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2016年3月21日 (月)

ドミニク・ラピエール「歓喜の街カルカッタ 上・下」河出文庫 長谷泰訳 1

今日では、およそ七万人以上の住人がサッカー競技場のほぼ三倍の広さの場所に密集し、およそ一万世帯が宗教別、地区別にわかれて暮らしている。

「あなたがた西洋の方は、気まぐれでそうなさっても、ずっと尊敬をうけておれます。皮膚の色が白いのですから」

あくる朝目をさますと、腕や、脚や、背中や、背筋がそりゃもう痛くて、起きあがるのもひと苦労なんだ。まえに友達のラーム・チャンダーもいってはいたが、どれほどたくましい農民の血をひいていようと、ひとは一朝一夕、馬同然の人間になれるもんじゃない。

【どんな本?】

 ラリー・コリンズとコンビを組み、第二次世界大戦中のパリ解放を描いた「パリは燃えているか?」・第一次中東戦争のエルサレム包囲を再現した「おおエルサレム!」,そしてインド独立を扱った「今夜、自由を」と傑作ドキュメントを連発したジャーナリストであるドミニク・ラピエールが、コンビを解消し単独で発表した世紀の傑作ノンフィクション。後に「シティ・オブ・ジョイ」の名で映画にもなった。

 インドの東部にある大都会カルカッタ(現コルカタ)に、それはあった。スラム街、アーナンド・ナガル(歓喜の街)。電気・ガスはもちろん水道もない狭苦しい場所に、ヒンドゥー教徒・スィク教徒・回教徒・ジャイナ教徒・キリスト教徒・仏教徒など七万人の貧民が暮らす街。

 フランス人の若き司祭ポール・ランベールは、己の使命として貧しき者と共に生きるため、ここにやってきた。西ベンガルの農民ハザリ・パルは、続く不作で飢えた家族を養うため、出稼ぎでカルカッタに向かい、ここにたどり着く。そしてアメリカ人の富豪の息子で医師のマックス・レーブは、ポール・ランベールに誘われて歓喜の街へと向かう。

 この世の極限の貧しさと最悪の搾取、その中で時には助け合い時には争って必死に生き抜く人々。混沌の大都会カルカッタだから成立する奇想天外のビジネスの数々。八百万の神々への深い信仰に彩られたインド人の暮らし。細かいカースト制度に隠された不思議な階層の人々。そして押し寄せる産業化で激動する彼らの生活基盤。

 混沌の国インドの中でも、最も多種多様な人々が集う極貧の街アーナンド・ナガルを舞台に、そこで逞しく生きる人々の姿を怒涛の迫力で描いた、衝撃のルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は La Cité de la joie / The City of Joy, Dominique Larierre, 1985。日本語版は1987年に河出書房新社より単行本で発行。私が読んだのは1992年5月7日に初版発行の河出文庫版。ただ残念な事に、今は手に入れるのが難しい。古本屋で探してもいいが、当時はそれなりに売れた本なので、図書館で借りる方が簡単だと思う。

 文庫本で上下巻、縦一段組みで本文約261頁+271頁=約532頁に加え、訳者あとがき11頁。8ポイント43字×20行×(261頁+271頁)=約457,520字、400字詰め原稿用紙で約1,144枚。文庫本の上下巻としては標準的な分量。

 文書は比較的にこなれている。内容も特に難しくないが、なにせ舞台がインド、それも混沌の大都会カルカッタだ。この物語のヒーローであるハザリが駆るリクシャにしても、現代日本の観光地にある綺麗で清潔でお洒落な人力車とはワケが違う(Google画像検索)。多少なりとも生のインドを知っていると、迫力が数段増す。

【構成は?】

 時系列順に物語形式で進むので、素直に頭から読もう。

  上巻
 作者ノート
Ⅰ 彼らこそ、世の光
Ⅱ 馬のような人間と火の車
  下巻
Ⅱ 馬のような人間と火の車(つづき)
Ⅲ わが愛しのカルカッタ
 エピローグ
 訳者あとがき

【感想は?】

 世の中に数あるインド物の中でも、これは文句なしに最高傑作。

 日本で有名なインド物といえば、藤原新也の「インド放浪」,蔵前仁一の「ゴーゴー・インド」,石井光太の「物乞う仏陀」などがあるが、所詮は旅人の旅行記だ。だが、これは違う。そこに暮らす人の視点で描く、インドの縮図なのだ。

 主人公は、西ベンガルの貧しい農民、ハザリ・パル。相次ぐ不作と重なる借金で暮らしが成り立たず、妻と三人の子を連れて大都会カルカッタに出稼ぎに出る。と書けば簡単だが、彼が旅立ちを決意するまでの経緯が、分かる人には「おお、いかにもインド」なエピソードに満ちている。

