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2016年6月16日 (木)

宇月原清明「安徳天皇漂海記」中央公論新社

出ていなば 主なき宿と 成りぬとも 軒端の梅よ 春をわするな
  ――第一部 東海漂泊 源実朝篇

「根も葉もない話に、よくここまで根と葉をそろえたものだ」
  ――第二部 南海流離 マルコ・ポーロ篇

「不可思議なるものはな、魅入るのだ。すべて不可思議なるものは、はるは天上へと続く彼方の消息を帯びておる。彼方は人に憑き、人は彼方に魅せられてやまない。魅入られた魂が何事もなくこの世に還ってくることは、汝が思っているほど容易ではないのだ」
  ――第二部 南海流離 マルコ・ポーロ篇 

【どんな本?】

 史実に奇想を織り交ぜ歴史を騙る宇月原清明による、壮大で幽玄なる伝奇小説。

 1185年、栄華を誇った平家は壇ノ浦に散る。この時、数え年でわずか八歳の安徳天皇(→Wikipedia)も海に身を投げた。

 そして約30年。鎌倉の若き三代目征夷大将軍・源実朝(→Wikipedia)を、怪しい者が訪ねてくる。幻術を操り天竺丸と名乗る男は、実朝を江の島へと誘う。そこには蜜色の巨大な琥珀の玉にくるまれた童子が眠っていた。安徳天皇である。

 幼くして帝の地位を得ながらも海に沈んだ幼帝と、若くして己の命運を見限った将軍。都で謀を巡らす後鳥羽院、将軍の背後で実権を握らんとする北条家などの権謀が渦巻く中、非業の運命を抱えた二人の出会いは何をもたらすのか。

 日本書紀・古事記・吾妻鑑・金槐和歌集・東方見聞録などの文献を引用しつつ、奇想を交えて歴史を再構成し、滅びゆく者の無念と諦観の向こうを華麗に描く、切ない長編伝奇小説。

 2006年第19回山本周五郎賞受賞のほか、SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2007年版」でも、ベストSF2006国内篇で7位に食い込んだ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2006年2月25日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約320頁。今は中公文庫から文庫版が出ている。9.5ポイント43字×19行×320頁=約261,440字、400字詰め原稿用紙で約654枚。文庫本ならやや厚め。

 第一部の源実朝篇と第二部のマルコ・ポーロ篇の二部構成で、第一部は少々読みにくい。というのも、吾妻鑑や古今著文集など古文の引用が多く、そこで古文に慣れない私はかなり苦労した。地の文は読みやすいんで、第二部に入るとスラスラ読めるんだけど。

 内容は特に難しくない。歴史に疎くても必要な事柄は作品中で充分に説明があるので構える必要はないが、詳しい人は更に楽しめるだろう。

【感想は?】

 第一部は、平家の神輿だった童子の怨霊が、敵である源氏の神輿と出会う話だ。

 とくれば、安徳天皇が実朝に祟る話になりそうなもんだが、見事に予想を裏切ってくれる。これの一つには、実朝の人物像が、若いわりに落ち着きがあり、歌も詠む洗練された好青年で、しかも武家の棟梁だけあって肝も据わっているため。

 実朝は将軍位にあるとはいえ、己が傀儡であることを良く知っている。兄の頼家(→Wikipedia)も非業の死を遂げており、自分の運命を悟っていたのだろう。この作品中でも、短い生涯と知りながら、静かに「その時」を待つ覚悟と、周りの者を気遣う優しさが漂ってくる。

 その実朝に近づく安徳天皇。平家が担いだ神輿であり、源氏に追い詰められた壇ノ浦で、幼くして入水する悲劇の帝だ。源氏の実朝を敵と見てもいい立場的であり、この世ならぬ力も持っている。にもかかわらず、この物語に登場するのは、入水時の幼さを保ったままで、身寄りのない幼子の心細さが伝わってくる。

 かつて滅びた幼き帝と、今まさに滅びんとする若き将軍。

 とくれば、「私が滅びるのはどう考えてもお前らが悪い」とタッグを組んで暴れ…たりはしない。

 いや幼き帝は現世に未練たらたらなんだが、最後の頼みとすがった実朝君が、そういう暴れるタイプじゃないのだ。既に滅びる事を受け入れ、命のあるうちに出来ることをやっておこうと、腹の底は据えてかかっている。しかも根が優しいたちで、幼い帝の無念を充分に理解しつつ…

 と、そんな典雅な若武者と、怨念に凝り固まった幼子の交流を、静かに描いてゆく。安徳天皇のつぶやく「もう誰もおらぬ」の、なんと悲しく切ないことか。

 などとはかなげな雰囲気で物語は進むが、仕掛けは大きく巧妙だ。現世を彷徨う安徳天皇という表向きの大仕掛のほかに、鴨長明や天竺の冠者や八岐大蛇、三種の神器などに虚と実を織り交ぜ、実朝の遺した金槐和歌集の歌も、隠された意味を鮮やかに創り上げてゆく。

 第二部では、舞台を大陸へと移す。

 ここではマルコ・ポーロを語り手として、勃興する元帝国を率いるクビライと、追い詰められ滅びゆく南宋の最後の皇帝である幼い祥興帝(→Wikipedia)を描いてゆく。

 不可思議を不可思議として受け入れ、滅びゆく運命に身をゆだねた実朝に対し、己の力で広がりゆく帝国を治めるクビライは、深い知恵を持ち現実と不可思議の境を心得た老獪な現実主義者として描かれる。日本では強欲で冷徹で乱暴な独裁者として描かれることの多いクビライだが、この人物像は意外でもあり、魅力的でもあり。

 語り手のマルコ・ポーロは、若くして遠方への旅にでるだけあって、相応の世知には通じていると同時に、若者らしい好奇心も旺盛な人物だ。相応の度胸と知恵がなければユーラシアの横断なんかできないだろうし、好奇心と実行力がなければユーラシア横断なんて考えないだろう。

 そして幼き帝である祥興帝。彼もまた、安徳天皇と同じく滅びゆく運命にあった…

 底知れぬ無念の想いを抱えて漂う安徳天皇と、その想いを共に抱く源実朝と祥興帝。無常の感に満ちた物語は、しかし終盤で再び大仕掛が炸裂する。

 並みの作家ならアクションてんこ盛りの活劇になりそうな骨組みなのに、著者ならではの騙りで切なく静かな、だが読者を驚かせるのに充分な結末まで用意し、穏やかながらも壮大で幻想感あふれる物語だ。 

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