「六韜」中公文庫 林富士馬訳
死刑は大物ほど効果があり、表彰は卑賎な者ほど効果があります。
――第三巻 竜韜 第二十二 将威(大将の権威)弱い勢力で強敵を撃ち破るには、かならず大国の同盟と隣国の援助とを得なければなりません
――第五巻 豹韜 第四十九 少衆(衆寡、敵せず)歩兵の戦いには敵軍の変動を知ることが大切でありますが、戦車は地形を知ることが肝要なことになります。また、騎兵は、間道や思いがけぬ抜け道を知って、敵の予想外のところを奇襲することが肝要であります。
――第六巻 犬韜 第五十八 戦車(戦車戦法)
【どんな本?】
六韜(→Wikipedia)は、中国の古典的な兵法書である武経七書の一つ。古代の周の文王(→Wikipedia)・武王(→Wikipedia)の問いに、太公望(→Wikipedia)が答える形で論が進む。後半は戦略・戦術や部隊編成など軍事的な内容が多くなるが、前半では外交や国政・人材登用など政治全般に渡っている。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
表向きは太公望の著作となっているが、使われている言葉や出てくる戦術などから、実際は後世の作とされている。ただし、いつ・だれが書いたのかとなると、「秦漢のあいだ」・「漢魏以後晋宋の際の偽作」と様々な説があり、Wikipedia には「戦国時代には成立していた可能性が高い」とある。
もしかしたら戦国時代に原本が成立し、後世の者がアチコチに手を入れたのかも。
日本には平安時代に入ってきたとされる。
中公文庫版は2005年2月25日初版発行、私が読んだのは2012年8月5日発行の7刷。だいたい年に一刷の堅実なペース。文庫本で本文約357頁(うち現代文は206頁)に加え、竹内実の解説14頁。9ポイント40字×17行×357頁=約242,760字、400字詰め原稿用紙で約607枚。文庫本としては少し厚め。
現代文の部分は読みやすい。内容だと、素人でもだいたいの所は分かると思うが、戦術などの細かく具体的な部分は、当時の時代背景や技術レベルの知識が必要になる。
例えば戦車が出てくるが、当然ながらタンクではなく馬が引くチャリオット(→Wikipedia)だ。また騎兵は鐙(→Wikipedia)のない時代なので、馬上で武器をふるうのは難しい。馬は主に移動に使い、戦闘時は馬を降りて戦ったのかも。
【構成は?】
だいたい前半は政治の事柄が多く、後半は具体的な戦術や道具の話になる。
- 六韜について
- 第一巻 文韜
- 第一 文師(文王の師)
- 第二 盈虚(国家の治乱)
- 第三 国務(政治の基本)
- 第四 大礼(君臣の礼)
- 第五 明伝(至道を伝う)
- 第六 六守(仁義忠信勇謀の守り)
- 第七 守土(国土の防衛)
- 第八 守国(国家の保持)
- 第九 上賢(賢者を尊ぶ)
- 第十 拳賢(人材の登用)
- 第十一 賞罰(功を賞し、罪を罰す)
- 第十二 兵道(用兵の要道)
- 第二巻 武韜
- 第十三 発啓(民を愛する政治)
- 第十四 文啓(文徳の政治)
- 第十五 文伐(文をもって人を伐つ)
- 第十六 順啓(人心を重んず)
- 第十七 三疑(三つの疑問)
- 第三巻 竜韜
- 第十八 王翼(王者の腹心)
- 第十九 論将(大将を論ず)
- 第二十 選将(大将を選ぶ)
- 第二十一 立将(大将に大事を命ず)
- 第二十二 将威(大将の権威)
- 第二十三 励軍(軍卒を激励する)
- 第二十四 陰符(主君と大将の契り)
- 第二十五 陰書(密書)
- 第二十六 軍勢(敵を破る勢い)
- 第二十七 奇兵(臨機応変の戦術)
- 第二十八 五音(五つの音声)
- 第二十九 兵徴(勝敗の前兆)
- 第三十 農器(農具と兵器)
- 第四巻 虎韜
- 第三十一 軍用(軍の器具の効用)
- 第三十二 三陣(天陣・地陣・人陣)
- 第三十三 疾戦(速攻戦術)
- 第三十四 必出(脱出戦術)
- 第三十五 軍略(軍事謀略)
- 第三十六 臨堺(敵陣攻略法)
- 第三十七 動静(敵の動静を探る)
- 第三十八 金鼓(防禦戦術)
- 第三十九 絶道(糧道を絶つ)
- 第四十 略地(敵地攻略)
- 第四十一 火戦(放火作戦)
- 第四十二 塁虚(敵陣探察法)
- 第五巻 豹韜
- 第四十三 林戦(林間作戦)
- 第四十四 突戦(奇襲作戦)
- 第四十五 敵強(強敵対抗作戦)
- 第四十六 敵武(衆敵対抗作戦)
- 第四十七 鳥雲山兵(山岳作戦)
- 第四十八 鳥雲沢兵(水辺作戦)
- 第四十九 少衆(衆寡、敵せず)
- 第五十 分険(険阻の攻防)
- 第六巻 犬韜
- 第五十一 分合(分散集合作戦)
- 第五十二 武鋒(精鋭奇襲作戦)
- 第五十三 錬士(勇士の錬成)
- 第五十四 教戦(戦法の訓練)
- 第五十五 均兵(兵力均分法)
- 第五十六 武車士(車兵登用法)
- 第五十七 武騎士(騎兵登用法)
