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2015年7月17日 (金)

ローラン・ビネ「HHhH プラハ、1942年」東京創元社 高橋啓訳

 なるほど、彼はヒムラーと冷酷無残なカップルを演じるうえで、その頭脳として認められてはいるものの(親衛隊の中では<HHhH>で通っていた。すなわち Himmlers Hirn heißt Heydrich――ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる、という意味)、あくまでもその右腕であり、部下であり、ナンバー・ツーだった。

【どんな本?】

 フランスの新人作家ローランビネのデビュー作。1942年、ナチスの支配下にあったチェコで、事実上チェコの独裁者であったナチスの高官ラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件を主題に、その実行者ヨゼフ・ガブチークとヤン・クビシュそしてハイドリヒの三者と、彼らを歴史の中から呼び覚ます著者を描いた長編小説。

 2010年度ゴンクール賞最優秀新人賞・2011年度リーヴル・ド・ポッシュ読者大賞のほか、日本でも第4回2013年Twitter文学賞に輝き、既に映画化も決まっている(→映画.com)

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は HHhH, by Laurent binet, 2009。日本語版は2013年6月28日初版。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約377頁に加え、訳者あとがき10頁。9ポイント44字×20行×377頁=約331,760字、400字詰め原稿用紙で約830枚。文庫本なら厚い一冊か薄い上下巻か悩むところ。

 純文学だが、文章は比較的にこなれている。第二次世界大戦中のチェコを舞台にした作品だが、当時の政治的事情は親切丁寧に書き込んであるので、特に前提知識は要らない。舞台となるチェコスロヴァキアの地理がわかると迫力が増すので、できれば地図帳か Google Map で確認しておくといい。

 また、登場人物が少々ややこしいのだが、登場人物一覧をつけるかどうかが難しい問題で…

【どんな話?】

 1942年5月27日。ナチス支配下のチェコで、事実上の独裁者として君臨していたナチスの高官ラインハルト・ハイドリヒ(→Wikipedia)が暗殺される。ハイドリヒはユダヤ人大量虐殺の首謀者であり、ピーランド侵攻のきっかけとなったグライヴィッツ事件(→Wikipedia)の仕掛け人であり、トゥハチェフスキー(→Wikipedia)の裏切りの証拠捏造工作も主導した。

 ハイドリヒとはいかなる人物か。彼を暗殺したヨゼフ・ガブチークとヤン・クビシュは、どんな男だったのか。事件を再現しようとする著者は、多くの一次資料や同じ題材を扱った小説・映画を集めるのだが…

【感想は?】

 主題のハイドリヒ暗殺そのものは、とてもに面白い。ドキュメンタリーを目指して書いたのなら、文句なしに傑作だと思う。

 ただ、この作品は、そういうお話ではないのが悩ましい。過剰に「小説であること」を意識して書いている。史実でのハイドリヒ暗殺事件を追うとともに、それを追いかける著者自身が頻繁に文中に顔を出し、「どう書くか」を語りだすのだから。

リアルな効果を狙う子供っぽい配慮から、もしくは最善の場合、ごく単純に便宜上であっても、架空の人物に架空の名前をつけるほど俗っぽいことがあるだろうか?

 と、最初の頁からいきなりコレだ。その後も事件現場のプラハに行ったり、意外な所で意外な資料を掘り出したり、書いた文章をガールフレンドに酷評されたりと、「今、作品を書いている著者」がアチコチに顔を出し、小説作法について語り始める。

 歴史上の事件に題材をとった小説で著者が顔を出すのは、司馬遼太郎がよくやっている。取材で現地を訪れた際のエピソードを混ぜる場合が多く、時の流れと舞台の雰囲気を感じさせる効果がある。書き方に悩むのは筒井康隆が使っている。漫画家だと吾妻ひでおが「もうなんも思いつかん」と←それはちょっと

 いずれもアクセントとしてワンポイントで使うのに対し、この作品では著者の一人称が半分ぐらいを占めるのが破格だ。これをどう感じるかが、評価の分かれ目。

 正直言って、私は「普通にドキュメンタリーとして書いて欲しかったなあ」と思う。

 繰り返すが、主題のハイドリヒ暗殺事件を描く部分は、文句なしに面白い。海軍士官としては挫折しながらも、親衛隊に入隊し、優れた能力と強烈な野心でのし上がってゆく。ライヴィッツ事件にしてもトゥハチェフスキーの証拠捏造にしても、陰謀家としての才覚には背筋が寒くなる。ペテン師が権力を握ったら、なんだってできてしまう。

 ペテン・いいがかりそして脅しと軍事力を駆使し、ヨーロッパを席巻するナチス。それに対しズルズルと譲歩を余儀なくされるフランスとイギリス。両大国の贄として東ヨーロッパはドイツに飲み込まれてゆく。悪党に譲る事がどういう結果を招くか、嫌というほど実感できる部分だ。

 そのナチスに生贄として差し出されたチェコスロヴァキアから、ナチスに一矢報いようと戦いを挑む二人の戦士。スロヴァキア人のヨゼフ・ガブチークとチェコ人のヤン・クビシュ。フランスの外人部隊としてドイツと戦い、フランスが占領された後はイギリスに亡命して出番を待っていた二人は、自殺的な空挺作戦に身を投じ…

 ジャック・ヒギンズなら緊迫感満点の冒険小説にするだろうし、ラリー・コリンズ&ドミニク・ラピエールなら緻密なモザイクを組み上げるだろう。この作品でも、終盤の展開はド迫力で、著者がその気になって娯楽小説またはドキュメンタリーを書けば、優れた作品を書ける事を実証している。

 が、著者はいずれの道もとらず、あくまで純文学の小説家として、事件を文章で再現する方法論にこだわり、その悩みをつらつらと書き綴る。

 この作品のために大量の資料を集め、取材もして、優れたドキュメンタリーを書けるだけの細かいエピソードも用意しておきながら、作品を「純文学」として成立させるために、著者は細部を惜しげもなく切り捨ててしまう。登場人物一覧がないのも、恐らくは編集の手抜きではない。ワザと、人物をややこしくしているのだ。

 ハイドリヒ襲撃後の顛末も、なかなかにショッキングだ。犯人を狩る親衛隊の行動は、ガキの八つ当たりそのもの。ただしこのガキは入念に武装しているからタチが悪い。終盤、教会での攻防は、ナチスの馬鹿さ加減が存分に発揮され呆れるばかりだ。ここの描写だけでも、著者が優れた書き手なのがよくわかる。

 面白い題材に入念な調査と優れた描写力を発揮しながら、敢えて「小説」を強く意識することで、ありがちなドキュメンタリーとする事を拒否した挑発的な作品で、龍應台の「台湾海峡1949 大江大海1949」の正反対に位置する作品。小説派とドキュメンタリー派で評価が分かれると思う。私はドキュメンタリー派です、はい。

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