アリス・W・フラハティ「書きたがる脳 言語と創造性の科学」ランダムハウス講談社 吉田利子訳
書くことは人間の至高の営みの一つである。 ――はじめに
アマチュア作家はまず自己表現のために書くのに対し、プロになれる作家は自分のアジェンダを隠しあるいは変容させて、人々にとっておもしろいものを書く。 ――第一章 ハイパーグラフィア 書きたいという病
側頭型認知症のせいで芸術的な活動が始まる人たちは側頭葉の機能が低下しているが、側頭葉てんかんから芸術活動が生まれる人の場合は、一見したところ――発作とは電気的な嵐のようなものだと考えれば――側頭葉の活動が亢進しているように思える。 ――第二章 文学的創造力と衝動
心理学者のディラン・エヴァンスは、言葉は最初の向精神薬だったと主張する。 ――第六章 なぜ書くのか 辺縁系
(ジュリアン・)ジェインズはギリシャの叙事詩を基本事例として、内なる声は紙が語っているのではなくて自分の中にあると人間が気づいたのはごく最近だと言う。こう考えると、なぜ古代の文学の主人公には、現代人を当惑させるほど、自分が行動しているという意識が欠如しているのかということも説明がつくかもしれない。 ――第七章 暗喩、内なる声、詩神
【どんな本?】
文章を書くのが、または絵を描くのが好きな人がいる。好きを超えて、止められない人もいる。逆に、なかなか書けない人もいる。いわゆるライターズ・ブロックだ。そして、読まずにいられない活字中毒者もいる。
なぜッヒトは書きたがるのか。または書けないのか。書くとき、書けないとき、ヒトの脳の中では何が起きているのか。小説家たちは、ライターズ・ブロックをどうやって克服したのか。そして、優れた芸術家に訪れるインスピレーション、詩神の正体は何か。
神経科医であり、文学を愛し、また自らも産後うつを患いハーパーグラフィア(書かずにはいられない衝動)を経験した著者が、最新の神経医学と古今の小説、そして自らの経験を縦横に交えて語る、書くこと・書けないこと・語ること・読むことに関する、一般向けの科学解説・エッセイ集。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Midnight Disease : The Drive to Write, Writer's Block, and the Creative Brain, by Alice W. Flaherty, 2004。日本語版は2006年2月1日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約335頁に加え、茂木健一郎の解説「現代人のためのロマンティック・サイエンス」8頁。9.5ポイント43字×18行×335頁=約259,290字、400字詰め原稿用紙で約649枚。文庫本ならやや厚めの一冊分。
文章はエッセイ集としてはやや硬く、科学解説書としては柔らかい。面白さを味わうのに必要なのは、科学よりむしろ英文学の素養だろう。と言っても、あまり海外文学を読まない私でも楽しめたので、あまり構えなくてもいい。「ヘミングウェイはマッチョっぽくてスティーヴン・キングは売れっ子」程度に知っていれば充分。
【構成は?】
各章は比較的おだやかにつながっているが、できれば頭から読んだほうがいいだろう。
謝辞
はじめに
第一章 ハイパーグラフィア 書きたいという病
第二章 文学的創造力と衝動
第三章 精神状態としてのライターズ・ブロック
第四章 脳の状態としてのライターズ・ブロック
第五章 どうやって書くのか 皮質
第六章 なぜ書くのか 辺縁系
第七章 暗喩、内なる声、詩神
解説 現代人のためのロマンティック・サイエンス 茂木健一郎
【感想は?】
科学が好きな人に。文学を愛する人に。そして、自分の心に興味がある全ての人に。
やたらと筆まめな人や、多作な作家がいる。筆まめと言えば聞こえはいいが、この本の中では「ハイパーグラフィア」と一種の病気扱いだ。どうも側頭葉てんかんと関係があるらしいが、詳しい事は最後まであいまいなまま。今でも研究中のテーマなのだ。
側頭葉てんかんとハイパーグラフィアの関係は、1970年代に神経学者のスティーヴン・ワックスマンとノーマン・ゲシュウィンドが確かめた。その方法が賢い。てんかん患者に手紙を送り、健康状態を尋ねた。結果は鮮やかで、ハイパーグラフィアでない患者の返信は平均語数78語、ハイパーグラフィアは平均5千語。ハッキリと差が出ている。
文章の大量生産はできるのだが、質が伴うとは限らないのが辛いところ。とはいえ、なかにはドフトエフスキーのように優れた質を伴う人もいるから、世界はわからない。
