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2016年3月 4日 (金)

V・S・ラマチャンドラン「脳の中の天使」角川書店 山下篤子訳

「視力はだいじょうなんです、先生。眼ではなく心がピンボケになっているんです」
  ――第2章 見ることと知ること

言語は、ほかのどんなトピックよりも、学会を二極分化させる傾向が強い。
  ――第6章 片言の力 言語の進化

「…実験を実際にやってみたんです。正常な学生のボランティアを募って」
(略)
「脳に磁気をあてると、学生はにわかに、苦もなく見事なスケッチを描けるようになりました。そのうち一人は、サヴァンのように素数が言えるようになりました」
  ――第8章 アートフル・ブレイン 普遍的法則

【どんな本?】

 存在しない腕が痛む人。数字に色が見える人。母を見知らぬ女性と感じる男。文法は正しいが意味は出鱈目な言葉を紡ぐ人。自分の腕や脚を余計な物と感じる人。幽体離脱。「私は神だ」。病気や事故などにより、時として人は奇妙な症状を示す。その症状の原因は何で、どのようなメカニズムが奇妙な症状を起こすのか。

 カリフォルニア大学サンディエゴ校の脳認知センター所長を務める著者が、ヒトの脳が持つ複雑で不思議な構造と能力を、神経科学の手法で解き明かしながら、言語・芸術・自己認識など人類の様々な知的活動の源泉を、進化論的な観点で位置づけようと試みる、楽しく野心的な一般向け科学解説書・エッセイ集。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Tell-Tale Brain : A Neuroscientist's  Quest for What Makes Us Human, by V. S. Ramachandran, 2011。日本語版は2013年3月22日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約406頁。9ポイント46字×19行×406頁=約354,844字、400字詰め原稿用紙で約888頁。文庫本なら厚めの一冊分ぐらいの分量。

 文章は比較的にこなれている。内容も難しくない。通して読むと実はかなり専門用語が出てくるんだが、その大半は本書中でしつこくない程度に説明があるので、特に前提知識は要らない。敢えて言えば、私は「セマンティック」に引っかかった。IT用語辞典バイナリによると、「意味」「意味論」みたいな意味らしい…って、ややこしいな。

【構成は?】

 各章はおだやかにつながっているが、話題としては独立しているので、気になる所だけを拾い読みしてもいい。ただ、最後の第9章は全体の総まとめなので、最後に読もう。

 序
はじめに ただの類人猿ではない
第1章 幻肢と可塑的な脳
第2章 見ることと知ること
第3章 うるさい色とホットな娘 共感覚
第4章 文明をつくったニューロン
第5章 スティーヴンはどこに? 自閉症の謎
第6章 片言の力 言語の進化
第7章 美と脳 美的感性の誕生
第8章 アートフル・ブレイン 普遍的法則
第9章 魂をもつ類人猿 内観はどのようにして進化したのか
 エピローグ
 謝辞/原注/参考文献

【感想は?】

 神経科学とか脳医学とかは、最近になって急激に進歩していて、とってもエキサイティングなのが伝わってくる。

 似た傾向の本として、マルコ・イアボーニの「ミラーニューロンの発見」やオリヴァー・サックスの「音楽嗜好症」、ダニエル・C・デネットの「解明される宗教」を挙げよう。いずれも、医学と科学と哲学の交点にあって、ワクワクする本だ。

 それぞれが様々なテーマを扱っているが、いずれもテーマの奥に重大な疑問が潜んでいる。「ヒトとは何か」だ。

 これに対し、オリヴァー・サックスは豊富な臨床例を挙げた人間ドラマの側面が強い。マルコ・イアボーニの「ミラーニューロンの発見」は、神経科学を中心とした研究者の視点で書いた本だ。ダニエル・C・デネットの「解明される宗教」は、科学に接近する哲学者が書いている。

 この本の特徴は、医学・科学・哲学いずれの内容もバランスよく含んでいる点だろう。臨床例も多いし、先端的な研究の話もある上に、終盤では「言語とは?」「芸術とは?」「自己認識とは?」などの哲学的な問いにまで話が及ぶ。しかも、それを、あくまで進化論の枠内で説明しようとしているのが独特なところ。

 第1章では、前の著作でも紹介していた不思議な症状、幻肢(→Wikipedia)の例が出てくる。事故などで手足を失った人が、失った手足の痛みを訴える症状だ。これの原因(の仮説)はなかなか込み入っていると同時に、ヒトの脳が持つ能力と機能の複雑さを実感する。

 私たちが小説を読んだり映画を見たりする際、主人公のピンチの場面ではハラハラドキドキするが、同時に「これは作り話だ」とわかってもいる。そんな風に、私達の脳は、何かの刺激に対して常に「これは本当か?」と検証しているし、「なんか嘘くさいな」と判断したら、相応の対応を取り、騙されないようにするわけ。

 この検証する部位が壊れたり、逆に刺激を受け取る部位が壊れたり、または対応が不適切だったりする事で、不思議な症状が現れる。サイバネティックス風に言うと、フィードバックを含む系は予期が難しい挙動を示す、みたいな。これはミラーニューロンの話がわかりやすい。

 人が何かを投げるのを見ると、自分が投げるのと同じパターンの興奮が脳の一部に現れる。これが共感能力の元らしいんだが、これだけだと疑問が残る。同じパターンが出てるのに、同じ動作は現れない。なぜ?

 こういった不思議な現象や症状の謎を解くミステリとしても充分に面白いが、明かされる真相の奇天烈さも楽しい。そもそも科学ってミステリみたいなもんだし。また、SF者としてその応用を考えたりすると、なかなか読み進められないので困るw まあ、そのうちグレッグ・イーガンが美味しく料理してくれるはずだから、ゆっくり待とう←をい

 などの真面目な話もいいいが、クーリッジ効果(→Wikipedia)を巡るギャグなどは、著者のユーモラスな人柄をうかがわせる。簡単に治せるなら、記憶喪失にも利点はあるのだ←おい

 終盤での芸術と言語を巡る話は、かなり哲学の領域に食い込みながら、あくまでも科学者としての視点を堅く守ろうとするあたりが、著者の本領発揮といったところ。女神パールヴァティの像を解説するあたりでは、ちょっと日本のアニメ絵を思い浮かべたり。あの乳袋や大きい目は、モロにピークシフトだよね。

 これに続く「芸術の九つの普遍的法則」は、「上手な絵の描き方」や「面白いお話の作り方」に使えるな、と思ったり。特に私の場合、「知覚の問題解決」の使い方が、救いようなく下手なんだよなあ。たまには怪談でもやって鍛えないと。

 などと、素直に科学啓蒙書として読んでも充分に面白い上に、創作のコツなど意外な方面の実用的なヒントが潜んでいるし、SFやファンタジイのネタを拾い始めるとキリがない。この手の本の中では最もバラエティに富んでいて、その奥にある豊かな知的鉱脈を垣間見せてくれる本だ。

【関連記事】

 そんなわけで、関連図書は山ほどあります。

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