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2015年11月の15件の記事

2015年11月30日 (月)

アントニオ・メンデス&マット・バグリオ「アルゴ」ハヤカワ文庫NF 真崎義博訳

情報というのは、受け手にその利用能力がある場合にのみ有効性があるのだ。
  ――第六章 過去の教訓

油田労働者や、栄養士や、教師などに変装するのではなく、映画のロケハンでイランに来たハリウッドのプロダクション関係者を装えばいいのだ。
  ――第九章 ハリウッド

【どんな本?】

 1979年11月4日。革命の嵐が吹き荒れるイランの首都、テヘラン。過激派の学生がアメリカ大使館に雪崩れ込み、52人の人質を取り立て篭もる。イラン・アメリカ大使館人質事件(→Wikipedia)である。原理主義者を主力とするイラン政府はこれを容認し、イランとアメリカの交渉は暗礁に乗り上げてしまう。

 この時、人質とは別に6人のアメリカ人が、ひっそりと隠れていた。カナダ大使ケン・テイラーと外交官ジョン・シアダウンが、彼らを匿っていたのだ(→Wikipedia)。これを知ったCIAの偽装工作斑アントニオ・メンデスは、6人を救うために前代未聞の計画を立てる。ハリウッド映画のロケハンを装ってイランに入り、彼らを連れ出そう。

 作戦担当者アントニオ・メンデス自らが著したノンフィクションであり、2012年には映画「アルゴ」として公開された。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は ARGO : How the CIA and Hollywood Pulled off the Most Audacious Rescue in History, by Antonio J. Mendez and Matt Baglio, 2012。著者のアントニオ・メンデスはCIAの作戦担当者、マット・バグリオは作家。メンデスが事件を語り、バグリオが読みやすい形に文章を整えたんだろう。

 文庫本で縦一段組み、本文約342頁に加え、高橋良平の解説7頁。9ポイント40字×17行×342頁=約232,560字、400字詰め原稿用紙で約582頁。文庫本としては標準的な分量。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくないので、高校生でも楽しく読めるだろう。今でこそ少し落ち着いているが、当時のイランは世界的に「何をしでかすかわからない国」みたいな扱いだったので、その雰囲気が分かっていると、緊張感が増す。また、パスポートやビザを偽装する話が多いので、個人でパスポートやビザを調達し、海外に旅行した経験があると、更に楽しめる。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に話が進むので、素直に頭から読もう。

  • まえがき
  • 第一章 ようこそ革命へ
  • 第二章 対応策を練る
  • 第三章 外交
  • 第四章 逃げ場なし
  • 第五章 カナダ、救援へ動く
  • 第六章 過去の教訓
  • 第七章 チームの招集
  • 第八章 作り話
  • 第九章 ハリウッド
  • 第一〇章 スタジオ・シックス
  • 第一一章 宇宙炎上
  • 第一二章 準備完了
  • 第一三章 イランでのロケーション撮影
  • 第一四章 最終準備
  • 第一五章 脱出
  • 第一六章 余波
  • 解説:高橋良平/文献/注

【感想は?】

 映画は見ていないが、恐らく映画は原作とだいぶ印象が違っているだろう。

 というのも。映画の話が出てくるのは後半に入ってからで、それまでは事件の流れと共に、CIAの偽装工作班の話が多くを占めているからだ。

 そういう趣味のない人には地味でつまらないかも知れないが、スパイ物に興味がある人には、これがなかなか楽しい。特にジェームズ・ボンドが使う特殊カメラや通信機などケッタイなメカやガジェットが好きな人には、ワクワクするネタが沢山出てくる。昔は駄菓子屋にこの手の玩具があったんだが、今はどうなんだろう。

 お話は著者のスタジオ(というよりアトリエ)から始まる。なぜスタジオ?と最初は不審に思ったが、実はこれが物語を通して重要な意味を持っていた。なぜって、彼らの仕事は「渡航や住居の確保に使う身分証明用の書類」の偽造だから。絵の素養が必要な仕事なわけ。

 さて。MI6と違い歴史の浅いCIAは、自前の研究資金も少ない。そこで「技術開発のために外部の請負業者と協力する」体質になった。その業者、当然ながら機械工作や特殊素材などエンジニアが関わる業者も多いのだが、CIAという名前からは想像もつかない業種ともかかわり始める。

 「70年代はじめに私がハリウッドのメイクアップ・アーティストと協力しはじめ」たのだ。なぜハリウッド?

 鋭い人ならピンとくるだろう。スパイといえば潜入工作。潜入に必要なのは、他人に成りすますこと。つまり変装だ。ハリウッドの変装技術を、スパイ活動に導入したわけ。実際、この事件でも大胆な変装がなされる。脱出する6人の多くは、お堅い外交官なんだが、意外とノリノリでコスプレを楽しんだ模様。

 この辺、若い人には当時の背景説明が必要かも。というのも、イランやロシアなど抑圧的な国は、自国民の国外脱出について、大きく方向を変えているため。今のイランは、「出るものは追わず」的な政策に切り替えている。欧米も難民の受け入れには難色を示しているので、イラン政府も国民全てが消える心配をせずにすんでいる。

 もっとも、これには下世話で切実な原因も絡んでいて、つまりは多くの国民が湾岸での出稼ぎで食ってたりするし。

 だが当時のソ連やイランは、自国民の亡命を極端に恐れ、国境や空港では厳重に警戒していた。今の北朝鮮を想像してもらえば、だいたいの見当がつくだろう。そんなわけで、当時は抑圧的な国からの脱出は難しかったわけ。

 ってんで、前半~中盤では、ソ連やイランから、政府・軍・情報関係者の亡命工作の話が幾つか出てくる。ここで真価を発揮するのが偽造と変装の技術だ。工作員ばかりでなく、素人の亡命希望者も他人に成りすまさなきゃいけない。そのため、現地でお手軽に変装する技術が役に立つわけ。

 変装ばかりでなく、文書の偽造もインスタントでやってたりするから凄い。なんと飛行機の着陸寸前にトイレで文書を偽造してたりする。

 肝心のアルゴ事件では、映画のロケハン隊を装う。そもそも当時のイランにハリウッド映画のロケハン隊が入れるってのも不思議に思えるが、イラン側にすればちゃんと筋の通った理由があるのだ。この辺は、イランが自国をどう考えているかを理解する手がかりになる。詳しく知りたい人は、ケネス・ポラック「ザ・パージァン・パズル」小学館が詳しい。

 その映画、原作を聞いて大笑いしてしまった。なんとロジャー・ゼラズニイの「光の王」。実現したら、さぞかしド迫力の画像になったろうに、この本に出てくるCIA関係者の一言評が「こんな話、イラン人が聞いても絶対に理解できないぞ」って、それは酷いw 「わが名はコンラッド」に並ぶゼラズニイの傑作なのに。

 まあいい。実際に原作を想定し、ハリウッドに映画製作の事務所を実際に構え、脱出者6人を含む身元をデッチあげ…と入念な準備を施し、著者らは革命の狂乱がまだ冷めないテヘランへと向かう。

 当時のイラン政府の勘違いぶりと革命防衛隊関係の混乱ぶり、意外なハリウッドの事情などの小ネタのほかに、スパイが打ち合わせに使う場所や驚きの小型盗聴器など、実録スパイ物としてのエピソードもある。特に終盤は、空港の入国・出国審査で手間取った経験のある人なら、ピリピリくる緊張感が伝わってくるだろう。

 スパイ物を期待して読んだが、イランの実情も伝わって来て、意外な収穫の多い本だった。

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2015年11月29日 (日)

スティーヴン・キング「11/22/63 上・下」文藝春秋 白石朗訳

ダンスは人生だ

模倣は、賞賛のもっとも誠実なかたちだ。

【どんな本?】

 ホラーの、いや娯楽小説の帝王スティーヴン・キングによる、2011年発表の長編小説。11/22/63とは、ケネディ大統領が、リー・ハーヴェイ・オズワルドに暗殺(→Wikipedia)された日、1963年11月22日のこと。過去に通じる「穴」を通り、ケネディ暗殺の阻止を試みる高校教師の奮闘と、当時のアメリカの風俗、そしてそこに生きた人々を描く重量級の娯楽小説。

 2012年度国際スリラー作家協会最優秀長編賞、2011年度LAタイムズ文学賞ミステリ/スリラー部門受賞の他、「このミステリーがすごい!」2014年度海外篇トップ、週間文春ミステリーベスト10の2013年トップ、「SFが読みたい!」ベストSF2013海外篇5位など様々な分野で高い評価を得た。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は 11/22/63, by Stephen King, 2011。日本語版は2013年9月15日第一刷。単行本ソフトカバー縦二段組で上下巻、本文約519頁+507頁=約1,026頁に加え、著者あとがき8頁+訳者あとがき4頁。9ポイント24字×20行×2段×(519頁+507頁)=約984,960字、400字詰め原稿用紙で約2,463枚。文庫本なら5分冊でもおかしくない巨大容量。

 文章は読みやすい。内容も特に難しくないが、1950年代終盤~1960年初頭の世界情勢やアメリカの風俗に詳しいと、更に楽しめる。

 最も重要なのはジョン・F・ケネディ及びその暗殺事件で、出来れば Wikipedia などで軽く調べておこう。当時JFKは絶大な人気を誇っていた、いや今でも人気があるのだ。次に音楽で、グレン・ミラーのイン・ザ・ムード(→Youtube)。名前は知らなくても、聞けば「ああ、この曲ね」とピンとくると思う。

【どんな話?】

 ハイスクールの英語教師ジェイク・エピングは、余命いくばくもない友人のアツ・テンプルトンから、大変な使命を負かされてしまう。1958年9月9日に通じる「穴」を通って時を遡り、1963年11月22日のケネディ大統領暗殺を阻止してくれ、と。「穴」の向こうは、常に1958年9月9日。向うで5年間は過ごさねばならない。

 決意を固めたジェイクは、準備を整え1950年代終盤のアメリカへ向かうが…

【感想は?】

 活き活きと描かれた50年代終盤~60年代初頭のアメリカの様子が楽しい。

 まずは、どこでも誰でもタバコを吸っていること。バスの中でも吸いまくりだ。当時は喫煙の害も知られておらず、嫌煙権なんてのもなかったのだ。おまけに吸殻は道端に平気で捨ててた。若い人は「とんでもねー」と思うだろうが、当時はアメリカも日本も似たようなもんだった。

 次に、車。主人公のジェイクが一目惚れするのが、フォード・サンライナー(→Google画像検索)。やたら長いフロント・ノーズ、いかにも板金なカクカクしたボディ、意味不明なテール・フィン。燃費なにそれ美味しいのってな雰囲気プンプンで、それも含め繁栄するアメリカの空気が現れた車だろう。

 そして、音楽。

 この作品のテーマソングとも言えるグレン・ミラーのイン・ザ・ムードもそうだが、クスっとしたのがチャック・ベリー。昔はポップ・ミュージック、それも若者向けの音楽はラジオを介して広がるものだったし、育ちのいい白人は黒人の音楽なんか聴かないとされていた。

 テレビなら、見た瞬間にチャック・ベリーが黒人だとバレるが、ラジオならバレない。そこで、若者たちは「彼は白人だ」ってことにして、父ちゃん母ちゃんの雷を避けたわけ。

 現在、ブルースの流れを汲む音楽を演じる白人ミュージシャンは多い、どころか、ジャズやロックのミュージシャンでブルースの影響を受けていない人を探す方が難しい。今はそれが当たり前だが、当時はブルースも黒人音楽の一端であり、今とはだいぶ位置づけが違っていたわけで、ブルースを演るってのは、それだけでちょっとした政治的な姿勢をしていたんだろう。

 他にも、テレビ番組・小説そして食べ物と、オジサンオバサンには懐かしいシロモノが次から次へと押し寄せてくる。

 これもベテランの風格か、過去作読者にはちょっとしたクスグリが用意されているのも嬉しい所。私が判ったのは「図書館警察」「IT」「ランゴリアーズ」だけだが、キング作品を沢山読んでいる人は、もっと見つかるだろう。

 といったファン・サービスばかりではなく、当然ながら魅力的な登場人物もいっぱい。

 私が最も印象的に感じたのは、マーゲリート・オズワルド。ケネディ暗殺事件の犯人、リー・オズワルドの母ちゃん。そう、母親というより母ちゃんって表現がピッタリ。

 とにかく人の話は聞かない。常に自分の考えが最善だと思っている。息子のリーが何を言おうと、自分の厚意は無条件に受け入れるべきだと信じ込んでいる。何も恐れず、いかなる妨害にもめげず突き進む。話し始めたら止まらない。相手が持ち出した話題には決して乗らない。自分が話したいテーマだけをしゃべりまくる。

 この作品中のリーはしょうもない厨二病の若造なんだが、マーゲリートが絡むと途端にリーに同情したくなるから不思議だ。やっぱり、どこにでもいるんだな、こういう人って…とか思ってたら、後半になって、もっと強烈な人が出てくるからキングは侮れない。

 逆の意味で強烈なオバサンが、ミミ・コーコラン。デンホーム郡ハイスクールの校長ディーク・シモンズを差し置いて、学校を支配する司書。鋭い人物眼、圧倒的なリーダーシップ、裏も表も知り尽くした行動力で、前半の物語を推し進めて行くパワフルな人…ではあるが、印象はマーゲリートと正反対なのがなんとも。いやディークもなかなか頼れる人なんだけどw

 当時の空気って点では、キューバ危機(→Wikipedia)の描写が見事。ちょうど2015年11月29日現在、トルコがシリア領内に展開するロシア軍機を撃墜してヤバげな雰囲気が漂っているが、冷戦当時の空気はあんな生易しいもんじゃなく、いつ空から核ミサイルが落ちてくるかと普通の人が心底怯える状況だった、ってのがよくわかった。

 やがて物語は、ダラスの暑い日に向け走り出す。この終盤の緊張感は、読み始めたら止まらないので、うっかり夜遅くに「もうちょっとだけ味見しよう」などとは考えないこと。それで失敗して寝不足になった私が言うんだから間違いない←をい

 キングお得意の、理不尽な運命に傷ついた者が、過去を克服して雄雄しく立ち上がる物語もあれば、運命の恋人との出会いもある。行きずりの人との印象的なエピソードでは、手押し車の婆さんが光ってた。大切な人との別れ、普通の人に隠された意外な人生、そして忘れられぬ音楽。

 ノスタルジックな舞台で展開する、いくつもの人生の物語、そして恐怖と緊迫感に溢れた終盤。ベストセラー作家が実力を存分に発揮した、文句なしの娯楽超大作だ。

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2015年11月24日 (火)

小宮信夫「犯罪は『この場所』で起こる」光文社新書

 犯罪のほとんどは、二つの基準が満たされた場所で起きていることが、欧米の最近の研究から分かってきた。その一つは「入りやすい場所」であり、もう一つは「見えにくい場所」である。
  ――プロローグ

 犯罪に強い要素のうち、ソフトな要素は、(略)管理意識(望ましい状態を維持しようと思うこと)、縄張意識(侵入は許さないと思うこと)、及び当事者意識(自分自身の問題としてとらえること)である。
  ――第三章 犯罪に強いコミュニティデザイン ソフト面の対策

地域安全マップとは、犯罪が起こりやすい場所を表示した地図である。言い換えれば、領域性と監視性の視点から、地域社会を点検・診断し、犯罪に弱い場所、すなわち、領域性や監視性が低い場所を洗い出したものが地域安全マップである。
  ――第三章 犯罪に強いコミュニティデザイン ソフト面の対策

【どんな本?】

 犯罪を減らすには、どうすればよいか? 本書では、犯罪者を更正させる従来のアプローチに対し、犯罪を犯す機会を減らすことが重要だと主張する。

 そういった発想を元に、犯罪が起きやすい場所の特徴を具体的に分析し、そのような場所を減らす方法を示すと共に、イギリス・アメリカそして日本で既に行なわれている、犯罪の機会を減らす活動を挙げ、その目的・特徴・成果を紹介してゆく。

 町内会や小中学校の学区から、市町村などの自治体での活動の指針となるばかりでなく、個人でも、犯罪に巻き込まれやすい場所を見極めて避ける役に立つ、一般向けの防犯の啓蒙書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2005年8月20日初版第1刷発行。新書版で縦一段組み、本文約239頁。9.5ポイント41字×15行×239頁=約146,985字、400字詰め原稿用紙で約368枚。文庫本の長編小説なら、少し薄い一冊分だが、図版や写真を豊富に収録しているので、文字数は7~8割ぐらいだろう。

 文章は少し硬い。ただし内要は難しくないので、じっくり読めば充分に理解できる。現実に日本で行なわれている「地域安全マップ作り」は、小学生が主体となって活動しているケースもあるので、基本的な部分は中学生でも理解できるだろう。

