P・ルクーター/J・バーレサン「スパイス、爆薬、医療品 世界を変えた17の化学物質」中央公論新社 小林力訳
酸化というのは、分子に酸素原子が加わるか、水素原子が引き抜かれるか、あるいは両方おきることを意味する。この反対は還元という。分子から酸素原子が取り除かれるか、水素原子が加わるか、あるいは両方起こる。
――二章 アスコルビン酸 オーストラリアがポルトガル語にならなかったわけ1856年、パーキンがモーブを合成した年、イギリスにおける平均寿命は約45歳だった。この数字は19世紀を通じてほとんど変わらない。1900年のアメリカでは、ほんのわずかに延びて、男性で46歳、女性で48歳だった。しかいs一世紀経つと、これらの数字は男性72歳、女性79歳に跳ね上がる。
――十章 医学の革命 アスピリン、サルファ剤、ペニシリン
【どんな本?】
インドのスパイスは大航海時代をもたらした。だがビタミンCの不足による壊血病が長期間の航海を阻んだ。グルコースの甘さは奴隷貿易を生み、奴隷制はグルコースのポリマー(重合体)セルロースを作る綿花栽培を栄えさせ、普及した綿布は綿火薬ニトロセルロース発見のきっかけとなり…
我々の生活を支える様々な化合物には、どんなものがあるのか。それらはどのように発見され、どんな構造をしてどんな性質がありどう取引され、社会や歴史にどんな影響を及ぼしたのか。様々な分子が歴史に及ぼした影響を語りつつ、亀の甲の読み方も少しだけ理解できる、一般向けの歴史と化学の解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Napoleons Bottons, by Penny Le Couteur & Jay Burreson, 2003。日本語版は2011年11月25日初版発行。単行本ハートカバー縦一段組みで本文約359頁に加え訳者あとがき4頁。9ポイント46字×20行×359頁=約330,280字、400字詰め原稿用紙で約826枚。文庫本の長編小説なら少し長めの分量。
文章はこなれている。分子式や構造式も多数出てくるが、よく分からなかったら読み飛ばしても構わない。歴史・化学ともに中学校卒業程度の知識があれば充分に楽しめる。
【構成は?】
各章は穏やかに関係しているが、気になる所だけを拾い読みしても楽しめる。ただし序章だけは最初に読んだ方がいい。構造式の読み方のキモを分かりやすく説明している。
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【感想は?】
化学実験器具を買い込みたくなる危険な本。
化学と歴史の本だ。だから両方の面白さがある。化学については初歩的なものが多いので、詳しい人には退屈かもしれない。幸い?私は化学がまるでダメなので、とても楽しく読めた。
例えばセルロース;。植物繊維の一種で、食物繊維の主成分だ。つまりは繊維で、糸や布や紙になるシロモノである。これが「グルコース(ブドウ糖)のポリマー(重合体)」ってのに驚いた。あの甘い砂糖と似たシロモノなのだ。しかも、デンプンなど多糖類もグルコースのポリマーで、化学式で見るとセルロースと変わらない。
何が違うかというと、中のOH(酸素&水素)と炭素とのつながり方が違うだけ。その違いだけで、ヒトはデンプンを消化でき、セルロースは消化できない。世の中には沢山の草や木があるのに、食べても栄養にならない。なんとも不思議な話だ。
植物繊維の代表セルロースに対し、動物の繊維の代表は絹だろう。この本には微量の物質を得るために大量の原料を使う話が何度もでてくるが、絹の項ではなぜ高いのか嫌でも実感できる。
(カイコの)卵1gから、幼虫(芋虫)が千匹以上生まれ、これらは全部で36kgの桑の葉をむさぼり食い、約200gの絹糸を生産する。
200gの絹糸を作るのに、36kgもの桑の葉が必要とは知らなかった。その後も糸を撚って布に織るわけで、一枚の絹糸を作るのにどれだけの手間がかかっていることやら。
ニワカ軍ヲタとしても、楽しい話が拾えた。例えばゴムの話だ。太平洋戦争の初期、日本は東南アジアを席巻する。これは大きな戦果だった。なぜって、「1932年には、東南アジアのプランテーションが世界のゴム生産の98%を占め」ていたからだ。ゴムがなければタイヤもゴム栓も作れない。おお、チャンスじゃん。
と思ったが、さすがアメリカ。ルーズベルト大統領は特別委員会を作り、解決策を探る。「アメリカの化学工業は戦時動員され」1941年に8千トンだったアメリカの合成ゴム生産が、1945年には80万トンを超える。とんでもねえ化学力・工業力だ。対して日本の戦略物質管理はというと、大井篤の「海上護衛戦」を読むと悲しくなります。
意外な研究が意外なモノにつながるのも、化学の面白いところ。染料の研究が抗生物質サルファ剤の開発につながっている。主役は医師パウル・エールリッヒ(→Wikipedia)。染料をバネに化学工業が発達した時代のドイツの人だ。彼のヒラメキが凄い。
様々なコールタール染料が、ある組織や微生物を染める一方、ある組織・微生物は染めないことに気が付いた。もし、ある染料が、ある微生物に吸着し、他の微生物に吸着しないなら、この差は、有毒な毒素を使えば、それが結合する組織を殺し、染めない組織には害がない(略)。宿主に害を与えず、病原微生物だけ退治する…
今となっては当たり前のアイデアだが、当時としては画期的な発想だった。にしても、アイデアを染料から得たって所には感動する。かくして、「特定の病原菌だけを攻撃する薬」という発想が生まれ、医療を大きく進歩させ、人類の平均寿命を延ばしてゆく。
最近になって生態系の多様性の大切さが盛んに喧伝されているが、単に「大事だよ」ってだけじゃ、どうにも納得できない。が、それが納得できたのも、この本。
多くの薬剤は、植物からできる。なぜか。植物は動けない。だから動物から逃げられない。そこで身を守るために、化学物質を使う。カフェインもその一つだ。だから、植物のアルカロイドを調べれば、「天然の抗カビ剤であり殺虫剤・殺菌剤」が見つかるのだ。
ケッタイな亀の甲の読み方が少しだけ分かった気になれる上に、大小さまざまな歴史上のエピソードも盛りだくさん。私としては、我々の生活がどれほど多くの化学技術と全世界的な貿易に支えられているかを実感できたのが嬉しかった。特に化学式を見ると頭痛がするタイプにお勧めの、楽しい化学の本。
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