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2016年3月 6日 (日)

ジェイムズ・L・キャンビアス「ラグランジュ・ミッション」ハヤカワ文庫SF 中原尚哉訳

「船が見えたぞ、野郎ども!」

「かつてマグレブの海賊船(コルセール)はヨーロッパのあらゆる王国に貢ぎ物を要求した。それにならうのだ」

【どんな本?】

 アメリカの新鋭SF作家による、近未来のスペースオペラ。舞台は2030年。核融合発電が実用化され、その燃料のヘリウム3は月でレゴリスから採掘・精製し、地球に運び込んでいる。その運搬船を狙う「海賊」もまた、月・地球の軌道上に跳梁跋扈していた…

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は CORSAIR, by James L. Cambias, 2015。日本語版は2016年2月15日発行。文庫本縦一段組みで本文約399頁に加え、小飼弾による解説6頁。9ポイント41字×18行×399頁=約294,462字、400字詰め原稿用紙で約737頁。文庫本としてはやや厚め。

 文章は比較的に読みやすい。内要は、難しく感じる人も多いかも。雰囲気は娯楽アクション作品なんだが、肝心のトリックが問題。

 タイトルで分かるように、近未来の月・地球軌道上に海賊が出没する物語なので、マヌーバ(→Wikipedia)など宇宙ロケット関係の用語が説明無しに出てくる。特に終盤のラスボスとの対決は、軌道のトリックや最後の秘策など相当にマニアックなので、例えば「はやぶさ2がなぜ一旦地球近郊に戻ってくるのか」などがピンとくる人でないと、意味が分からないかも。

 また、小飼弾が解説している事からわかるように、コンピュータ関係も色々と出てくるのだが、意外とこちらはあまり分からなくても大丈夫。ソフトウェアよりハードウェア関係の記述が多く、特に無線関係のハードウェアに強いと、また別の味わいがあるんだろうが、別に半田ごてを持っていなくても充分に楽しめるのでご安心を。

 全般として、宇宙開発やロケットが好きなら、中学生でも充分に楽しめると思う。

【どんな話?】

 地球と月の間のラグランジュ点(→Wikipedia)、L1に奴は潜んでいる。今、月から獲物がやってきた。積荷の価値は20億スイスフラン。ヘリウム3を四トン積んだ、日米印合同の運送船だ。

 だが、同じ宙域には番犬も目を光らせていた。合衆国空軍の軌道軍。既に近隣の衛星を洗い出し、奴の船に目星をつけている。

 月の重力井戸を這い上がった運搬船は、この付近で最も速度が落ちる。山道で言えば峠に当たる場所だ。ここを越えれば、後は地球の重力が引っ張ってくれる。ここまで質量を持ち上げるには大金がかかるだけに、推進剤も多くは積めない。そして、ほんのわずかな軌道のズレで、落下地点は大きく変わってしまう。

 獲物を狙う狼と、それを追う番犬。数十億ドルをかけた、秒速数メートルのチェイスが始まる。

【感想は?】

 先に書いたように、ロケット・マニア、それも軌道計算が好きな変態大喜びの作品。

 スペースオペラとは言いつつ、舞台は地球・月軌道だ。なんたって時代が2030年と近未来だし。そんなわけで、あまりド派手な急加速もない。冒頭に出てくる番犬の足も、燃費のいいイオンエンジン(→Wikipedia)と現実的。

 しかも、登場人物の大半が、地球を離れないのが破格。主役の宇宙海賊キャプテン・ブラック様も、その最大の武器はクラッキングで、地球から一歩も外に出ない。全て遠隔操作で衛星を操り、番犬をかわし、獲物を頂戴する。頂戴するったって、落下地点を仲間が回収しやすい海域にズラすだけだ。

 このキャプテン・ブラック様が、これまたしょうもない奴で。スクリプト・キディ上がりのクソガキが大きくなったような、ロクでもない盗人で、ガキの頃からクラッキングの腕を活かして自動車泥棒に勤しみ、段々と仕事を大きくして、ついに宇宙海賊にまでのし上がった男。この自動車泥棒の手口も、初歩的な金庫破りの応用だったり。詳しくは「ご冗談でしょう、ファインマンさん」を読みましょう。

