柿崎一郎「物語 タイの歴史 微笑みの国の真実」中公新書1913
本書は、この我々にとって身近な国となった「優等生」タイの歴史を通時的に概観してみることを目的とする。(略)タイの子どもたちが学校で学ぶような「教科書的」な歴史を描写することを、本書は試みている。
――はじめに
【どんな本?】
2006年に起きた軍によるクーデターに世界は緊張したが、その映像は更に理解不能だった。穏やかな表情の市民が、やはり穏やかな表情の兵に食糧や花束を差し入れている。緊張しているのは他国だけで、肝心のタイ市民は和やかに日々を過ごしているように見える。なんじゃこりゃ。クーデターとは、もっと殺伐としたモノではないのか。
そのためか、2014年に再びクーデターが起きた時も、大きな騒ぎにはなっていない。「どうせプーミポン陛下のとりなしで落ち着くんだろう」と、妙に醒めた目で見ている。常識が通用しないが、それがタイだと世界は理解したようだ。
改めて周囲を見直すと、タイの特異さは更に光る。周辺国はみな植民地化されていた。インド・バングラデシュ・ミャンマー・マレーシア・シンガポールはイギリスに、ベトナム・ラオス・カンボジアはフランスに、インドネシアはオランダに征服されたが、タイは頑として独立を維持し、また東側にも取り込まれなかった。
タイは、どの様に成立したのか。周辺国との関係はどうなのか。植民地化の脅威を、第二次世界大戦の嵐を、そして東西冷戦の最前線にありながらどう切り抜けたのか。なぜ国王の権威が大きいのか。なぜ頻繁にクーデターが起き、かつ穏やかに収束するのか。
総括的な教科書を目指しつつも、あくまでも第三者の視点で、周辺国との関係も取り混ぜ、主に近代史・現代史を中心として描く、タイ王国の歴史。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
2007年9月25日発行。新書版でっ縦一段組み、本文約293頁に加えあとがき4頁。9ポイント41字×17行×293頁=約204,221字、400字詰め原稿用紙で約511枚。長編小説なら標準的な文庫本一冊分ぐらいの分量。
「教科書的」とあるが、文章は口語的でこなれており、読みやすい。ズブの素人を読者として想定しているので、特に前提知識は要らない。敢えてイチャモンをつければ、タイ人の名前が日本人には馴染みがなくて憶えにくい程度。ミャンマーやベトナムなど周辺国との関係が大きな影響を与えているので、地図帳か Google Map を見ながら読むと、より楽しめる。
【構成は?】
基本的に時代順に進むので、素直に頭から読もう。
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【感想は?】
手軽にタイの歴史を知るには、最適の本だろう。
タイ人は穏やかに見えるが、歴史的にはかなりの武闘派だ。キーワードはマンダラ国家。あの仏教のマンダラだが、内実は武将の争いに近い。地方の小権力のうち、力のある者が地域の中権力となり、中権力の中で強い者が王となる。王の威光は首都に近いほど強く、遠いほど弱い。
これが19世紀あたりまでのインドシナ半島・マレー半島の社会構造だ。そのため、タイ・ベトナム・クメール・マラヤの国境は、それぞれの王の威光次第で揺れ動いてゆく。別格として中国は帝国として君臨し、その下でビルマ・タイ・ベトナムが朝貢国として覇を競い、クメール(カンボジア)とラオスを獲物として奪い合う、そんな関係らしい。
朝貢により中国に独立国として認められる=国際的に独立国として認められる、という構図が、19世紀頃までの東南アジア・東アジアの国際情勢だったようだ。その中で、タイ・ビルマ・ベトナムは領土と覇権を巡って刺しつ刺されつの争いを繰り広げている。
そんなわけで、タイに対し反乱を起こしたラオスのアヌウォン王は、タイとラオスじゃ評価が正反対になる。ラオスじゃ英雄だが、タイじゃ謀反人扱い。
などと、「教科書的」と言いつつ、近隣国の視点も取り入れて、タイべったりじゃないのが、この本の特徴。
