよなあ。そういった苦労の果てに、綺麗に揃ったデータが手に入った時の気持ちったら。

 こういった地味な観測と、ヤルダの柔軟な発想が生む新理論、そして最近になって増えた現象「疾走星」が、ヤルダと物語を、とんでもない方向へ向けて走らせてゆく。工学的には無茶な気もするが、この世界の重力や物質の硬度次第では、アリなのかな?

 などといった科学的な面白さに加え、リベラルなイーガンらしい発想が、人間?ドラマを介して発揮しているのも特徴だろう。ヤルダたちの独特な生殖方法を通して見える奇矯な社会構造、陰険な政治抗争、そして学者同士の意地の張り合い。新しい説が主流となるには、たとえ物理の世界でも、世代交代が必要だったりする。

 まさしく「俺たちの旅は始まったまかりだ!」で終わる物語。この先、どんな宇宙を見せてくれるのか。どんな冒険と危機が待っているのか。どんな発見があるのか。今年中に続きが出るとのことなので、楽しみに待っている。

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2016年7月11日 (月)

Diomidis Spinellis, Georgios Gousios編「ビューティフルアーキテクチャ」オライリージャパン 久野禎子・久野靖訳 3

出現時には難しいと考えられていた革新的なアイデアが、教育者がその説明方法を開発するにつれて、主流にとけ込んで行く可能性はあります。
  ――13章 ソフトウェアアーキテクチャ:オブジェクト指向対関数型(バートランド・メイヤー)

 Diomidis Spinellis, Georgios Gousios編「ビューティフルアーキテクチャ」オライリージャパン 久野禎子・久野靖訳 2 から続く。

【9章 JPC:ピュアJavaのx86PCエミュレータ(ロシ・ニューマン,クリストファー・デニス)】

このプロジェクト全体を通じて50万行以上のコードが書かれてきました。このうち、現在も残っているのはわずか8万5千行です。

 Java で x86 PC をエミュレートしましょう、という無謀な計画のお話(→Wikipedia)。なんでJavaかというと、CやC++だと、新しいCPUやOSが出てきたらコンパイルし直さなきゃいけないけど、JavaならVMさえありゃイケるじゃん、と。あとエミュレータにセキュリティ・ホールがあったら怖いし。JavaならVMがガードしてくれるよね。

 多くの人がまず考えるのは、「遅くて使い物にならないんじゃね?」って事。そんなわけで、紙面の多くを「いかに Java で高速化するか」に割いているため、速度を追及する Java プログラマには嬉しい章だろう。

 そこで参考になるのが、まずは簡単な「おもちゃCPU」を作り、性能を試している点。C言語を gcc でコンパイルし作ったプログラムと比べ、最初は約千倍の遅れをとっていたのが、最適化で同等の性能に引き上げている。こういう「封筒裏の計算」的な作業って、大事だよね。

 クラス構成はご想像のとおり、「ハードウェア仕様とJavaクラスの間で1:1に対応して」るんだけど、やはりCPUが問題。特にプロテクト・モードには苦労したようで。

 肝心の高速化じゃ、ガベージ・コレクタが最初に挙がってて、「オブジェクト生成はよくない」ときた。だってガベージ・コレクタが動き出したら止まっちゃうし。

 メソッド検索も狙いどころで、interface より instanceof のが速い。instanceof は配列参照だけど、interface は配列の探索だとか。同じ理由で、メソッドはなるたけ static に。つかメソッドの探索なんて、コンパイル時に解決するんだと思ってた。あと、実行時最適化はメソッド単位なんで、メソッドッはなるたけ小さくしましょう。

 実はクラスもガベージ・コレクトの対象なんだけど、変なクセがある。ゴミ集めはクラスローダ単位なのだ。そのクラスローダがロードしたクラスのインスタンスが全部ゴミになるまで、そのクラス全部がメモリに留まる。ってんで、クラスローダがロードするクラスの数を減らしましたとさ。

 switch 文も tableswitch はいいけど lookupswitch は困るとか。これも配列の参照でイケるか、それとも探索せにゃならんかの違い。

 意外なのが例外を使うよう薦めてる点。例外が起きた時は遅くなるけど、起きなきゃ速い。だから、滅多に例外が起きないなら、例外で対処した方が速いそうな。

【10章 Jikes RVM:メタサーキュラーな仮想マシンの威力(イアン・ロオジャーズ,デイブ・グローブ)】

Jikes RVM はJavaアプリケーションを実行するための仮想マシンであり、Javaで書かれています。

 JavaでJITコンパイラ(→Wikipedia)とJavaVMを作る話。ここでも実行速度が大きな話題で。

 なるほど、と思ったのが、「実行時じゃないと最適化できない所もあるよ」って話。最適して効果があるのは、頻繁に走るコード。でも頻繁に走るかどうかは、走らせてみないとわからない。だったら走らせながら使われ方を見て、よく使う所を自動的に最適化すりゃいいじゃん、と。

 Jikes RVM だと、まずお馬鹿なコンパイラが直訳風にコンパイルする。最初はコンパイル速度を節約するわけ。で、何度も使われるようなら、じっくり時間かけて最適化してく。

 この動きを外から見ると、作業に慣れるに従って、最初はトロトロしてたのが、だんだん手早くできるようになる、みたく見えるんだよなあ。JavaでAIを作ったら、そういう人間臭い性質を持つようになるんだろうか。

 ここでもガベージコレクトは大事で、複数の方法を用意してる。基本はマーク&スイープ(→Wikipedia)だけど、きっと整数や文字とかの小さくてサイズが決まったモノは、別の方法なんだろう。

【11章 GNU Emacs:斬進的機能追加方式が持つ力(ジム・ブランディ)】

誹謗中傷する人たちは、Emacs はわかりにくく、複雑で、Microsoft Visual Stdio などのより広く使われている開発環境に比べて時代遅れだと言います。熱狂的支持者たちでさえ、自分たちの手首の損傷は手をひねらなければならないようなコマンド群のせいだと言っています。

