パール・バック「大地 1~4」新潮文庫 新居格訳 中野好夫補訳 4
この国の土は新しい。人間の骨が十分に埋まっていない。
――第三部 第三部 分裂せる家「…君だの、わしだのは、土地を見ると、種子をまくとか収穫することばかり考えるが、建築家は同じ土地を見ても、そこに建築する家ばかり考えるし、画家なら色彩ばかり見るだろう」
―――第三部 第三部 分裂せる家
パール・バック「大地 1~4」新潮文庫 新居格訳 中野好夫補訳 3 から続く。
【テーマ】
前の記事ではゴチャゴチャと小難しい事を書いたけど、この作品の最大の魅力は、もっとわかりやすい。
カッコよく言えば断絶と継承、カッコつけなければ、変わってゆくものと受け継がれてゆくもの、だろう。同じテーマが、父と子の関係や、欧米文明に触れて激動する中国の精度・文化・風俗の形をとって、何度も繰り返される。
【父と子】
王龍は、貧しい農民から身を興す。
彼は昔からのしきたりに従って生き、新しい時代を垣間見ながらも、身に染み付いたしきたりに従って死んでゆく。第一部の前半は、彼が成り上がる過程を描く。そこで彼はひたすらに種を撒き、耕し、獲り入れ、儲けで新しい土地を買い入れる。この段階だと、なぜ彼が畑に出るのか、その理由は幾つも考えられる。
食うためでは、もちろん、ある。そして、出来るかぎり儲けたいという欲もある。儲けて金を稼ぎ、地位を手に入れて、地主の黄家を見返したいって気持ちもあるだろう。それ以前に、彼が育った世界では、子が家業を継ぐのは当たり前で、幼い頃から農民となる事しか考えていなかったんだろう。
ところが、それだけじゃない事が、晩年を描く場面で明らかになる。息子が立派に育ち、自らはボケて体の自由も効かなくなった王龍が、どこに赴き、どう暮らすのか。この場面で涙する、仕事一途に生きてきたオジサンも多いんじゃなかろか。これはこれで、それなりに幸せな晩年なのかも。
と、「子は親の決めた道へ進むもの」と決めてかかっていた王龍だが、その子供たちは…
作品内で親と子のスレ違いを描いた場面は沢山ある中で、私が最も好きなのは、陳(岩波文庫版では青)を葬る場面。王龍にとって陳は長く苦楽を共にした信頼できる相棒だが、子にとっては違うのだ。流れてしまった時と、それと共に変わってしまった世間を、見事に象徴する名場面。
そして、第二部・第三部でも、同じテーマが繰り返される。
農作業を嫌い、勇ましさに憧れ、軍人となった王虎。仕事一本やりで家庭を顧みないのも、王龍と同じ。幸い天分はあったようで、見事に一軍の将となる。ただし生真面目さは受け継いでいても、土への愛は継がなかった模様。
ところが、男の子が生まれると、コロリと参ってしまう。参ったのはいいが、人の殺し方は知っていても、愛し方は知らない。というわけで、彼の息子の王淵への接し方ときたら…。 王龍も王虎に同じように接していたんだが、王虎がそれに全く気づかないあたり、親子関係ってのは、そういうモンなのかも。
と思ったら、そうでもない親子が、第三部になって出てくる。これは知見の広さの差なのか、育ちの違いなのか、性格によるものなのか。
【立場】
子がやがて親になる、そういった繰り返される変化と共に、貧しい農民が地主になれば、立場も大きく変わってくる。
貧しい農民として育った王龍と、地主のお坊ちゃまとして育った王大・王二・王虎。先の陳の葬儀の場面が示すように、「自分は何者か」って所からして、親と子は全く違う。初孫が生まれた時に王龍が感じる悲しさは、かのヒロインの面影と共に、切なく読者の心に忍び寄ってくる。
このテーマも第二部以降で、何度か繰り返す。
軍人になろうと出奔した王虎は軍に入る。将の目に止まり戦功を立て、昇進を果たす。民を苦しめる支配者に対し、革命を唱え立ち上がった将に忠実に従ってきた王虎だが…。 革命なんてそんなもん、と言っちゃえばそれまでなんだけど、当時は欧米から銃火器などの新しい武器に加え軍の編成など概念的にも軍事に革命が起きた時期でもあって。
などと理想に燃えた王虎だが、彼が目指す先にあるものと言えば、これもやっぱり旧世代の発想から一歩も出ていないあたりが、やはり切ない。とまれ、これは王虎に限らず今でも…いや、やめとこう。
これと同じ構図が、第三部の終盤でも再び繰り返される。
第三部では、こういった事柄に加え、「中国人から見た米国」を描いているのも、ちょっとした読みどころ。日本と中国の区別がつかない欧米人が多いように、日本人だってアメリカ人とイギリス人の違いはわからない。これを「白人の女はどうして自分の亭主を見分けるのだろう」と皮肉るあたりは、思わずニンマリしてしまった。
【社会】
世代が変わり、それぞれの立場も変わるばかりでなく、当時の中国は社会制度や文化・風俗も大きく変わる時期だ。都会に住む豊かな階層の若い世代は新しいモノに順応するが、田舎に住む者・貧しい者そして老いた者は、古い型から抜け出せない。
第三部では、こういった中国社会の変化を、孫の王淵を中心に描いてゆく。
都会と農村、豊かさと貧しさ、新しいモノと古いモノ、そして中国文化と西欧文化。こういった相反するモノゴトを一手に引き受けさせられるのが王淵で、そのためか頁が変わる度に彼の姿勢はアチコチへと揺れ動く。
自由を求めて親元を去った王淵だが、さて親から離れてみると、何を求めているのかトンとわからないあたりが、頼りなくはあるが少し可愛くもあったり。当時の中国は何かと変化の大きい社会で、それまでの中国で通用していた職業や概念が通用しないってのはあるにせよ、自由ってのも手にしてみるとなかなか重たいもので。
ここにいる老人たちは、若いとき、みんなはっきりした単純な生活を送ってきている――金、戦争、快楽――それらは、彼らが生命をかけて求めるだけの価値のある、立派なことだったのだ。
と、なまじ自由を手にしたがために悩んでしまう。同じ年頃に祖父の王龍は妻を買いに行った事を思えば、どっちが幸福だったのやら。
新しい時代に対し、流れに乗って泳ぐ道を選ぶ愛蘭と生。更に新しい流れを自ら生み出そうとする猛。彼らの視野が狭いと決め付けることもできるけど、狭いからこそ勢いに乗って前に進めるってのもある。ウダウダと考えてたら革命なんて起こせないし。
弁髪を切り、洋装に着替え、伴侶を自ら選ぶ。そういった新しい生き方を当然と考えながらも、王淵の身に流れている血は…。
【最後に】
実はこの作品を読むのは三度目で、読むたびに新しい発見がある。歴史に興味がなかった昔はこれをハッピーエンドだと思っていた。発表年を考えると著者もそのつもりだったのかもしれないが、その後の中国の現代史を考えると、更にもう四巻ぐらいの激動巨編がかけそうな気もする。
色々と悪し様に言われる中国共産党だが、20世紀からこっち、ここ40年ほどが最も平穏な時代に思えるから大変な国だ。
などと難しい事は一切考えず、単に「面白い大河小説」だと思って手にとって欲しい。翻訳物とは思えぬほど文章は親しみやすいし、ストーリーは次々と事件が起きて飽きない上に、異国情緒たっぷりながら、身につまされるエピソードも満載で、読み終えたら「何かとんでもないモノを読んでしまった」と感じる、誰にもお勧めできる傑作なのだから。
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