文化的には中国の影響下にありながら、西欧の植民地化を免れ独立を守り通したという点で、タイは日本と共通している。日本は地理的に島国な上に、極東にあったため色々とラッキーだったが、タイは近隣と陸続きだ。日本がアヘン戦争で危機感をつのらせたように、タイも英緬戦争(→Wikipedia)で脅威を実感している。
この後の立ち回りを見ると、タイの優れたバランス感覚がよく伝わってくる。やはり日本同様に当初は不平等条約を結ぶものの、コメの輸出で外貨を稼ぎ、お雇い外国人で国力を充実させてゆく。インド・ビルマを支配するイギリス、ベトナム・カンボジアを統べるフランスに脅かされながら、ドイツ人に鉄道を整備させる。
その過程で領土は失ったものの、当時の欧州情勢を充分に把握した見事な綱渡りだ。なお、アヘン戦争でのイギリスの腹黒さは有名だが、当時のインドシナにおけるフランスの阿漕っぷりも相当なもので、「不平等条約の治外法権を利用して、タイ国内の治安悪化を目論んだ」。
この条約では、フランス人ばかりでなく、スランス保護民も治外法権の対象となる。そこで、中国人やタイ人にも保護民資格をバラ撒いて暴れさせ、タイを修羅の国にしようとしたわけ。弱肉強食の時代だねえ。
とまれ、この騒ぎで輸送路の重要性を痛感したタイは、鉄道施設に力を入れる。鉄道は国内の経済交流を促して首都バンコクと地方の結びつきを強め、ビルマやラオスとの国境に近い地域から隣国の影響を断ち切り、中央集権国家としての体裁を整えてゆく。このあたりは、クリスティアン・ウォルマーの「世界鉄道史」そのままの経緯なのが面白い。
そしてバランスのタイ外交の本領発揮が、第一次世界大戦。
ワチラーウット王はこの戦争に参戦して戦勝国となることで、不平等条約の改正を進めようと考えた。このため、どちらかが優勢になるかを見極めた上で参戦することになり、1917年4月にアメリカが参戦するにいたって、ついに連合国側での参戦を決断した。
勝ち馬の尻に乗る作戦で、思想信条や他国への感情はかなぐり捨て、トコトン実利を追求した発想だ。歴史的にビルマやベトナムと戦争を繰り返し、殺るか殺られるかの修羅場を潜り抜けてきたタイだからできた判断なのかも。当時は絶対に近い王政で、王室も武人的で現実的な考え方が主流だったんだろう。
第二次世界大戦では大日本帝国の要求を居留守などを使ってのらくらりとかわし、親日のフリをしながら国内の抗日勢力を育んでゆく。一応は連合国に宣戦布告したものの、終戦後は布告文書の不備を理由に敗戦国扱いを免れようとする荒業、そして戦中のドサクサ紛れで獲得した領土を代償に取引するなど、外交手腕は鮮やか極まりない。
冷戦時は東側の脅威に対し「開発」で農民の赤化を防ぐなど、実に賢い統治をしている。CIAも少しはタイを見習えばいいのに。そうすれば中南米も安定した親米地域になるのに…って、関係ないか。
以後、軍から次第に文民に権力が移る…かと思えば、汚職発覚→クーデタ→暫定政権→選挙の繰り返しで、ややこしい。その影にあるのは都市と農民の格差で、タックシンは農村を優遇し格差是正を図ったが、それが都市の中流層から反発を食らった、という形みたい。
が、全般的に経済は成長を続け、今はインドシナ一番の先進国の立場にある。タイ人が穏やかなのも、その余裕と自負の表れかもしれない。実際、近隣との経済的な結びつきも強まりタイ資本がインドシナ開発の大きな牽引車になっている模様。着々と地域大国への道を歩んでいるなあ。
ここではラオスとの関係が面白かった。「ラオス語はタイの東北方言と同一であり、その東北方言はバンコクの人間からは蔑視の対象となる」ってのが、ラオス人の反感を煽るらしい。なら東北部のマスコミを育てて、独自のテレビ・ラジオ番組を作らせラオスに輸出すりゃいいじゃん…って、ダメかな?
波乱万丈のタイの歴史を物語風にわかりやすく語り、現代のタイの複雑な情勢も周辺国との関係を含め解説してくれる、タイを知るには便利な本だ。流石に2007年9月の発行だけに、タクシン失脚以降の情報はないが、複雑なタイの勢力情勢の基礎は飲み込める。タイについて大雑把に掴むには、手軽で便利な本だ。
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