小川哲「ユートロニカのこちら側」ハヤカワSFシリーズJコレクション
「俺たちはより優れた選手になるために、ラジコンになることを自分で選んだんだ。単なるラジコンは、自分がラジコンになることを選べるか?」
――第一章 リップ・ヴァン・ウィンクル変化はその顔が見えないまま、そっと忍びこんできている。
――第五章 ブリンカー
【どんな本?】
2015年の第3回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作を、加筆修正したもの。
舞台は近未来のアメリカ、サンフランシスコにできた特別提携地区、アガスティアリゾート。マイン社が開発したこの街は、多くの話題を呼ぶ。そこに移り住んだ者は、全ての視覚データ・聴覚データをマイン社に提供する代償として、充分な収入を得る。この壮大な実験は、リゾートの住民に限らず、その周囲に住む者や、社会全体へと影響を及ぼし…
一人ひとりの人間の目を通してユートピアを描き、ヒトの本性へと迫るSF連作短編集。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
2015年11月25日初版発行。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約311頁に加え、第三回ハヤカワSFコンテスト選評7頁。9ポイント43字×17行×311頁=約227,341字、400字詰め原稿用紙で約569枚。文庫本なら標準的な厚さの一冊分。
文章はこなれている。内容も特に難しくない。SFとしての仕掛けは、アガスティアリゾートぐらいだ。
ここに住む者は、視覚データ・聴覚データを、全てマイン社に提供する。つまりプライバシーがなくなり、生活の全てがマイン社に筒抜けになる。このデータを元にマイン社は様々な情報ビジネスを展開すると共に、アガスティアリゾートの住み心地をよくするのにも使う。一種の監視社会だ。
【どんな話?】
シカゴに住むジェシカは、アガスティアリゾートに憧れている。33年も住んでいた街だし、シカゴにはまずまず満足しているが、リゾートについて調べれば調べるほど想いは募ってゆく。こんなに夢中になったのは、学生時代に夫のジョンに恋をした時以来だ。厳しい倍率を潜り抜け、夫婦は移住資格を得て…
【感想は?】
一種のユートピア物。テーマは「自由」かな?
これを読んで思い浮かべたのは、SFよりノンフィクション作品だ。一つはローレンス・レッシグの「CODE Version 2.0」、もう一つはB・F・スキナーの「自由と尊厳を超えて」。いずれも訳が山形浩生なんだが、たぶん偶然じゃない。
というのも。この作品は連作短編の形を取っていて、その間に短い断章を挟む。最後の断章は「本のあとがき」の形を取っていて、これが山形浩生の「訳者あとがき」のスタイルそのままなのだ、思わず笑ってしまうほど。扱っているテーマも、「CODE Version 2.0」と「自由と尊厳を超えて」にとても近い。
「CODE Version 2.0」は、監視社会の到来を憂える本だ。かつてコンピュータとインターネットは市民の自由を広げると思われていたが、逆に政府が市民を監視しやすくなっちゃった、ヤバくね? と警告する。
警察に追われる犯人の立場で考えよう。現金はアシがつかないが、クレジット・カードはアシがつく。携帯電話を使えばGPSで居所がバレる。街角には監視カメラが置かれている。便利で安全になっているけど、同時に当局による監視も厳しくなった。
この小説のアガスティアリゾートは、何を見て何を聞いたかまで筒抜けだ。究極の監視社会に近い、。それだけに犯罪も少ないし、人々は安心して暮らせる。なんたって、働かなくてもいいってのが←をい。 ただ、その住民となるには、よく分からない条件があって…
「自由と尊厳を超えて」は、行動心理学者のB・F・スキナーが、自分の思想を書いた本だ。ヒトは環境に応じて行動を変える。なら、「よい行い」をするように環境を作ろう、そうすれば世の中は良くなる。倫理や道徳を説くより、よっぽど手軽で効果があるよ、そんな主張だ。
実際、道に街燈をつけて明るくすれば犯罪は減るわけで、確かに効果はある。が、ホンマにそれでいいんかいな、みたいな割り切れない気分も残る。だいたい、環境に応じて行動が決まるなんて、まるで動物じゃないか。俺達はパブロフの犬じゃねえ、ヒトには自由意志ってモンがあってだなあ…
先走りすぎた。道に街燈をつけるぐらいなら、多くの人が歓迎するだろう。だが、この小説の世界では、学生の進路にまでコンピュータが口出しする。といっても、別に強制するわけじゃない。ただ、「あなたの望みを叶えるには、この道が最善です」と示唆するだけだ。
素直にコンピュータの指示通りに動けば、より幸福になれるだろう。しかし、いわれた通りに動くのなら、家畜と何が違う?そこに人間の自由意志はあるのか?
SF小説では、コリイ・ドクトロウの「リトル・ブラザー」が近いが、だいぶ雰囲気は違う。「リトル・ブラザー」は、ハッキリと敵が見えていたし、「このままじゃマズい」と考える人もいた。敵と味方がクッキリと別れていたのだが、この作品では、ウヤムヤのうちに取り込まれてゆく。そもそも、相手に敵意がないのがタチが悪い。
加えて、リゾートの設定が巧い。世の中全体が管理社会になるのではなく、このお話では、選ばれた者だけが住むリゾートだけが監視社会となる。ただ、「選ばれた」といっても、エリートが選ばれるのではなく、その選考基準がよく分からないのが、小説としての巧い工夫。しかも、途中で居住資格を失い、たたき出される事もあって…
連作短編の形を取っていて、各短編の登場人物は少しづつ重なっている。印象に残るのは、サンフランシスコ市警の熱血刑事スティーヴンソンと、アガスティアリゾートの犯罪予防群所属のアダム・ライル。
ベテラン刑事に相応しく、不規則な勤務で恋人の機嫌を害しながらも、手がけた事件にはのめり込み、また最近のデジタル捜査には馴染めず現場に足を運ばなきゃ気が済まない職人気質のスティーヴンソン。対するアダム・ライルは絵に描いたような「マニュアル人間の最近の若造」で、見事に融通が利かない。
特にライル君のトンチンカンぶりは見事で、「これだから最近の若者は」と思うオジサンも多いんじゃないだろうか。本人はいたって真面目なんだが、彼が喋ると、どうしても笑ってしまう。
個人の問題として描かれたアガスティアリゾートと、そこで試行される制度は、やがて世間に大きな反響を巻き起こし、波紋が別の効果を生み出して…
ここに描かれるのは希望なのか、絶望なのか。アガスティアリゾートはユートピアなのか、ディストピアなのか。その答えは人により違うだろう。私は…えっと、そうだな、住民になれるのならユートピアで、選考に漏れるならディストピアだなあ。←それでいいのか
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