老ボータ・シンの物語 ラピエール&コリンズ「今夜、自由を」ハヤカワ文庫NF 杉辺利英訳より
1947年8月15日、インドとパキスタンが独立する。
これは両国の民にとって喜びの日となったが、同時に惨劇の始まりでもあった。ヒンディー・ムスリム・シークが互いに争い始めたのだ。中でも最も凄惨を極めたのがパンジャブである。現インドの首都デリーの北西部に広がるパンジャブは、シークの聖地であると同時に、豊かな農地に恵まれたインドの穀倉地帯だった。
両国家の分割は、このパンジャブを真っ二つに引き裂く。周到に整備された用水路網や道路網はズタズタになり、パンジャブの富の源泉となる社会資本は崩壊してしまう。
国の分割は、平和だったパンジャブの民も巻き込んで行く。それまで共に住んでいたヒンディー・シーク・ムスリムが突然に憎しみを滾らせ、殺しあい始めてしまう。インドに編入される東側ではヒンディーとシークがムスリムを襲い、パキスタンとなる西ではムスリムがヒンディーとシークを殺し始めた。
殺戮の嵐から逃れようとする者は列をなし、歩いて国境へと向かう。インドとパキスタン全体で一千万を超える者が、家を捨て身一つで新しい母国へと歩んでいった。
だが、憎しみの嵐は彼らも見逃さない。。身を守る術のない難民を、追いはぎは容赦なく襲い、財産を奪い、女を犯し、殺す。両国を繋ぐ街道は、あちこちに死体が転がっていた。
【出会い】
ボータ・シンは65歳、シーク教徒の農民で、天涯孤独の身だ。ビルマ戦役では、マウントバッテンの指揮下で戦ったこともある。その日、ボータ・シンは畑で働いていた。突然に悲鳴が聞こえ、若い女が走ってくる。その後に、彼女を追う男。娘は必死にボータ・シンに助けを求めている。
ムスリムの彼女は難民となってパキスタンへと向かう途中で賊に攫われ、ここまで逃げてきたのだ。
ボータ・シンは賊と娘の間に割って入り、彼女を買い取る。1400ルピーだった。娘はラジャスタンの農民の娘で17歳、ゼニブという名だった。
ゼニブとボータ・シンは共に暮し始める。長い一人暮らしに突然現れた若い娘を、ボータ・シンはお姫様のように扱った。貧しい貯えの中から、サリーや香水やサンダルを惜しみなく与える。殺戮の嵐が吹きすさぶパンジャブにあって、ボータ・シンの家は平和な安らぎに満ちていた。やがてゼニブはボータ・シンと共に畑に出て、一緒に働き始める。
そんな或る日のまだ暗い朝。
陽気な楽隊の音が聞こえ、羽飾りで着飾ったボータ・シンがビロードの飾りをつけた馬に乗り、多くの村人を従えて我が家にやってきた。ゼニブにプロポーズするためである。ゼニブは金糸を縫いこんだサリーを纏い、ボータ・シンの後に従って聖なる書グラント・サーヒブのまわりを四回まわる。
グルは宣言する。「二人は夫婦になった」と。
夫婦の幸福は続く。やがてゼニブは身ごもり、ボータ・シンは娘を授かったのだ。聖なる書グラント・サーヒブより、娘はタンヴィーと名づけられる。「恩寵の力」のような意味である。
【別離】
タンヴィーが八歳になる頃。ボータ・シンの甥二人が、遺産相続を巡り恨みを抱く。二人は、復讐の方法を見出した。
独立の混乱時には、多くのムスリム女性が攫われた。パキスタン当局は、被害にあった女性を探し出し、パキスタンに送還していた。二人の甥は、この当局にゼニブを通報したのだ。
ゼニブはボータ・シンから引き離され、臨時キャンプに収容されてしまう。
悲しみにくれるボータ・シンだが、潔く決意を固める。誇り高いシークの証しである髪を切り落とし、ニューデリーの回教大寺院に向かい、ムスリムとなったのだ。彼はジャミル・アーメドの名を得、娘はスルタナの名をもらう。そしてパキスタン高等弁務官府に出頭し、妻の引取りを求めるが、あっさりと却下されてしまう。