 そりゃ META キーなんか使うのは Emacs ぐらいだしw ということで、vim と終わりなき戦いを続ける巨大エディタ Emacs(→Wikipedia) のお話。いきなしニール・スティーヴンスンなんて名前が出てくて、「あれ?何のほんだっけ?」と驚き、続いて Emacs の悪口が出てきてニヤリとする章。

 巨大なだけに起動も思いのが難点。それは著者もわかってて。

Emacs はあなたが仕事をはじめるときに1回起動し、その後ずっと実行したままにしておくというものなのです。

 と、有り難いアドバイスをくれる。まあ言われなくても、暫く使えば、自然とそういう使い方になるんだけど。

 Emacs の最大の特徴は、その機能の大半が Emacs LISP によって書かれている点。極論すると、Emacs は Emacs LISP のインタプリタだったりする。お陰で、使う人も勝手に機能をすげ替えたり追加したりできる。欲しい機能を Emacs LISP で書けばいいのだ。

 こういう「専用インタプリタを用意して、機能を増やしたかったら後で書けばいいじゃん」的な発想、私は大好きなんだけど、あなたどうですか?もちろん、文法は LISP で。

 驚いたのが、「Emacs LISP にはプログラムをモジュール化する方法がありません」って話。じゃ名前が衝突しちゃいそうなもんだが、「その代わり、名前の付け方が確立」している、と。言語仕様で縛るんじゃなく、運用ルールで避けるわけ。きっとRMS(→Wikipedia)の趣味なんだろうなあ。

【12章 バザールが伽藍の建築に乗り出す時(ティム・アダム,ミルコ・バーム)】

一部の開発者たちは、大部分の操作が、たとえばネットワーク経由でマウントされたファイルシステムから読むなどの、CPU上で行うどのような操作より数千倍遅い操作でさえ、同期的に実行しても構わないくらい高速だと考えているように思えます。

 簡単に使えるモノは、中身も簡単だと思っちゃうんだよね、人間って。マウスカーソルを表示して、マウスの動きに合わせてカーソルを動かすってだけでも、実は相当に高度な技術と計算量を費やしてるんだけど。

 この章は、主に X Window System で動くデスクトップ環境 KDE(→Wikipedia)がテーマ。タイトルは有名な「伽藍とバザール」のモジリ。これでわかるように、内容の多くは開発者同士の調整をどうするか、みないな話に費やしてる。曰く…

巨大なフリーウェアプロジェクトに関して一層やる気をくじくのは、社会的かつ調整的な側面です。

 システムとしては PIM(Personal Information Management,個人情報管理→Wikipedia)。メールやスケジュール表やアドレス帳を含む雑多なシロモノ。世間じゃ IMAP(→Wikipedia)や LDAP(→Wikipedia)や maildir(→Wikipedia)など新しいプロトコルやサービスやデータ構造が登場し、またメールもテキストのみから HTML や暗号化など要求が増えるばかり。

 これに対応する過程で、コードは魑魅魍魎が潜む腐海と化してゆく。そんな所に道案内もなく踏み込む無謀な者はいなくなり、残るは古参の勇者ばかり。不快な開発は開発者の機嫌も損ね、開発コミュニティは殺伐とした雰囲気が漂い、開発も停滞ぎみとなり…

 ってな状況を、いかに健全な方向に変えたか、みたいな話が語られてゆく。

 ネックの一つは巨大に膨れ上がったアドレス帳。これを昔はプロセスごとにロードしてたんで、無駄にメモリを食ってた。「サーバ・クライアント型にすりゃいいじゃん」と思うんだが、そうするとロックや競合の問題が出てくる。

 色々あって、PostgreSQL(→Wikipedia)やライバル GNOME(→Wikipedia)の Evolution(→Wikipedia)が新しい風を吹き込むあたりが楽しい。にしても BLOB(→Wikipedia)かあ。今なら XML データベースを検討するんじゃないかなあ。

【13章 ソフトウェアアーキテクチャ:オブジェクト指向対関数型(バートランド・メイヤー)】

 以下ではオブジェクト指向と関数型の2つのアプローチを、先に概要を挙げたソフトウェアアーキテクチャの評価基準に基づいて、比較します。その結果としては、両者のアプローチは相補的だとわかります。

 ということで、オブジェクト指向 vs 関数型という、野次馬が集まりそうな話題。ちなみに筆者はややオブジェクト指向より。なんたってオブジェクト指向側の代表が Eiffel(→Wikipedia)ってのがマニアック。

 いずれにせよ、取り組んでる問題は同じだ。n種類のデータ構造に対し操作がm個必要なら、プログラムはn×m個必要になる。システムが大きくなると、必要なプログラムの数は凄まじい勢いで増えてゆく上に、ちょっとした変更や機能追加も大きな手間になる。これをどう解決するか、って問題。

 ここで型に注目したのがオブジェクト指向で、操作(関数)に注目したのが関数型。はいそこの君、「じゃCLOS(→Wikipedia)最強じゃん」とか身もふたもない事を言わないように。いずれにせよ共通してるのは、「コピペは悪」って思想。だって元にバグがあったらコピペ先も直さなきゃいけないし。

 なお、この章と次の章では、デザインパターン(→Wikipedia)が重要な基礎になっているので、GoF本(→Wikipedia)を予習しておこう。

【14章 古典再読(パナギオティス・ロウリーダス)】

(フランク・ロイド・)ライトの晩年の偉業であり、AIAの人気投票で「アメリカ建築の空前の傑作」に輝いた、ペンシルバニアの落水荘(→Wikipedia)は、その名に恥じず、漏水が悩みの種です。漏水で窓と石壁の美しさは台無し、構造コンクリートも劣化しています。(略)
本当にゴージャスで影響力のある建物ですが、住めないのです。