【構成は?】

 前の章を受けて次の章が展開する形なので、素直に頭から読もう。

  • プロローグ
  • 第一章 機会なければ犯罪なし 原因論から機会論へ
    • 1 欧米の犯罪対策はなぜ成功したのか
      日本の犯罪増加率が欧米を上回る/集団志向性が低犯罪率を支えてきた/ライフスタイルの欧米化で犯罪が増加/「原因追求」の呪縛を解く/犯行に「都合の悪い状況」を作り出す
    • 2 新しい犯罪学 犯罪をあきらめさせるアイデア
      予防に勝る対策なし/原因のブロックと機会のライン/犯罪機会の需要と供給/盗む機会があるから盗人が生まれる?/神戸児童連続殺傷事件
  • 第二章 犯罪に強い空間デザイン ハード面の対策
    • 1 「防犯環境設計」で守りを固める
      犯罪に強い三要素/人格でなく状況を変える/大阪小学校内児童殺傷事件/学校の安全/公園の安全/道路の安全/住宅の安全/安全・安心町づくり
    • 2 監視カメラが見守る、監視カメラを見張る
      「バルガー事件」で得た支持/自治体が管理するロンドンの監視カメラ/地方都市にも進出/日本に多い「プライバシー侵害」の意見/個人データとしての画像の扱い方/犯罪防止効果はあったのか/カメラだけに頼らない/「機械の目」と「人の目」が不安を解消する
  • 第三章 犯罪に強いコミュニティデザイン ソフト面の対策
    • 1 「割れ窓理論」で絆を強める
      「割れた窓ガラス」が象徴するもの/秩序違反行為が犯罪の呼び水になる/ニューヨークのゼロ・トレランス/「検挙」か「予防」か/高度化する犯罪情勢の分析/警察官を導く「価値」が必要/住民を警察のパートナーにする/裁判所も地域に目を向け始めた/ワンストップサービス/まちづくり組織による清掃と警備/生活の質を支えるイギリスの裁判所/秩序違反の切符を交付/自治体と警察のパートナーシップ
    • 2 被害防止教育の切り札「地域安全マップ」の魅力
      地域力 コミュニティのパワーアップ/だれでも作れる「地域安全マップ」/被害に遭わない力が伸びる/地域探索で「ふるさと再発見」/「犯罪発生マップ」や「不審者マップ」にならないように/地域に潜む危険性に気づくことが目的/子どもの意識改革と生きる力の向上/地方自治体に広がるマップづくり/マップが誘拐殺人犯から街を守った? 八尾市/訪犯ブザーや護身術だけでは足りない/地域のリーダーが「場所の犯罪誘発性」を学ぶ/城づくりの教訓 犯罪者が近づきにくい街に/問題解決型パトロール 「人」ではなく「場所」に注目する/地域を越えた「共有知」の必要性
  • 第四章 犯罪から遠ざかるライフデザイン もう一つの機会論
    • 1 立ち直りの「機会」をどう与えるか
      犯罪の機会を減らした後で/レジリエンス(回復力) 困難を乗り越えていく/人生を「分岐点の連続」と考える/児童虐待から抜け出す「機会」/メンター 「あこがれの先輩」の存在/有償のボランティア「アメリカ部隊」/犯罪の道から救い出す社会関係資本/イギリスの「少年犯罪チーム」の支援力/早期介入で危険因子を取り除く/親業命令 少年の立ち直りを疎外する親の無関心/日本版「少年犯罪チーム」の実現を
    • 2 非行防止教育で「対話」と「参加」を促す
      すべての少年に保護因子を与える/消費を煽る社会 いきなりキレる背景/人間と結びつくための「社会性」を育てる/想像力を豊かにする対面的コミュニケーション/修復的司法 加害者、被害者、地域が話し合う/少年が地域と再犯防止の契約を結ぶ/オートバイ盗にも修復可能な話し合い イギリス/社会と結びつくための「市民性」を高める/少年の規範意識は低下したのか/「誰も排除されない社会」を目指して/住宅建設という地域貢献活動で未来も建設 アメリカ/治安再生の処方箋 加害者も被害者も生まないために
  • エピローグ
  • 索引

【感想は?】

 犯罪機会論というと何やら難しそうだが、実は本能的に感じている事と同じだったりする。

 誰だって、暗い夜道を一人で歩くのは怖い。街を歩いていても、「この辺はヤバそうだな」と感じる場所はある。こういった場所を分析し、その特徴を理論的に分析して具体的に挙げ、減らす方法を紹介する本だ。これは多くの人が参加する社会活動の指針となるばかりでなく、個人的に危ない場所を避けるのにも役立つ。

 なぜ犯罪が起きるのか。凶悪犯罪が起きるたびに、マスコミは犯人の境遇や犯行の動機に注目する。「どんな人間が、どんな目的で」犯罪に走ったのか。そういう発想を、著者は原因論と名づける。それに対し、極論すれば「出来るからやった、出来なければやらなかった(かもしれない)」とするのが、著者の主張する機会論だ。

 とはいえ、原因論を否定するわけじゃない。「犯罪対策にとって、原因論と機会論は車の両輪」だと認めた上で、機会論に立った予防策を充実させましょう、と主張する本だ。

 読んでいくと、「当たり前じゃないか」と思うところもある。そういう「当たり前」を、要因を分析して明文化し、統計的にウラを取るのは、学者の仕事だ。そういう意味では、学者だから書けた本だろう。

 第二章では、「危ない場所」の要因を分析して明文化してゆく。それは抵抗性・監視性・領域性である、と。こう書くと難しそうだが、よく読むと、誰もが頷くような事ばかりなので、我慢して読もう。

 抵抗性は、鍵をかける事だ。犯罪がメンドクサイまたはバレやすいようにする事で、犯人を諦めさせる。監視性と領域性は、場所に関わっている。

 犯罪は、人目のない所で起きやすい。逆に、多くの人が見ている所では、犯罪が起きにくい。これが監視性だ。分かりやすい例が、監視カメラだろう。カメラがあり、かつカメラがあるとハッキリ判るように示すことで、犯罪を防ぐ効果がある。逆に、死角が多いと、犯罪が起きやすい。

 これについては、公園や街路の写真を掲載し、直感的にわかるようになっているのが嬉しい。木々やブロック塀に囲まれた場所は、いかにも危なそうに感じるのに対し、見通しのいい公園は、いかにも安全そうだ。公園の緑は憩いにもなるが、同時に危ない感じにもなる。その辺のバランスは難しそうだけど。

 塀も、ブロックでは見通しが利かないので、危険な感じになる。そこで金網のフェンスや鉄格子にして見通しをよくすればいい。

 領域性は、縄張り意識を呼び覚ますものだ。他人の縄張り内だと、犯罪を起こしにくい。塀で囲えば、その中と外に分かれる。公園で、「児童向けの地域を、円形の地面に濃い色を塗ることで、大人が足を踏み入れにくい空間」になる、なんていうのは、簡単な仕掛けだけど、確かにそういう部分はあるなあ。

 などの理論を受け、実践に向かうのが、第三章以降だ。

 今までの話は、物理的な話が中心だったが、これ以降では、ソフト的、つまり人々の行動で、抵抗性・監視性・領域性を強めよう、そういう話になる。

 まず、最初に出てくるのが、割れ窓理論(→Wikipedia)だ。私も名前だけは知っているが、その理屈はちゃんと分かってなくて、「ヤバそうな雰囲気にするとヤバい事が起きやすい」ぐらいにしか考えていなかったが、少し違うのだ。

割れた窓ガラスが放置されているような「場所」では、縄張意識が感じられないので、犯罪者といえども警戒心を抱くことなく気軽に立ち入ることができ、さらに、当事者意識も感じられないので、「犯罪を実行しても見つからないだろう」(略)と重い、安心して犯罪に着手するのである。

 逆に、綺麗に掃除が行き届いている所は、掃除している人が「俺のシマでフザケた真似すんじゃねえ」と考えている、そう犯罪者が感じとるだろう。加えて、掃除する人が頻繁に出入りしている証拠でもあるので、犯罪がバレやすい、と犯罪者が感じる。掃除のオバチャンも、防犯に役立っているんだなあ。

 これらは地域ぐるみでやると、大掛かりな事も出来る上に、もっと重要な効果がある。地域全体で、縄張り意識が高まる、つまり領域性がますのだ。「俺の町で勝手はさせねえ」、そういう気持ちが地域全体で育ち、犯罪を起こしにくくなる、という理屈だ。

 そんなわけで、地域安全マップ作りが出てくる。私も勘違いしていたんだが、これは「変な人の出没マップ」では、ない。監視性と領域性の薄い場所、つまり「入りやすい場所」「見えにくい場所」を書き込んだ地図だ。大事なのは「危ない場所」であって、「危ない人」ではない。

 これを小学生に作らせる運動が面白い。子どもにとっては、防犯教育にもなる上に、地元への愛着も湧く。地図作りの途中で、地域の人へのインタビューをする事もある。子どもに尋ねられて不機嫌な対応をする人は少ない。話をする事で、子どもも大人も地元意識が盛り上がり、これは領域性を高めて犯罪を減らす効果があるだろう。

 終盤のデジタル/アナログ論などは、ちょっと短絡的で勇み足かな、と思うが、場所や機会に注目し、また地域の結びつきを活用する発想は、かなり面白い。著者はデジタルがお好きでないようだが、イングレスのような形で Google Map を活用する手もあるんじゃないかと思う。

 手軽に読める割に、意外と日常生活でも活用できそうな、楽しくて役に立つ本だった。

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2015年11月23日 (月)

大森望・日下三蔵編「年刊日本SF傑作選2010 結晶銀河」創元SF文庫

学校から帰る際、バスが自宅前に着いてペーパーバックにしおりを挟むときが、いつも大切な一瞬だった。家に戻って宿題を終え、食事をすませて再び本を開けるとき、そのしおりがバスの中で吸った最後の呼吸を憶えていた。
  ――瀬名秀明「光の栞」

むしろ、根の深さは、本質が好き嫌いにあるからこそかもしれない。
  ――長谷敏司「allo, toi, toi」

【どんな本?】

 2010年に発表された日本のSF短編から、大森望と日下三蔵が選び出した作品を集めたアンソロジー。

 今回は老舗のSF老舗マガジン収録作が多い。また光文社文庫の「異形コレクション」シリーズや、河出文庫の「NOVA」シリーズなど、オリジナル・アンソロジーからの選出も目を引く。それだけ、SF短編を発表する場が増えてきたんだろう。ばかりでなくロリコン雑誌や同人誌にまで目を光らせる視野の広さも、このシリーズならでは。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2011年7月29日初版。文庫本縦一段組みで約549頁。8ポイント42字×18行×549頁=約415,044字、400字詰め原稿用紙で約1038枚。上下巻でもおかしくない分量。読みやすさは作品それぞれ。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 著者 / 初出。

序文 / 日下三蔵
メトセラとプラスチックと太陽の臓器 / 冲方丁 / SFマガジン2010年2月号
 人類は遂に長寿技術を実現した。といっても、恩恵を受けるのは、これから生まれる子どもだけ。胎児に遺伝子的な改変を施し、長寿を可能とする人工的な臓器を創りだすのだ。
 妻が長寿の子を身ごもった夫の視線で、妻とこれから生まれる子どもへの想いを綴ってゆく。技術を開拓したワイズマン博士、どうみてもマッド・サイエンティストで、SFだとキワモノとして扱われるのに、なんだこの違いはw やっぱり世論は女が作ってるんだなあ。
アリスマ王の愛した魔物 / 小川一水 /SFマガジン2010年2月号
 小国ディメの第六王子アリスマ。跡継ぎでもなければ威丈夫でもない王子は、ほとんど放置されて育ったが、数に関しては天才だった。三つの歳にひとりで算術を発見し、長じては度量衝も見つけだす。七つになると国中を巡り、人口・戸数・田畑の大きさや街道の長さなど、国の実情を示す数字も調べ上げ…
 ユーモアたっぷりに描く、いにしえのハッカーの一代記。舞台はお伽噺風に昔の時代なので、当然ながら電子機器などはない。ではどうやって計算するのか、というと…。馬鹿馬鹿しいようだけど、マンハッタン計画では似たような手法が使われたとか。
完全なる脳髄 / 上田早夕里 / 異形コレクション Fの肖像
 「華竜の宮」と同じ世界の物語。私はシムの警官だ。機械脳を持つシムは、人を撃てない。薬局のそばで張り込んだ私は、ターゲットを見つけた。シムの青年だ。聞き込みのフリをして青年に話しかけ、車に誘導し…
 異なる者との共生を描く「華竜の宮」シリーズの一編。この作品では、機械脳で生きるシムと人間との関係を、ダークな雰囲気で綴ってゆく。元々が相当にイカれた設定の世界なのだが、やはりマッド・サイエンティストの繭紀がいい味出してる。
五色の舟 / 津原泰水 / NOVA2
 太平洋戦争末期。くだんは牛から生まれ、未来を予言するといわれる。奇形の一家として見世物興行で暮していた僕らは、くだんが生まれたと聞いて岩国まで出向いた。一家に加えれば、きっと人気を博すだろう。
 すんません。津原泰水ナメてました。文体もアイデアも、なんとなく私の好みじゃないと思い込んでいたんだけど、これ読んでアッサリと宗旨変えしました、はい。読み終えるのがもったいなくて、最後の数行はなかなか読めず、特にラスト一行にはなかなか目を通せなかった。こんなに没入した作品は久しぶり。
 にしても、「ワンダー5」はないだろw
成人式 / 白井弓子 / 白井弓子初期短編集・IKKI2010年8月号
 漫画。AからZまでの巨大な幹が輪になっている世界。樹幹で育った少女たちは、成人式の日に旅立つ。夏が来るまでに、樹を一周して戻ってくるために。
 なんといっても、巨大な円環になった樹上世界なんぞという、世界観の異様さに圧倒される。これに成人としての通過儀礼を組み合わせた…と思ってたら、遥かにスケールの大きい世界だった。見開きを使った大コマの開放感は、SFならでは。
機龍警察 火宅 / 月村了衛 / ミステリマガジン2010年12月号
 「機龍警察」シリーズの一編。SF色のない警察小説。かつては荒れていた由紀谷は刑事となり、今は警視庁特捜部捜査員の警部補として、現場を仕切っている。彼が刑事となり最初に配属された高輪署では、ベテラン巡査部長の高木の指導を受ける。地道に実績を積み重ねた高木だが出世には縁がなかった。病に倒れた高木を由紀谷は見舞うが…
 尊敬する先輩を見舞う由紀谷の視点で描く作品。同じく高木を見舞った山倉&浅井のコンビ、シリーズを読んでいる人なら「由紀谷&夏川と似てる!」と感じるかも。再読なのだが、それでも終盤のネタに迫る場面はゾクゾクしてくる。
光の栞 / 瀬名秀明 / 異形コレクション Fの肖像
 ロスアンゼルスの裕福な家庭に生まれた娘・栞は、咽頭に異常があり、声が出せなかった。周囲の環境もよく、栞はふんだんに愛情とサポートを受け育つ。長じて栞は生命科学の研究者となり…
 本そのものがテーマの作品。今でこそ本は手軽に手に入る。これは木材パルプの発明に拠る所が大きい。現在の製紙機械は60km/hで紙を吐き出すとか。羊皮紙の頃の本は、どれほど高価だったことか。今は製本も工場の流れ作業だが、これも昔は職人による手作業だった。本作りのプロセスを、静かに綴った作品。
エデン逆行 / 円城塔 / SFマガジン2010年2月号
 時計の街を通り抜けるのは不可能とされている。まずは通訳を雇わなければならないが…
 円城塔にしては、比較的に読みやすい部類の作品だと思う。だが読みやすいからといって、分かりやすいとは限らないのが円城塔。物語はループし再帰し逆行し…。書物を説明するあたりは、どっかで見た圧縮アルゴリズムを思い出した。
ゼロ年代の臨界点 / 伴名練 / Workbook93号
 敢えて内容には触れません。何せ一行目から、読み手の思い込みをアッサリ裏切る出だしで、思わず「そっちかよっ!」とのけぞること確実だし。ただの出オチかと思ったら、その後の展開も虚実を取り混ぜ惑わす惑わす。最後の一行まで仕掛けがたっぷりで、凝ってるわりにトボけ切った作品。
メデューサ複合体 / 谷甲州 / NOVA3
 建設中のメデューサ複合体は、木星の高空に浮かんでいる。技術員は木星の衛星アマルテアに駐在し、遠隔で建設工事を管理する。現場が2.5Gの高重力であり、働くのは自動化されたロボットだ。だが今、高嶋主任は現場に向かっている。具体的には指摘できないが、どうも妙な不具合が多い。
 これも再読だが、問題の場面は最初に読んだ時より恐ろしく感じた。こういう問題は今でも根絶が難しいらしく、先に読んだ吉中司の「ジェットエンジンの仕組み」でも詳しく語っている。機械部品も共通化すれば大量生産で安上がりになるのだが、動くものや野外で使うものは適度に分散する必要があるらしい。
アリスへの決別 / 山本弘 / うぶモード2010年3月号・5月号
 オックスフォード大学のクライスト・チャーチ。ルイス・キャロルこと数学教師チャールズ・ドジソンは、彼女を待っていた。12歳のアリス。グラスハウスは彼専用の写真スタジオだ。
 発表当時に話題になっていた、東京都の非実在青少年条例を風刺する作品。今は議論が沈静化してるけど、暫くしたらまたぶり返すんだろうなあ。規制を求める人たちは、表向きとは違う動機で動いていると私は思うんだけど、彼らは決して認めようとしないだろうなあ。
allom toi, toi / 長谷敏司 / SFマガジン2010年4月号
 ダニエル・チャップマン。八歳の少女を強姦して殺した男。現在、ワシントン州グリーンヒル刑務所で百年の懲役に服役中。囚人の中で強姦犯は最低の地位と見なされ、事あるごとに他の囚人に殴られ蹴られる。だから独房に入るため、ダニエルは取引した。モルモットとして、脳に拡張機器ITPを埋め込んだのだ。
 これも再読。最初は幼児強姦犯の心の中に鋭く切り込んだ作品と思ったが、再びじっくり読むと、それほど単純で狭い話じゃない。タイトルの「allom toi, toi」がどんな場面で使われているか、それがどう物語を動かすかに注目しよう。再読でも終盤のキリキリくる緊張感は相変わらず。
じきに、こけるよ / 眉村卓 / 沈むゆく人
 定年後も三年間、高石彦二は非常勤講師として勤めてきた。夏休み前とあって、午前十一時でも表は暑い。行く手の向こう側に、六つか七つぐらいの男の子が立っている。通り過ぎるとき、彼の声がした。「じきに、こけるよ」
 ベテランらしい味わいの、老人の日常を切り取った雰囲気の、私小説的なファンタジイ。現実の中に幻想が紛れ込みながらも、それを静かに受け入れている主人公の穏やかさが羨ましい。
皆勤の徒 / 酉島伝法
 第二回創元SF短編賞受賞作。海上から百メートルほどにそびえ立つ甲板で、従業者は閨胞から出る。すぐに出勤し、作業着に着替える。社長はご機嫌斜めらしい。工房に赴き、作業台に向かい、必要な器具を並べ…
 どことも知れぬ惑星で、何者だか分からぬ者たちが繰り広げる、うにょうにょグチャグチャの日々を描く作品。冒頭のブラック企業ぶりは凄まじいが、著者曰く「実体験です」だとか。隷重類(れいちょうるい)・體細胞(たいさいぼう)・冥刺(めいし)などの造語が、奇矯なイマジネーションを刺激する。
第二回創元SF短編集選考経過および選評 大森望,日下三蔵,堀晃
2010年の日本SF界概況 / 大森望
後記 / 大森望
初出一覧
2010年日本SF短編推薦作リスト

