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2015年9月 7日 (月)

グレッグ・イーガン「ゼンデギ」ハヤカワ文庫SF 山岸真訳

「わたしいたちは新しい種類の世界の入口にいるんです」ハルーンはいった。「そしてわたしたちには、その世界をきわめてすばらしいものにするチャンスがある。けれど、自分たちがいまこの時に立っている場所を忘れて、前方に持つ驚異を見つめることばかり明け暮れていたら、わたしたちはつまづいて、顔を地面にぶつけることになるでしょう。何度も何度も」

【どんな本?】

 「白熱光」で遠未来を舞台に硬派なサイエンス・フィクションでファンを圧倒したグレッグ・イーガンが、近未来を舞台に現代の先端科学の延長にある技術をテーマに、テクノロジーと倫理の問題を追及した長編SF小説。

 イスラム体制からの脱却を目指すイランを舞台に、ヒトの行動メカニズムの一部をシュミレートする人工知能技術を巡り、取材で訪れたイランに住み着いてしまうオーストラリア人ジャーナリストや、アメリカに亡命したイラン人研究者などが繰り広げる近未来のドラマを描く。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は ZENDEGI, by Greg Egan, 2010。日本語版は2015年6月25日発行。文庫本で縦一段組み本文約543頁に加え、著者あとがき2頁+訳者あとがき5頁。9ポイント41字×18行×543頁=約400,734字、400字詰め原稿用紙で約1002枚。上下二巻でもおかしくない分量。

 文章は比較的にこなれている。イーガンにしては異様なまでに読みやすい。いやあくまでも「イーガンにしては」だけど。舞台がイランのためか、二重否定を使った独特のセンスのユーモラスな台詞が多いので、そこが少しひっかかる人もいるだろう。SF的には肝心の技術「サイドローディング」が、少々ややこしいかも。あと、イスラム革命以降のイランの現代史を知っていると、楽しく読める。

【どんな話?】

 2012年。オーストラリア人のジャーナリスト、マーティンはイラン駐在が決まった。イラン市民のイスラム体制への不信と不満が高まりつつある中、監督者評議会のメンバーのスキャンダルが発覚し、公正な選挙を求める市民の声は更に大きくなってゆく。

 父親を処刑され、母と共にアメリカに亡命した研究者のナシムは、綿花鳥の雄の鳴き声を自動生成する研究をしている。綿花鳥それぞれの個体の鳴き方は違うが、どの個体も綿花鳥の声で鳴く。では、「綿花鳥の声だが、どの個体とも違う声」は、どうすれば生成できるんだろう?

【感想は?】

 イーガンの倫理感が強く出た作品。

 テーマはサイドローディングだが、その前に。舞台が近未来のイラン、というのが仕掛けとして面白い所。取材でイランを訪れただけあって、バルチスタンの不穏な情勢など政治情勢なども巧く盛り込んでいる。

 頭の1/3ぐらいは現在のイランを舞台に、イスラム体制の崩壊を取材するジャーナリストの目で描いてゆく。

 1970年代のイランはパーレビが王として君臨する親米国だった。イスラム嫌いのパーレビは欧米の文化を積極的に取り入れるが、はびこる腐敗や市民への弾圧に王とその支持者であるアメリカに対する市民の不満は高まり、1979年1月にパーレビは国を追い出されてしまう(→Wikipediaのイラン革命)。

 革命勢力は社会主義者・民族主義者そしてシーア派のイスラム主義者など多くの政治勢力による寄り合い所帯だったが、イスラム主義者の青年たちが起こしたアメリカ大使館人質事件(→Wikipedia)をきっかけにイスラム主義が大きな支持を集め、最高指導者ホメイニを頂点とする硬直したイスラム主義国家体制となる。

 現在のイランはマヤカシの民主主義で、最高指導者が指名するイスラム法学者などで構成する監督者評議会が承認した候補者だけが選挙に出られる。そのため、現在のイスラム民主主義体制に異を唱える者は、選挙に出られない仕組みだ。

 市民はもちろん、イスラム法学者にも、この仕組みを好まない人がいて、イランでは事あるごとに騒ぎになっている。中には現在の権力者たちを評して「革命を盗んだ」と言う人もいたり。

 そんなわけで、年配者は昔の開放的な時代を知っているし、インターネットで欧米の文化に触れた若者はイスラム主義に飽き飽きしている。イランはちょっと複雑な世代構成になっているわけ。

 ペルシャ湾の対岸サウジアラビアはスンニ派であり、国境を接するイラクは世俗的なバース党が支配する社会主義体制だ。シーア派によるイスラム革命の輸出を目論むイランは頭痛の種である。そのため1980年、誕生間もないイランは早速危機に陥った。アラブの盟主を目指すサダム・フセインが侵攻してきたのだ(→Wikipediaのイラン・イラク戦争)。