こういう人たちは、自分が病気だと思っていない。どころか、「書くことに喜びを感じているから、治療には抵抗する」。スティーヴン・キングもハイパーグラフィアっぽいが、彼の場合は本人に加え世界中のファンが「治療なんてとんでもない!」と猛反対するだろう。
この病気と治療の関係が、この本ならではの独特の味を生み出している。
なんといっても、著者の立場が独特だ。神経科医として患者の治療に当たりつつ、自らも産後うつを患い、その際にハイパーグラフィアを経験したからだ。医師・研究者として客観的に症状を眺める視点と、患者として症状を感じた体験、そして豊かな文学の素養が複雑に絡み合い、科学とも文学論ともつかない不思議な味わいを生み出している。
科学面では、機能的MRI(核磁気共鳴画像法)やPET(陽電子放射断層撮影)を使い、脳の部位が人の性格や創造性にどう関係しているかの話も面白いが、まるでSFな話も出てくる。
一つはTMSこと経頭蓋的時期刺激法(→Wikipedia)。これは脳の一部の活動を活性化・抑制するシロモノ。使った人の経験談は、「詩神の訪れという感覚を引き出した」「絵を描く能力と数学的能力が増強された」と、まるで賢くなる機械みたいだ。羨ましい。
もう一つは脳深部刺激療法で、「神経外科手術で電極をうつ病患者の脳に永久的に植え込む」。電極の近くの脳の活動を亢進または低下させ、「ほかの治療法に反応しない重症のうつ病患者に効果をあげている」。細かく設定を変えられるので、ある患者かこんなリクエストを出してきた。
「うちにいるときは、落ち着いていられるので2の設定にします。でもパーティに行くときには設定を4にして元気になるんです」
まるきしグレッグ・イーガンの「しあわせの理由」じゃないか。あれはこの技術をネタにしたのか、それともイーガンの想像に現実が追いついたのか、どっちなんだろう?
ちょっとドキッとしたのが、宗教的な啓示を語る最終章。これも詩神と同じ側頭葉てんかんが関係あるらしいんだが、V・S・ラマチャンドランの実験が怖い。側頭葉てんかんで宗教的感情が強い患者に、性的・暴力的・宗教的など様々なイメージのある写真を見せ、感情の変化を調べた。結果…
宗教的な写真や言葉の場合に大きく変化したが、そのほかはふつうの人なら大きく反応する性的暴力的なイメージにさえあまり変化しなかった。
宗教に入れ込み、暴力に鈍感になる。これって、オウム真理教やシリアの山賊そのものだ。我々がカルトを恐れるのは、本能的にこういう事を知っているからかも。
書くことに加え、書けないこと、すなわちライターズ・ブロックについても多くの章を割いている。古今の作家が語るライターズ・ブロックの苦しみ、様々な脱出法、そして考えられる原因。ここでも医師が薬物を処方するあたりが、いかにも即物的なアメリカだけど、もっと穏やかな方法も幾つか紹介している。
一つは規則正しい生活をし、時間を決めて文章の質は問わずとにかく書け、というもの。一時期のロバート・シルヴァーバーグみたく、多作な作家はこういう人が多いのかも。日照が足りなくてうつな気分になってるなら、日に当たるのがいい。逆に夜型の人は、無理せず夜に書くといいとか。
日頃から駄文を量産している私だが、ハイパーグラフィアではない。書かなくても苦しくないし。でも活字中毒ではある。これもちゃんと名前がついていて、ハイパーレキシアと呼ぶそうだ。「読むものがないとシリアルの箱のラベルから魚を包んだ新聞紙まで何でも読まずにはいられないのだ」って、モロに私だ。
なんていう、書くこと・読むことに苦しむ人の話も面白いが、加えて古今の作家の言葉を引用しているのも楽しい。やっぱりバーナード・ショーは皮肉が効いてるなあ。
ウイリアム・S・バロウズ 「ヘロイン嗜癖の経験がなければ『裸のランチ』は書けなかっただろうが、同時にヘロイン使用をやめなければ書けなかったはずだ」
ジョージ・バーナード・ショー 「わたしが文学を仕事にした最大の理由は、作家は顧客の目に触れることがなく、立派な服装をする必要がないからである」
E・M・フォスター 「言葉にしなければ、自分が何を考えているかわからないではないか?」
著者も産後うつを患い、患者の視点からうつを描く部分も興味深い。別に病気でなくとも、深い悲しみを味わった人なら、著者の気持ちに共感できるだろう。薬で明るい気分にされても、なんか納得できないのだ。
科学が好きなら、現代の神経医学の成果を楽しめる。文学が好きなら、書くこと・読むことの意義を再確認できる。書かずにはいられない人や読まずにいられない人は、共感できる部分がアチコチにある。そして書けずに悩んでいる人には、幾つもの対策を紹介してくれる。
分量は手軽だが、興味深いエピソードが沢山あって、思ったより濃い本だった。ただし、深い信仰を持つ人は不愉快な気持ちになるかもしれない。
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