オーランド・ファイジズ「クリミア戦争 上・下」白水社 染谷徹訳 1
ロシアの最終的な本音は、全ロシアの協会の母であるハギア・ソフィアを奪回し、さらに、モスクワからエルサレムに至る広大な正教帝国の首都としてコンスタンチノープルを奪回することにあった。
――第2章 東方問題ナポレオン三世「…反乱の勃発を未然に防止する方法は存在する。多分、最も確実な方法は戦争だろう」
――第4章 「欧州協調」の終焉ニコライ一世「私を決して裏切らない将軍がいる。それは一月と二月にやって来る冬将軍だ」
――第8章 秋のセヴァストポリ
【どんな本?】
クリミア戦争(→Wikipedia)は、1853年~1856年にわたって繰り広げられた。フランス・イギリス・オスマン帝国の連合軍が、ロシアに挑んだ戦いである。短射程のマスカット銃(→Wikipedia)を長射程のミニエ銃(→Wikipedia)が蹴散らし、鉄道が活躍するなど軍の近代化が進むと同時に、騎馬突撃が効果をあげた戦いもあり、近代戦と現代戦が混在する戦いでもあった。
その時の世界情勢は、どのような状況だったのか。参加国や周辺国は、どのような意図で、どんな目的のために、どう動いたのか。どんな将兵が動員され、どんな待遇と装備で戦場に赴き、どう戦い、どう倒れたのか。そして戦争に巻き込まれた民間人は、何を考え何をし、どんな運命を辿ったのか。そして戦争はどのような経緯を辿り、後の国際関係にどう影響したのか。
ロシア史の研究者が、豊富な資料を駆使して当時の様子を再現し、国際関係から前線の将兵や戦場となった町に住む民間人まで、様々な視点で立体的にクリミア戦争を再現する歴史書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は CRIMEA : The Last Crusade, Orlando Figes, 2010。日本語版は2015年3月5日発行。単行本で上下巻、縦一段組みで本文約396頁+297頁=697頁に加え、土屋好古の解説6頁+訳者あとがき3頁。9ポイント45字×20行×(396頁+297頁)=約627,300字、400字詰め原稿用紙で約1,569枚、文庫本なら三冊分ぐらいの大容量。
日本語は比較的にこなれている。内容も意外とわかりやすい。というのも、過去の遺恨から当時の国際情勢まで本書内でわかりやすく説明しているため。敢えていえば軍の編成で、大きい順に師団・旅団・連隊・大隊・中隊・小隊となる事を覚えておくといい。
また、1853年は日本史だと黒船が浦賀に来た年でもある。多くの日本人にとっては、黒船が来た頃と言った方がピンと来るかもしれない。
【構成は?】
基本的に時系列順に進むので、素直に頭から読もう。また、冒頭に8枚の地図があり、各章末に注があるので、栞を多めに用意しておこう。
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【感想は?】
まだ上巻だけしか読んでいないので、そこまでの感想を。
クラウゼヴィッツ(→Wikipedia)は「戦争は外交の延長だ」と主張したが、クリミア戦争はだいぶ様子が違う。参加した全ての国が、何やら得体の知れない勢いのようなモノに突き動かされ、目的も目標もハッキリしないままセヴァストポリ攻囲戦へと突き進んでゆく。
例外はオスマン帝国で、防衛戦争なのがハッキリしている…んだが、弱い立場に付けこまれたのか、イギリスとフランスに振り回され、たいして意味のないクリミアにまで大軍を送り込む羽目に陥っている。大国なんだが、政治的に不安定で社会的にも軍事的にも改革が遅々として進まず、スルタンは思い切った手が打てないのだ。
こういったあたり、専制的な独裁者と思われるスルタンが、思いどおりに振舞えないのが意外だったり。
この本では、上巻の前半を割いて当時の国際情勢から、各国の思惑までを丁寧に説明してゆく。本格的な戦闘場面が出てくるのは第7章以降だ。そういう点では、軍事というより歴史書に近いかも。
その各国の思惑では、宗教問題を重要視しているのが、この本の大きな特徴だろう。