 けっこう再読の作品もある。中でも「機龍警察 火宅」・「メデューサ複合体」・「allom toi, toi」は、オチがわかっていても最初に読んだ時より楽しめた。いずれも終盤で、最初のときより余計に緊張感が増しているように感じる。

 アンソロジーの楽しみの一つは、新しい作家に出会えること。この本では、「五色の舟」が大きな収穫だった。私は勝手に「お耽美な人」と思い込んでいたが、とんでもない。序盤の引き込み、登場人物の造型、語り口や言葉遣い、そして終盤の展開から余韻を残す最後の行まで、極上の短編だった。

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2015年11月20日 (金)

大森望・日下三蔵編「年刊日本SF傑作選2007 虚構機関」創元SF文庫

なんのことやらわからなくとも特に問題は起こらない。
  ――円城塔「パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語」

「自分たちで自然界に埋もれたチートを探すしかないのよ」
  ――八杉将司「うつろなテレポーター」

「この国の戦争を終わらせるためだよ」
「戦争は終わったよ」とぼくは言った。
「じゃあ訊くけれど、きみの戦争は終わったのかい?」
  ――伊藤計劃「The Indifference Engine」

【どんな本?】

 2007年に発表された日本のSF短編から、大森望と日下三蔵が選び出した作品を集めたアンソロジー。

 老舗のSFマガジンはもちろん、SFファンが見落としがちな一般文芸誌の小説新潮や同人誌まで幅広く作品を漁り、ベテランの萩尾望都や堀晃からフレッシュな北國浩二や福永信、そして大きな話題を巻き起こした円上塔と伊藤計劃まで、バラエティ豊かな作家と作品を集めている。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2008年12月26日初版。文庫本縦一段組みで約510頁。8ポイント42字×18行×510頁=約385,560字、400字詰め原稿用紙で約964枚。上下巻でもおかしくない分量。読みやすさは作品それぞれ。

【収録作は?】

序文 / 大森望
グラスハートが割れないように / 小川一水 / SF Japan 2007年春号
 グラスハートは秋の終わりからはやりだした。拳ほどのガラス瓶の中に入った、ふっくらとしたマシュマロのようなもの。大学生のコースケは、高校生の小枝の小枝と付き合っている。その小枝もグラスハートを大事そうに抱えている。気になったコースケは調べてみると…
 正体不明で怪しげな流行物ってのは、昔からあるもんで。そういうシロモノをネットで調べたら、出所不明の噂ばかりがヒットしちゃうってのが、実に当世風。などの小道具を使いつつも、小説としてはむずがゆいぐらいに可愛らしいラブストーリー。
七パーセントのテンムー / 山本弘 / SFマガジン2007年4月号
 同棲中の瞬が、いきなり言い出した。「俺、テンムーなんだってさ!」瞬は十三も年下だが、なかなかイケメンだし可愛い。充原教授の研究室で被験者を募集しているので瞬に紹介したのは私だ。秘密遵守の筈だが、口の軽い関係者が噂を流したらしい。
 fMRI などで脳の活動を細かく調べられるようになった現代、科学は人の心にまで切り込み始めている。今までは「この人は少し変わってる」で済んでた人が、脳の機能の異常と診断されるかもしれない。2ちゃんねるでは、自分の論敵をサイコパスと罵る人も多い。それを思うと、かなり切実な問題なのかも。
 それはともかく、トール・レーノットランダーシュ「ユーザーイリュージョン」紀伊國屋書店は面白そう。
羊山羊 / 田中哲也 / SFマガジン2007年2月号
 部下の佐古山が来るのはわかっていたが、その妻の彩香まで来るとは思わなかった。しかも、いきなり「あたしシャワーを浴びてくる」と言われ、榎本信吾は面食らった。娘のボーイフレンドが両親と共に挨拶に来るので、家の中は片付いていたが…
 働き盛りのオジサンと、彼の平和な家族が見舞われる、理不尽な…そして、しょうもないドタバタ・ギャグ。ええ、もちろん、好きです、こういうの。なんという、うらやま…いや、けしからん。
靄の中 / 北國浩二 / SF Japan 2007年冬号
 奴は農場に逃げ込んだらしい。犬が死んでいる。先輩エージェントのリーが言う。「犬は感覚が鋭いからな」。リーと組んで三日、坂口もやっと彼のぶっきらぼうな口調に慣れた。家にいるのは三人、不精髭の男とその妻、そして子供。夕食のシチューを用意していた所だ。
 ヒトのフリをする、正体不明の侵略者(らしきモノ)を狩るエージェントの視点で描いた、「遊星からの物体X」や「メン・イン・ブラック」などの流れを汲む、ハードボイルドな物語。クールに仕事をこなすリーが魅力的。
パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語 / 円城塔
■■■■■■■■
 パリンプセスト(→Wikipedia)は、重ね書きされた羊皮紙のこと。昔の西洋じゃは紙が高かったので、不要となった本や書類の字を消して、再利用した。お話の中身はいつもの円城塔で、ただの馬鹿噺かもしれないし、何か深い意味があるのかもしれない。
声に出して読みたい名前 / 中原昌也 / 新潮 2007年6月号
 闇の中で、何者かが、断続的に氏名を読み上げている。一人読み上げるごとに、充分な沈黙を挟んで。余計な音は一切立てない。読み上げられる氏名は、知らない名前ばかりだ。
 不条理な状況の中で、不条理な妄想が暴走してゆくお話。
ダース考 着ぐるみフォビア / 岸本佐和子 / ちくま 2007年4月号・9月号
 「ダース考」と「着ぐるみフォビア」の二作のエッセイを収録。
 「ダース考」は、もちろん、あのダースベイダーのお話。帝国マーチのウクレレ版を聴きながら読もう(→Youtube)。「着ぐるみフォビア」は、「快獣ブースカ」でいきなり大笑い。にしても、なんだこのオチはw
忠告 / 恩田陸 / 小説新潮 2007年11月号
 はいけい おせわになっておりす ごしゅじんさま…
 星新一トリビュート特集から選んだ一作。
開封 / 堀晃 / 異形コレクション ひとにぎりの異形
 ノックの音がした。宇宙船の乗員はおれひとりなのに。
 異形コレクションのショートショート特集より。これも星新一へのリスペクトに満ちた作品。
それは確かです / かんべむさし / 異形コレクション ひとにぎりの異形
 三年ほど、大阪のラジオ局の早朝番組でパーソナリティーを勤めている。月曜から金曜までは午前三時半起床。おかげで睡眠不足が慢性化している。今日はひさしぶりの東京だ。出版社のパーティーがある。起きたはいいが、視野に白っぽい膜がかかっている。
 本人の視点で描く物語。いかにもかんべむさしらしい、怖いもの知らずでアナーキーな作品。
バースディ・ケーキ / 萩尾望都 / SF Japan 2007年夏号
 火星から来たトビィは、人気の火星ケーキをバースデー・プレゼントとして持ってきてくれた。ミヤマの誕生日は半月先だが、滅多に会えない友人だし。
 未来が舞台のSF漫画ってのは、かなり敷居が高いんだけど、それを慣れた手つきで描き出すあたりは、さすがベテラン。二コマ目、たった一つの絵で、部屋のインテリアや人物の服装を通し、舞台背景を説明しきっちゃってる。にしても、絵柄が安定してるなあ。
いくさ 公転 星座から見た地球 / 福永信 / Иркутск2(イルクーツク2) 第二号
 四人の子どもが登場する、「いくさ」「公転」「星座から見た地球」から成る、三つの掌編。
 それぞれ、関係があるような、ないような。最後のDの正体は、何なんだろ?
うつろなテレポーター / 八杉将司 / SF Japan 2007年冬号
 圧倒的な演算力を誇る量子コンピュータにより、社会そのもののシュミレートが可能になった。その一つ、ラムダBは、住人全員が複製対象となった。ラムダBの住人トレスは、テレビでそのニュースを聞いた。ベランダには、いつものデブ猫が来ている。
 なぜ猫なのかと思ったら、作者の好みなのか。量子物理学による奇妙な予測と、人工生命体の倫理を扱った、グレッグ・イーガンが好みそうなテーマの作品だが、イーガンに比べると圧倒的に読みやすい上に、ラストの寂寥感は光瀬龍を思わせる。
自己相似荘 / 平谷美樹 / 異形コレクション 心霊理論
 様々な大きさの立方体を、不規則に組み合わせた奇妙な屋敷は、自己相似荘と呼ばれた。ここで二人の男が消息を絶つ。福原医科大学教授の中野荘吉、オムニス測定器の研究室長の桑原卓司。屋敷の持ち主で福原大学数学科名誉教授の弓削順一郎も連絡が取れない。
 三人の男が消えた幽霊屋敷の謎に、警察庁の科学警察研究所が挑む、怪奇仕掛けの作品。クールな懐疑主義者の待田敏行部長と、オカルト好きな武宮国彦の、科学警察研究所コンビがいい。幽霊の正体に迫ってゆく過程も、なかなかエキサイティング。
大使の孤独 / 林譲治 / SFマガジン 2007年4月号
 観測ステーション・ディノーで、殺人事件が起きた。ここにいたのは、被害者のペロシを含め八人。それに加え、異星人ストリンガー。ただしストリンガーは人類と同じ環境では生きられず、ロボットを操って人間とコンタクトしている。事件はエアロックで起きた。
 未知の知的生命体ストリンガーと、人類のファースト・コンタクトの一場面を描く作品。お互いが相手を信用しきれず、なかなかコミュニケーションがスムーズに取れないあたりが、この作品の味だろう。どちらも生存競争を生き抜いて来ただけに、リスクとメリットを慎重に測りながら進めるのだが…
The Indifference Engine / 伊藤計劃 / SFマガジン 2007年11月号
 その日、戦闘が終わった。停戦命令だ。ぼくらゼマ族のSDAは、ホア族SRFの前線基地を襲っていた。不意打ちが成功し、皆殺しにする所だった。困った事に、友だちのンドゥンガの妹も、基地にいた。連中に攫われていたんだ。ンドゥンガは妹を逃がそうとしたのだが…
 少年兵の問題を扱った、暗く重い作品。シエラレオネ内戦では、政府軍を含む多くの武装勢力が、子供たちを攫って少年兵に仕立て上げた。今でもウガンダではLRA(神の抵抗軍、→Wikipedia)が暴れている。子供たちが抱えた想い、心の底から湧き上がる苛立ちと怒りが、ヒリつくほどに生々しく伝わってくる作品。
解説 / 日下三蔵
2007年の日本SF界概況 / 大森望

 ジュディス・メリルの傑作選の影響を受けたらしく、「声に出して読みたい名前」などの、どこがSFだか分からない作品も収録しているのが特徴だろう。SFじゃなければ何なのか、と問われると、やっぱり答えられないんだけど。こういう、正体不明な作品も大らかに受け入れてこそ、SFが広がっていくんじゃないかと思う。

 というのも。「ブギーポップは笑わない」を読んだ時、「やられた!」と思ったのだ。当時、出版元の電撃は「ゲーム小説」と呼んでいた。とても斬新で、既成のジャンルのどこにも当てはまらない作品ながら、実に面白い。SFという言葉がもっと幅広い意味に捉えられていたら、ブギーポップはSFと銘打って出版されたかもしれない。

 だが現実には「ゲーム小説」という新しいジャンルを電撃は創りだし、その戦略は見事に当たってヒット作となり、やがて「ライトノベル」という大きな市場を生み出して行く。SF者の私としては、悔し涙にくれながらライトノベルの隆盛を眺めるしかなかった。

 あの頃、ブギーポップを「斬新なSF」として歓迎する度量が、SF者にあったなら。そんな経験があるので、「なにやら正体がよくわからないモノ」があったら、「とりあえずSFに来ないか?」と歓迎する姿勢を持っていたいなあ、などと今でも思っている。ほんと、逃がした魚は大きすぎた。

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2015年11月18日 (水)

マージョリー・シェファー「胡椒 暴虐の世界史」白水社 栗原泉訳

 人類史のほとんどの時代を通して、胡椒は手に入りにくいものだった。このスパイスが世界史を動かす大きな原動力になったゆえんである。黒胡椒の原産地は、ヨーロッパの港から何千マイルも離れたインドである。交易商人たちは、なにがなんでも胡椒の原産地にたどり着こうとした。この執念が世界貿易の幕を開けたのだ。
  ――第一章 コショウ属

【どんな本?】

 ステーキに、目玉焼きに、野菜炒めに、ラーメンに。胡椒は肉でも野菜でも何にでもあう、便利なスパイスだ。だが、一つ困ったことがある。胡椒は赤道に近い所でしかとれない。原産地はインドだ。ヨーロッパでは、インドからアラブ商人を通して手に入れるしかなかった。

 この状況を、ポルトガルが変える。喜望峰を回ってインド洋に出る航路を開拓し、アラブ商人を出し抜いたのだ。やがてオランダとイギリスがポルトガルに続き、ヨーロッパの進出が南アジアの運命を大きく変えてゆく。

 主にインド・マレーシア・インドネシアなどインド洋の東に面した地域を舞台として、ポルトガル・オランダ・エジプトが演じた胡椒の争奪戦と、それに巻き込まれた南アジアの歴史を描く、一般向けの歴史書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Pepper : A History of the World's Most influential Spice, Marjorie Shaffer, 2013。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約250頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント45字×19行×250頁=約213,750字、400字詰め原稿用紙で約535頁。文庫本なら標準的な一冊分の分量。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。当然ながら歴史に詳しいほど楽しめるが、それぞれのエピソードでは必要最低限の背景事情を説明しているので、中学卒業程度に世界史を知っていれば充分に楽しめる。また、マレー半島西岸とインドネシアが舞台なので、世界地図か Google Map を参照して読むと、更に面白い。

【構成は?】

 だいたい時系列順に話が進むので、素直に頭から読もう。

  • はじめに
  • 第一章 コショウ属
  • 第二章 スパイスの王
  • 第三章 スパイスと魂
  • 第四章 黄金の象
  • 第五章 イギリスの進出
  • 第六章 オランダの脅威
  • 第七章 アメリカの胡椒王
  • 第八章 無数のアザラシ
  • 第九章 胡椒の薬効
  • エピローグ
  • コラム
    • ヴァスコ・ダ・ガマとプレスター・ジョン伝説
    • 胡椒とイエズス会
    • 流れの中の饗宴
    • 世界最大の花
    • アンボンの虐殺
    • 熱帯の美しさ
  • 謝辞/訳者あとがき/参考文献/原注/人名索引

【感想は?】

 なんといっても、舞台がいい。インド洋の東側、南アジア。西洋史と東洋史が交わる地域だ。

 胡椒の原産地はインドらしい。歴史は意外と古く、地元インドじゃ当然、「3000年の歴史を持つ古代インドのアーユルヴェーダ医学」にも載っている。ばかりでなく、「紀元前五~四世紀のギリシア人も、胡椒の効用を知っていた」。中国も負けちゃいない。「インドから中国に初めて、主に医療目的で持ち込まれたのは二世紀のことだ」。

 ギリシア人はアラブ商人を介して胡椒を手に入れたようだ。以降、ヨーロッパへ向かう胡椒はアラブ商人が独占する。

 やがてポルトガルが喜望峰周りの航路を開拓してアラブ商人を出し抜き、直接インド・マレーシア・インドネシアで胡椒を仕入れるルートを見つけだす。

 この本は、そうやって南アジアへ進出したポルトガル・オランダ・イギリスそしてアメリカが、南アジアで何をしたかを描いてゆく。その内容は、まさしく「暴虐の世界史」の副題に相応しい。が、その前に。ヨーロッパ人が来る前、16世紀の南アジアの様子が興味深い。例えば(現マレーシアの)マラッカ。

15世紀、マラッカは世界有数の港として絶頂期を迎えた。ここはアフリカ、グジャラート、タミル、ベンガル、中国、ジャワ、ペルシア、マレーシアの各地から人びとが集まり、取引をし、ともに住む国際都市であった。