 一つの小屋に老いた両親と妻と三人の子、そして二人の弟夫婦の合わせて17人が暮らす。今の日本の大家族でも、流石に17人は滅多におるまい。家の壁にはカラフルなポスターがいっぱい。ったって、映画スターじゃない。伝説の英雄ラーマとその妻シーター,繁栄の女神ラクシュミー,幸運の神ガネーシャ…。そう、神話の神々だ。いやあ、インドだなあ。

 信仰深い人々なだけに、あらゆる所作に細かい規約がある。食事は清浄な右手で取り、排便の後は不浄な左手で洗う。排便にも作法があって、決まった時間に決まった場所で行なわねばならない。それも男と女で異なり…

 彼らが追いつめられる過程も、学者風に言えば「富農が地主になり小農が小作になるありがちな現象」なんだが、いちいちエピソードを具体的に描くので、実感として肌に迫ってくる。少ない土地で多くの口を養わにゃならんのに、天候は不規則なので、不作が何年か続けばたちまち食い詰める。

 そこを借金で食いつなぐのだが、「年利六割」なんて暴利だ。いかにグラミン銀行(→Wikipedia)が画期的か、よくわかる。しかも高利貸しは土地を担保に取る。加えて、農機具の鋤や水を汲むポンプもレンタル料を取られ、肥料や殺虫剤も買わにゃならん。

 それだけの出費をしても、雨が降らなきゃ全部がパーだし、降りすぎて洪水になってもオジャンだ。暖かいベンガルなので収穫は年に二回あるが、半年間も無収入で食いつなげる者は少なかろう。そんなわけで、農業ってのは生きていくだけでギャンブルであり、余裕のない者から先に落ちぶれていく。農業社会ってのは、ほっとけば階層化しちまうのだ。

 じゃ都市生活はというと、これがまたインドは過酷な競争社会であると共に、既得利権を掴んだ者が怪しげな商売を営む百鬼夜行の魔窟だったり。

 次々と出てくる職業を挙げるだけでも、インドの複雑さがよく分かる。不自由な身体で稼ぐ物乞い。ゴミ捨て場でお宝を漁る子供たちも、複雑なルールに従っている。蒸気機関車の石炭をくすねる者。地を売る者。チャイ屋。占い師。楽師。安煙草ビーリーを巻く者。デモ要員。

 加えて、あらゆる職業に救巣くう仲介屋、賄賂を取る警官と役人と看護師、ミカジメ料を吸い上げるマフィア。表の職業は長くインドに留まっていれば自然とわかるが、こういった裏の面は相当にインドに食い込まないとわからない。後に出ハザリはリクシャワラ(人力車夫)となるが、彼らの業界構造も剥きだしの資本主義と搾取構造で成り立っている。

 そう、タテマエじゃインドは社会主義だが、その実情は情け容赦のない弱肉強食の競争社会だったり。

 にも関わらず、底抜けにお人よしな人もいたりするのが、こういう土地の不思議なところ。ハザリも、親切な人に何度も助けられてリクシャワラの職に就き、路上生活からアーナンド・ナガルへと辿り着く。そう、インドじゃる上生活も珍しくないのだ。リクシャワラの中にはリクシャで寝起きする者だっている。

 そんなリクシャワラの暮らしも過酷だ。リクシャは借り物で、持ち主に借り賃を払わにゃならん。道路じゃバスや自動車に邪魔者扱いされ、警官には難癖つけられ袖の下を巻き上げられる。

 裸足で走るので、うっかり割れたビンを踏んだら商売道具の足が駄目になる。夏は気温が40℃を超えるカルカッタでは溶けたアスファルトが素足を痛めつける。多くのリクシャワラは若かくして骨と皮ばかりの白髪となり、血を吐いて命が擦り切れてしまう。洪水ともなれば自動車は動かず稼ぎ時だが、ひとつ間違うと…

 そんなインドのスラムなんだから、さぞかし物騒なデンジャーゾーンなのかと思えば、まあ危険といえば確かに危険だが、危険の種類がいささか違う。そこの敵は、フランス人の若き司祭ポール・ランベールの目を通して描かれるのだが、これまた泣いていいのか笑っていいのか。ヒトてのは、悲惨さも限度を越えると笑いに変わるらしい。

 と、その辺は、次の記事で。どうも私はドミニク・ラピエールの作品を扱うと我を忘れてしまう。それだけ興奮に満ちた作品なんだと思ってください。

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