六ヶ月の間、ボータ・シンは臨時キャンプへ通い、移送を待つ妻を訪ね、何時間も傍らに座って過ごした。しかし、やがてゼニブの親戚が見つかり、妻はパキスタンへ送られてしまう。
【執念】
ボータ・シンは決意した。パキスタンに移住し、向うで妻と暮らそう。
ムスリムである由を理由に、パキスタンへの移民を申請する。だが、冷酷に却下されてしまう。せめて訪ねるだけでも、とビザを求めたが、これも断られてしまう。こうなったら最後の手段だ。密入国である。村に戻り全ての財産を貧しい者に分け与え、娘を連れて国境へと向かった.。
娘はラホールに残し、一人でゼニブの家族が住む村に向かったボータ・シン。しかし、運命は残酷だった。
インドからゼニブが乗ったトラックが村に着いた数時間後、彼女は従兄と結婚させられていたのだ。
妻を帰せと叫ぶボーダ・シン。しかしゼニブの親戚の男たち総出で彼を叩きのめし、密入国者として警察に突き出してしまう。
【対決】
ボータ・シンは判事に願い出た。私はムスリムだ。妻を返して欲しい。せめて、妻自身に自分の意思を語って欲しい、と。彼の悲しみは判事に伝わり、一週間後に法廷で決着をつけることに決まった。
この事件は新聞に載り、ラホールじゅうに知れ渡る。当日、法廷は傍聴人で満員となった。皆、ボータ・シンを応援している。ボータ・シンは、娘を連れて法廷に出た。
ゼニブも入廷してきた。家族の男たちに囲まれ、怯えきっている。
判事は訪ねる。「この二人といっしょにインドに帰りたいかね」
ゼニブは家族を顧みた。みな、彼女をみつめている。法廷に沈黙が下り、暫くして、眼を伏せたゼニブは呟いた。
「いいえ」
法廷に野獣の咆哮が響き渡った。ボータ・シンである。ひとしきり叫んだ後、ボータ・シンは娘をボータ・シンの元に連れてゆき、こう語った。
「お前から子供を取り上げることは、わしにはできない。さあ、お前にあげよう」
そして、残った全ての札束と共にセニブへ差し出す。
だが、妻の一族の者は目で合図した。断れ、と。シークの血が入った者を一族に迎え入れるわけにはいかない。それは名誉を汚す。仮に引き取っても、娘は一族からのけ者にされ、幸福にはなれないだろう。ゼニブはうめくように答えた。
「いいえ」
長い間、じっと妻を見つめたボータ・シンは、娘の手を取り静かに法廷を後にした。振り向きもせずに。
【悲劇】
ダータ・ガンジ・バクシュのモスクでひと晩泣き続けたボータ・シンは、翌朝、近くのバザールで娘に新しい服とサンダル買い与えた。そして、シャーダラー駅へと向かう。プラットホームに機関車が入ってきたとき、娘はいきなり突き飛ばされる。ボータ・シンは、単身、機関車の前に身を投げたのだ。
轢死体から、血まみれの遺書が見つかった。
「愛するゼニブよ。私はお前をうらんではいない。お前の傍にいることが私の最後の願いだ。私をお前の村に埋め、時々は花を持ってお詣りに来ておくれ」
【墓標】
この事件はパキスタン中の話題となり、彼の葬儀はパキスタンあげての行事となった。
だが、ゼニブの家族と村の住民の意見は違った。村の墓地にボータ・シンの棺を入れることを拒んだのだ。ゼニブの新しい夫と一族はバリケードを築き、ボータ・シンの棺を入れさせなかった。1957年2月22日の事である。
暴動を恐れる当局は、ラホールに引き返すよう葬列に命じる。ラホールに戻るボータ・シンの棺には数千のパキスタン人が従い、花の山に埋もれるのだった。
ゼニブの家族はこれに怒り、彼の墓を汚すために襲撃隊を放った。だが、これは逆効果となってしまう。パキスタン全土から、壮麗な霊廟を建てるための寄付金が集まり、数百人のムスリムが老いたシークの墓の警備を買って出たのだ。
【後日談】
なお、二人の娘スルタナはラホールで養い親に引き取られ、やがて技師の夫を得て三児の母となる。
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