 インドネシアのスマトラ島の北端アチェ州のバンダ・アチェも似たようなものだ。多数の支配者が争い合う中、アチェはスルタンの元に強国を築き、ビルマ・アラビア・中国などの商人が活発に出入りしている。

 16世紀当時のマラッカ海峡沿いの地域は、小権力が争い合う戦国時代でもあったが、同時に国際貿易が活発な自由貿易地域でもあったわけ。アチェの老スルタンのアラーウッディーン・リアーヤット・シャーも「老獪な暴君」とあるが、なかなかの情報通で。

 1600年、オランダ船に乗り込んでアチェに到達したイギリス人航海士ジョン・デイヴィスに対し、スルタンは1588年のアルマダの海戦(→Wikipedia)について、また強国スペインに勝ったイギリスについて、色々と尋ねている。貿易で稼ぐ海洋国家にとって、国際情勢は大事な財産だ。暴君ではあるにせよ、同時に聡明でもあったらしい。

 1521年にリスボンに帰港したポルトガルの船は2500%の利益をあげるなど、当初は利益率の大きかったスパイス貿易だが、やがて仕入れ値が高騰する。新しい買い手が市場に参入したんだから当たり前だ。ただ、新しい買い手はそれまでのアラブ商人や中国商人と、だいぶ性格が違っていた。武力による独占を目論むのだ。

 1511年にポルトガルが艦砲でマラッカを占領して強固な砦を作ったのを皮切りに、各所に商館の名目で砦を作ってゆく。1682年にはジャワ島西部バンテンの跡目争いにツケ込み、オランダがバンテンを独占する。長く独立を保っていたアチェも、1873年に陥落する。以降、地域のムスリムは根気強くオランダに抵抗を続けてゆく。

 インドネシアでも独立の気運が高いアチェ州(→Wikipedia)には、こういう歴史的な経緯があったんだなあ、と頷くことしきり。単に石油や天然ガスを巡る利権だけではなく、長く独立を保った上に、オランダに対する独立運動を率いた誇りもあるんだろう。なお、抵抗運動に対するオランダの返答は、お察しのとおり虐殺だ。

 ここで、ちょっとした疑問が残る。それまでアラブ・インド・中国の商人が共存していたマラッカ地域で、なぜ西ヨーロッパだけが独占を狙ったのか? 他の商人たちと共存はできなかったんだろうか。

 解の一つは距離だろう。アラビア海・ベンガル湾・南シナ海を超えればいいアジア市場は比較的に近いので、輸送費用が安く済む。もう一つは人口で、多く市場が大きいアジア商人は充分な利益があった。対してヨーロッパは喜望峰周りで輸送費用が嵩む上に、市場もそれほど大きくなかった。独占して価格を操作しなければ、大きな利益が見込めなかった。

 よく言われるように、砲や銃など火器の優位も大きい。砦を石で造るなど、軍事技術の差は大きかった。つまり、出来るからやった、そんなみもふたもない結論に行き着く。

 とはいえ、オスマン帝国や明帝国・清帝国が本気を出していたら、だいぶ違っていたはずだ。実際、1683年にはオスマン帝国がウィーンにまで侵攻している(第二次ウィーン包囲→Wikipedia)。火力の差はあるにせよ、地の利は地元にある。特に兵站では圧倒的に有利だ。なのに、なぜ両帝国は軍を動かさなかったのか。

 この本では解を明示していないが、多少のほのめかしがある。わかりやすいのが、オランダ・イギリス両国の東インド会社だ。いずれも国策会社の性格が強い。だから、国家の軍事力を動かす影響力があった。

 それに対してアラビア・インド・中国は、国家権力から独立した商人だ。用心棒としてそれぞれの商人が地元の海賊を雇うぐらいがせいぜいで、軍を動かすほど国家への影響力がなかったんじゃないだろうか?

 などと強奪してゆく英蘭の東インド会社だが、次第に衰退してゆく。これの原因は共通していて、つまりは低賃金による腐敗の蔓延だ。オランダ東インド会社は横流しや密輸で稼ぐ。イギリスは面白くて、従業員の私貿易を許している。文句があるなら自分で起業しろ、ってわけ。

 今でもマラッカ海峡には海賊が出るらしい。これは当時も同じで、ヨーロッパの船も結構やられてる。酷いのがアメリカで、1831年にスマトラ沖で商船フレンドシップ号が海賊に襲われた際は、翌年に海軍ポトマック号を派遣して港の町を襲って灰にし、砦に立て篭もった人々を虐殺している。これはアメリカ市民の喝采を浴びた。

 ところが。この後もアメリカらしい。『ニューヨーク・イブニング・ポスト』が戦闘の様子をスッパ抜き、ポトマック号の水兵たちによる虐殺と掠奪を明るみに出す。これが議論を呼び、英雄扱いされていたポトマック号司令官ジョン・ダウンズは閑職に回されてしまう。

 やった事も酷いが、それをマスコミがちゃんと告発するあたりも、いかにもアメリカらしい。

 全般としては、ポルトガル・オランダ・イギリスの熾烈な競争と強引な植民地政策を暴く論調が強い本だが、同時に国際的な貿易拠点として活況を呈していた南アジアの様子が意外だった。中国とインドの経済成長がマラッカ海峡にもたらす変化は…なんて、地図を見ながら考えたくなる本だ。

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2015年11月16日 (月)

ジョン・スラデック「蒸気駆動の少年」河出書房新社 柳下毅一郎編

 アグネスは一日中赤ちゃんが欲しいと願いつづけていたので、オーヴンのガラス窓を覗いて、中に赤ん坊がいても別に驚かなかった。赤ん坊は清潔な毛布にくるまれて金網の棚ですやすやと眠っていた。
  ――古カスタードの秘密

 仕事から早めに帰って来て、妻が他の男の腕に抱かれているのを見たとき、チャド・リンクは当然しかるべき質問をした。男はどこだ?
「ダフォディル、たしかに腕はそこにあるが、持ち主の姿がないぞ」
  ――最後のクジラバーガー

【どんな本?】

 1937年生まれのSF/ホラー/ミステリ作家、ジョン・スラデック(John Sladek)の切れ味鋭い作品を、日本独自のセレクションで編纂した短編集。異様な設定のドタバタ・ギャグ、ワン・アイデアのSF短編、トンデモなオカルト本のパロディ、密室トリックのミステリ、童話の悪趣味なパロディ、そして小説ですらない作品など、奇想に満ちた過激な作品集。

 SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2009年版」では、ベストSF2008海外篇の2位に輝いた。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2008年2月29日初版発行。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約399頁に加え、訳者による解説22頁。9ポイント42字×18行×399頁=約301,644字、400字詰め原稿用紙で約755枚。文庫本なら少し厚めの一冊分。

 文章はこなれている。内容もSFとはいえ、難しいガジェットは出てこない。ただし思いっきりイカれた悪ふざけが詰まっているので、振り落とされないように心構えをしておこう。気がかりな人は、最初の「古マスタードの秘密」の頭2頁ほどを味見すれば、だいたいの芸風が飲み込める。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 元題 / 初出 / 訳者 の順。

古カスタードの秘密 / The Secret of the Old Custard / If 1966.1 / 柳下毅一郎訳
 オーヴンの中には赤ん坊が入っていた。妻のアグネスは願いがかなって大喜びだ。だが夫のグレンは心配が山盛り。会社では何もかもが消えて行く。カーボン紙、切手、紙クリップ…。お隣さんは、やたらながいこと落ち葉を集めている。
 いきなりオーヴンの中に赤ん坊がいる、なんて狂いきった状況で始まる、せわしげな短編。互いが互いを詮索し合う監視社会の風刺とも読めるけど、実はスパイ物のドタバタ・ナンセンス・ギャグかもしれない。スラデックの芸風が自分の好みに合うか否かを判断するには、格好の作品。
超越のサンドイッチ / The Transcendental Sandwich / If 1971.1-2 / 柳下毅一郎訳
 セールスマンらしき者が言う。「あなたに知識をさしあげます」。いや、セールスマンじゃない。ガズと名乗る宇宙人らしい。「一瞬でこの惑星を消すことだってできます」ときた。話を聞いたクロードは…
 ちょっと星新一のショートショートに似た、切れ味の鋭いワン・アイデアの短編。
ベストセラー / The Best-Seller / Strange Faces 1969 / 山形浩生訳
 夏休みに四カップルが海辺のホテルに泊まった。橋で本土とつながった島にあったが、到着の翌朝に橋が嵐で流され、一同は島に閉じ込められてしまった。
 閉じ込められた八人が、それぞれの視点で八人の関係を綴った、八つの物語。なんだが、こんな話を書いて大丈夫なんだろうかw
アイオワ州ミルグローブの詩人たち / The Poets of Millgrove, Iowa / New Worlds SF 168 1966.11 / 伊藤典夫訳
 生まれた町、アイオワ州ミルウグローブを訪れた宇宙飛行士夫妻。生まれただけで、ここで育ったわけじゃない。だが町はパレードの栄えあるゲストとして宇宙飛行士を歓迎している。
 昔も今も宇宙飛行士は英雄だ。宇宙飛行士に縁のある所は、なんとか飛行士と地元の絆をアピールしようとする。SFでもミステリでもないが、この酷いオチはやっぱりスラデックw
最後のクジラバーガー / The Last of the WhaleBurgers / The Lunatics of Terra 1984 / 柳下毅一郎訳
 チャド・リンクが仕事から帰ってきたとき、妻は他の男の腕に抱かれていた。だが男の姿はない。チャドの仕事は、食事の実演だ。
 「妻が他の男の腕に抱かれている」とくれば浮気か?と思ったら、「男はどこだ?」と、いきなりブッ飛ばしてます。しかも仕事は「食事の実演」。なんじゃそりゃw この仕事に就くまでがまた大変で…
ピストン式 / Machine Screw / Men Only 1975.10 / 大森望訳
 ヴァレン教授は、大変な計画を立てている。「世界の交通問題を永遠に解決する」と。そして重要な部品が届いた。直径2m半のボールが二個。
 マッド・サイエンティストが成しとげた狂気の発明とは? その日、人類は科学に恐怖…したんだろうかw トランスフォーマーのファンは読まない方がいいかもしれないw 
高速道路 / The Interstate / Quark #2 1971 / 山形浩生訳
 夏、アンドアは二週間の休暇をもらった。パンフレットを集め、遠い海辺のリゾートを選び、大バスターミナルから旅立った。席は運転手から三列うしろ。
 アメリカ国内の長距離旅行といえば航空機が思い浮かぶけど、グレイハウンドなどの長距離バスも発達していて、数日かかる旅程も珍しくない。安上がりに長距離を移動できるので、貧しい人たちの便利な足になっている。ちょっと憂鬱なバス旅行の経験があるなら、それを思い出しながら読もう。
悪への鉄槌、またはパスカル・ビジネススクール求職情報 / The Hammer of Evil / New Worlds #9 210 1975 / 若島正訳
 鉄格子の窓の向こうは、マグリット(→Google画像検索)風の青空。監獄の扉が開き、新入りが入ってきた。やたら臭い上に、差し出した手は疥癬だらけ。なんと、パスカル・ビジネススクールのライス教授だ。15年ぶり。
 マグリットの絵に触発されたような、奇妙な作品。エイリアン(らしき者たち)に捕らわれた二人が、パラドックスを論じ合う。
月の消失に関する説明 / An Explanation for the Disappearance of the Moon / Extro #3 1982 / 柳下毅一郎訳
 月。moon。古代ケルト人のアルファベット、オガム文字(→Wikipedia)で書き表せる数少ない英単語。オガムの名はケルト神オグミオスにちなむが…
 月に関するトリビアを次から次へと並べる、無職で妻に逃げられた男。無駄にモノを知っているクセに、ウダツの上がらない男…って、私じゃないかw
神々の宇宙靴 考古学はくつがえされた / Space Shoes of the Gods: An Archaeological Revelation / F&SF 1974.11 / 浅倉久志訳
 昔から科学者は斬新な説を排斥してきた。新しい時代を切り開く者は、常に迫害されるのだ。私も夢想家と笑われるだろう。だが私は真実に気づいた。
 スラデックが、わかっててワザとやってる「神々の指紋」。伝説の空飛ぶ神々、大ピラミッド、イースター島のモアイ、ストーンヘンジなど定番のアイテムを枕に、奇矯な説を展開して行く。でもパンチカードのネタは、もう通じないだろうなあ。
見えざる手によって / By an Unknown Hand / The Times Anthology of Detective Stories 1972 / 風見潤訳
 サッカレイ・フィン、アメリカ人、休職中の哲学教授で論理学者。何をトチ狂ったか探偵業を始め、新聞にも広告を出した。ロンドンにも物好きがいて、さっそく依頼が来る。張り切ってアンソニイ・ムーン画廊へ出かけると…
 密室物のミステリ。イギリス人の見るアメリカ人って、こうなのかw ホームズ気取りのサッカレイ・フィン、なんか頼りないよなあ、と思っていたら…
密室 / The Locked Room / New Worlds Quarterly #4 205 1972.6 / 大和田始訳
 高名なる私立刑事、フェントン・ウォ-スは執事のボゾに命じた。夕刻以降は誰も取り次ぐな、と。そして静かに本を取る。題は『密室』。
 えーと、ミステリ…なのかな? 古今のミステリから、密室物のトリックを幾つも並べ立ててゆく。真面目なミステリ・ファンは読まない方がいいかも。
息を切らして / It Takes Your Breath Away / 劇場用パンフレット 1974 / 浅倉久志訳
 映画館の観客の列は長く伸び、せまくうす暗い通りの奥まで続いている。サッカレイ・フィンとネル・フォーチューンは、後ろの方だ。そばではワンマン・バンドがボギー大佐を演奏し、どこかでミスター・タンブリン・マンを吹くカズーも聞こえる。
 第二のサッカレイ・フィンもの。短いながら、マトモなミステリ。
ゾイドたちの愛 / Love Among the Xoids / Drumm Booklet No.15 1984 / 柳下毅一郎訳
 シドとマーシーは老人の一団に混ざってバスを降り、誰も来ない本屋に戸口から滑り込む。二人は人に気づかれない方法を心得ている。人目を避け、何も持たず、「本物人間」が捨てたものだけで生きている。
 「本物人間」には見えないように暮している人々。編者はホームレス問題を風刺したもの、と解釈している。風刺として考えたら、被虐待児童とか独居老人とか不法就労の外国人とか、色々あるなあ。オチはかなりショッキングだった。
おつぎのこびと / The Next Dwarf / The Saturday Night Reader 1979 / 浅倉久志訳
 2000年1月22日、スイス兵のローマ法王護衛隊を待つ間にKGBとチェスを指す。いまは「あなたと七つの大罪」というパンフレットを読んでいる。この世界は数字の七にこだわりがあるらしい。
 地球を訪れたエイリアンが、世界中を引き回されながら、七つの大罪について思いを馳せてゆく、日記形式の作品。にしてもこのエイリアン、地球の文化に馴染みすぎている気がw
血とショウガパン / Blood and Gingerbread / Cheap Street 19904 / 柳下毅一郎訳
 セルブストモルデルという森の奥の小さな小屋に、木こりの一家が住んでいた。木こりのペーテル、妻のカット、双子の子供ヘンゼルとグレーテル。
 グリム童話で有名な「ヘンゼルとグレーテル」をアレンジした作品…なんだが、なんちゅうアレンジだw 魔女カワイソスw
不在の友に / Absent Friends / Rod Serling's The Twilight Zone Magazine 1984.5-6 / 柳下毅一郎訳
 酒場で旅人たちが集い、偽物の暖炉を囲んで偽者のお話を交わしている。そのロボットの順番になると、そいつはグラスを掲げ乾杯した。「不在の友に」
 いきなり腹話術説教とかスラデック流のおトボケが飛び出し、次には<ヴァン。ダイン号>と来る。あんまり深く考えちゃいけません。下手に考えると――あっ!
小熊座 / Ursa Minor /  Rod Serling's The Twilight Zone Magazine 1983.11-14 / 柳下毅一郎訳
 クリスマスの夜のオフィス・パーティ。他の連中は浮かれているが、リチャード・マトロックは焦っている。息子のジミーに贈るプレゼントを買いそびれたのだ。もう店は閉まっているだろう。
 スラデックにしては意外とストレートなホラー。プレゼントを買いそびれたはずが、なぜか息子のジミーはご機嫌で…
ホワイトハット / White Hat / The Lunatics of Terra 1984 / 酒井昭伸訳
 フィル・ナイトは、他の者と縦一列に並んで歩き続ける。昔の記憶は次第に薄れてゆく。前の男の首には、<騎手>がまたがっている。自分の首にも。
 一種の侵略物なんだが、肝心のエイリアンが西部劇狂いの悪ガキみたいな奴で。「ハイヨー!シルバー!」が若い人に通じるかと一瞬不安になったが、2013年にリメイクされてた。
蒸気駆動の少年 / The Steam-Driven Boy / Nova 2 19724 / 柳下毅一郎訳
 タイム・パトロールは決定した。アーニー・バーンズ大統領を取り除こう、と。大統領は強力な独裁体制を敷き、あらゆる事柄を禁じ、人々は飢えに苦しんでいる。
 タイム・パトロールがこんなブラック職場だったとはw 時間を遡り、狂った独裁者を子供のうちに排除する、というSFにはありがちなアイデアだが、そこはスラデック。なんでこうなるw
教育用書籍の渡りに関する報告書 / A Report on the Migrations of Educational Materials / F&SF 1968.124 / 柳下毅一郎訳
 エドワード・サンキーは空を見上げる。雲ひとつない青空だ。昨晩、サンキーは音を聞いた。書斎からだ。
 本がパタパタと空を飛んで消えてゆくという話。しかし本好きなら、こう考えるだろう。「きっと連中は伴侶と子供をつれて戻ってくるに違いない」、と。だって、いつだって本は本棚に納まりきらず部屋を侵食していくじゃないか。
おとんまたち全員集合! / Calling All Gumdrops! / Interzone #4 1983 / 浅倉久志訳
 ママ・メースンとパパ・メースンは、仕事を失った。二人だけじゃない。みんな失業してしまった。子供たちのせいだ。このごろの子供たちは昔とちがう。
 昔は「SFなんて子供の読み物」と言われた。コンピュータ・ゲームも漫画も子供のモノだった。オトナはタバンコを吸って酒を飲む生き物だった。自分がオトナになってみると、結局は子供の頃の趣味を引きずっているだけって気がする。
不安検出書(B式) / Anxietal Register B / New Worlds SF 186 1969.1 / 野口幸夫訳
 まず、申告書類の用紙のページが全部揃っているかどうか、確かめてください。丁寧に読んで、間違いのないように記入して下さい。複写式三枚綴りになっています。三通の用紙全部に署名してください。
 何らかのアンケート用紙らしいのだが…。真面目に答えるほど、楽しめる作品。

