ディーン・ブオノマーノ「バグる脳 脳はけっこう頭が悪い」河出書房新社 柴田裕之訳
脳は感覚器官を通して外界からデータを獲得し、それを分析・貯蔵・処理し、私たちの生存と繁殖の機会を最適化する出力(つまり動作や行動)を生み出すように設計されている。だが、ほかのどんな計算装置とも同じで、脳にもバグがつきものだ。
――はじめに 脳は今日もバグってる
【どんな本?】
楽しい時間は速く過ぎ、苦しい時間はなかなか終わらない。同じ料理でも、綺麗な食器によそうと美味しくなる気がする。医薬品では、偽薬効果を取り除くため二重盲検査が必要だ。どうやらヒトの脳は、理屈通りには動いていないらしい。
この理屈どおりに動かない傾向を、この本ではバグと呼ぶ。脳のバグは我々の生活の中で不具合を引き起こすだけでなく、コマーシャルに釣られて無駄な出費を招き、更には狡猾な政治家に利用され国家の命運すら脅かしてしまう。
心理学教授の著者が、有名な論文や最近の脳科学を元に、ヒトの脳が持つ奇妙な性質を取り上げ、それがもたらす不合理な行動や困った事態の例を挙げ、それを防ぐ対策を示すと共に、バグを利用する広告や政治家の手口を暴く、楽しくて親しみやすく、少しだけ役に立つ一般向けの科学解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Brain Bugs : How the Brain's Flaws Shape Our Lives, by Dean Buonomano, 2011。日本語版は2012年12月30日初版発行。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約262頁。9ポイント46字×20行×262頁=約241,040字、400字詰め原稿用紙で約603枚。長編小説なら文庫本一冊分ぐらいの長さ。
文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。一部に脳の部位の名前が出てくる程度だが、分からなくても大きな問題はない。ただし、分量の割には見通すのに時間がかかる。というのも、アチコチにちょっとした確率問題や心理テストが入っていて、つい真面目に考え込んでしまうためだ。
【構成は?】
各章のつながりは穏やかなので、興味のある所だけを拾い読みしてもいいだろう。
|
|
【感想は?】
まずはこちらのデモ動画を見て欲しい。
彼女は、何と言っているんだろう? 私には、「ガガ」と聞こえるが、「ダダ」と聞こえる人も多いだろう。次に、目を閉じて聞いてみよう。「ババ」と聞こえるんじゃないだろうか。
この映像、実はインチキなのだ。実は「ガガ」と言っている動画に、「ババ」という音を被せている。ヒトは言葉を判断する時、口の形と音の両方を判断材料に使っているらしい。そのため、オツムが混乱して変な声に聞こえるのだ。視覚と聴覚は、密接に連携しているらしい。音楽を集中して聴く時に目を瞑る人がいるが、あれは理に適っているわけだ。
これはワザと騙すケースだが、つい騙される場合もある。著者はサッカーが好きらしく、オフサイド判定の例を挙げている。なんと、「オフサイドの判定は最大で25%が間違って下される」という研究結果がある。この原因は三つだ。
- 人が視線を写すには100ミリ秒かかる。
- 二つの出来事が同時に起こったら、自分が注視している方が先に起こったと判断しがち。
- フラッシング効果:動いている物を見ている時に別の事が起きたら、動く物を実際の位置より先にあると思い込みがち。
なら相撲の判定で物言いがつくのも、仕方がない事なんだろう。
こういう、脳ミソが何かに引っぱられる傾向は、数字が絡むとハッキリでてくる。ちょっとした算数の問題だ。オモチャのバットとボールがある。合計で1ドル1セント。バットはボールより1ドル高い。バットは幾ら?