当時のロシアは東方教会(正教、→Wikipedia)の国だ。第1章の冒頭は、二万名の東方教会の巡礼がエルサレムを訪れる場面から始まる。カトリックと正教会が共に管理する聖墳墓教会(→Wikipedia)では両者の諍いが絶えず、ムスリムであるオスマン帝国の総督メフメト・パシャが仲裁してるのに、思わず笑ってしまう。
カトリックと正教会の対立は、同時にそれぞれの庇護者を任じるロシアとフランスの対立につながってゆく。特に、かつての東ローマ帝国の末裔と思っているロシアは、コンスタンチノープル(現イスタンブール)を、ムスリムであるオスマン帝国から取り戻す野望を抱いている。
個人的に、この辺の説明で、何度か「おお、そうだったのか!」と目からウロコが落ちる思いをした。
まずは「八月の砲声」。「なぜロシアがバルカン諸国を己のシマと思い込んでいるのか」って疑問が残ったんだが、これで氷解した。バルカン半島は正教徒が多い。東方教会の守護者を任じるロシアが「オレのナワバリ」と思うのも、仕方がないだろう。ここでは、かのヴラド・ツェペシュ(→Wikipedia)で有名なワラキア(→Wikipedia)が出てくるのも楽しい所。
次にソ連(ロシア)がイスラエルを敵視してエジプトやシリアに肩入れする理由。これは冷戦時から欧米に対抗するって意味もあるが、エルサレムを巡る東方教会(&イスラム) vs カトリック&プロテスタント(&ユダヤ)の争いって構図でもあるわけ。
そして、ギリシアとトルコの仲が悪い理由。これも今さらで恥ずかしいんだが、この頃のギリシアはオスマン帝国の一部で、ロシアの脅威に対抗するため英仏がオスマン帝国に圧力をかけて独立させている。トルコから見れば「本来はおらが国の一部」なんだが、ギリシアから見たらトルコは元圧政者で、面白いはずがない。そりゃ仲悪いよなあ。
それに加えてカフカス情勢も今とモロに繋がってて、優れた指導者シャミーリ(→Wikipedia)がロシア軍を翻弄する場面は、現代にまで通じるゲリラ戦の基本が、この時代にも確立していたことが分かる。広いところでは戦わず、山に潜んで待ち伏せする。住民を味方につけ、神出鬼没の動きで大軍を惑わす。
こういったゲリラ戦術に対抗する方法も、既に確立してる。
ノヴォロシアおよびクリミアの総督を歴任したミハイル・ヴォロンツォフ将軍(略)はゲリラの拠点を直接攻撃する代わりに、ゲリラ基地周辺の村々と農作物を焼き払い、兵糧攻めにする戦術を採用した。ロシア軍は森を切り倒して反乱分子をあぶり出し、反乱地域に軍用道路を建設した。
白戸圭一の「ルポ 資源大陸アフリカ」にあった、ダルフールの虐殺でスーダン政府軍がやった方法と同じ、焦土作戦だ。結局、泣くのは武器を持たない庶民ってのが悲しい。
今のチェチェン問題は、この頃から火を噴いてたんだなあ。そんなわけで、英仏オスマン帝国は、彼らを支援してロシアの脇腹を突っつこうとする。敵が内部に抱える不満分子を焚き付けるのも、戦略の基本だよね。
やはり同じ頃にポーランドじゃロシアの圧政に抗する11月蜂起(→Wikipedia)なんてのがあって、ロシアに飲み込まれるポーランドからの亡命者をイギリスが受け入れてて、これまた第二次世界大戦にソックリ。
さて。バルカン半島ではロシアがモルダヴィアとワラキアをオスマン帝国から奪い、ヒタヒタと南下を目論む。スルタンは帝国の改革を望むが、保守的な宗教指導者や学生が反対する。ところが、だ。ロシアに対し強硬論を張る学生に対し、オスマン帝国政府が…
それほど戦いたければ兵士として出征する意志があるかと学生たちに質問した。学生たちが、自分たちの義務はイスラムの教えを説くことであって、戦うことではないと答えると、彼らは流刑処分となり、クレタ島に送られた。
いつだって、戦いを煽る奴ってのは、自分は前線に出ないんだよなあ。
民が先走るのはオスマン帝国ばかりじゃない。英国でも新聞が対ロシア強硬論を煽り、戦争を求め始める。ここで日に油を注ぐのが新聞なんだが、その基礎として鉄道が大きな役割りを果たしてるのが面白い。「鉄道の発展とともに全国紙が出現」したのが、世論形成の基礎になったわけ。
「世界鉄道史」とかで「鉄道が国民国家の形成に役立った」とあるけど、それはモノを運ぶだけでなく、情報も運ぶからなんだなあ。
という事で、次の記事に続きます。
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