 著者は1937年生まれなだけに、私のようなオッサンには懐かしい雰囲気の作品が多いが、パンチカードなどの小道具を今風にアレンジすれな充分に今でも通用しそうなアイデアが詰まっている。「神々の宇宙靴」あたりは、ぜひ山本弘に長編化して欲しい。もちろん、別のペンネームを使ってw

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2015年11月13日 (金)

吉中司「ジェット・エンジンの仕組み 工学から見た原理と仕組み」講談社ブルーバックス

…ジェット・エンジンの推力は力である。固体の場合、力は「固体の質量とそれにかかる加速度の積」で表せる。しかし、連続流体の場合は、近似的に「エンジンの入り口で流れの持つ運動量(入り口での流体の質量と流速の積)と、出口での流れの持つ運動量(出口での流体の質量と流速の積)」となる。
  ――第2章 より速く、より遠く

…エンジン部品のJCF寿命予測では、まず材料がスペックに許容される以内で強度のいちばん弱い材料だと仮定し、次にLCF寿命は同じ図面を基に同じように工作された1,000個のエンジン部品のうち、たった1個に0.8mm程度の亀裂が発生するまでのサイクル数、と定義されている点である。
  ――第4章 頼れるエンジン

【どんな本?】

 2015年11月11日、国産航空機MRJの初飛行が注目を浴びた。特徴の一つはP&W社のエンジンPW1200Gで、ギヤードターボファンと呼ばれる。ではギヤードとは何か? ターボファンとは? どんな特徴があって、何が嬉しいんだろう?

 そもそも、ジェットエンジンとは何だろう? どんな部品があって、それぞれどんな役割りをして、どんな特徴があるんだろう? なぜ日本では大型機のジェットエンジンを作っていないんだろう?

 ジェットエンジンの歴史から理論的基礎、それぞれの部品の形と仕組みと材質、開発の際に立ちふさがる困難な点と解決策、要求される性能や運用時の問題点などを、ジェットエンジン開発の現場に勤めた著者が、生々しいリアリティで描く一般向けの技術解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2010年9月20日第1刷発行。新書版で横一段組、本文約283頁。9ポイント28字×28行×283頁=約221,872字、400字詰め原稿用紙で約555頁。文庫本の小説なら標準的な一冊分の分量。

 文章は科学解説書としてはやや硬い。内容もかなり高度で、数式や専門用語が次々と出てくる。特に重要なのは熱力学で、エントロピーやエンタルピーが出てきてもたじろがない程度の素養が欲しい。かく言う私は完全な素人で、数式はほとんど飛ばして読んだが、それでも充分に楽しめた。

 ただし、ジェットエンジンの種類は知っていたほうがいい。この本ではターボファン(→Wikipedia)が中心なので、とりあえずターボファンだけでも充分だろう。他にターボジェット(→Wikipedia)・ターボフロップ(→Wikipedia)・ターボシャフト(→Wikipedia)、そしてラムジェット(→Wikipedia)などがある。

【構成は?】

 基礎から順に説いてゆく形なので、素直に頭から読もう。

  • はしがき
  • 第1章 レシプロからジェットへ ジェット・エンジン誕生の歴史
    • 1.1 レシプロ・エンジンの限界
    • 1.2 新しいエンジンへの思案
    • 1.3 スムーズでエレガントな飛行
    • 1.4 訪れた転機
    • 1.5 マーフィーの法則
    • 1.6 チームワークの勝利
    • 1.7 雨後の筍
    • 1.8 傑作ジェット戦闘機Me262シュワルベの誕生
    • 1.9 後追いのイギリス
    • 1.10 アメリカ合衆国の参戦
    • 1.11 日本での戦時中のジェット・エンジン研究開発
    • 1.12 レクイエム
  • 第2章 より速く、より遠く 熱サイクル
    • 2.1 馬の力と押す力
    • 2.2 エンジンの性能パラメーター
    • 2.3 限りない性能向上の追及
      • 2.3.1 ターボジェット・エンジンの基本熱サイクル
      • 2.3.2 サイクル圧力比とタービン入り口温度が、ターボジェット・エンジンの性能に与える影響
      • 2.3.3 ターボファン・エンジンの誕生と成長
  • 第3章 流れと機械のハーモニー エンジンの主要構成要素
    • 3.1 ウォーム・アップ
    • 3.2 ファン
    • 3.3 圧縮機
      • 3.3.1 形状と機能
      • 3.3.2 作動特性
    • 3.4 燃焼器
      • 3.4.1 形状と機能
      • 3.4.2 排気物質
      • 3.4.3 作動特性
    • 3.5 タービン
      • 3.5.1 形状と機能
      • 3.5.2 冷却
      • 3.5.3 作動特性
    • 3.6 潤滑油系統とセカンダリー・エア・システム
      • 3.6.1 潤滑油回路
      • 3.6.2 セカンダリー・エア・システム
    • 3.7 エンジン制御装置
  • 第4章 頼れるエンジン エンジン高信頼性への努力
    • 4.1 安全性と信頼性
    • 4.2 応力・機械設計に際しての基本的な考え方
      • 4.2.1 部品寿命を有限にする可能性を持つ諸現象
      • 4.2.2 LCF寿命を持つ部品の設計
        • 4.2.2.1 LCFのメカニズム
        • 4.2.2.2 繰り返し応力
        • 4.2.2.3 LCF寿命の予測
        • 4.2.2.4 熱応力とメカニカルな応力の合成によるLCF寿命
        • 4.2.2.5 LCF寿命のくくり
      • 4.2.3 クリープ寿命を持つ部品の設計
        • 4.2.3.1 クリープのメカニズムと新材料の開発
        • 4.2.3.2 クリープ寿命の予測
        • 4.2.3.3 コーティングによるクリープ寿命の延命法
      • 4.2.4 あってはならない有限寿命
      • 4.2.5 許されない有害な振動
        • 4.2.5.1 翼列の振動
        • 4.2.5.2 ローターの振動
      • 4.2.6 大難を小難に 動翼飛散と回転軸折損
      • 4.2.7 軸受、シール、および補機類
    • 4.3 しごかれるエンジン 開発
      • 4.3.1 新規エンジンか、既存エンジンの改良型か
      • 4.3.2 開発プロセス
      • 4.3.3 要素試験
        • 4.3.3.1 ファンおよび圧縮機要素試験装置
        • 4.3.3.2 タービン要素試験装置
        • 4.3.3.3 燃焼器要素試験装置
        • 4.3.3.4 円盤JCF試験と応力荷重試に使われるスピン・ピット
      • 4.3.4 ガス発生機試験
      • 4.3.5 フル・エンジン地上試験
      • 4.3.6 エンジン飛行試験
      • 4.3.7 騒音の測定
        • 4.3.7.1 飛行機の騒音パラメーターと計算法
        • 4.3.7.2 チャプター4の騒音基準
    • 4.4 メーカー・ユーザー・FAAによるエンジン信頼性の維持と向上
      • 4.4.1 オーバーホール
      • 4.4.2 イートップス(ETOPS)
  • 第5章 チャンスか危機か 将来のジェット・エンジン
    • 5.1 現在の懸案
    • 5.2 ケロシン消費量の削減と騒音低下
    • 5.3 代替燃料
    • 5.4 超音速旅客機用エンジン
  • 第6章 日本の貢献
    • 6.1 追い上げる日本
    • 6.2 世界ジェット・エンジン業界内での、今の日本
  • あとがき
  • 参考資料/さくいん

【感想は?】

 とりあえず、なぜジェットエンジンの開発が難しいかは、よくわかった。

 原料となる合金を作る能力、それを複雑な三次元の形に精密に加工する能力、性質の違う様々な材料を組み合わせる能力、大量の部品を管理する能力、低温から超高温まで多様な環境で試験できる環境…

 こういった広い範囲に渡る高度な技術が必要だからだ。ぶっちゃけ国家が持つ最新技術の粋を集めたのがジェットエンジンと言っていい。つまりは技術の総合力が試される製品なわけで、これを新規に設計・開発・生産するってのは、大変な事なんだと実感できる。

 特に驚いたのが、タービン翼の構造。それも燃焼機の後ろにあるタービン翼だ。排気の温度は1000℃を超える。金属は高温になると柔らかくなり、形が変わりやすい。タービンは高速で回転するから、遠心力で端っこから外側へ引っぱる力が働く。となると、柔らかくなったタービン翼は伸ばされて形が変わったり、下手すっと途中でもげたりする。

 それは困るんで、色々な工夫をしているんだが、これが私の想像をはるかに超えたとんでもねー発想ばかりだった。例えば翼の中を中空にして、表面に小さな穴を沢山あける。そして中から冷却用の空気を流すのだ。空気の膜がタービン翼の表面を覆い、高温の排気からタービン翼を守るわけ。

 と書くのは簡単だが、んなモンどうやって作るのかってのがまた、大変な手間で。そもそもタービン翼の材質からして、高温に耐えるニッケル合金だし、形状も複雑な三次元の曲面だし、要求される精度も0.05mmとハンパない。ニッケル合金ったって、それだけで出来てるわけじゃない。熱から守るため、更に表面をセラミックでコーティングしてるのだ。

 ところが、これが別の問題を引き起こす。モノは熱くなると大きくなる。熱膨張って現象だ。だが膨張する割合は材質によって違う。中のニッケル合金は大きく膨れるが、セラミックはあまり膨れない。セラミックは引っ張りに弱いんで、ほっとくと表面のセラミックにヒビが入り、剥がれてしまう。これを防ぐには…

 ばかりでなく、合金そのものも、とんでもねー手間をかけて作ってたり。やっぱり引っぱる力に強い合金を作ろうって発想なんだが、「そもそも、なんで引っ張りに弱いか」って所から考え始めてる。金属ってのは結晶の集まりなんだが、その結晶同士の境目が弱点になのだ。「じゃ単結晶にしようぜ」ってんで考えたのが、SC(Single Crystal、単結晶)動翼。

 これに加えて、三次元の複雑な曲面で出来てるから、それぞれの場所に加わる力を計算する演算応力も必要。おまけに共振なんて現象もあるから、固有振動数が揃わないように大きさを変えなきゃいけない。固有振動数ったって色々あって、つまりは基本の周波数に対する倍音の関係にある周波数は全部ヤバい。

 とかの問題を、全ての部品に対して計算しなきゃいけないわけで、コンピュータがなきゃやってられないよなあ。

 私のようなボンクラのプログラマは、作って動かさないとプログラムの実行速度がわからない。ところがエンジン屋さんは凄くて。ジェットエンジンの創始者であるフランク・ホイットル(→Wikipedia)もハンス-ヨアヒム・パブスト・フォン・オハイン(→Wikipedia)も、作る前にだいたいの出力を計算し、飛行機がどれぐらいの速さで飛ぶかまで数字を出してる。

 この計算できる事の凄さを改めて感じるのが、第4章の「頼れるエンジン」。ここではエンジンが故障する原因を次々とあげ、それぞれの対策を語ってゆく。

 ここでの読み所は、定期的な保守の期間やエンジンの寿命を計算する方法を説明する所の生々しさ。事故るわけにはいかない航空機の厳しい要求と共に、出来るかぎりの経費節減が要求される現場で、長年汗をかいてきた著者だから書ける迫力が詰まってる。

 百均のオモチャならともかく、航空機は価格も半端ない。しかも落ちるわけにはいかないから、適切な時点でエンジンも交換しなきゃいけない。交換が遅すぎたら大事故だし、早すぎたら費用が嵩む。ってんで、それぞれの部品ごとに様々な状況で数千時間も試験して変形や亀裂を調べる。

 ここで感激したのが、変形や亀裂の度合いが分かれば、だいたいの寿命も分かるって事。ちゃんと計算式があるのだ。ただし、ここで分かるのは、予め起こる事が分かっている不具合だけ。まあ、既に多くの航空機が飛んでるから、大抵の不具合は分かってるんだけど。

 航空機の事故は、自動車など他の乗り物の事故に比べると、やたら詳しく調べられる。今まではそれが妙に不自然だと思っていたんだけど、これを読んで少し分かった気がする。つまり、仮に未知の原因が見つかったとすると、それは「今のエンジン」にとっては大きな災厄だけど、将来のエンジン開発にとってはかけがえのない宝になるわけ。

 しかも、先に書いたように、ジェットエンジンは国家の科学・工学能力の粋を集めた結晶だ。これをワンランク引きあげられたら、国家にとって大きな財産となる。

 この本では、MRJのPW1200Gエンジンについて、直接は語っていない。だが、読み通せば、なぜギヤードなのか、それの何が嬉しいのか、なぜそれが今までなかったのか、そしてなぜMRJがPW1200Gを採用したのか、説明できるようになる。ちゃんと機体の市場と性格に合わせた意味と目的があり、まさしくMRJに相応しいエンジンだとわかるだろう。

 単に性能だけでなく、運用までを考えて設計・開発する現代のジェットエンジン。その原理から個々の部品、そして製品寿命まで、市場で鍛えられた著者だから書ける、かなり歯ごたえはあるが、それだけに生々しさが漂ってくる一般向けの工学解説書。航空機に興味があって、カタログ・スペックだけじゃ物足りない人には格好のお薦め。

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2015年11月12日 (木)

谷甲州「コロンビア・ゼロ 新・航空宇宙軍史」早川書房

…外惑星では「次の戦争」が確実視されていた。国力が低下した木星系にかわって、土星系タイタンの台頭が著しかったせいだ。さらに前方トロヤ群が、これにつづく勢いをみせていた。危機的な状況が生じるのは、2140年前後と考えられた。星々の位置関係が、外惑星にとって有利な状況になるからだ。
  ――序章

【どんな本?】

 ベテランSF作家の谷甲州が、デビュー時から書き綴った航空宇宙軍史(→Wikipedia)に続く、SF連作短編集。太陽系を舞台に、地球を月を勢力圏とする航空宇宙軍と、主に小惑星郡・木星とトロヤ群・土星圏を中心とする外惑星連合の戦いを、互いの経済・資源・技術事情から各惑星の位置までを綿密に計算し、乾いた文体でリアリティたっぷりに描いてゆく。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2015年7月25日発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約265頁。9ポイント43字×18行×265頁=約205,110字、400字詰め原稿用紙で約513枚。文庫本なら標準的な一冊分の分量。

 文章は読みやすい。内要は充分に計算しぬかれたサイエンス・フィクションではあるが、科学に疎い人でも意外と楽しく読める。舞台設定は今までの航空宇宙軍史を引きついだものだが、このシリーズはどの作品から読み始めても楽しめるので、手に入った順に読んでいこう。

【どんな話?】

 2099年6月、地球と月を勢力圏とする航空宇宙軍に対し、小惑星帯・木星とトロヤ群・土星を中心とする外惑星連合が独立や自治権拡大を求めて蜂起した。人類初の宇宙戦争、第一次外惑星騒乱である。圧倒的な戦力を擁する航空宇宙軍に対し外惑星連合は奇襲や不正規戦で抗うが、やがて鎮圧される。