 古典本の紹介かと思ったら、なんと Smalltalk および現代に蘇った実装 Squeak(→Wikipedia)の話。当時はセレクタとかメソッドとか聞いても何の事かわかんなかったけど、これ読んで少しわかったような気が。

 LISP が「すべてはリスト」であるように、Smalltalk は「すべてはオブジェクト」。当然、クラスもオブジェクトなわけで、じゃクラスのクラスは何かというと…みたいな問題が出てきて、その辺を Smalltalk がどう解決してるかってグラフが出てるんだが、これが実に入り組んでてややこしい。

 表向きは綺麗なんだけど、その裏側じゃ綺麗さを保つために大変な事をやってるわけ。それでもちゃんと動いて使えるから大したもんだけど、残念な事に閉じた世界に引きこもってたからなあ。

【おわりに】

 最後は、最終章にあった耳に痛い引用で〆よう。歯ごたえはあるが、相応しい中身を伴った本だった。

実際、デザイン手法を研究していて、デザインの実装を同時に行っていない人は、ほとんど常に、ものを形作る熱い気持ちを失い(ないし持ったことがなく)、活力のない、屈折したデザイナーです。

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2016年7月10日 (日)

Diomidis Spinellis, Georgios Gousios編「ビューティフルアーキテクチャ」オライリージャパン 久野禎子・久野靖訳 2

膨大なドキュメントを作成したり作業者に規約を強制したりするというものもありますが、これが長期に渡ってうまくいくことはほとんどありません。
  ――序文

 Diomidis Spinellis, Georgios Gousios編「ビューティフルアーキテクチャ」オライリージャパン 久野禎子・久野靖訳 1 から続く。

【1章 アーキテクチャとは何か?(ジョン・クライン,デビッド・ワイス)】

グループ化を行う際の指針の1つに、「あるレイヤのプログラムは1つ上のレイヤのプログラムと比較して、およそ10倍高速かつ10倍の頻度で使用されるようなものであるべきだ(Courtois 1977)」というものがあります。

 「アーキテクチャ」という、あいまいな言葉を巡る話。

 元は建築様式を意味する言葉だそうな(→Wikipedia)。今はIT関係の設計や構造を示す場合が多いけど(→Wikipedia)。最後の小話「アーキテクトとは何か?」が、本書の言う「アーキテクチャ」を、巧く伝えている。

 ティム・バーナーズ・リーの Web の発想は、確かに見事だっだ。何が凄いといって、決めたのはプロトコルだけって潔さが凄い。加えて1回ごとにセッションを切っちゃうのも。小さく生んで大きく育てた好例だよなあ。

【2章 2つのシステム:今風ソフトウェア物語(ピート・グッドリッフ)】

時間があり過ぎると、プログラマというのは最高傑作を創作しようとするものです(最高傑作というものは、いつも大体のところまではいきますが、きちんと形になることはない、というのが常です)。

 一部のミュージシャンもそうだけどね。お前の事だよトム・シュルツ。

 開発する組織の構造が、出来上がるシステムの構造に反映する、というお話。開発チーム内の派閥が、まんまモジュール構成に反映するとか、まるでどこぞの銀行のシステムみたいだ。いや詳しくは知らないけど。

 また、目指す市場や開発の目的がハッキリしないため、あれもこれもと機能を詰め込んだ結果、アチコチに魔物が潜む迷宮ができあがるとかは、よく聞く話。これに対しては…

設計上の決定は、その決定を「しなければならない」時まで延期するべきです。まだ要求がわかり切らないうちにアーキテクチャに関する決定を行ってはなりません。想像で進めてはいけません。

 と、実にもっともな事を言ってるんだが、日本の組織ってのは無駄に意思決定が遅いんだよなあブツブツ…

【3章 スケーラビリティのためのアーキテクチャ設計(ジム・ウォルド)】

クライアントはユーザやプレーヤの制御下にあることが前提であり、本来のクライアント側コードを別の「カスタマイズ」されたバージョンのコードにすげ替えることも容易なので、クライアント側にあるコードは信頼できないものとして扱う必要があるのです。

 マルチプレーヤ・オンラインゲームのプラットフォーム、ダークスター(→英語版 Wikipedia)の話。

 ゲームは当たり外れが大きくて、当たれば数百万人が使うけど、外れたら十数人しか来ない。じゃ、サービス開始時には何台ぐらい用意すればいい?

 ってな事情から、「最初はサーバ数台でサービスを始めて、当たったらサーバを増やせるようにしよう」となり、それをどう実現したか、という話でもあり、同時に、マルチプレーヤ・オンラインゲームならではの事情も面白い。

 最初の引用は、つまりチート対策。そういう配慮が必要なわけ。またビジネス系のシステムはサーバ側の処理が大きくてクライアントは貧弱だけど、ゲームは逆とか。またゲーム開発者とサーバ設計者の考え方の違いも興味深かったり。

 サーバ負荷の分散だと、エリア分割が巧い。ゲーム内世界を複数のエリアに分割し、各エリアごとにサーバを用意する。エリアが混んでくるとサーバの負荷が高くなり反応が悪くなるんで、客は自然と他のエリアに逃げ出すんで、自然と負荷が調整される。もっとも、逃げ出す先は他のゲームかもしれないのが、困ったところw

【4章 メモリーを作る(マイケル・ニガード)】

「素早く失敗、はっきり失敗」

 テーマは Lifetoutch Portrait Stdios。アメリカの写真館チェーン向けのサービス。

 日本だと、駅前とかにある写真館を思い浮かべてほしい。七五三や成人式や結婚式などの記念日に、おめかしした顧客が写真館に来る。写真館では、スタジオでプロのカメラマンが記念写真を撮り、後日顧客がプリントしたモノを受け取る、そんなサービスだ。

 写真ったって最大60cm×70cmぐらいのポスターサイズになる時もあるんで、ピントはバッチリあってなきゃいけない。よって撮影はプロのカメラマンの仕事。撮った写真はDVDに焼き、印刷施設に送る。プリンタは専用の高価なもので、写真館の店舗には置けないのだ。印刷施設で印刷したら、店舗に写真を送り返す。

 また、撮った写真をセピア調にしたりリスマス風の背景にしたり、多少の加工をする時もある。プリクラみたいな雰囲気かな?