 のし上がると書けば、それなりに見るべきところがありそうな気もするが、コイツに感情移入できる人は少ないと思う。クラッキングの腕を鼻にかけ、まっとうに仕事をする気は全くなく、「ズルして楽して大儲け」しか考えてない。儲けた後も、リゾート地であぶく銭を浪費するだけで、特に何か大きな目的を持っているわけでもない。

 そのキャプテン・ブラックを追う番犬役のエリザベス・サンティアゴ米国空軍大尉も、これまた強烈なキャラクターで。空軍版の銭型刑事とでも言うか、腕も頭もあるんだが、いささか闘志が過剰で、キャプテン・ブラックを追いかけブチのめしたいって執念に、人生を振り回されちゃってる人。

 食らいついたら離さない、その意地と執念はまさしく番犬そのものなんだが、荒く激しい気性はむしろ虎に近いから楽しい。しかも、終盤で彼女がキャプテン・ブラックを評する所では、かなりの人物眼も持っている事をうかがわせる。

 そんな両者の綱引きで始まった物語は、やがて第三者・第四者が雪崩れ込み、線形解のない複雑な軌道を描き始める。

 序盤から、細かい説明を省きながらも的確な専門用語を連発し、マニアを喜ばせる。例えば積荷のヘリウム3についても、ほとんど説明がない。これは核融合発電の燃料で、Wikipedia の核融合発電:D-3He反応 を参考にしよう。

 ここでDは重水素。普通の水素は陽子一個だけで中性子を持たないが、重水素は陽子一個と中性子一個を持つ。少なくはあるが地上にもそこそこあるので、炉が臨界に達すれば抽出費用は充分にモトが取れる。

 問題は3He ことヘリウム3(→Wikipedia)。普通のヘリウムは陽子二個t中性子二個なんだが、これは中性子が一個少なく、陽子二個と中性子一個かなり、地上にはほとんどない。月のレゴリス(塵)は豊富にヘリウム3を含んでるんで、金をかけてロケットを飛ばし月で採取・精製し地球に運んだ方が、安くあがる可能性が高い。

 肝心のロケットも、地味ながら、よく調べてたり。最初のイオンエンジンもそうだけど、次に出てくる太陽熱インパルス・システムも面白い。これだと酸化剤が要らないんで推進剤が半分で済むし、配管もシンプルで故障しにくいのが美味しいなあ。あまし大きな推力は出ないから、重力井戸の中じゃ使えないけど。

 …ってな細かい話を、一切省いちゃってるあたりが、マニアには嬉しい反面、そうでない人にはとっつきにくいかも。それでも、テキトーに流して読んでいくと、中盤以降はユーモラスは筆致で意外なアクションが楽しめます。

 私が特に笑ったのは、フジツボのビルことビル・ベネディクトが現実に登場する場面。コイツもキャプテン・ブラックの一味だけにしょうもない奴なんだが、その姿の間抜けさは、いかりや長介率いるドリフターズそこのけのアホっぷり。しかも素でやってるからたまんない。

 根がだらしないオッサンを社会から隔離しちゃうと、こうまで救いようのない奴に成り果てちゃうんだろうなあ。

 なお、原題の CORSAIR は、16世紀~18世紀に北アフリカ沿岸を荒らしまわったムスリムの海賊(→Wikipedia)で、カリブの海賊とは少し違う。主にヨーロッパ船を狙ったあたりは私掠船に近いが、時として正規の海軍に近い役割りも担うばかりか、地域の王として君臨した例もある。

 マニア好みな濃いネタをアチコチに仕込みながら、中盤以降はギャグとアクションで楽しく駆け抜ける娯楽作品だ。細かい所に拘ってもいいし、明るく痛快な物語を楽しんでもいい。好きだなあ、こういうの。

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