 やがて外惑星では土星系タイタンと前方トロヤ群が台頭しはじめ、木星と土星が最接近する2140年前後に再び戦争が始まるだろうと予想されていた…

【収録作は?】

 それぞれ タイトル/初出。

序章
ザナドゥ高地 / SFマガジン2010年2月号
 土星の衛星、タイタン(→Wikipedia)。軍を退役したナムジル大佐は、政府の査察官としてザナドゥ高地の基地を10年ぶりに訪れる。この地域は地中に熱源があるらしく、これが地表近くの大気を温めて上昇気流を起こす。大気と言っても窒素とメタンで、雲や霧や雨はメタンだ。
 一瞬、メタンの大気の中でエンジンに火をつけて大丈夫か?と思ったが、酸素がないから大丈夫なのだった。それより水があるのが嬉しい。といっても、氷の状態なんだけど。ということで、地表は水の氷で覆われている。充分な硬さはあるものの、着陸の場面では「そういう問題もあったか!」と思わず納得すると同時に、土木の谷甲州らしい解決策に感歎した。
イシカリ平原 / SFマガジン2014年4月号
 小惑星マティルド(→Wikipedia)の観測基地に、玖珂沼主任研究員は一人で勤めている。三ヶ月ぶりの来訪者はR・サラディン、一ヶ月ほど滞在するという。たいていの訪問者は1~2週間ほど滞在して機器を設置し、実際の観測は玖珂沼が行なう。ここは周囲に人工物がないので、観測業務には便利なのだ。
 引き篭もりには羨ましい玖珂沼の仕事。なにせ、お隣は数十万kmも離れているし。スペース・シャトルだとペイロード・スペシャリスト(→Wikipedia)ですね。頼まれた実験を行なう人たち。実際には基地の維持・管理もやるだろうから、ミッション・スペシャリスト(→Wikipedia)も兼ねてるんだろうけど。
 低重力化での動作で人を判別しようとするあたりから、この作品集の特色が伝わってくる。
サラゴッサ・マーケット / SFマガジン2014年7月号
 土星の衛星イアペトゥス(→Wikipedia)。アンダーグラウンドなビジネスの拠点として知られれるサラゴサ・マーケットに、九條谷の店がある。今日の客は何かウラがありそうだ。仕事は特定サルベージ、だが肝心の軌道要素が未確定。今は懐に余裕もあるし、断ろうかと思っていたが…
 闇マーケットと聞いて、なんとなくかつての香港の九龍城(→Wikipedia)みたいなゴチャゴチャした風景を想像していたら、オチはそうきたか。侍が戦っていた頃は、戦闘後に近所の農民が戦死者から鎧や刀を剥いだり、落ち武者狩りもあった。今でもラオスあたりじゃベトナム戦争で米軍の落とした砲弾を農民が容器として使う事もあるけど、やっぱり事故も起きて…
ジュピター・サーカス / SFマガジン2014年10月号
 篠崎中尉は、特殊監視挺JC-5で木星を飛ぶ。非合法な未登録船が、木星表面を減速領域とする軌道を接近中だと情報が入ったからだ。相手の正体は不明。だが、どうやらこちらには気づいていないらしい。というのも、不明船はアクティブなセンサを使っていないからだ。
 木星の大気圏の飛行シーンが印象深い。なにせ重力の大きい天体なだけに、実際は大気の上空をかすめる感じの軌道なんだが、それだけに速度はハンパない。その割りに篠崎と正体不明機との駆け引きは、互いの位置と軌道を読み合う静かな頭脳戦で、航空戦と言うより潜水艦同士の戦いを思わせる。
ギルガメッシュ要塞 / SFマガジン2015年1月号
 次の「ガニメデ守備隊」と対をなす作品。舞台は木星の衛星ガニメデ(→Wikipedia)。タイタン防衛宇宙軍の基地の襲撃を持ちかけられたマリサ・ロドリゲス。仕事は警備システムの無力化だ。民間企業の侵入には自信も実績もあるマリサだが、軍は初めてだ。
 日本でも敗戦直後は鉄くず目当てに軍の倉庫などに忍び込む人がいて、アパッチ族と呼ばれていたとか。敗戦後の軍は多くの将兵を退役させるため、どうしても人手不足になり、倉庫の警備も手薄になるわけ。にしても、ここまで極端だと…
ガニメデ守備隊 / SFマガジン2015年4月号
 先の作品を、今度は守る側から描く。指揮官代理の保澤准尉は、侵入者が素人だと判断した。プロなら航空宇宙軍の可能性もあり、本来の指揮官シコルスキー大佐に指揮権を戻すつもりだったが、民間の泥棒なら自分で制圧できるだろう。
 「ギルガメッシュ要塞」事件を、警備する保澤准尉の視点で描く作品。警備とはいっても、現代の警備とはだいぶ様子が違って、徹底的に自動化されてるところがミソ。なんたって軍だから、そういう目的も兼ねて開発したんだろうなあ。にしても、オフェンダー2の反応には笑ってしまうw
コロンビア・ゼロ / 書き下ろし
 地球の低高度軌道上にある軍港、コロンビア・ゼロに係留されていた正規フリゲート艦タウルスが、一瞬で圧壊した。外惑星動乱時に就航した艦齢40年の老朽艦で、ほとんど展示用の艦だったが、非常時には現役復帰できる状態にあった。
 今までの作品が一気に収束する、この作品集の末尾を飾るに相応しい完結編であり、また大きな物語の始まりを予感させる壮大な開幕編。他の作品が外惑星連合側の視点で描いているのに対し、これは航空宇宙軍の視点で描き、各編で出てきたガジェットの威力が、やられる立場で存分に味わえる仕掛けになっているのも憎い。にしても、ここまで鮮やかに奇襲が成功すると、真珠湾攻撃を連想して、かえって不吉な予感がするのは悲しいw

 長い中断期間を置きながら、まさかの再開を果たした航空宇宙軍史。とりあえずは戻ってきてくれただけでも嬉しくてしょうがない。やたらと広い宇宙空間を徹底的に考え抜いたこのシリーズの兵装システムや戦術は、圧倒的な説得力で以後の日本SFに大きな影響を与えた。再開したシリーズは、どんな世界を見せてくれるんだろう。

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2015年11月10日 (火)

スーザン・フォワード「となりの脅迫者」パンローリング 亀井よし子訳

 このように「どうしても勝てない」状況にあるときに、私たちの目の前に立ちはだかっているのは、「心理操作の達人」である。彼らは、自分の希望を通せたときには、いやに優しげな態度を見せるが、いったんそれができないと悟ると、私たちを脅して自分の思いどおりにしようとしたり、私たちに大きな罪悪感を押しつけたりする。
  ――プロローグ

【どんな本?】

 生きていれば、人との交渉は避けられない。大抵の人とは、普通に話し合って互いが納得できる結論にたどり着けるが、時おり「どうしても勝てない」と感じる相手がいる。

 それが弁護士や暴力団員などのプロならともかく、家族や職場の同じチームなどの身近な人だったら、困った事になる。相手の要求は次第にエスカレートし、自分は疲れ果ててボロボロになり、更には家庭や職場そのものまで地獄に変わってしまう。

 なぜ要求に抗えないのか。相手はどんな手口を使っているのか。なぜ、そんな手を使うのか。どうすれば抗えるのか。

 「毒になる親」でセンセーションを巻き起こしたセラピストによる、「一方的な人間関係」を変えるためのガイドブック。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Emotional Blackmail : When the People in Your Life Use Fear, Obligation and Guilt to Manipulate You, by Susan Forward, 1997。日本語版は1998年5月にNHK出版より「ブラックメール 他人に心をあやつられない方法」で出版。私が読んだパンローリング版は新装改訂版で、2012年7月5日初版第1刷発行。

 単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約450頁に加え、訳者あとがき4頁。9.5ポイント45字×16行×450頁=約324,000字、400字詰め原稿用紙で約810枚。文庫本なら厚めの一冊分ぐらいの分量。

 文章はこなれていて読みやすい。読みこなすのに前提知識もほとんど要らない。中学生でも読みこなせるだろう。ただし、その気になれば、本書の知識はいくらでも悪用できるのが困りもの。

 あと、表紙が思いっきり若い女性向けなので、男性、特にオッサンは手にとりにくいんだが、決して女性向けに限った内容ではない。性別に関わりなく、誰にでも役に立つ本だ…良くも悪くも。

【構成は?】

 第1部が問題提起編、第2部が解決編となっている。素直に頭から読もう。

  • プロローグ
  • 第1部 ブラックメールの発信と受信
    • 第1章 エモーショナル・ブラックメールとは
    • 第2章 ブラックメールの四つの顔
    • 第3章 「FOG」があなたの考える力をくもらせる
    • 第4章 ブラックメール発信者はこんな手を使う
    • 第5章 ブラックメール発信者の心はどうなっているのか
    • 第6章 責任はあなたにも
    • 第7章 ブラックメールはあなたにどう影響するか
  • 第2部 理解から行動へ
    • はじめに いまこそ変わろう
    • 第8章 行動に入る前に 心の準備
    • 第9章 相手の要求を分析し作戦を練る
    • 第10章 決断を実行に移すための戦術
    • 第11章 総仕上げ あなたの「ホットボタン」を解除しよう
  • エピローグ
  • 訳者あとがき

【感想は?】

 心の格闘技の入門書。しかもバーリトゥード(何でもあり)。

 プロレスで言えば、凶器攻撃でボコボコにされたベビーフェイス(善玉)に向けて、「あなたは凶器攻撃を受けています、こう対応しましょう」みたいな本だ。

 と書くと、結果は勝ちか負けしかないようだが、そうでもない。両者リングアウトで痛みわけのケースもあるし、敵だと思っていたのが実は頼れるタッグパートナーだった、みたいなケースもある。というか、そもそもプロレスに例えるのが間違ってるんだけど、そこは私の趣味で。

 お話の構造は、前半の第1部で様々なケースを紹介し、後半の第2部で解決してゆく形だ。そのため、第1部を読み終えた時点では、とても落ち込んだ気分になる。

 出てくるケースは幾つかあるが、最も多いのは恋人同士、または夫婦のケースで、男が脅迫者の場合もあるし、女が脅迫者のカップルもある。親を脅す子、子を脅す親もあれば、職場で部下を脅す上司、上司を脅す部下も出てくる。つまりは、日常生活の親しい間柄で、歪んだ関係になっちゃった場合に、関係を修復する方法だ。

 続く後半の第2部は解決編。ここで全ての問題が解決し、爽快な気分で読み終えられる…わけじゃない。いくつかのケースでは、関係を切るしかなかったりする。読後感は少し寂しいが、「現実ってそんなもんだよね」と思えるので、「この本は信用してもいいかな」なんて気になったり。

 脅迫ったって、ヤクザみたく分かりやすい手口じゃないのがミソだ。「金貸せ、貸さなきゃ殴る」ならわかりやすい。だが、次の休みに嫁さんとの旅行を計画してたところに、母ちゃんから「今度の休暇には帰省して」とお願いされたら、どうだろう?

 この時、普通に話し合える母ちゃんなら、何の問題もない。だが、困った手口を使う母ちゃんもいる。「お前は冷たい息子だ」と非難する。「兄ちゃんは帰ってくるのに」と出来のいい兄弟と比べる。「あたしはこんなに苦しんでるのに」と仮病を使う、または父ちゃんを勝手に病気に仕立て上げる。酷いのになると、「お前なんか勘当だ」と脅す。

 こういう人と一緒に住んでいたり、同じ職場で仕事をしてたりすると、事態は更に難しくなる。スネて黙り込むんだり「二人の関係は終わりだ」と別れを匂わせる恋人もいれば、黙って家を出て数日帰って来ない夫もいる。「信じていたのに」と泣く部下、「じゃクビだ」と脅す上司や、「死んじゃうかも」と自分を人質にする娘もいる。

 本書に出てくるケースは、かなり極端な関係が多い。例えば夫アレンと妻ジョーの夫婦。お互いに深く愛し合っているが、妻のジョーは常に夫と一緒にいたがる。お陰でアレンは友人と遊びに行けないばかりか、出張にも行けなくなり、仕事にまで支障をきたしてしまう。

 逆のケースもある。妻が自分のキャリアを積もうとするのを邪魔する夫のケースだ。日本にはよくありそうだよなあ。

 彼らはどんな手を使っているのか? 著者はこれをFOGと呼ぶ。恐怖心(Fear),義務感(Obligation),罪悪感(Guilt)だ。恐怖を煽り、義務感をかき立て、罪悪感を刺激する。要求を呑まないとお前は困った事になる、これは前の義務だ、要求を果たさないお前は悪だ、または狂っている。

 これを書いてて気がついたんだが、この手口は独裁者が国民に要求するのと同じだなあ。「徴兵に応じないと家族が辛い目に合うぞ」「兵役に志願するのが国民の義務だ」「政権を支持しない者は売国奴だ」。ただ、これに例えちゃうと、後半の解決編があまし役に立たないので困るw

 まあいい。それぞれのケースに対し、あなたなら、どう対処するだろう? 私は冷酷な人間を演じる場合が多くて、それで関係を失う事が多かった。相手と同じような手に出る人もいるが、大抵はロクな結果にならない。非難合戦の泥仕合に陥り、互いに強い憎しみだけが残る。離婚した夫婦にありがちな関係がこれなんだなあ、と思ったり。

 こじれた関係を修復する本として読んでもいいが、実はもっと広く応用できる本でもある。人と話し合う、または仲良くしたい時に、「やってはいけない事」を並べた本として読んでもいい。この本の前半に出ている手口を使うと、まずもって相手は不愉快な気分になるし、議論がこじれるからだ。または、「いじめ」の兆候を見つけるのにも役立つかも。

 などと、色々と役立つ本ではあるんだけど、いかんせん表紙が若い女性向けなのが厳しい。性別も年齢も問わず、誰かとお互いに利益になる関係を築きたいと願うなら、読んで損はない。短気な人や強気な人は第1部を読んでイライラするだろうけど、頑張って読み通して欲しい。

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2015年11月 8日 (日)

ロバート・ブートナー「孤児たちの軍隊4 人類連盟の誕生」ハヤカワ文庫SF 月岡小穂訳

 わたしはジェイソン・ワンダー。戦争孤児で、高校をドロップアウトし、今は中将で人類連盟第三軍を指揮している。死ぬまで歩兵だ。ナメクジどもとの戦いが始まった2037年から30年たった。死ぬ日は確実に近づいている。

【どんな本?】

 元合衆国陸軍情報士官の著者が描く、ミリタリ・スペース・オペラのシリーズ第4弾。正体不明の異星人「ナメクジども」との戦闘中、成り行きで兵卒から一気に少将に昇格してしまったジェイソン・ワンダーを主人公に、軍ヲタむけのくすぐりをタップリ含めて描く、宇宙冒険活劇シリーズ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Orphan's Alliance, by Robert Buettner, 2008。日本語版は2015年7月25日発行。文庫本で縦一段組み、本文約386頁。9ポイント41字×18行×386頁=約284,868字、400字詰め原稿用紙で約713枚。文庫本としては少し厚めの部類かな?

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。SFとはいっても、あまり厳密に科学するタイプのお話ではないので、気楽に読もう。ただし続き物なので、できれば最初の「ガニメデへの飛翔」から読むほうがいい。

【どんな話?】

 ナメクジどもは、複数の地球型惑星に人類を移住させていた。人類に希少物質ケイバーライトを採掘させ、搾り取るためだ。そんな惑星の一つ、惑星トレッセルにジェイソンは派遣される。ここでは二つの大国トレッセルとイリディアがいがみ合っている。前線の監視に出たジェイソンは、優れた戦績から<水銀>の二つ名を持つオダス・プランク准将と出会い…

【感想は?】

 今回の最初の舞台は惑星トレッセル。ここでは科学技術が相応に進歩しているらしく、戦闘も塹壕戦だ。

 とくれば、当然ながらモデルは第一次世界大戦の西部戦線だろう。スイス国境から海まで双方が機関銃と鉄条網に守られた塹壕を掘り、膠着したにらみ合いを続けた。

 互いが戦線に穴をあけようと、大戦力を一部に集中した突破作戦を何度も敢行した、そのうち何回かは突破に成功したが、戦力が尽きてやがて穴をふさがれ、死体の山だけが残る悲惨な結果に終わる。

 トレッセルも似たようなもの、どころか、ここは湿地帯なので更にタチが悪い。たいてい塹壕の底には水が溜まり、兵の足も水びだしだ。その結果、塹壕足なんて病気まで流行った。しかもトレッセルは地球と生物相が大きく違い、色々と困った化け物が徘徊してたり。

 そんな状況を打開しようと、ドイツ軍が使った戦術の一つが浸透作戦術(→Wikipedia)。小さな集団に分かれて敵陣の奥深くに潜り込み、敵戦力を混乱させる作戦で、浸透する部隊には卓越した能力が要求される。プランク准将の二つ名クイックシルバーも、これに似た戦術に由来している。

 膠着状態に陥ってる惑星トレッセルと同盟関係を組みたい地球は、お馴染みの形での介入を試みる。つまり兵器の提供だ。

 第一次世界大戦の塹壕戦にケリをつけたのは戦車だろう。今でこそ戦車は集団で使うモノと相場が決まっているが、登場した当時は向かない泥濘地域で使われたり、小戦力を小出しにして無駄に消耗してしまう。これをハインツ・グデーリアン(→Wikipedia)が軽爆撃機や自動車化歩兵と組み合わせた電撃戦へと発展させる。

 まず軽爆撃機の集中攻撃で前線に穴をあけ、そこに戦車の集団が突っ込んで穴を広げるとともに後方を攪乱し、すかさず自動車歩兵が後を追って雪崩れ込み、敵の戦線をズタズタに切り裂く。歩兵を自動車化してるのがミソで、そうしないと戦車に追いつけないのだ。

 何が言いたいのかというと、単に優れた兵器があるってだけじゃダメで、それに見合った戦術が必要なわけ。ということで、兵器を提供する場合は、その使い方を指導する軍人もたいてい一緒に派遣する。米軍だとCIAや陸軍の特殊部隊、俗称グリーンベレーが担当する仕事だ。今回のジェイソン君は、そういう役割りを担う立場だ。

 中盤以降は、懐かしい面々が続々と登場してくる。お馴染みのオード曹長は最初からジェイソン君に付き従っているが、前巻から存在感を増した若きパイロットのジュード、相変わらず災難を呼び込む役のハワード・ヒブル大佐に加え、物語の世界の広がりを感じさせる人々が次々と出てくるのも、シリーズ物の楽しさだろう。

 終盤で繰り広げられる無茶っぷりも、相変わらず。綿密に組み立て、苦労してお膳立てを整えた大掛かりな作戦が、思いも寄らぬ齟齬でご破算となった場面で、活躍するのが懐かしいシロモノなのも、このシリーズのお約束。

