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2015年11月 2日 (月)

オーランド・ファイジズ「クリミア戦争 上・下」白水社 染谷徹訳 3

ナポレオン・ポナパルト「兵士を生かすもの、それはスープだ」
  ――第9章 冬将軍

「マダム、今頃、パリは万博で賑わい、人々は舞踏会や祝宴で浮かれていることだろう。だが、ここでは、あの勇敢な兵士たちの半数が一時間半以内に戦死してしまうのだ」
  ――第10章 大砲の餌食

【どんな本?】

 1853年~1856年のクリミア戦争(→Wikipedia)。オスマン帝国・英国・フランスの連合軍が、ロシアと戦った。それぞれの国は何を求め、どう戦ったのか。各国の軍はどんな様子だったのか。それは戦後にどんな影響をもたらし、世界をどう変えたのか。ロシア史の専門家が豊富な資料から掘り起こす、近代戦の終焉であり現代戦の曙となった戦いの記録。

 オーランド・ファイジズ「クリミア戦争 上・下」白水社 染谷徹訳 2 から続く。

【戦場】

 クリミア戦争と呼ばれているが、実はバルカン半島やコーカサスにも戦火は広がっている。英国の構想ではバルト海にまで広げるつもりだったらしい。とまれ、本書が扱うのはクリミア半島が中心で、最も記述が多いのはセヴァストポリ攻囲戦。前哨戦としてバルカン半島があり、コーカサスとバルト海は軽く触れる程度。

【大戦略】

 ところで。なぜクリミア半島、それもセヴァストポリが激戦場になったのか。これに対し著者は「論理的な根拠がない」と切り捨てている。英仏の理屈としては、トルコを守るために黒海の制海権が要るって事になるが、「トルコに対するロシアの支配力の鍵は黒海艦隊よりもむしろロシア陸軍が握っていた」と切って捨てている。

 つまりは、何かしらの政治的・軍事的な目的があったわけじゃなく、世論とか空気とか、そんなモノに流されてクリミアに決まったらしい。

 実際の戦闘を追っていくと、開けたところでの野戦では英仏土がロシアを圧倒している。これは短射程のマスケット銃と長射程のミニエ銃の差で、ミニエ銃は時として大砲の射程すら凌いでたり。である以上、英仏土は野戦に持ち込むのが得だ。実際、クリミアに上陸した英仏土を野戦でロシアが迎え撃ち、英仏がロシアを蹴散らすが…

もし、英仏軍がアリマ川の戦いで勝利した後、その勢いのままにロシア軍を追撃して前進を続けていれば、セヴァストポリを急襲し、おそらくは、数日以内に陥落させることができたはずである。

 当初の予定が攻囲戦なので、それに拘ったんだろうか。対するロシアは早めに野戦の不利を悟り、セヴァストポリに引き篭っている。どうも人は失敗には学ぶが、成功からはあまり学ばないらしい。攻囲した後も連合軍は間抜けで、補給路を絶っていない。水を絶てばすぐに潰れるだろうに。

【指揮官】

 これらの責任の多くを、著者は英軍総司令官のフィッツロイ・サマーセット・ラグラン男爵に帰している。作戦のミスはともかく、何度も繰り返している失敗は、命令書が不明確な事。例えば「敵が大砲を運びさる事を阻止せよ」なんて命令書を出すが、その大砲がどこにある大砲なのかを書いていない。

 これを受け取った騎兵師団司令官のジョージ・ビンガム・ルーカン卿は無謀な騎馬突撃を命じる羽目になり、やがてアルフレッド・テニソンの「軽騎兵部隊の突撃(→Wikipedia)」なんて詩にもなる。こういう齟齬はアチコチで起きて、というか齟齬のない戦闘の方が珍しい。

 とまれ、ロクに通信手段もなく伝令に頼る戦場じゃ、齟齬が起きるのは当たり前で、「戦場の霧」なんて有名な言葉もある。特に常に事態が動く野戦なら尚更だろう。だからラグランは戦線が固定する攻囲戦に拘ったんだろうか?

【白兵戦】

 攻囲戦は地味だ。攻囲する側はスコップで城壁に向かって壕を掘り、される側は砲撃で壊れた城壁を修理する。そんな中でもロシアが打って出る戦いがある。1953年10月26日の急襲は霧の中で行なわれ、そのためにミニエ銃の長射程は意味をなさず、また敵味方の識別もできずにバトルロイヤル状態になる。

 これに学んだのか、後にはロシア軍が夜襲をかけてくる場面も多い。電気もない当時では、闇に紛れて移動すれば今よりはバレにくかったんだろう。当然、結果は白兵戦で、これまた銃の性能差を打ち消せる賢い作戦だ。

【医療】

 クリミア戦争&医療と言えばフローレンス・ナイチンゲールが有名だ。かなり強引な人物だったようだが、クリミアではそれが幸いしたらしい。というのも、「改革が成功するかどうかは軍隊の官僚機構との力関係にかかっていた」ため。