 近代的な装備を誇り、また米ソ両大国の支援を得た軍事大国イラクに対し、革命間もないイランは苦戦するが、革命の折に亡命した軍人も祖国の危機に帰国し従軍するなど、多くの国民が身を挺して国を守り、被害は大きく長期化はしたものの国家防衛には成功する。イランにとっては誇らしい戦争だ。

 この作品に出てくるオマールの父モーセンも、恐らくこの戦争に従軍し負傷したと思われる。病院でモーセンが順番を譲られる場面があるが、それは救国の英雄に対する市民の敬意の表れだろう。

 バジシは革命防衛隊(→Wikipedia)の民兵で、ぶっちゃけ嫌われもの。昔はともかく、今は権力と武力をカサに、強請りタカりを生業とするチンピラと市民から目されている。小金を持っていそうな家に押し入ってCDなど欧米文化の物を見つけてはイチャモンをつけ、小遣いをねだるゴロツキという位置づけ。

 などと国民からは嫌われちゃいるが、保守派にとっては大きな支持層だし、失業者を吸収するのに役立つので、イラン国内ではブイブイいわしてる困ったちゃんだ。

 そんなわけで、現代のイランの体制はシーア派の原理主義的だけど、市民の考え方は色々だったりする。一般に偶像崇拝を嫌うイスラム教だが、イランのシーア派は違って、過去の聖人を描いた絵が人気を博してる。特に人気が高いのはシーア派の初代イマームのアリー(→Wikipedia)で、これもちゃんと作中に出てくるあたり、シッカリ取材してるなあ。

 フランクな欧米人に対し、謙虚をよしとするイランを表す場面は随所にあって、日本人としてはちょっとイラン人に親しみを感じるところ。典型的なイラン人の役を割り振られるオマール一家は、昭和の日本人の印象に近かったり。偏見はあるけど、情に厚く、家族と友人を大事にする、いい人たちとして描かれる。

 ってな保守的な文化が残るイランに、人間をシュミレートする最新技術が入ってきて…

 ヒトの脳を完全にスキャンしてデジタル化し、コンピュータに「アップロード」する、なんてアイデアは最近のSFじゃ常識になった。だが、現代の技術じゃ量的にも質的にも能力が足りない。デジタル化する際のミスで情報が損なわれる例を、この作品ではLPレコードを取り込むエピソードで紹介しているが、私は某超音波声優(→Wikipedia)を思い出した。

 この作品に出てくる技術は過渡的なもので、人間の能力の一部だけをデジタル化しようとするもの。極論すると賢い初音ミクかな?ただしボーカロイドは声そのものをデジタル化しているのに対し、作品中の技術は声を出す際の脳の働きをデジタル化しましょう、というもの。肺や声帯は物理エンジンでエミュレートすればよろしい。

 タイトルのゼンデギは、その技術を用いて作った没入形オンライン・ゲームのプラットフォーム。雰囲気、ソードアート・オンライン(SAO)みたいなモンだが、SAOは一ゲームにつき世界が一つなのに対し、ゼンデギはサーバ側に様々な世界が用意してある。また、SAOは端末が家庭向けなのに対し、ゼンデギは端末をゲームセンターに置く。

 この端末が実に大掛かりで、確かに家庭には置けない大変なシロモノ。実際、没入型のゲームを作るとすると、キャラクターに伝える細かい動作や、逆にゲーム内でキャラクターが感じる感覚などをプレーヤーに伝えるには、高価で複雑な装置が必要だから、現実に没入型のゲームを市場に投入するなら、家庭用よりゲームセンターが最初になるだろうなあ。

 既に現代でも、自動的にTwitterで呟くボットは登場しているけど、アレは一方的に呟くだけ。人工無脳なんてのもあるけど、多くは限られた文脈でしか会話が成立しない。などとヒトのフリをするのは、なかなか大変。でも、ほぼ完全にヒトのフリができるシロモノが現れたら…。ダック・テスト(→Wikipedia)に曰く

ある鳥が鴨のように見え、鴨のように泳ぎ、鴨のように鳴くならば、それはたぶん鴨である。

 なら、ヒトのように振舞うソフトウェアは、ヒトとして扱うべきなんだろうか。現代は、その境地に近づきつつあるし、やがて軋轢も出てくるだろう。その軋轢が現れる舞台として、敢えて欧米とは異なる倫理感が支配的なイランにフォーカスし、人類としての解を問いかける問題作だ。

 イーガン作品にしてはとっつきやすいので、より広い人々に読まれて欲しいと思う。

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