 もう一つ、注目したいのが全体の構成。作家としてのキャリアは短いながら、娯楽作品として親しみやすいパターンを、このシリーズで確立しちゃってる。

 冒頭にクライマックス直前の緊迫した場面を置き、読者を物語に引き込む。その後、お話は「そもそものはじまり」に戻る。全体では400頁に近い長編だが、1~8頁(400字~4000字)程度の短い章に分け、細かく場面を転換してメリハリを持たせて読者を飽きさせず、物語を引っぱってゆく。

 ワンパターンとも言えるけど、「読者を惹きつける」形式を持っているなら、それを徹底して活用するのも娯楽作家としてはアリだと思う。

 などと難しい事は考えず、ジェイソン君のピンチや苦悩にハラハラ・ドキドキしながら素直に楽しもう。

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2015年11月 6日 (金)

ロナルド・H・フリッツェ「捏造される歴史」原書房 尾澤和幸訳

個々のカルトは流行ってはすたれてゆくが、カルトそのものはいつの時代になってもすたれない
  ――序章

L・スプレイグ・ディ・キャンプ「魔力のある名前、誰もが耳にしたことのある言葉、驚異と神秘に包まれた言葉、人によってさまざまな意味に解釈される言葉は何かと訊かれたら、答えはひとつしかない。アトランティス」
  ――第一章 アトランティス 擬似歴史の母

トマス・ホップス「真の科学と誤まった教義のあいだには無知がある」
  ――第一章 アトランティス 擬似歴史の母

出版界においては、常軌を逸した奇矯な学説のほうが、正統な学問の労作よりもはるかに巨額の儲けをもたらしてくれる
  ――第五章 擬似歴史家の共謀

【どんな本?】

 幻の大陸アトランティスは、どこにあったのか。アメリカ大陸に最初にたどり着いたのは誰か。なぜ様々な「人種」があるのか。ノアの箱船はどこにあるのか。人類史上の様々な謎に対し、明快で斬新な、だが専門家には受け入れ難い解を示す人がいて、それを信じ込む人々がいる。

 主にアメリカを中心に流布した素っ頓狂な歴史の珍説を紹介し、それぞれの珍説のルーツや形成過程を、引用してる文献や元となった著作の作者の生涯までを調べ、また珍説が受け入れられた状況や、珍説を持ち上げる人々の心理にまで迫って分析した、歴史学者による一般向けの啓蒙書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Invented Knowledge: False History, Fake Science and Pseudo-religions, Ronald H. Fritze, 2011。日本語版は2012年2月8日第1刷。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約416頁。9ポイント46字×19行×416頁=約363,584字、400字詰め原稿用紙で約909枚。文庫本なら2冊に少し足りない程度の分量。

 文章は比較的にこなれているが、さすがに日本人が著した「トンデモ本の世界」に比べると硬い。

 内容を読み解くのに必要最低限の情報は本書内で示しているが、私には少しキツかった。というのも、アメリカで流行っている説をテーマにアメリカ人向けに書いているので、聖書、特に旧約聖書のネタが多いため。もっとも、その使われ方はオカルトの定番な形が多いので、オカルトやSF漫画に詳しければなんとかなるだろう。

 ただし、第六章は本書内でも毛色の変わった章で、古代エジプト史と古代ギリシア史が中心となる。

【構成は?】

 各章は比較的に独立しているので、好きな所だけをつまみ食いしてもいい。

序章
第一章 アトランティス 擬似歴史の母
第二章 「新大陸」は誰のものか?
古代いアメリカ大陸の発見と定住にまつわる擬似歴史
第三章 天地創造説のなかの人種差別と擬似歴史 Ⅰ
マッドピープル、悪魔の子、クリスチャン・アイデンティティー
第四章 天地創造説のなかの人種差別と擬似歴史 Ⅱ
マッド・サイエンティスト、ホワイト・デビル、ネーション・オブ・イスラム
第五章 擬似歴史家の共謀
プソイドヒストリア・エピデミカ
第六章 『黒いアテナ』論争
歴史はフィクションなのか
解説 山形浩生
 主要参考文献/原注

【感想は?】

 アメリカ版「トンデモ本の世界」歴史編。

 歴史修正主義なんて言葉をよく聞く昨今だが、本書が扱うのは南京で何人死んだとかアポロが月に行ってないとか、そんなチャチなシロモノではない。金星が地球の自転を止めたとか、宇宙は一兆年前に生まれたとか、もっとスケールが大きくて楽しいシロモノだ。

 まずはアトランティス伝説で幕を開ける。元はと言えばプラトンの「ティマイオス」と「クリティアス」だ。彼の記述だとヘラクレスの柱つまりジブラルタル海峡の向う、つまり大西洋に浮かぶ島だったのが、いつのまにか大陸になったり太平洋に行ってレムリアやムーになったり、以降の作家の想像力を掻き立ててくれた。

 ここでの立役者はブラヴァツキー夫人ことヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(→Wikipedia)。オカルト好きには有名な人だ。著者は丹念に彼女の生涯を辿りつつ、その著書「ヴェールを脱いだイシス神」について、東洋学者ウィリアム・コールマンのスッパ抜きを披露する。「他人の著書からの引き写しが2000ページもある」。コピペかよw

 ところで、ここに出てくる「アカシャ記録」って、小説や漫画じゃ「アカシック・レコード」と呼ばれるアレかな?

 第二章では、1996年7月28日米国ワシントン州で見つかったケネウィック人(→Wikipedia)の遺骨を巡る騒ぎに始まり、コロンブス以前にアメリカに到達した欧州人の話へと進む。アレクサンドロス大王の船団が太平洋を越えてきたとか、失われたイスラエルの十部族が云々とかは、なかなか楽しい。

 ところが冗談ごとじゃ済まない人たちもいる。モルモン教(→Wikipedia)は成立からして、そういう人が新大陸に来てないとマズい。鄭和艦隊の一部が世界一周してたとか、フビライハンが送り出した船団にマルコ・ポーロが乗っていたとかは、極東の者の一人としちゃ、ちょっと気持ちよかったり。

 つまりは、そういう気持ちが擬似歴史を作り出すんですよ、と著者は言いたいんだが、これに政治が絡むから話はややこしい。

 第三章では狂信的な白人優越主義のクリスチャン・アイデンティティーを取り上げる。実はアダムより前にも神は人類を作ってたんだけど、それは失敗作で、失敗作がユダヤ人や黒人の祖先なんだ、って説だ。白人優越主義者にはとても都合のいい説なんだが、問題がある。なぜノアの洪水で失敗作は滅びなかった? この解が凄い。

 洪水は中央アジアのタリム盆地で起きたのだ。じゃ、アララト山はヒマラヤにあるんかいな?

 まあいい。ここで衝撃的だったのは、サバイバリストの宗教的背景を指摘する所。思想的には極端なリバタリアンっぽい部分もあって、しかもツルんで武装してるからタチが悪い。

 第四章では、それの鏡像に見えるネーション・オブ・イスラムを取り上げる。有名なマルコムXが関わったアレだ。始まりは詐欺だったんだが、それでも「信徒たちとアフリカン・アメリカンの生活を大きく改善した」。デトロイトの貧民街に暮す黒人たちに誇りを与え、飲酒やドラッグを禁じ、節制を説き、博打を止めさせた。皮肉なもんです。

 教義の中心は「白人は悪辣な劣等種で、黒人こそ本当の人類」みたいな話で、黒人にウケるのはよく分かる。おまけに、なにせスケールがデカい。「天地創造は76兆年前までさかのぼる」。もうイスラム関係ねーじゃんw

 第五章はイヌマエル・ヴェリコフスキーの話題作「衝突する宇宙」(→Wikipedia)から最近のグラハム・ハンコックまで。ここではヴェリコフスキーに対する科学者たちの対応のマズさが切ない。

 最後の第六章は、マーティン・バナール(→Wikipedia)の「黒いアテナ」を取り上げる。他の章が複数の書籍や説を扱うのに対し、ここでは「黒いアテナ」一本に絞った章だ。肝心の「黒いアテナ」の議論は専門的でわかりにくいが、それに人種問題を絡めて話をややこしくするバナールの手口を批判してゆく。

 この章はいささか浮いているが、全体のまとめとして見ると、本書のテーマを強調する章でもある。つまり、エセ歴史が、その時代の政治思想の支持を得て流布してゆく過程を、比較的に新しい例で具体的に検証しているわけ。

 学者さんがトンデモ歴史書に反論する本なので、いささか文章は硬い。が、歴史学者が書いた本だけあって、それぞれの本や説の成立過程の調査は実に細かく、広い範囲に渡る。それがクドいと感じる人も多いだろうが、そこに学者魂を感じる人もいるだろう。

 とまれ、トンデモにしても、スケールの大きい話が多いのは楽しかった。また、フィリップ・ワイリーやオラフ・ステープルトンなどのSF作家の名前が出てくるのも嬉しい。ところでフリッツェ先生に「トンデモ本の世界」を見せたら、どんな顔をするんだろう? 「その手があったか!」と喜んでくれると思うんだが。

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2015年11月 4日 (水)

SFマガジン2015年12月号

「そんなことをして大丈夫なのか? いろいろな意味で」
  ――小林泰三「ウルトラマンF」

「わかってる。それでもみんなテキサス人の死体は見飽きてるのよ。いつもどこかに吊るされてる。ニューメキシコでも見たわ。メリーベリー教の布教テントとテキサス人がフェンスから吊るされてた。オクラホマ州でも、テキサスに通じる道路は全部そうよ。だれも気にしない」
  ――パオロ・バチガルピ「終末を撮る」中原尚哉訳

 376頁。今回の特集は《SF Animation×HAYAKAWA JA》として、Project Itoh,コンクリート・レボルディオ~超人幻想~,蒼穹のファフナーを取り上げる。

 コンウリート・レボルディオの対談「『超人』の時代」辻真先×會川昇×日下三蔵。いきなりジョージ・R・R・マーティンの「ワイルド・カード」が出てきて、「ああ、そういうことだったのね」と妙に納得。山村正夫の使いまわしの手口には笑った。

 小説は、まず第3回ハヤカワSFコンテストより、大賞受賞作の抜粋で小川哲「ユートロニカのこちら側」,佳作受賞作抜粋でつかいまいこと「世界の涯ての夏」。夢枕獏「小角の城」第35回,冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第6回,新連載の小林泰三「ウルトラマンF」,パオロ・バチガルピ「終末を撮る」中原尚哉訳,シオドラ・ゴス「ビューティフル・ボーイズ」鈴木潤訳,川端裕人「青い海の宇宙港」第6回。

 小川哲「ユートロニカのこちら側」。第3回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作の抜粋。十数年ぶりに故郷の村に帰ったリード。村はハリケーンで土砂に埋まってしまった。両親の葬儀の後、姉のロージーにメッセージを送った後は、一切の連絡を絶ち、姉からのメッセージも無視していたが…

 十代後半の男の子ってのは、いろいろと難しいもんで。まして家出するまでこじれてたのなら、尚更。いろいろとあって職につき、仕事に熱中しはじめた頃に聞かされる、両親の真実。映画の喩えはなかなか巧いし、〆方も心に染みてくる。

 つかいまいこと「世界の涯ての夏」。第3回ハヤカワSFコンテストの佳作受賞作。あの夏、ぼくは子供だった。<涯て>は本土の向こう側にある。ぼくたちは幼い頃に島にきたので、<涯て>を見たことはない。定期検査で学校を休み、久しぶりに登校したら、二つ後ろの席に見知らぬ女の子が座っていた。

 島の少年、<中継者>を勤める老人、フリーのキャラクター・デザイナーの三者の立場で、奇妙な現象<涯て>が起きた世界を語る。舞台は終末が迫る近未来の地球、それも日本らしいのだが、特に軍事的に危険な雰囲気はなく、今の日本の延長らしく平穏で、でも妙な閉塞感が漂っている。

 それと、今回の入賞作は、どちらもジョン・ヴァーリーの「残像」みたいな喪失感を感じるんだよなあ。

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第6回。謎の敵<クインテット>に潜入したウフコックの視点で、クインテットの内情を語る回。リーダーらしいハンターの能力を、存分に見せ付けられる。この力、普通の社会で巧く使えば国、いや世界だって支配できると思うんだが、そうはいかないのがマルドゥックなんだろうなあ。つかストレッチャーの能力って、ボイルドっぽくないか?

 小林泰三「ウルトラマンF」。ウルトラマンが去った世界。その生物はゴモラそっくりだったが、大きさは4mほど。出動した科学特捜隊の機動部隊は、迷っていた。怪獣なら速やかに殲滅すべきだが、野生動物なら保護しなければならない。正体を見極めたいが、被害が出ては困る…

 言われてみれば確かに科学特捜隊の能力は凄まじい軍事力なわけで、そりゃ大騒ぎになるよなあ…と最初の場面は緊張感漂うお話なのだが、これが他国のパートになると、トダバタのギャグ・テイストになる。「いろいろな意味で」とか「可哀そう」とかw 元帥さん、ストレス溜まるだろうなあw

 同じ特集《TSUBURAYA×HAYAKAWA UNIVERS》『多々良島ふたたび』刊行記念トークショー山本弘×桜井浩子。山本弘の「おかしいのはわかっちゃいるけど、それに理屈をつけてくのが楽しいんじゃないか」に大笑い。怪獣好きの子供が、そのまま大人になって、でも楽しんでる姿が微笑ましい。

 パオロ・バチガルピ「終末を撮る」中原尚哉訳。長編「神の水」のスピンオフ。水不足に見舞われたアメリカで、CAP(中央アリゾナ計画)の水路を訪れたジャーナリストのルーシーと、カメラマンのティモ。ティモが見つけたのは、CAPのフェンスにぶら下がる男の遺体に群がる、数匹の野犬。

 インターネットが発達した近未来のジャーナリストの視点で、水不足をきっかけに州の対立が高まったアメリカの風景を描く。所々にスペイン語らしき単語を混ぜて、南部っぽさを醸しだしている。昨今のシリア難民の姿と、水不足でテキサスから逃げ出す人々の姿が重なって、読後感はやたらよ生々しい。

 シオドラ・ゴス「ビューティフル・ボーイズ」鈴木潤訳。<ビューッティフル・ボーイ>、学名<プエリ・プールクリ>。細く引き締まった体、頬にはうっすら不精髭、アフターシェーブ・ローションと煙草の匂いがする。身長は180cm~190cm、体重75kg~88kg。肌の色はさまざまで、犯罪行為に関わることも多い。そして女性との関係は…

 女性向け。うん、まあ、アレだ。可愛い女の子は空から降ってくる。そして、カッコいい男の子は、どこかよくわからない所から湧いてきて、どこかに行ってしまうのだ。

 川端裕人「青い海の宇宙港」第6回。今回は天羽駆たちの担任教師、田荘千景の視点で始まる。サードインパクトはワザとかw ガオウは沖縄で言うウタキみたいなモノだろうか。実は私の家の近所にも、よく分からない立ち入り禁止の場所があるんだけど、由来を知らなかったらタダの藪なんだよなあ。後半の宇宙創成の説明がとってもわかりやすい。なんで小学生向けの雑誌ではなくSFマガジン連載なんだろう。是非、子どもに読んで欲しい。

 東茅子「NOVEL&SHORT STORY REVIEW」。ヒュー・ハウイーの「キャラクター選択」 Select Character が面白そう。戦闘アクションゲームの中で、家庭菜園を楽しむ主婦の話。良くできたソフトは、往々にして制作側の思惑を超えた使われ方をするもので。ガンパレード・マーチで仲人プレイなんてのを編み出した人の発想も尊敬してしまう。

 樫本輝幸「世界SF情報」。ここ暫くジョージ・R・R・マーティンが大暴れしてたローカス・ベストセラーリスト、今回もマーティンが暴れてるが、同時にチャールズ・ストロスがハードカバーとペーパーバックの両方にランクインしてるのに驚いた。日本じゃすっかりご無沙汰なのに。

 巽孝之「2015ワールドコン・レポート」。アンディ・ウィアーが飛行機恐怖症って、ホンマかいなw にしてもパピーズは、ヒューゴー賞乗っ取りなんか企てるから反感を買うんで、自分たちで新しい賞を作るんなら文句のつけようがないんだよなあ。つかソードアート・オンラインとかは、パピーズにウケる気がするんだけど、どうなんだろ?