 店舗は全米各地にあるんで、開発者が現地に行ってサポートとかは、いちいちやってらんない。店舗で端末をいじるのはカメラマンやパートのオバチャンで、コンピュータの素人なんで、あんまし難しい事はできない。などの泥臭い話が多いが、それが楽しかった。

 冒頭の引用は、写真のレンダリング・エンジンの話。レンダリングたって印刷用のデータはモニタ表示用より1~2桁ほど解像度が高く、当然データ量もデカくなり、処理時間がかかる。だもんで、途中で止まるのは、実に腹立たしい。どうせ止まるなら、早いうちに止まってくれ。

 あなたも経験ありませんか。デカいソフトをインストールしたら、数時間かかった挙句に「××が足りない」とか言われて異常終了しちゃった経験が。「わかってんなら最初に言ってくれよ」とか思うよね。まして印刷中なら、インクも無駄遣いする羽目になるし。

 ってんで、そういう設計にしました、という事。某MSも見習ってほしいもんです。

【5章 リソース指向アーキテクチャ:「Web上にある」こと(ブライアン・スレッテン)】

IT産業に携わる者として大変恥ずべき事実を、私たちは認めざるを得ません。すなわち、自分たち独自のシステム上で情報を見つけるよりも、Web上で情報を見つける方がずっと簡単というのが、大半の組織にとっての現実だということを。

 「社内LANよかGoogleのが使えるよね」って、それ言っちゃらめえw 私もこのブログで自分の書いた記事を探す時に、Google で探したりするし。

 とは言うものの、肝心の内容については、実は何が言いたいのかよくわかんなかった。Persistent URL(→はてなキーワードpurl.org)の話らしい。

【6章 データの成長:Facebookプラットフォームのアーキテクチャ(デビッド・フェターマン)】

 今をときめく Facebook の登場。スケーラビリティより、サード・パーティ向けのインタフェースをどうするか、みたいな話。また、個人情報を扱うだけに、セキュリティも大事な要素になる。サードパーティーと連携できる自由度と柔軟性を持ちつつ、個人情報のセキュリティを維持するにはどうするか、みたいなテーマ。

 この人は言語を作るのが好きみたいで、最終的には「専用の言語を作ればいいよね」となるのが楽しい。ってんで、紹介してるのが、SQL の Select 文風の問い合わせ言語 FQL と、HTML 風の Facebook 専用マークアップ言語 FBML。確かに、言語にしちゃうってのは、自由度と柔軟性とセキュリティをバランスさせる巧い方法かも。

【7章 Xenと仮想化の美(デレク・マレイ,キア・フレイザー)】

コンピュータサイエンスの問題は何でも、1つのレイヤを追加して間接性を導入することで解決できる。しかし、そうするとまた別の問題が生まれるのが普通である。
  ――ダビッド・ウィーラー(David Wheeler)

 Amazon EC2 などで使われている仮想マシンのプラットフォーム、Xen(→Wikipedia)のお話。安全性と実行速度、そして堅牢性をどう維持するか。

 なにせOSの話なので、CPUの特権モードだの入出力のDMA(→Wikipedia)だのと言った、低レベル=ハードウェアに近いネタが出てくるのが嬉しい。DMAは特別なプロセス(ハイパバイザ)がバッファを持ち、そこを各VMと共有したり、複数イベントをまとめて処理したり、細かい工夫の話が燃える。

 開発してたら Intel と AMD が仮想マシンサポート機能をCPUに組み込んだ上に、必要なコードまで貰えたというから、向こうの企業は肝が太い。

【8章 Guardian:フォルトトレラントなOS環境(グレッグ・レーシー)】

 不沈コンピュータ Tandem(→Wikipedia)改め NonStop(→Wikipedia)の設計を、ハードウェアと低レベルのソフトウェアを中心に語る。

 フォルトトレラントとは、滅多に止まらないこと。CPU やディスクなど全ての要素を2つ以上持ち、どれか一つが壊れても動き続ける頑丈なシステムの話。なにせ16ビット機から話が始まるため、ちょっと懐かしかったり。

 なにせ50センチ四方のボードに乗っかるメモリが最大1Mとか。でもコアメモリ(→Wikipedia)はさすがに見た事ないなあ。当然、16ビットじゃ64kbまでしかアドレッシングできないんで、色々なアドレッシング・モードを用意してる。ワードって言葉も懐かしい。ちなみにこの章だと、1ワード=2バイト=16ビット。

 やはり低レベルの話が面白い。環境レジスタのビット構成も鼻血が出そうだが、ディスクのアクセスでヘッドのタイミングが問題になるあたりは、「おお、懐かしい!」と叫びそうになったり。ディスクだと、階層ディレクトリがないフラットなファイル・システムも懐かしい。昔はソレが珍しくなかったんだよなあ。

 にしても、checkpoint 機能は羨ましい。任意の時点で、プロセスをバックアップできるのだ。デバッグ中には使いまくりな気がする。

【おわりに】

 次の記事に続く。

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2016年7月 8日 (金)

Diomidis Spinellis, Georgios Gousios編「ビューティフルアーキテクチャ」オライリージャパン 久野禎子・久野靖訳 1

 ひとことで言えば、美しいアーキテクチャは、より少ないものでより多くを成し遂げるのです。
  ――序文

【どんな本?】

 IT技術者にはお馴染みオライリー社による、「ビューティフル」シリーズ第二弾。今回は「アーキテクチャ」をテーマに、様々な相反する制約条件を満たすシステムの構造やアイデア,開発手法やコツなどを、有名なエンジニアが惜しげもなく秘儀を披露する。

