デイヴィッド・レムニック「レーニンの墓 ソ連帝国最後の日々 上・下」白水社 三浦元博訳 1
サンクトペテルブルグのリベラル派市長アナトリー・サブチャックはこう書いている。「全体主義体制は国家の社会構造と市民個人の心理の両方に埋め込まれた地雷を遺す。この体性が解体の危機に瀕し、国家に真の改革の展望が開ける都度、地雷は爆発するのである」
――第4章 回帰する歴史「多くの人びとと同じように」と(レフ・)ポノマリョフは言う。「この体制を解体するためにまずすべきことは、どれほどの犠牲者がいたかを国民に知らせ、非業の死を遂げた人びとのために記念碑を建立し、公式文書を公刊すべきだという考えを根付かせることだと考えたのです。これがペレストロイカの本当の始まり。真実なのです。そして、それによってプロセスは不可逆になる。それがなければ、つまり、この体制は信用を失っていて、罪があることをだれもが認識することがなければ、締め付けはいつでも成功し得る」
――第8章 メモリアル「間もなく独裁が始まるだろう」そういう声には、幾分かのうれしさがこもっていた。「それは共産党の機関じゃない。それは本物の機関、KGBだ。彼らは経済発展に努めるだろうが、厳格な規律が導入されるだろう」
――第18章 最後の収容所
【どんな本?】
1985年のゴルバチョフ登場より、ソビエト連邦は激動の季節を迎える。彼が先導したペレストロイカやグラスノスチは、レーニン以来続いてきた共産主義への疑念を呼び覚まし、連邦内の様々な勢力が蠢動を始め、やがてソビエト連邦崩壊へと向かってゆく。
1988年から1991年までワシントン・ポストの特派員としてソ連に滞在した著者が、レーニン以来のソビエトの歴史を語りつつ、政治家やKGB職員はもとより、炭鉱労働者・収容所所長・地下新聞編集者・作家など激動の時期を生きた様々な人びとへの大量のインタビュウを交えながら、当時のソ連の状況と、ソ連崩壊へ道のりを、多角的な視点で再現する迫真のドキュメンタリー。
1994年ピュリツァー賞受賞作。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原初は Lenin's Tomb : The Last Day of the Soviet Empire, by David Remnick, 1993。日本語版は2011年2月10日発行。単行本ハードカバー縦一段組みで上下巻、本文約419頁+約374頁=約793頁に加え訳者あとがき6頁。9ポイント45字×20行×(419頁+374頁)=約713,700字、400字詰め原稿用紙で約1,785枚。文庫本の長編小説なら3~4冊分の大容量。
文章は堅い表現が多い。これは当時のソ連の人びとの言葉をそのまま伝えているために、三つの点でややこしい言い回しが多い。まず、一般に政治家はまだるっこしい言い方をする人が多い。次に共産主義体制下のため直接的な表現は難しい。最後に、ロシア人らしく思想的・哲学的な内容が多い。
ただし内要は難しくない。特に前提知識も要らない。ロシア革命(→Wikipedia)やレーニン・スターリンなどソビエト共産党の初期の歴史が本書の背景にあるが、知らなくても大きな問題はない。読んでいるうちに、なんとなく飲み込めてくる。敢えて言うと、出てくる人の名前がロシ風で憶えにくいのが難点かも。
【構成は?】
多少の前後はあるが、基本的に時系列順に進むので、素直に頭から読もう。
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【感想は?】
今は上巻を読み終えた所なので、そこまでの感想を。
上巻では、破滅に向かい巨大で疲弊した機関がギシギシと突っ走っていく姿を描いてゆく。
西側だとゴルバチョフは解放の英雄のように言われるが、この本では少し評価が違う。ゴルバチョフが望んでいたのは共産主義の再生であって、崩壊ではなかった、と。
これはレーニンとスターリンの評価とも関連している。ゴルバチョフはスターリンを批判したが、レーニンは認めていた。つまり悪いのは独裁者スターリンで、レーニンが主導した共産主義そのものは悪くない、そういう姿勢だ。だから、共産党の体質を改めればソ連は立ち直る、そう考えていたんだろう。