- 第五十八 戦車(戦車戦法)
- 第五十九 戦騎(騎兵戦法)
- 第六十 戦歩(歩兵戦法)
- 読下し文
- 文韜
- 武韜
- 竜韜
- 虎韜
- 豹韜
- 犬韜
- 解説 竹内実
【感想は?】
孫子もそうだが、中国の古典は成立が怪しいものが多い。特に六韜は、明らかに後世の作だし。
表向きは太公望が著した事になっているが、多くの専門家も「さすがにソレはないだろう」という点では意見が一致している模様。それに続く「いつ・だれが」で議論が続いている。
そんな事情があるので、ある程度は疑いながら読もう。
舞台は落ち目の殷王朝に対し周王朝が取って代わろうとする時代。周王朝を築く文王・武王父子に、名宰相の誉れ高い太公望が講釈する形で話が進む。武経と呼ばれるが、前半は君主論が中心だし、周辺国についても外交的な方法をまず説くなど、あくまで軍事を政治の一環として捉えている。
そんなわけで、物騒な内容を期待すると、最初は裏切られた気持ちになるかも。例えば冒頭の文韜では、君主論の基礎として、現代の感覚で考えても実にまっとうな事を言ってたり。
「天下は君主一人の天下ではありません。天下万民のための天下であります。天下の利益を万民と共有する心がけがあれば天下を得、天下の利益を独占すれば天下を失うことになるのは当然です」
なんか綺麗ごとだよなあ、と思ってると、次には人を用いるにあたり、これを試すような真似を薦めてる。試しに富を与える・高位につける・重責を課す・任を与える・危機にあたらせる・変事に対応させるなどして、その働きを見よ、と。人が悪いようにも思えるが、「とりあえず機会を与えてみようよ」と解釈すれば、太っ腹なボスとも思えるかな。
とまれ、これが敵国に対しては、実に陰険。敵の重臣を持ち上げて勢力を二分させたり賄賂で買収したり、君主をおだててツケあがらせる・君主に取り入って後で裏切る、敵国内の武装勢力に反乱をそそのかす。こういった手口は、今でも変わってないなあ。
将の補佐役は「天道72侯にちなみ72人」といささか怪しいが、その内情は結構合理的。副将1・参謀5・占い3・地理担当3・兵法者9・兵糧担当4・斬り込み役4・奇襲要員3・工兵4・外交官2・奇計家3・情報担当7・精鋭5・宣伝4・スパイ8・方術2・軍医3・主計2。
占い3や方術2はともかく、地理3・外交2・情報担当2・スパイ8など、情報系が意外と多い。しかも敵をかく乱する役目が多い。確か当時は常備軍なんてものはなく、農民を駆り集めて兵にしてたんで、劣勢とみると一気に崩れてしまう。だから敵をかく乱して士気をくじく作戦の効果が大きかったんだろう。
そんな風に当時の戦闘をうかがわせる部分も多く、例えば「国境を越えたら、十日以内に敵国を滅ぼさなければ、かならず自軍が敗れ」とある。補給の問題で、それぐらいが限度だったのかな。
逆に今でも通用しそうな事も多い。例えば、将の出陣に際して、君主は「すべて将軍の処置に一任する」と宣言する。後方からゴチャゴチャ言わず、前線の将に全てを任せるわけ。当時は衛星通信なんて便利なものはないから、そうするしかなかったんだが、今でも現場にあれこれ口出しする政治家はたいていロクな真似をしないんだよなあ。
暗号通信も出てくる。基本は符牒で、予め決めておいた札の大きさで内容を伝えるもの。次は文を三分割して三人の使者が一部分づつ運ぶ。ちなみに当時は実用的な紙はない筈なので、木簡か竹簡だろう。
意外な事に、「十二律五音」なんてのも出てくる。つまりは十二音階とペンタトニック(→Wikipedia)だ。使い方はオカルトだが、基本的な音楽理論は洋の東西を問わず同じらしい。、
戦術面だと、何かと伏兵が好きなのが、この六韜の特徴だろう。攻撃時に伏兵で叩くのはもちろん、撤退戦でも伏兵を残し潜ませ、敢えて前衛を通し後衛を叩け、なんて出てくる。言うのは簡単だが、相当に練度の高い精鋭じゃないと伏兵は務まらないぞ。
戦車・騎兵・歩兵のおおまかな戦力差も書いてある。平野では戦車80・騎兵8・歩兵1で、険阻な地だと戦車40・騎兵4・歩兵1となる。この数字で分かるように、戦車は開けた土地でこそ威力を発揮したようだ。冒頭の引用にあるように、戦車の威力は地形に左右されるし、歩兵で戦車に対するには険阻な地を背にしろ、とある。
これは現代でもあまり変わってなくて、一般に兵力も装備も貧弱なゲリラは山岳地帯に潜む。また少数民族はたいてい山岳民族で、これは武力に劣っても山岳地帯なら大兵力に対し互角に戦えるため。元は平野に居たけど多数派の民族に土地を奪われ山岳に追いやられたってケースも多いみたい。
古典というと難しそうだが、中公文庫の林富士馬訳は文章がこなれていて読みやすいし、現代文だけなら206頁とやや短めの長編小説の分量なので、読み始めればあっさり読み通せるので、古典の入門としては向いてるかも。
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