 取り上げるテーマは、経済性と拡張性が求められる大規模オンライン・ゲーム開発環境の Darkstar,安全性と公開性と柔軟性のバランスを取った Facebook, 移植性と実行速度の両立に悩む仮想マシン Xen,16ビットマシンながら究極の不倒性を誇った Tandem16,Java-VM の速度の限界に挑む JPC,もはやエディタなのかOSなのかわからない巨大システム GNU Emacs など、オールスター・キャスト。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Beautiful Architecture, by Diomidis Spinellis and Georgios Gousios, 2009。日本語版は2009年11月24日初版第1刷発行。私が読んだのは2009年12月25日発行の初版第2刷。単行本ソフトカバー横一段組みで約404頁。8ポイント48字×38行×404頁=約736,896字、400字詰め原稿用紙で約1,843枚。文庫本なら3~4冊分の巨大容量。

 ハッキリ言って文章は直訳風で、慣れていないと厳しい。内容もコードがバチバリ出てくる上に、扱う範囲も運用やサービスからCPUのメモリ管理方式まで幅広いので、全てを読みこなすのはまず無理。自分が興味を持てて理解できる章を拾い読みするといいだろう。

【構成は?】

 竹内郁雄の推薦の言葉では「まず『はじめに』まで読み、そのあとは読みたいところから拾い読みするのがよいとある。また訳者も「まえがき」で「本書は1章から読まない方がいいですよ」と釘をさしている。

 それぞれの章は完全に独立しているので、推薦者・訳者のアドバイス通り、美味しそうな所からつまみ食いしよう。私は頭から読んだけどw

  • 推薦のことば/訳者まえがき
  • 序文(スティーブ・J・メラー)
  • はじめに
  • 第1部 アーキテクチャについて
    • 1章 アーキテクチャとは何か?(ジョン・クライン,デビッド・ワイス)
      はじめに/ソフトウェアアーキテクチャを作る/アーキテクチャ的構造/良いアーキテクチャ/美しいアーキテクチャ/謝辞/参考文献
    • 2章 2つのシステム:今風ソフトウェア物語(ピート・グッドリッフ)
      メトロポリス~錯綜大都市~の物語/デザインタウン~整備都市~の物語/ということで?/次はあなた/参考文献
  • 第2部 エンタプライズアーキテクチャ
    • 3章 スケーラビリティのためのアーキテクチャ設計(ジム・ウォルド)
      はじめに/背景/アーキテクチャ/アーキテクチャについて
    • 4章 メモリーを作る(マイケル・ニガード)
      機能と制約/ワークフロー/アーキテクチャのファセット/ユーザの反応/結論/参考文献
    • 5章 リソース指向アーキテクチャ:「Web上にある」こと(ブライアン・スレッテン)
      はじめに/従来のWebサービス/Web/リソース指向アーキテクチャ/データ駆動アプリケーション/リソース指向アーキテクチャの適用/結論
    • 6章 データの成長:Facebookプラットフォームのアーキテクチャ(デビッド・フェターマン)
      はじめに/ソーシャルWebサービスを作る/ソーシャルデータクエリサービスを作る/ソーシャルなWebポータルを作る:FBML/システムのために機能をサポートする/まとめ
  • 第3部 システムアーキテクチャ
    • 7章 Xenと仮想化の美(デレク・マレイ,キア・フレイザー)
      はじめに/Xenoservers/仮想化の試練/準仮想化/変化するXen/ハードウェアの変化とXenの変化/学んだこと/参考文献
    • 8章 Guardian:フォルトトレラントなOS環境(グレッグ・レーシー)
      Tandem16/:いつの日か、すべてのコンピュータはこの用に作られる/ハードウェア/機器配置/CPUアーキテクチャ/プロセサ間バス/入出力/プロセス構造/メッセージシステム/ファイルシステム/思い出/マイナス面/後継システム/参考文献
    • 9章 JPC:ピュアJavaのx86PCエミュレータ(ロシ・ニューマン,クリストファー・デニス)
      はじめに/概念の証明/PCアーキテクチャ/Java実行性能のためのヒント/4GBのうえに4GB:うまくいかない問題/プロテクトモードの問題/負け戦を戦う/JVMをハイジャックする/最高のフレキシビリティ/究極のセキュリティ/2度目は良くなる
    • 10章 Jikes RVM:メタサーキュラーな仮想マシンの威力(イアン・ロオジャーズ,デイブ・グローブ)
      背景/実行環境を取り巻く神話/Jikes RVMの歴史概観/自己ホスティングな実行環境をブートストラップする/実行時の構成要素/学んだこと/参考文献
  • 第4部 エンドユーザアプリケーションのアーキテクチャ
    • 11章 GNU Emacs:斬進的機能追加方式が持つ力(ジム・ブランディ)
      Emacsを使う/Emacsのアーキテクチャ/斬進的機能追加方式/その他のアーキテクチャ2つ
    • 12章 バザールが伽藍の建築に乗り出す時(ティム・アダム,ミルコ・バーム)
      はじめに/KDEプロジェクトの歴史と構造/Akonadi/ThreadWeaver
  • 第5部 プログラミング言語とアーキテクチャ
    • 13章 ソフトウェアアーキテクチャ:オブジェクト指向対関数型(バートランド・メイヤー)
      概観/例題/関数型ソリューションのモジュラリティ評価/オブジェクト指向の視点/オブジェクト指向のモジュラリティの評価と改善/エージェント:オブジェクト内部に計算をラップする/参考文献
    • 14章 古典再読(パナギオティス・ロウリーダス)
      すべてはオブジェクトである/型は暗黙のうちに決められる/問題点/レンガとモルタルのアーキテクチャ/参考文献
  • あとがき(ウィリアム・J・ミッチェル)
  • 著者・編者紹介/索引

【感想は?】

 長くなるので、感想は次の記事から。

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2016年7月 6日 (水)

SFマガジン2016年8月号

時代は、書いた途端から作品を追い抜こうとしています。これは、SFが現実になる時代の現代小説なんだ、ということです。
  ――川端裕人×野田篤司 『青い海の宇宙港』を飛び立つまで

