デヴィッド・スタックラー&サンジェイ・バス「経済政策で人は死ぬか? 公衆衛生学から見た不況対策」草思社 橘明美・臼井美子訳
まず皆さんにお礼を言いたい。「このたびは臨床試験にご参加いただき、ありがとうございます」。
――まえがきわたしたちが大恐慌のデータから学んだことは、対策によっては不況下でも国民の健康促進は可能であり、またそれが経済そのものの回復にも一役買うということだった。
――第1章 ニューディール政策は人々の命を救ったかロシアでは1990年代に数百万人もの成人男性の人口が減った。ロシアだけではない。旧ソ連・東欧諸国全体では970万人も減少した。
――第2章 ソ連崩壊後の死亡率急上昇鍵になるのが、「政府支出乗数」と呼ばれる値である。これは政府支出を一ドル増やしたときに国民所得が何ドル増えるかを表す数字で(略)
アイスランドの場合、最も乗数が大きいのは保険医療と教育で、どちらも三を越えていた。(略)逆に小さいのは防衛と銀行救済措置で、どちらも一を大きく下回っていた。
――第4章 アイスランドの危機克服の顛末これまで緊縮財政が失敗してきたのは、それがしっかりした論理やデータに基づいたものではないからであある。緊縮財政は一種の経済イデオロギーであり、小さい政府と自由市場は常に国家の介入に勝るという思い込みに基づいている。
――結論 不況下で国民の健康を守るには
【どんな本?】
1929年の世界恐慌。東欧崩壊と、それに続くソ連崩壊。アジアの通貨危機。サブプライムローンの破綻に始まったリーマンショック。これらの経済危機に始まる不況は、国民の健康にどんな影響を与えるのだろうか。
普通に考えれば、まず良い影響はないだろうと思える。だが、実際のデータを調べると、意外な事実が浮かび上がってきた。必ずしも不況が悪い影響を与えるとは限らない。悪い影響を及ぼす場合もあるが、あまり影響もない国や州もあり、わずかだが不況により健康的になるケースすらある。
では、何が不況の影響を変えるのか。
それは、政府による不況対策だ。適切な対策を取れば不況の影響を小さく抑えられる上に、経済の立ち上がりも早い。だが間違えば被害が大きくなるばかりか、肝心の経済の立て直しまで遅れてしまう。
世界恐慌・東欧&ソ連崩壊・アジア通貨危機そしてリーマンショックなどの危機と、それに応じた各国・各州の対策、そしてその結果としての国民の健康状態と経済復興の関係を、アメリカ・ソ連&東欧諸国・イギリス・タイ・マレーシア・アイスランド・ギリシャ・スウェーデンなどの例を分析し、適切な不況対策を提案する、一般向けの解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Body Economic : Why Austerity Kills, by David Stuckler and Sanjay Basu, 2013。日本語版は2014年10月15日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約234頁。9ポイント45字×18行×234頁=約189,540字、400字詰め原稿用紙で約474枚。標準的な文庫本一冊分ぐらいの分量。
文章は比較的にこなれている。内容も難しくない。経済政策を語る本だが、数式は出てこない。個々の経済危機についても、その原因と経過を短いながらわかりやすく説明しているので、経済に疎くても充分に理解できる。内容的には子供でもついていけるのだが、自分で税金や保険料を払ってるよ、より切実に実感がわく。
【構成は?】
まえがき~第一章までは、最初に読もう。第2章以降は、ほぼ同じ主張の繰り返しなので、忙しい人は最後の結論に飛んでもいいだろう。
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【感想は?】
本書の結論を言うと「不況時こそ社会福祉を充実させろ」だ。
国家の財政が破たんに瀕した時は、IMF(国際通貨基金、→Wikipedia)が融資してくれる場合もある。ただし融資はヒモつきだ。IMFが求める政策を採用するなら貸してくれるが、そうでなければ貸さない。
冷たいようだが、IMFにも言い分はある。だらしない政府にカネを貸しても、踏み倒されるだけだ。腐敗した政治家や役人がカネをネコババして、肝心の経済政策にカネが回らないなら、IMFが政府の腐敗を進めてしまい、逆効果になる。だから、カネを適切に使う場合に限り貸してあげましょう、そういう理屈だ。
これはスジが通っている。問題は、IMFがつける条件が、適切かどうかだ。
