アントニオ・メンデス&マット・バグリオ「アルゴ」ハヤカワ文庫NF 真崎義博訳
情報というのは、受け手にその利用能力がある場合にのみ有効性があるのだ。
――第六章 過去の教訓油田労働者や、栄養士や、教師などに変装するのではなく、映画のロケハンでイランに来たハリウッドのプロダクション関係者を装えばいいのだ。
――第九章 ハリウッド
【どんな本?】
1979年11月4日。革命の嵐が吹き荒れるイランの首都、テヘラン。過激派の学生がアメリカ大使館に雪崩れ込み、52人の人質を取り立て篭もる。イラン・アメリカ大使館人質事件(→Wikipedia)である。原理主義者を主力とするイラン政府はこれを容認し、イランとアメリカの交渉は暗礁に乗り上げてしまう。
この時、人質とは別に6人のアメリカ人が、ひっそりと隠れていた。カナダ大使ケン・テイラーと外交官ジョン・シアダウンが、彼らを匿っていたのだ(→Wikipedia)。これを知ったCIAの偽装工作斑アントニオ・メンデスは、6人を救うために前代未聞の計画を立てる。ハリウッド映画のロケハンを装ってイランに入り、彼らを連れ出そう。
作戦担当者アントニオ・メンデス自らが著したノンフィクションであり、2012年には映画「アルゴ」として公開された。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は ARGO : How the CIA and Hollywood Pulled off the Most Audacious Rescue in History, by Antonio J. Mendez and Matt Baglio, 2012。著者のアントニオ・メンデスはCIAの作戦担当者、マット・バグリオは作家。メンデスが事件を語り、バグリオが読みやすい形に文章を整えたんだろう。
文庫本で縦一段組み、本文約342頁に加え、高橋良平の解説7頁。9ポイント40字×17行×342頁=約232,560字、400字詰め原稿用紙で約582頁。文庫本としては標準的な分量。
文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくないので、高校生でも楽しく読めるだろう。今でこそ少し落ち着いているが、当時のイランは世界的に「何をしでかすかわからない国」みたいな扱いだったので、その雰囲気が分かっていると、緊張感が増す。また、パスポートやビザを偽装する話が多いので、個人でパスポートやビザを調達し、海外に旅行した経験があると、更に楽しめる。
【構成は?】
ほぼ時系列順に話が進むので、素直に頭から読もう。
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【感想は?】
映画は見ていないが、恐らく映画は原作とだいぶ印象が違っているだろう。
というのも。映画の話が出てくるのは後半に入ってからで、それまでは事件の流れと共に、CIAの偽装工作班の話が多くを占めているからだ。
そういう趣味のない人には地味でつまらないかも知れないが、スパイ物に興味がある人には、これがなかなか楽しい。特にジェームズ・ボンドが使う特殊カメラや通信機などケッタイなメカやガジェットが好きな人には、ワクワクするネタが沢山出てくる。昔は駄菓子屋にこの手の玩具があったんだが、今はどうなんだろう。
お話は著者のスタジオ(というよりアトリエ)から始まる。なぜスタジオ?と最初は不審に思ったが、実はこれが物語を通して重要な意味を持っていた。なぜって、彼らの仕事は「渡航や住居の確保に使う身分証明用の書類」の偽造だから。絵の素養が必要な仕事なわけ。
さて。MI6と違い歴史の浅いCIAは、自前の研究資金も少ない。そこで「技術開発のために外部の請負業者と協力する」体質になった。その業者、当然ながら機械工作や特殊素材などエンジニアが関わる業者も多いのだが、CIAという名前からは想像もつかない業種ともかかわり始める。
「70年代はじめに私がハリウッドのメイクアップ・アーティストと協力しはじめ」たのだ。なぜハリウッド?
鋭い人ならピンとくるだろう。スパイといえば潜入工作。潜入に必要なのは、他人に成りすますこと。つまり変装だ。ハリウッドの変装技術を、スパイ活動に導入したわけ。実際、この事件でも大胆な変装がなされる。脱出する6人の多くは、お堅い外交官なんだが、意外とノリノリでコスプレを楽しんだ模様。
この辺、若い人には当時の背景説明が必要かも。というのも、イランやロシアなど抑圧的な国は、自国民の国外脱出について、大きく方向を変えているため。今のイランは、「出るものは追わず」的な政策に切り替えている。欧米も難民の受け入れには難色を示しているので、イラン政府も国民全てが消える心配をせずにすんでいる。
もっとも、これには下世話で切実な原因も絡んでいて、つまりは多くの国民が湾岸での出稼ぎで食ってたりするし。
だが当時のソ連やイランは、自国民の亡命を極端に恐れ、国境や空港では厳重に警戒していた。今の北朝鮮を想像してもらえば、だいたいの見当がつくだろう。そんなわけで、当時は抑圧的な国からの脱出は難しかったわけ。
ってんで、前半~中盤では、ソ連やイランから、政府・軍・情報関係者の亡命工作の話が幾つか出てくる。ここで真価を発揮するのが偽造と変装の技術だ。工作員ばかりでなく、素人の亡命希望者も他人に成りすまさなきゃいけない。そのため、現地でお手軽に変装する技術が役に立つわけ。
変装ばかりでなく、文書の偽造もインスタントでやってたりするから凄い。なんと飛行機の着陸寸前にトイレで文書を偽造してたりする。
肝心のアルゴ事件では、映画のロケハン隊を装う。そもそも当時のイランにハリウッド映画のロケハン隊が入れるってのも不思議に思えるが、イラン側にすればちゃんと筋の通った理由があるのだ。この辺は、イランが自国をどう考えているかを理解する手がかりになる。詳しく知りたい人は、ケネス・ポラック「ザ・パージァン・パズル」小学館が詳しい。
その映画、原作を聞いて大笑いしてしまった。なんとロジャー・ゼラズニイの「光の王」。実現したら、さぞかしド迫力の画像になったろうに、この本に出てくるCIA関係者の一言評が「こんな話、イラン人が聞いても絶対に理解できないぞ」って、それは酷いw 「わが名はコンラッド」に並ぶゼラズニイの傑作なのに。
まあいい。実際に原作を想定し、ハリウッドに映画製作の事務所を実際に構え、脱出者6人を含む身元をデッチあげ…と入念な準備を施し、著者らは革命の狂乱がまだ冷めないテヘランへと向かう。
当時のイラン政府の勘違いぶりと革命防衛隊関係の混乱ぶり、意外なハリウッドの事情などの小ネタのほかに、スパイが打ち合わせに使う場所や驚きの小型盗聴器など、実録スパイ物としてのエピソードもある。特に終盤は、空港の入国・出国審査で手間取った経験のある人なら、ピリピリくる緊張感が伝わってくるだろう。
スパイ物を期待して読んだが、イランの実情も伝わって来て、意外な収穫の多い本だった。
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