 376頁の標準サイズ。特集は「ハヤカワ・SF・シリーズ 総解説」。

 小説は7本。連載は夢枕獏「小角の城」第39回,冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第10回,川端裕人「青い海の宇宙港」最終回。読み切りは谷甲州「イカロス軌道」,伏見完「あるいは呼吸する墓標」,宮澤伊織「裏世界ピクニック」。加えてダン・シモンズ「ウルフェント・バンデローズの指南鼻」前編は酒井昭伸訳。

 特集「ハヤカワ・SF・シリーズ 総解説」。いわゆる銀背ですね。

 ヴェルヌの「海底二万リーグ」なんてのも出してたのか。ルイス・パジェットの「ミュータント」は面白そう。映画「遊星からの物体X」で有名なジョン・W・キャンベル「影が行く」も読みたい。今は創元SF文庫のアンソロジーで読めるなあ。ヘンリイ・カットナー「ボロゴーヴはミムジイ」、表題作や「トオンキイ」の名前だけは聞いたことがあるんだが、手に入れるのは難しそう。

 高橋良平「ハヤカワ・SF・シリーズの歴史」。銀背ばかりでなく、日本でのSF出版黎明期の状況も大事な背景としてわかりやすくまとめてある。あまり顧みられないけど、都築道夫の貢献も大きいみたい。またSF用語を日本語に移し替えるのに苦労した模様。別の見方をすると、当時の訳者のセンスが今日のSF用語にも生きてるって事かな。

 川端裕人「青い海の宇宙港」ついに最終回。駆たちが島の者を巻き込み作り上げたロケットが、いよいよ打ち上げにまでこぎつけた。希実も萌奈美も、そして落ち着いたフリをしている周太も興奮を隠せない。駆の父母も、そして弟の潤も島にやってきた。そして始まるカウントダウン。

 今回も、打ち上げ前の準備の描写が、静電防止靴など細かい所まで具体的なのが迫力を増している。フィナーレだけあって、今までの登場人物が勢ぞろい。にしても、駆の母ちゃんの台詞が、いかにも母ちゃんらしいw 単にロケットだけでなく、川やガオウ、そして島の社会まで描き切った、この作者わしい気持ちのいい作品だった。

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第10回。<ホスピタル>を奪おうと乗り込んだハンターに、奇怪な子供たちが襲い掛かる。そこに駆け付けた<クインテット>。

 今回は、エンハンサー同士のバトルで始まる。今までバラバラに動いていたメンバーが、再び終結する流れは、やっぱり盛り上がるなあ。対する異形の子どもたちの能力も、なかなか禍々しい。何かとハンターに執着するシルヴィアが可愛らしいい。均一化しても感情は消えないんだね。

 谷甲州「イカロス軌道」はお馴染みの新・航空宇宙軍史。土星の外側軌道で哨戒中の特設警備艦プロメテウス03は、早期警戒システムによる警報を受ける。重力波センサが、太陽系外縁を高速移動する重力波源をとらえたのだ。データを見ると、途方もなく巨大な航宙船が高速移動しているように見える。

 つい最近に観測されたばかりの重力波(国立天文台LIGOによる重力波直接検出について)なんてホットなネタを使いつつ、あまり信用できない観測機器とデータを基に、敵の思惑と動きを読もうとする、いわゆる「戦場の霧」(→Wikipedia)に立ち向かう軍人の話。僚艦との連携が期待できず、独自の判断・行動が求められる点では、潜水艦に似てるかも。

 伏見完「あるいは呼吸する墓標」。遠い未来。ヒトは体内に様々な医療ファームウェアを持ち、医学的恩恵を手に入れた。ファームウェアを管理するAReNAは、その代償としてヒトの大脳の計算力を得る。妹の未鳴は、砂漠で歩く死体を見た、という。補助筋肉の出力が100%なら、あんな歩き方になる、と。

 ヒトはAReNAに頼り、AReNAはヒトを頼る。読み終えて改めて考えると、互いが互いを支える共生関係のように思えるが、未鳴の語る「砂漠で歩く死体」の風景の印象が強烈で、救いようのない終末に向け静かに歩んでゆく物語のように感じてしまう。

 ダン・シモンズ「ウルフェント・バンデローズの指南鼻」前編、酒井昭伸訳。ジャック・ヴァンスの<滅びゆく地球>シリーズのトリビュート。このシリーズを読むのは初めて。遠い未来。太陽は赤く膨れ上がり、一日は伸びてゆく。災厄が降り続く地球で、魔法関係者は迫害される。究極の図書館を持つウルフェント・バンデローズの死を知った魔界学者シュルーは…

 翼妖ペルグレーン,<魔界>,徘徊性アーブなど、出てくる仕掛けはSFというよりファンタジイ。出てくる輩はみんな一癖も二癖もある曲者ばかりなのが、ヴァンスらしい。肝心の<究極の図書館>も、魔法により書物を読めるのは主のウルフェント・バンデローズだけ、という意地悪さ。いい根性してます。

 宮澤伊織「裏世界ピクニック」。19歳の女子大生、紙越空魚は、<裏側>の草原で死にそうになっていた。白いくねくねしたアレを見ると、気分が悪くなって力が抜けるのだ。そこに現れたのは、同じぐらいの年頃の娘、仁科鳥子。彼女の機転で危機は脱したものの…

 異界といっても馴染みのRPGの世界ではなく、異様で物騒なシロモノが潜んでいる危ない世界。くねくね(→Wikipedia)や異世界エレベーター(→Naverまとめ)を絡め、コミック風に物語が進む。仁科鳥子の正体など謎は多く、長いシリーズの冒頭みたいだなあ。諸星大二郎の「栞と紙魚子シリーズ」を思い浮かべた。