思わず「1ドル」と答えたくなってしまう。問題の文章中に「1ドル」という言葉が出てくるので、それに引きずられてしまうわけだ。落ち着いて考えれば、バット=1ドル5セント、ボール=5セントと正解が出せるんだが。
この程度ならたいしたことはないが、これが広告業界や政治家に利用されるとオオゴトだ。「第7章 広告にすっかりだまされる」では、ダイヤモンドのデビアスの成功例を挙げている。が、そんなモノは可愛い方だ。民主主義体制化の選挙運動なんて広告活動そのものだ。この章はアドルフ・ヒトラーの「わが闘争」の引用で始まる。
一般大衆の受容力は極度に限られており、その知性は微々たるものでありながら、忘却の力は計り知れない。こうした事実に鑑みれば、効果的なプロパガンダはすべて、ごく小数の要点に絞り込み、それをスローガンの形で繰り返さなければならない――そのスローガンで理解させたいことを、大衆が一人残らず理解するまでは。
選挙運動の宣伝カーが、短く単純なキャッチフレーズを繰り返すのには、ちゃんと根拠があるわけ。
ちなみに「わが闘争」、思想書としてはともかく、広告の教科書およびプロパガンダを見破るガイドブックとしては優た本で、当事のドイツ国民があれをちゃんと読んでいたら、ナチスの躍進は難しかったはず。先の引用みたく、思いっきり有権者をナメた文章がアチコチにある上に、自分たちが使ってる手口を潔くバラしてるから。
まあいい。いずれにせよ、彼は巧みな広告手法で当事のドイツ国民の支持を得て、その結果としてヨーロッパは廃墟になったわけで、脳のバグがどんな結果を引き起こすかの歴史的な実証結果なんだけど、今でも似たような手口が堂々と使われているから無知は怖い。
この本の内容からは外れるけど、私が気づいた例を一つ。ガザからの写真は、「泣いている子供」を写した物が多い。中には女性キャスターが泣いた赤ん坊を抱っこしたまま中継しているのもある。これは明らかに心理効果を狙ったものだ。
ヒトは子供、特に泣いている子供の画像に敏感だ。泣く子を見ると、自然に「うわ可哀相」と感じる生き物なのだ。だから、ワザと泣く子を写真に入れるのである。キャスターに泣いた赤ん坊を抱っこさせてまで。
こういった広告は、恐怖を煽ると更に効果が大きくなる。意図的な広告ではないにせよ、ヒトは危険を合理的に判断しない。テロや犯罪の被害を、極端に大きく感じるのである。この本ではアメリカの例で、1995年~2005年の数字を比べてる。曰くテロで亡くなったのは3200人、心臓病では600万人だ。では、その対策予算はどうか。
2007年のアメリカの軍事支出は7000億ドル以上、心臓病の研究と治療のための連邦政府の助成金は約20億ドル。
国防費全体と心臓病対策費を比べるのは少々無茶な気もするが、ヒトは他のヒトから加えられる被害にはやたらと敏感なのだ。日本では、幼児が被害に合う犯罪があると、やたらマスコミが大騒ぎする。が、年間の被害者数が二桁に達する事は滅多にない。対して自殺と交通事故は恒常的に三桁を越えている。こっちの方が、よほど大事だと思うんだが。
なぜヒトの脳はこんなに不合理なのか、という原因については、「だってヒトは文明世界の中で進化したワケじゃないし」と、それなりに納得できる説ではあるが、こればっかりは実験で確かめるわけにもいかないしなあ。
脳医学・心理学に少し確率・統計を混ぜながら、ヒトが犯しやすい勘違いを挙げてゆき、脳の不具合が引き起こす悲劇まで話を広げてゆく。会話の中でのちょっとした心理トリックのネタに使ってもいいし、巧く料理すれば壮大なSFのネタにもなる。この手の本の中ではとっつきやすさは抜群なので、最初の一冊としてはお勧めの本だろう。
【関連記事】
- オリヴァー・サックス「音楽嗜好症 脳神経科医と音楽に憑かれた人々」ハヤカワ文庫NF 大田直子訳
- アンドリュー・ソロモン「真昼の悪魔 うつの解剖学 上・下」原書房 堤理華訳
- ブライアン・クリスチャン「機械より人間らしくなれるか? AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる」草思社 吉田晋治訳
- スコット・フィッシュマン「心と体の『痛み学』 現代疼痛医学はここまで治す」原書房 橋本須美子訳
- スタニスラス・ドゥアンヌ「数覚とは何か? 心が数を創り、操る仕組み」早川書房 長谷川眞理子・小林哲生訳
- ロバート・A・バートン「確信する脳 [知っている]とはどういうことか」河出書房新社 岩坂彰訳
- 書評一覧:科学/技術
| 固定リンク
「書評:科学/技術」カテゴリの記事
- ライアン・ノース「科学でかなえる世界征服」早川書房 吉田三知代訳(2024.09.08)
- ニック・エンフィールド「会話の科学 あなたはなぜ『え?』と言ってしまうのか」文芸春秋 夏目大訳(2024.09.03)
- アダム・クチャルスキー「感染の法則 ウイルス伝染から金融危機、ネットミームの拡散まで」草思社 日向やよい訳(2024.08.06)
- ランドール・マンロー「もっとホワット・イフ? 地球の1日が1秒になったらどうなるか」早川書房 吉田三知代訳(2024.06.06)
コメント