パール・バック「大地 1~4」新潮文庫 新居格訳 中野好夫補訳 1
それは土から来たのだ――銀貨は、彼が耕し、掘り返し、体をすりへらした土から来たのだ。彼は自分の生命を土から得たのだ。一滴また一滴と額に汗して、彼は土から作物を、作物から銀貨を、しぼり出したのだ。
――第一部 大地
【どんな本?】
中国で育ったアメリカ人の作家パール・バックが、1931年に発表した雄大な三部作。清朝末期から革命へと向かう中国で、貧しい農民から成り上がる王龍・その子で軍人となる王虎・王虎の子で将来に悩む王淵と、制度も価値観も激動する社会の中で、命を繋いでゆく一族の三代を描く。
1932年ピューリッツアー賞のほか、1938年には他の作品もあわせノーベル文学賞を受賞している。
【いつ出たの?分量は?】
三部作の大作で、全体としては The House of Earth, by Pearl S. Buck となっている。それぞれは、以下。
- 第一部 大地 The House of Earth 1931
- 第二部 息子たち Sons 1932
- 第三部 分裂せる家 A House Divided 1935
Wikipedia によると、最初の日本語訳は第一書房から1935年~1949年の新居格訳。これが後に中野好夫の補訳により新潮文庫に入る。新潮文庫版は四巻からなる。それぞれの収録作と初版は以下。
- 一巻 1953年12月28日発行 「第一部 大地」
- 二巻 1954年3月8日発行 「第二部 息子たち」
- 三巻 1954年3月15日発行 「第二部 息子たち」、「第三部 分裂せる家」
- 四巻 1954年3月25日発行 「第三部 分裂せる家」
私が読んだ第一巻は2013年6月15日発行の95刷改版。大雑把に2年に3刷ぐらいのペースで増刷してるんだから、今でも安定した人気があるんだなあ。
文庫本で四巻、縦一段組みで本文約(483頁+457頁+463頁+372頁)=約1,775頁に加え、四巻には補訳の中野好夫による解説11頁。9ポイント38字×16行×(483頁+457頁+463頁+372頁)=約1,079,200字、400字詰め原稿用紙で約2,698枚。文庫本なら5冊でもおかしくない分量。
というか、第二部と第三部をそれぞれ上下にして、全五分冊にした方が収まりがいいんじゃないだろうか。
【訳の読みやすさを比べる】
今だと、新潮文庫の新居格訳と、岩波文庫の小野寺健訳が手に入れやすい。通して読んだのは新潮文庫の新居格訳で、岩波文庫の小野寺健訳は冒頭を少し読んだだけだが、印象はだいぶ違う。違いは台詞に大きく出ている。主人公の王龍の台詞を少し引用しよう。
新潮文庫の新居格訳 | 岩波文庫の小野寺健訳 |
「春だから、こんなものいらねえや」 | 「もう春だ、こんなものはいらない」 |
いいぞ。こう太陽ががんがん照り続いたんじゃ、小麦は実を結べねえな。 | よかった。(略)こんなにぎらぎらと焼けつくような日差しがつづいたら麦の穂が実らないだろう |
「んならほんとに左まえなんだな。土地って、血か肉みてえなもんだからな」 | 「それじゃ、ほんとうに困ってるんだな。土地というのはわれわれの血や肉とおなじなんだから」 |
王龍は貧しく粗野で無学な百姓だ。新潮文庫版の新居格訳の方が、田舎者で品のない王龍のキャラクターが良く出ていると思う。これは他の所も同じで、新潮文庫版の新居格訳はくだけた講談調なのに対し、岩波文庫の小野寺健訳は上品でかしこまっている。そんなわけで、私は新潮文庫の新居格訳の方が好きだ。
なお、人物の名前も訳によって違う。主人公の王龍、新潮版はワンロンで、岩波版はワンルン。どころか名前の文字まで違う人もいる。孫は新潮版だと王淵で、岩波版は王元、隣人も新潮版は陳で岩波版は青。
内容的は特に難しくない。時代的には清朝末期~辛亥革命あたりなんだろうが、歴史なんか知らなくても大丈夫。そもそも登場人物たちからして、周りで何が起きているのか、よくわかってないしw 本が好きなら、中学一年生でも充分に楽しんで読める。
【感想は?】
95刷は伊達じゃない。なぜ刷るか。理由は簡単。売れるから。なぜ売れるかというと、面白いから。
ピューリッツアー賞だのノーベル文学賞だのと、ご大層な勲章がついているし、名作全集の類にもよく選ばれる。と書くとナニやら小難しくて高尚なブンガクみたく思われがちだが、決してそんな難しいモンじゃない。日本の文学賞で言えば直木賞や本屋大賞が似合う、「誰でも楽しめる面白いお話」だ。
とはいえ、どこがどう面白いのかを説明しようとすると、けっこう難しい。
第一部のストーリーを簡単に言うと、貧しい農民の王龍が嫁を貰ったのをきっかけに、成りあがって金持ちになるお話だ。というと男一代の成功物語のようだが、だいぶ感触は違う。
読後の感触は心地の良い爽快感・達成感ではなく、「ああ、なんて遠いところまで来てしまったんだ」みたいな寂しさと切なさがこみ上げてくる。
では人物はどうかというと、肝心の主人公である王龍が、実にありがちな頑固で古臭い農民で、成功物語のヒーロー像にはほど遠い。王龍に限らず、彼の父も王龍に負けず劣らずの頑固爺ぃだし、叔父さんはトラブルメーカーだし、地主の黄家の使用人は金をクスねる事しか考えてない俗物ばかりだし…
と、しょうもない連中ばかりが出てくる。確かに魅力的な人物は出てくるんだが、この人が実に恵まれない。いやもう、読んでて「なんとかしろよ王龍、酷いじゃないか王龍!」と怒りたくなってくる。
物語は清朝末期に始まる。王朝が倒れ、王龍の住む村にも戦乱が迫ってくる頃だ。が、肝心の王龍が読み書きもできない農民な上に、当時はインターネットはもちろんマスコミもない。そもそも電気きてないし。ってなわけで、背景となる社会情勢も、薄ぼんやりとしかわからない。
にも関わらず、読み始めたら止まらない物語なのだ、不思議な事に。じゃあ、どこが面白いのか。その辺は、次の記事でおいおいと書くつもりです、はい。
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コメント
日本語訳の「祠」が、原書だと temple なんでしょうか?
なぜそう訳したのか、私にはわかりません。
投稿: ちくわぶ | 2024年7月 7日 (日) 19時51分
前略
手短にお尋ねします。「祠」の意味と「temple]をほこら と訳された意味をお教えください。
とても意味が深く興味がわいています。よろしくお願いいたします・
投稿: 山口濱子 | 2024年7月 7日 (日) 17時29分