 椎名誠のニュートラル・コーナー「世界の大河は頑固でときに幻想的に優しい」。メコン川のドンダイ漁がのんびりしているような、豪快なような。定置網みたいな感じなんだけど、この網の見張り役が引きこもりにピッタリの仕事。川のなかに建った二畳ほどの小屋に、12日間一人で籠りっぱなしで暮らすのだ。

 ジョン・ヴァーリーの「ブラックホール通過」とか、宇宙の彼方の観測基地などでたった一人で暮らす観測員の話はあるが、まさか地球上で似たような仕事があるとは。

 ≪蒲公英王朝期≫第一部刊行記念 ケン・リュウ・インタビュウ “シルクパンク”を描く。「短編は彫刻に似て、長編は建築に似る」ってのが、いい得て妙。中国とアメリカ両方の文化に触れた人だけに、「龍はドラゴンじゃないし火の鳥はフェニックスじゃない」と、アメリカ人の中で既に出来ちゃった中国のイメージを払拭する工夫を凝らしているとか。

 鳴庭真人のNOVEL&SHORT STORY REVIEW「戦略・戦術SF」、今回の目玉はアンドリュー・グローン「Empire of EVE」。2003年に始まったオンライン・ゲームの EVE での抗争を物語風にまとめたノンフィクション。EVE は星団内で暮らし、または徒党を組んで覇を競うゲーム。

 面白いのは、サーバ遅延も「潮や風向きのような自然現象」とプレイヤーが考えてる点。「これを考慮に入れない作戦指揮官は無能とされてしまう」。もう完全に世界に入り込んでるなあ。しかも徒党の指導者が銀英伝でいう「トリューニヒトやオーベルシュタインばかり」ってのがw

 鹿野司「サはサイエンスのサ」。今回は珍しくベーシック・インカム(→Wikipedia)の話。これが最新テクノロジーと何の関係があるかというと、AIが絡んでくる。自動車が自動運転できればタクシーの運ちゃんが仕事を失うように、情報技術が進めば職が減り貧富の差が大きくなる。これを防ぐ方法の一つがベーシック・インカムだろう、と。

 今の所AIは「碁に勝つ」とか「自動車を運転する」とかの比較的にハッキリした狭い目的にしか対応してないし、日本でも自動販売機の発達が店員さんの職を奪ったかというと意外とそうでもないんで、暫くは大きな影響はなさそうだけど、先の事はわからないからなあ。

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2016年7月 3日 (日)

ジョーゼフ・ヘラー「キャッチ=22 上・下」ハヤカワepi文庫 飛田茂男訳

彼は文学についてあらゆることを知っていた――文学をいかに楽しむかということ以外ならば。

「ドイツ軍はいま追い立てられておる。そしてわしらは相変わらずここにおる。二、三年もたてばあんたがたもいってしまうじゃどうが、わしらはやはりここにおるじゃろうて」

「本官らは本官らのいまだ知らぬ犯罪や過失をおかしたかどによっておまえを告発する」

「おれとあらゆる理想とのあいだに、いつも幾人ものシャイスコプフども、ペケムども、コーンども、キャスカートどもが立ちふさがっているのをおおれは感じるんだ。そして、言ってみればそれが理想を変えてしまうんだな」

【どんな本?】

 アメリカの作家ジョーゼフ・ヘラーによる、第二次世界大戦中の米軍を舞台とした、不条理とブラック・ユーモアあふれる戦争小説。

 第二次世界大戦のイタリア戦線。米軍は地中海に浮かぶピアノーサ島(架空)に航空基地を置き、激しい対空砲火にもめげず連日の出撃を続けているが、隊員はみなイカれていた。

 連隊長のキャスカート大佐は昇進のために責任出撃回数を増やして隊員の帰国を認めず、冗談で少佐にされたメイジャーは人を避け、CID(特捜部)が捜すワシントン・アーウィングは何処かに潜伏し、ペケム将軍は正装での爆撃出撃を画策、マイローはマルタで7セントで買った卵を5セントで隊に売っている。

 帰国を望むヨッサリアン大尉は狂気を装い、さまざまな奇行に走るが、謎の規則キャッチ=22に阻まれ…

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は CATCH-22, by Joseph Heller, 1961。日本語版は1977年3月にハヤカワ文庫NVより刊行。私が読んだのは2016年3月15日発行のハヤカワepi文庫版。文庫本の上下巻で縦一段組み、本文約(436頁+415頁)=851頁に加え、訳者あとがき6頁+訳者による「『キャッチ=22』の時間構成について」9頁+松田青子の解説7頁。9ポイント41字×18行×(436頁+415頁)=約628,038字、400字詰め原稿用紙で約1,571枚。文庫本なら上中下の三巻でもいい大容量。

 文章はやや読みにくい。おそらく原文は地口や韻などの仕掛けがタップリ仕込んであって、かなりクセの強い文体なんだろう。お話も時系列をシャッフルした形で進むので、ドコで何が起きているのか、なかなか読者には見えてこない。登場人物は強烈なキャラクターが多いのだが、次から次へと多数の人物が出てくるので、なかなか覚えきれない。できれば登場人物一覧が欲しかった。

 作品中で主人公の所属は空軍となっているが、当時の米軍に空軍はない。陸軍航空隊だ。カバーの著者紹介には「陸軍航空隊に所属」とあるので、著者・訳者ともにわかった上で、作り話である由を強調するためワザと架空の歴史・組織をわかりやすくデッチ上げたのかも。

 舞台は第二次世界大戦の終盤、連合軍がイタリアに上陸し北上をはじめ、イタリアは降伏するがドイツ軍が頑強に抵抗を続けている頃。連合軍はノルマンディー上陸に備え戦力を出し惜しみし、結果としてイタリア戦線は苦戦に陥っている。詳しくは以下の Wikipedia を参照しよう。知らなくても作品を楽しむには大きな問題はないけど。

 イタリア戦線イタリア侵攻

 なお、主人公の乗機B-25(→Wikipedia)は双発の爆撃機で、乗員6名(正副操縦士,航法士兼爆撃手,回転銃座兼機関手1名,無線手兼側面銃座1名、尾部銃座手1名)。