 組織力・行動力にも優れた人だったようで、従軍する看護婦団の組織作りから始めてる。志望者は多かったようだが、面白いのが採用基準。「優先したのは下層階級出身の年若い女性」で「中産階級の善意の女性たちは一人も採用しなかった」。ちゃんと理由があって、「現地の厳しい環境に耐え」る人が必要だったため。

 悲惨な戦場でたじろがず、厳しい労働に耐えるには、そういう環境で育った人が一番向いているって発想なんだろう。

 ロシア側も悲惨だったが、ニコライ・ピドゴーフ軍医が優れた貢献をしている。外科手術にエーテル(麻酔)を導入し、トリアージュで医療リソースを効率的に使う。にしても当時からロシアはアレで、医薬品の「不足の最大の原因は汚職だった。医師たちは医薬品を横流しして金を儲け、患者には偽薬を与えていた」ってんだから酷い。

【掠奪】

 クリミアって土地は様々な人々が混住している所で、ここではタタール人とロシア人の対立が描かれる。英仏土が上陸すると、ロシア人が逃げ出してタタール人が掠奪を始める。逆に侵攻軍が撤退するとロシア人が戻って来て、タタール人を虐殺しシベリア送りにする。

 たぶん、今のイラクやシリアやウクライナで起きているのも、こういう歴史に基づいた事なんだろう。これを止めるには、充分な兵力を投入して治安を安定させるのが確実な方法なんだろうけど、なんだかなあ。

【砲声】

 攻囲体制が固まると、間断なき砲撃戦になる。これは物理的な破壊だけでなく心理的な効果もあって、いわゆる「砲弾ショック」、PTSDを流行らせてゆく。この本では、その優れた戦闘能力を称えられるズアーヴ兵も…

「アフリカ戦線で連戦してきた古強者」のズアーヴ兵は、それまでまったく頑健に見えたが、ある日、戦友たちとともにテントの傍に座ってコーヒーを飲んでいる最中に突然「もう沢山だ!」と叫ぶと、銃を握って数歩遠ざかり、自分の頭を撃ち抜いた。

 当時は定期的に休暇を取るなんて制度はなかったんだろうなあ。

【歩兵の突撃】

 攻囲中にも、何度か連合軍は歩兵を突撃させている。これの描写が、なかなか恐ろしい。

梯子を抱えて数百、の上り坂を走らなければならない。斜面には身を守るための隠れ場所は存在しない。しかも、多数の掘割を渡り、坂茂木を乗り越えなければならない。その間、(略)激しい砲火にさらされる…

 当然、これで終わりじゃない。この後、はしごをかけて塀をよじのぼり、塀の上の敵兵を倒す。これを無数の砲弾・銃弾の晒されながらやるわけで、マトモな神経でできることじゃないと思うんだが、なぜか人類はずっとこんな事をやってきている。

【陥落】

 持ちこたえられないと判断したロシア軍は、舟橋を作って脱出し、セヴァストポリに火をつける。「火災は数日間燃え続けた」。この間、英仏軍は入城しなかった。これが悲劇を更に大きくする。というのも、「約3000人の負傷者が水も食糧も与えられずに、炎上する町に置き去りにされていた」。すぐに連合軍が入ってくると思い、敵に負傷者を託したんだが…

【戦後】

 この戦いは参加各国を変えて行く。ロシアではゆっくりだが農奴解放の動きが始まり、また汎スラヴ主義が目覚め始め、軍事的には中央アジアへの進出が始まる。英国では兵卒にも授与される「ヴィクトリア十字勲章」に象徴されるように、軍を代表する者が貴族の士官から兵卒へと変わり、また中産階級が先導する改革が進む。

 わかんないのがトルコ。戦勝国であるにも関わらず、「意図的に国民の記憶から抹消された戦争である」。オスマン帝国の最後の栄光なためか、ケマル・アタチュルクの改革には都合が悪いのみならず…

トルコの大部分の学校で使われている歴史教科書は、クリミア戦争の結果として西欧諸国の艦賞が強まったことがイスラムの伝統衰退の原因に他ならないとしている。

 どうにも私にはムスリムの考え方はわからないと思っていたが、それは根本的な所がわかってなかったから、らしい。スルタンが出した改革勅令はトルコの近代化を狙ったもので、その一つにキリスト教徒の保護があるんだが、これに反対する者が暗殺を企て、1859年に逮捕され、尋問にこう答えている。

イスラム教徒と同等の権利をキリスト教徒に与える改革勅令はイスラム法に反する

 つまり、ハナからムスリムは平等だなんて思っていないのだ。彼らは自分たちが優遇されるのが当たり前だと思っている。ところが現実は…ってんで、現在まで中東は戦乱が絶えない。先のトルコの選挙じゃエルドアンが圧勝したけど、今後はどうなる事やら。

【おわりに】

 宗教問題に焦点を当てるなど、斬新な試みでクリミア戦争を綴った大作。それぞれの国の思惑や内情も細かく描き、お陰でバルカン半島が火薬庫である理由やロシアがクリミア半島に拘る原因など、現代にまで続く問題の根っこまでスルスルとほどけてくる、意外な発見が多い本だった。

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