 同じく「2015ワールドコン・レポート」、藤井太洋。英語の練習を兼ねてナンパとは、やるなあ←違います

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2015年11月 2日 (月)

オーランド・ファイジズ「クリミア戦争 上・下」白水社 染谷徹訳 3

ナポレオン・ポナパルト「兵士を生かすもの、それはスープだ」
  ――第9章 冬将軍

「マダム、今頃、パリは万博で賑わい、人々は舞踏会や祝宴で浮かれていることだろう。だが、ここでは、あの勇敢な兵士たちの半数が一時間半以内に戦死してしまうのだ」
  ――第10章 大砲の餌食

【どんな本?】

 1853年~1856年のクリミア戦争(→Wikipedia)。オスマン帝国・英国・フランスの連合軍が、ロシアと戦った。それぞれの国は何を求め、どう戦ったのか。各国の軍はどんな様子だったのか。それは戦後にどんな影響をもたらし、世界をどう変えたのか。ロシア史の専門家が豊富な資料から掘り起こす、近代戦の終焉であり現代戦の曙となった戦いの記録。

 オーランド・ファイジズ「クリミア戦争 上・下」白水社 染谷徹訳 2 から続く。

【戦場】

 クリミア戦争と呼ばれているが、実はバルカン半島やコーカサスにも戦火は広がっている。英国の構想ではバルト海にまで広げるつもりだったらしい。とまれ、本書が扱うのはクリミア半島が中心で、最も記述が多いのはセヴァストポリ攻囲戦。前哨戦としてバルカン半島があり、コーカサスとバルト海は軽く触れる程度。

【大戦略】

 ところで。なぜクリミア半島、それもセヴァストポリが激戦場になったのか。これに対し著者は「論理的な根拠がない」と切り捨てている。英仏の理屈としては、トルコを守るために黒海の制海権が要るって事になるが、「トルコに対するロシアの支配力の鍵は黒海艦隊よりもむしろロシア陸軍が握っていた」と切って捨てている。

 つまりは、何かしらの政治的・軍事的な目的があったわけじゃなく、世論とか空気とか、そんなモノに流されてクリミアに決まったらしい。

 実際の戦闘を追っていくと、開けたところでの野戦では英仏土がロシアを圧倒している。これは短射程のマスケット銃と長射程のミニエ銃の差で、ミニエ銃は時として大砲の射程すら凌いでたり。である以上、英仏土は野戦に持ち込むのが得だ。実際、クリミアに上陸した英仏土を野戦でロシアが迎え撃ち、英仏がロシアを蹴散らすが…

もし、英仏軍がアリマ川の戦いで勝利した後、その勢いのままにロシア軍を追撃して前進を続けていれば、セヴァストポリを急襲し、おそらくは、数日以内に陥落させることができたはずである。

 当初の予定が攻囲戦なので、それに拘ったんだろうか。対するロシアは早めに野戦の不利を悟り、セヴァストポリに引き篭っている。どうも人は失敗には学ぶが、成功からはあまり学ばないらしい。攻囲した後も連合軍は間抜けで、補給路を絶っていない。水を絶てばすぐに潰れるだろうに。

【指揮官】

 これらの責任の多くを、著者は英軍総司令官のフィッツロイ・サマーセット・ラグラン男爵に帰している。作戦のミスはともかく、何度も繰り返している失敗は、命令書が不明確な事。例えば「敵が大砲を運びさる事を阻止せよ」なんて命令書を出すが、その大砲がどこにある大砲なのかを書いていない。

 これを受け取った騎兵師団司令官のジョージ・ビンガム・ルーカン卿は無謀な騎馬突撃を命じる羽目になり、やがてアルフレッド・テニソンの「軽騎兵部隊の突撃(→Wikipedia)」なんて詩にもなる。こういう齟齬はアチコチで起きて、というか齟齬のない戦闘の方が珍しい。

 とまれ、ロクに通信手段もなく伝令に頼る戦場じゃ、齟齬が起きるのは当たり前で、「戦場の霧」なんて有名な言葉もある。特に常に事態が動く野戦なら尚更だろう。だからラグランは戦線が固定する攻囲戦に拘ったんだろうか?

【白兵戦】

 攻囲戦は地味だ。攻囲する側はスコップで城壁に向かって壕を掘り、される側は砲撃で壊れた城壁を修理する。そんな中でもロシアが打って出る戦いがある。1953年10月26日の急襲は霧の中で行なわれ、そのためにミニエ銃の長射程は意味をなさず、また敵味方の識別もできずにバトルロイヤル状態になる。

 これに学んだのか、後にはロシア軍が夜襲をかけてくる場面も多い。電気もない当時では、闇に紛れて移動すれば今よりはバレにくかったんだろう。当然、結果は白兵戦で、これまた銃の性能差を打ち消せる賢い作戦だ。

【医療】

 クリミア戦争&医療と言えばフローレンス・ナイチンゲールが有名だ。かなり強引な人物だったようだが、クリミアではそれが幸いしたらしい。というのも、「改革が成功するかどうかは軍隊の官僚機構との力関係にかかっていた」ため。

 組織力・行動力にも優れた人だったようで、従軍する看護婦団の組織作りから始めてる。志望者は多かったようだが、面白いのが採用基準。「優先したのは下層階級出身の年若い女性」で「中産階級の善意の女性たちは一人も採用しなかった」。ちゃんと理由があって、「現地の厳しい環境に耐え」る人が必要だったため。

 悲惨な戦場でたじろがず、厳しい労働に耐えるには、そういう環境で育った人が一番向いているって発想なんだろう。

 ロシア側も悲惨だったが、ニコライ・ピドゴーフ軍医が優れた貢献をしている。外科手術にエーテル(麻酔)を導入し、トリアージュで医療リソースを効率的に使う。にしても当時からロシアはアレで、医薬品の「不足の最大の原因は汚職だった。医師たちは医薬品を横流しして金を儲け、患者には偽薬を与えていた」ってんだから酷い。

【掠奪】

 クリミアって土地は様々な人々が混住している所で、ここではタタール人とロシア人の対立が描かれる。英仏土が上陸すると、ロシア人が逃げ出してタタール人が掠奪を始める。逆に侵攻軍が撤退するとロシア人が戻って来て、タタール人を虐殺しシベリア送りにする。

 たぶん、今のイラクやシリアやウクライナで起きているのも、こういう歴史に基づいた事なんだろう。これを止めるには、充分な兵力を投入して治安を安定させるのが確実な方法なんだろうけど、なんだかなあ。

【砲声】

 攻囲体制が固まると、間断なき砲撃戦になる。これは物理的な破壊だけでなく心理的な効果もあって、いわゆる「砲弾ショック」、PTSDを流行らせてゆく。この本では、その優れた戦闘能力を称えられるズアーヴ兵も…

「アフリカ戦線で連戦してきた古強者」のズアーヴ兵は、それまでまったく頑健に見えたが、ある日、戦友たちとともにテントの傍に座ってコーヒーを飲んでいる最中に突然「もう沢山だ!」と叫ぶと、銃を握って数歩遠ざかり、自分の頭を撃ち抜いた。

 当時は定期的に休暇を取るなんて制度はなかったんだろうなあ。

【歩兵の突撃】

 攻囲中にも、何度か連合軍は歩兵を突撃させている。これの描写が、なかなか恐ろしい。

梯子を抱えて数百、の上り坂を走らなければならない。斜面には身を守るための隠れ場所は存在しない。しかも、多数の掘割を渡り、坂茂木を乗り越えなければならない。その間、(略)激しい砲火にさらされる…

 当然、これで終わりじゃない。この後、はしごをかけて塀をよじのぼり、塀の上の敵兵を倒す。これを無数の砲弾・銃弾の晒されながらやるわけで、マトモな神経でできることじゃないと思うんだが、なぜか人類はずっとこんな事をやってきている。

【陥落】

 持ちこたえられないと判断したロシア軍は、舟橋を作って脱出し、セヴァストポリに火をつける。「火災は数日間燃え続けた」。この間、英仏軍は入城しなかった。これが悲劇を更に大きくする。というのも、「約3000人の負傷者が水も食糧も与えられずに、炎上する町に置き去りにされていた」。すぐに連合軍が入ってくると思い、敵に負傷者を託したんだが…

【戦後】

 この戦いは参加各国を変えて行く。ロシアではゆっくりだが農奴解放の動きが始まり、また汎スラヴ主義が目覚め始め、軍事的には中央アジアへの進出が始まる。英国では兵卒にも授与される「ヴィクトリア十字勲章」に象徴されるように、軍を代表する者が貴族の士官から兵卒へと変わり、また中産階級が先導する改革が進む。

 わかんないのがトルコ。戦勝国であるにも関わらず、「意図的に国民の記憶から抹消された戦争である」。オスマン帝国の最後の栄光なためか、ケマル・アタチュルクの改革には都合が悪いのみならず…

トルコの大部分の学校で使われている歴史教科書は、クリミア戦争の結果として西欧諸国の艦賞が強まったことがイスラムの伝統衰退の原因に他ならないとしている。

 どうにも私にはムスリムの考え方はわからないと思っていたが、それは根本的な所がわかってなかったから、らしい。スルタンが出した改革勅令はトルコの近代化を狙ったもので、その一つにキリスト教徒の保護があるんだが、これに反対する者が暗殺を企て、1859年に逮捕され、尋問にこう答えている。

イスラム教徒と同等の権利をキリスト教徒に与える改革勅令はイスラム法に反する

 つまり、ハナからムスリムは平等だなんて思っていないのだ。彼らは自分たちが優遇されるのが当たり前だと思っている。ところが現実は…ってんで、現在まで中東は戦乱が絶えない。先のトルコの選挙じゃエルドアンが圧勝したけど、今後はどうなる事やら。

【おわりに】

 宗教問題に焦点を当てるなど、斬新な試みでクリミア戦争を綴った大作。それぞれの国の思惑や内情も細かく描き、お陰でバルカン半島が火薬庫である理由やロシアがクリミア半島に拘る原因など、現代にまで続く問題の根っこまでスルスルとほどけてくる、意外な発見が多い本だった。

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2015年11月 1日 (日)

オーランド・ファイジズ「クリミア戦争 上・下」白水社 染谷徹訳 2

ニコライ一世は生涯を通じて軍人用の簡易ベッド以外のベッドで寝たことがなかった
  ――第2章 東方問題

1828年5月から29年2月までの期間に各地の陸軍病院で治療を受けた兵士の数は21万人に達した。実際に作戦に参加した兵力の実に二倍に相当した病人が出たことになる。しかし、ロシア皇帝の軍隊にとって、膨大な消耗率は決して異常な事態ではなかった。農奴出身の兵士の健康や福祉が顧みられることはなかったのである。
  ――第2章 東方問題

【どんな本?】

 1853年~1856年のクリミア戦争(→Wikipedia)は、どんな戦いだったのか。当時の大国である英国・フランス・オスマン帝国・ロシアなどの参戦国からオーストリアまで各国の歴史的背景から国際関係・思惑・内情をじっくりと書き込むとともに、戦闘の推移から船上の様子までを鮮やかに再現し、また戦後に与えた影響までを描く、一般向けの歴史書。

 オーランド・ファイジズ「クリミア戦争 上・下」白水社 染谷徹訳 1 から続く。

【各国の内情と思惑】

 前の記事では、ロシアとトルコの思惑を書いた。ロシアは東方教会(正教会)の庇護者として、バルカン半島の正教徒を保護し、コンスタンチノープル(イスランブール)をムスリムから奪いかえす野望を抱えている。
 オスマン帝国は近代化に向け改革したくても、イスラム法学者と宗教指導者が邪魔して思うようにいかない。

 英国は、南下を目論むロシアにインドを食われると心配し、ロシア脅威論が台頭する頃、11月蜂起(→Wikipedia)で亡命してきたポーランド人も反ロシア世論を煽り、新聞が世論に乗っかって戦争機運が盛り上がってしまう。主戦論者は、クリミアに加えカフカスやバルト海にまで広がる全面戦争を求め始める始末。1940年代のどっかの国みたいだ。

 比較的に冷静だったのがフランス。そもそも宿敵の英国と組むのが気に入らないし、国民は戦争を嫌う。ナポレオン三世もソレを心得ていて、軽く戦って戦果を出し己の威光をあげ、和平に持ち込む算段をしてる。この本の全般を通し、ナポレオン三世は大きな野望を持ちながらもバランス感覚に優れた外交センスを発揮したように描いている。

 狡猾なのがオーストリア。ロシア軍のバルカン半島の南下で、調子に乗ったセルビアの民衆我が蜂起したら困る。そこで国境沿いに軍を動かしロシア軍の背後を突く形を取って牽制する。英国の思惑通りに大陸でドンパチやられたら自国が戦場になるんでたまらんので、中立国として仲介する立場を貫く。

 軍は動かすものの、結局最後まで直接の対立は避けてる(反乱の鎮圧はしてるけど)わけで、軍の使い方としては理想的だと思う。軍備は整えるけど戦わないってのが、最も適切な理想と現実の折り合いの付け方だよなあ。

【フランス軍】

 全般的にフランスを持ち上げる傾向にある本書、軍の内情の記述もフランス軍を誉める記述が多い。理由の一つにアルジェリア戦争(→Wikipedia)をあげてる。「フランス軍兵士35万のうち実に1/3がアルジェリア戦争の経験者だった」。兵の多くは農民で、創意工夫の才に長けている。

 こういった農民兵の臨機応変の才は、アントニー・ビーヴァーも「スペイン内戦」で書いてたなあ。

 対して、英国軍への批判はアチコチにある。曰く、兵への鞭打ちの習慣が残っている。士官は金で官位を買っており、情休止期間の多くは軍事技術に疎く戦闘経験がない。兵の多くは失業者と最貧困層で質が悪い。

 遼者の違いがハッキリするのがクリミア上陸の場面。フランス軍はその日の「日暮れまでに砲兵隊を含む全フランス軍が上陸を完了した」のに対し、「英国軍の歩兵部隊と騎兵部隊が上陸を完了するまでに5日かかった」。上陸しても、陸揚げした荷物を港から運び出すのに「すべての手続きに三通の書類が必要だった」。

 フランス兵は自分で蛙や亀や魚や、鼠まで調理するのに対し、英国兵は「戦争に行けばすべての食事は軍から支給されるものと思い込んでいる」。これは「何を食べるか」っていう、食事への柔軟性も大きいんじゃないかなあ。フランス人はカタツムリだって食べるし。

【英国軍】

 兵の質、組織の硬直性に加え、将兵の差もフランス軍は少なく、英国は大きい。特に最初の越冬の場面は悲惨。いずれも簡単に片付くと思ってたんで、冬服は用意してない。フランス軍は士官と同じマントを兵にも支給し、重ね着も許していたが、英国は「兵士が常に『紳士らしい』外装と身だしなみを保つことを要求していた」。

 雨漏りするテントの中で震える兵の苦労を、指揮官はどう見ていたかというと…

クリミアの厳しい冬を経験して帰国した何人かの英国軍士官と話したことがある。彼らは、現地の兵士たちがいかに悲惨な生活を強いられているかは帰国後に新聞で読むまで知らなかったと言って笑った

 目の前にいる部下の待遇すら知らずに士官が務まるってのも呆れるが、それを笑うって神経は…まあ、身分制って、そういうモンなんだろう。

 食事の工夫なども英仏で大きな差があるんだが、これは英国が遅れてると言うより、フランスが進んでいたんじゃなかろか。

 というのも、フランス陸軍はナポレオンが叩きなおした軍だし。砲科出身のナポレオンは科学や数学を重んじると同時に、兵站の重要性も身に染みて知っていた。戦いに勝って成りあがった人だから、軍の組織も身分制を壊し能力主義に作り変えただろう。革命を経たフランスと、貴族制が残る英国っていう社会そのものの違いも大きいんだろうけど。

【トルコ軍】

 従軍した兵の数に対し、本書じゃ冷遇されているのがトルコ軍。国家予算の70%を軍事支出が占める軍事国ではあるものの、体制は古くて…

中央集権的な軍隊機構も、指揮命令システムも、士官学校もなく、軍事訓練は貧弱で、依然として辺境出身の傭兵や部族民の部隊、そして非正規軍に依存していた。

 ってんで改革したくても、既得利権にしがみつく四万人の常備兵イェニチェリ(→Wikipedia)が邪魔するんだな、これが。

 トルコ軍士官の記述はほとんどなくて、兵の話ばかり。占領地で掠奪や虐殺に走る場面も多いが、全般的に悲惨な境遇を描く場面が多い。

トルコ軍の兵士は英国軍から奴隷同様に見下され、塹壕堀りとして、また、パラグラヴァ港からセヴァストポリ周辺の高地まで重い荷物を運び上げる人夫として使役された。宗教上の理由から英国軍の糧食の大半を食べることができなかったトルコ軍の兵士たちは常に飢餓状態にあり…

 宗教上の理由って、ハラール(→Wikipedia)だろうなあ。現代のイスラム系の国家でも、エジプト・シリア・トルコと、軍が大きな力を握る国は、軍が世俗化を先導してるけど、その原因の一つは、こういった戦場と宗教の相性の悪さがあるのかも。

 士官と兵の格差も大きく、全般的に酷い扱いを受けるトルコ軍だけど…

オスマン帝国軍は待ち伏せ作戦や小競り合いなどの「小規模戦」に優れており、攻囲戦では類いまれな能力を発揮したが、マスケット銃のような滑空銃を使って密集隊形で戦う訓練は行なっていなかった。

 こういった、小部隊での戦いに長けた性質は、「知恵の七柱」でも強調されてた。

【ロシア軍】

ある士官によれば、「マスケット銃の扱い方を知る兵士さえほとんどいない」という状態だった。「戦闘で勝利を収めるためにロシア軍が行なっていた唯一の訓練は行進の技術であり、正確な歩幅の取り方だった」

 と、体質の古さはトルコ並みなのがロシア軍。なんたって、ロシアには農奴制が残ってる。しかも戦費の多くが農民への増税で賄ってるってんだから酷い話だ。天候不順に加え、働き手と家畜を軍に取られ追いつめられた農民は地主を襲い、「深刻な騒乱事件が300軒以上発生した」。それでも第一次世界大戦まで帝制が持つんだから、わからんもんです。

 越冬の準備をしてないのはロシアもおなじなんだが、その対策は「外套の代わりに支給されていたのは大量のウォッカだった」って、おい。こういう、兵を粗末に扱う体質が第二次世界大戦で莫大な犠牲者を生んだばかりでなく、今でも残っているのが「チェチェン 廃墟に生きる戦争孤児たち」に描かれてる。

【次回予告】

 たぶん次の記事で終わります。

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