財政を改善するには、大ざっぱに言って二つの方向がある。収入を増やすか、支出を減らすかだ。一般にIMFは財政の緊縮、つまり支出を減らすよう求める。派手な暮らしをやめて質素に暮らせ、ちったあ節約しろよ、と。当然だよね。借金が嵩んでるのに、派手に遊び歩いてるなんて、許せないじゃないか。
そこで重要なのは、何を節約し、何を守るかだ。商売不振なラーメン屋がベンツに乗ってるなら、中古の軽で我慢しろと言いたい。でも鍋を売っちゃったら、商売にならないんで、売り上げもなくなり、貸したカネも取り戻せなくなる。無駄な出費は減らし、必要な出費は守らなきゃ。
個人なら浪費と必要な費用を見分けるのも簡単だが、国家となると難しい。IMFは、まず社会保護関係の予算削減を求める。失業保険・健康保険・住宅ローンの補助などだ。これが適切か否かを、過去の不況や経済危機のデータから検証したのが本書だ。
本書の目的は、あくまでも「不況時の経済政策と国民の健康」にある。となれば結論はご想像のとおり、社会保護関係を削れば国民の寿命は縮む、だ。ところが、不況時においても社会保護関係の予算を減らさなかった国や州がある。むしろ、予算を増やしたケースも珍しくない。
その最初の例として出てくるのが、世界恐慌時のニューディール政策(→Wikipedia)だ。Wikipedia では賛否両論があるが、この本では好意的に見ている。ニューディール政策開始と共に自殺率が下がり、公衆衛生も大きく進む。
ここではアメリカ一国だけなので、どうにでも解釈できそうだが、アメリカは州の自治権が強く、州ごとにニューディールへの入れ込み方が違った。それを利用し、州ごとの違いを調べ、結論を出している。
ニューディールにおける社会保護政策の費用対効果は、費用に対して何人の命が救われたかという観点で計算すると、一般的な医薬品とほぼ同じレベルに達していた。
(略)それは死亡率の低下だけでなく、景気回復の加速にも役立ったのである。
と、「不況時こそ社会保護政策を厚くすべき」と主張するのが、この本だ。それにより国民の健康が回復するばかりでなく、不況からの回復も早くなるのだ、と。
アジア通貨危機ではタイ・インドネシア・マレーシア・韓国の通貨が一気に落ち込む。失業率が上がり食料は値上がりした上に、医薬品までも高騰する。通貨の暴落は薬まで値上がりするんだなあ、などと今さら気づいた。円安ってのは、そういう事です。
ここでIMFに従ったのがタイ・インドネシア・韓国で、独自路線を貫いたのがマハティール(→Wikipedia)率いるマレーシア。結論は言うまでもない。
中でも印象的なのがアイスランドの経済危機(→Wikipedia)。サブプライムローンの焦げ付きで痛手をこうむり、欧米諸国からの投資を集めた銀行が資金を失う。各国は投資の即時返済を求めたが、アイスランド国民は拒否。カネを集めたのは一部のエリートであって、俺たち労働者じゃねえ、なんで俺たちが尻ぬぐいせにゃならん?
IMFが求める政策も国民投票で拒み、福祉を堅持して富裕層に増税する。笑っちゃうのが、その後の顛末。通貨が下落したためマクドナルドは原材料費が高騰し、撤退する。国民はファストフードをやめ魚を食べるようになり、本来の基幹産業である漁業が回復して輸出も拡大する。わはは。
この章で印象的なのが、政府支出乗数。政府が一ドル出すとGNPが何ドル増えるかを示す数字だ。衝撃的なのが、IMFの姿勢で、「エコノミストたちはその国についてもおよそ0.5と想定していた」が、この数字には「しっかりした根拠がなかった」上に、「その分野の支出についても乗数は同じようなものだと考えていた」。
どういう事か。先のラーメン屋の例でいえば、車を買おうが鍋を買おうが違いはない、天下のIMFのエコノミストがそう思っていたって事だ。にわかには信じがたいほど間抜けな話だが、本当なんだろうか?
これを著者らは「ヨーロッパ25ヵ国とアメリカ、日本の過去10年上にわたるデータから」試算したところ、乗数は「実際には1.7」となる。不況時にはむしろ支出を増やす方がいい。ただし、何に使うかは考えなきゃいけない。お得なのは保険医療と教育で3以上、損なのは防衛と銀行救済措置。「ここらでガツンと戦争を」ってのは、間違いらしい。
アイスランドの場合は人口約32万と小さい国だから小回りも利いたんだろうが、ギリシャやスペインの状況はドン詰まりだし、日本も年金や保険が危ない。不況と健康、一見当たり前のように見える事をキチンとデータで検証し、意外な結論へとたどり着いた衝撃的な本だった。
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