【感想は?】

 出世欲旺盛でわからずやの上司の下で働いた経験のある人には、とても身に染みる作品。

 始まってしばらくは、趣味の悪いドタバタ・ギャグに思える。例えば最初の病院の場面で出てくるギブスとガーゼに包まれた動かない病人。動かないばかりでなく、声すらださない。生きている証拠は、彼につながった2本のチューブだけ。そう、入力と出力だ。ところが…

 と、いきなり凄まじく悪趣味なギャグをかましてくる。

 もっとも、この環境じゃ狂うのも仕方ないなあ、と思ったり。舞台がイタリア戦線だけに、彼らが置かれているのは戦場だ。そりゃ歩兵と比べりゃ敵の姿は見えないが、それだけに恐怖の得体の知れなさは大きい。現実には対空砲も人が撃ってるんだが、爆撃機に乗ってる乗務員には単に「弾が飛んでくる」としか思えない。

 こういった出撃の恐怖は、下巻での出撃場面が巧く描けている。「B-29日本爆撃30回の実録」でも、無敵に見えたB=29の乗員が、ほとんど制空権を失っていた帝国陸海軍の戦闘機に怯える場面が描かれていた。まして優れた対空砲アハト・アハト(→Wikipedia)を擁するドイツ軍が相手なら…

 そんなわけで、主人公のヨッサリアン大尉は、できる限り早く帰国したい。そこで狂気を装おうと軍医に相談するが。

  • 出撃は怖い。よって出撃を望む者は狂っている。
  • 狂った者は飛行任務を免除される。
  • 飛行任務を解くには、軍医に免除願を出す必要がある。
  • だが、軍医に免除願を出す者は正常と看做される。

 どないせえちゅうねん。このルールのイカれ具合が、キャッチ=22だ。

 戦場における狂った論理にも見えるが、現在日本の組織でも、こういった変な規則は珍しくない。例えば生活保護を受けるには住所が必要だが、最も保護を必要とするホームレスには住所がない。虐待する親から逃げた子供が警察に「保護」されると、確実に親元に戻される。

 なんて硬い例を持ち出すまでもなく、似たような身動き取れない状況は多い。私が思わず同情しちゃうのがメイジャー少佐。悪ふざけで変な名前をつけられ、その名前が原因で幼いころからからかわれ続ける。「彼はあまりにも絶望的に友だちを必要とするために、かえってひとりも見つけることができなかった」。切ないねえ。

 あまりに真面目で従順なため、誰からも嫌われる羽目になるメイジャー少佐。軍に入り着任して書類仕事を始めるが、彼が書類を書くたびに仕事の量は膨れ上がってゆく。そこで彼が編み出した書類の処分法は…。

 こういう官僚主義っぽい組織体質をあげつらうエピソードにはこと欠かないし、風通しの悪い組織で働いた経験があれば、「うん、ありがち」と感じるネタも沢山ある。だいたい書類ってのは論理的な構造こそが大事で、見た目なんざどうでもいいだろうに、なんで罫線の位置でゴタゴタ言われにゃならんのだブツブツ…と感じる人も多いだろう。

 これの最たるのがシャイスコプフ中尉。分列行進に入れ込み、分列行進を完璧にするため労を惜しまず、あらゆる改善案を検討する。仕事人間としちゃ立派なもんだが、現代の空軍に分列行進が何の意味があるんだろう。これも今の日本での組体操への拘りとかを考えると、別に軍に限った事じゃないと思えてくる。

ただし、自動小銃が発達する前の昔の陸軍じゃ行進の訓練には確かに意味があったのだ。この辺はマクニールの「戦争の世界史」や「戦闘技術の歴史」シリーズに詳しい。

 こんな組織の中で出世する人ってのは、やはりどこかイカれた人が多いようで、連隊を率いるキャスカート大佐の権威主義・出世主義もなかなか相当なもの。コテコテの軍人である彼と、従軍牧師の会話は、思わず笑っちゃうものの、技術を全く知らない管理職の無茶振りに苦しめられるエンジニア諸氏には、他人事とは思えぬ切実さを感じるだろう。

 そんなキャスカート大佐と陰険にやりあうのが、ペケム将軍。彼も組織の論理を知り尽くした男で。

わしらのこの大部隊においては、実のところ果たすべき非常に重要なことはないし、急を要することもなにひとつ存在しない。その反面、人々にわしらが非常に多くのことをしていると知らせるのは重要なことなのだ。

 あなたの職場にもいませんか、無駄に忙しそうな人。こうなると笑っていいんだか泣いていいんだか。

 そんな軍務に惜しい潰されまいと、ヨッサリアンはじめ隊員たちは度を越した悪ふざけで気を紛らわすしかない。だが、ただ一人、権力の亡者キャスカート大佐を巧くあしらう人物が出てくる。隊員に充分な食事を提供するためあらゆる手を尽くす善意の男、マイローだ。最初は冴えない厨房担当に見えた彼だが…

 お話も終盤に行くに従い、更にブラックさが増してゆき、登場人物の多くも悲惨な運命をたどる。これが単に悲惨なだけでなく、その多くが無駄で無意味で間抜けな死なのがやりきれない。

 くだらない地口や繰り返しのギャグ、ガキに凶器を持たせたが故の危ない悪ふざけも多いが、若者が狂ってゆく戦場と組織の不条理も、いささかワンパターンのドタバタ風味ながら巧く描けている。ただ、アメリカの圧倒的な物量に負けた日本人としては、著者が無意識に当然として描いた米軍の豊かさに複雑な気持ちを抱いてしまう。

 などとは別に、官僚的な組織の不合理さは、アメリカ人より日本人のほうが、よりリアルに感じるんじゃないだろうか。ただ長丁場な上に複雑な構成なので、時間をとって一気に読むのがいいだろう。 

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