このスターリン批判の種を、著者はフルシチョフによるスターリン批判に求めている。フルシチョフに植え付けられた疑念が、40年後に意外な果実を実らせたのだ、と。
ロシアにおけるゴルバチョフの評判は芳しくない。ソ連帝国を崩壊させた犯人という扱いだ。だが、この本が明らかにする当時のソ連の状況を見ると、どのみちソ連の運命は決まっていたんじゃないかと思えてくる。産業や流通はマフィアが仕切っている。チンピラはミカジメ料を取り立て、ボスへ納める。そしてボスは中央の党幹部へ献金する。しかも…
ゴルバチョフには、党の腐敗に対する本物の捜査が不可能なことは分かっていた。第一に、自分が党首を務めるこの党は、それを許すぐらいなら自分を葬ってしまうだろう。
失業者はいないはずなのに、なぜかホームレスがいる。トルクメニスタンの1989年の幼児死亡率は公式発表で出生千人あたり54.2人で、カメルーンとほぼ同水準。集団農場化は持続的で伝統的な農業を破壊した。そして、シベリアの炭鉱でストライキが起きる。「主たる争点は石鹸だった」。
現地へ取材に出かけた著者は、ストに参加した人たちに会い、彼らが働く炭鉱へと潜って行く。設備は古く、炭鉱は尽きかけている。毎年、事故で数人が死ぬ。そして店にはなにもない。茶色く変色したキャベツ、腐ったトマト、脂身ばかりの豚肉、そしてウォッカ。
家に帰っても電気は停電、水道も止まっている。石炭で真っ黒になった体を洗おうにも、石鹸がない。そこで待遇改善を訴えてストライキに至った、そういう事だ。次に出てくるサハリン(樺太)の炭鉱でも著者は坑道に潜るが、ここでは労働者が作業場に辿りつくまで二時間もかかる。「設備が貧弱で、旧式で、(略)正常な経済の下では決して利益を生まないのである」。
同じサハリンで出会った漁師に、著者は暖かい歓迎を受ける。「山盛りの蒸した毛ガニ、光沢のあるイクラをつけた焼きたてのパン」。だが港では大量のサケが白い腹を見せて腐ってゆく。中央からの指示がないので、どこにも運べないのである。日本に運べば大金になるだろうに。
そんな中、静かに立ち上がる人たちの代表が、「メモリアル」。スターリンの粛清で亡くなった人たちの名を明らかにし、記録に留めようとする人びとだ。特にディーマことドミトリー・ユラソフの行動は独特だ。
1964年生まれのディーマ君、独学で読み初めた「ソビエト大百科事典」で奇妙な点に気がつく。これにはフルシチョフによる雪解けの残滓があった。そこで1937年~1940年に死んだ将軍・政治家・芸術家の名前を書き出し、カードを作る。やがて彼は秘密文書に触れられる職につき、カードは数十万枚に膨れ上がってゆく。
これが「メモリアル」運動の重要なコアとなり、家族や親戚を失った人々を惹きつけ…
当然、改革に逆らう人もいる。党の保守派や収容所所長など、甘い汁を吸っている者なら、気持ちはわかる。だが、市井の人でも、熱狂的なスターリン主義者がいるのだ。
その代表が、50代の女性キーラ・コルニエンコワ。薄暗いアパート住まいで独身。「粛清期に肉親の二人が収容所送りになった」が、熱心なスターリンのファン。がしかし、彼女は主張する。「私は秩序を愛する人間です。真の秩序、鉄の手とか、そういった手に賛成」。
こういう人を、どう解釈すればいいんだろう?かつて熱狂的な共産主義者だった自分の間違いを認めたくない、というヒネた見方もある。
でも、彼女にそういう後ろ向きな印象はない。「記録映画では人びとが活き活きしていた」と共産党の宣伝を真に受けている部分もあるが、それ以上に、性格的に全体主義的な世界が好きなんじゃないか、とも思う。そういう人は、どんな国にも一定数いるのだ。いやジョナサン・ハイトの「社会はなぜ左と右にわかれるのか」の受け売りなんだけど。
他にもポグロムを再燃させようとする者たち、それを恐れイスラエルへ向かうユダヤ人たち、慎重に進めようとするゴルバチョフと、それにイラつく急進派のエリツィン、「被占領国です」と自らの屈辱的な歴史を受け入れ独立を志向するバルト三国の市民たち、怪しげな心霊術師などを織り交ぜ、上巻は軋むソ連の姿を描き出してゆく。
そして下巻では、遂に崩壊の時と向かえる…んじゃないかな。
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