トバイアス・S・バッケル「クリスタル・レイン」ハヤカワ文庫SF 金子浩訳
「わたしたちの先祖は偉大な存在だったが転落した。わたしたちがはっきり知っているのはそれだけだ。テオトル、わたしの同胞、あなたの同胞、それにテオトルの不倶戴天の敵ロアが争いあっているせいで、なにもかもめちゃくちゃになっているんだ。そしてあなたとわたしは、ジョン、そんな大昔からの嵐のひとしずくにすぎないんだ」
【どんな本?】
カリブ海の島国グラナダ出身という異色の経歴を持つ作家の長編デビュー作。舞台は遠未来。300年前の事件で孤立し、19世紀のレベルに文明が退行してしまった惑星ナナガダ。ここに残された人類は、急峻なウィキッドハイ山脈に遮られ、二つの陣営に分かれて争いあっていたが…
ドレッドヘア・スティールパン・鉤のついた義手などカリブ海の文化・風俗と、中米のアステカ文明をブチ込んで煮込んだ、異色の冒険SF長編。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は CRYSTAL RAIN, by Tobias S. Buchell, 2006。日本語版は2009年10月15日発行。文庫本縦一段組みで本文約569頁に加え訳者あとがき6頁。9ポイント41字×18行×569頁=約419,922字、400字詰め原稿用紙で約1,050枚。上下巻でもいいぐらいの分量。
文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。多少、設定でSF的にややこしい部分はあるが、裏表紙の作品紹介と巻末の解説を読めば重要な所はわかる。
それより作品を味わう上で鍵となるのは、ドレッドヘアに代表されるカリブの風俗と、敵役として登場するアステカ(→Wikipedia)文明だろう。細かい事は知らなくても、スティールパンの音(→Youtube)を聞いて、「あ、そんな感じね」と分かれば充分。
【どんな話?】
惑星ナナガダ。過去の事故で文明は失われ、今は蒸気機関のレベルに退行している。20年前に北の航海を成し遂げ、片腕を失ったジョン・デブルンは、ウィキッドハイ山脈のふもとの海辺の町で妻シャンタと息子ジェロームに囲まれ、漁師として生活していた。
ナナガダ軍の精鋭マングース隊は、ウィキッドハイ山脈の唯一の通り道マフォリー峠へ向かっていた。ときどき、山脈の向うからアステカ人が攻めてくる。森の中で捉えたアステカ人オアシクトルが、物騒な事を言い出した。「マフォリー峠が攻撃されている、アステカはトンネルを掘り大部隊で侵略を始めた」と。
【感想は?】
ある意味、王道の冒険SF小説。
SFと言っても、科学的に難しい仕掛けはほとんどない。どころか、あまり真面目に突っ込むとマズそうな所もある。むしろ大事なのは冒険物語としての側面なので、野暮な事は言わないようにしよう。
舞台は惑星ナナガダ。かつて人類は恒星間航行もしていたらしいのだが、大きな事件があって今は孤立し、文明は19世紀レベルに後退してしまった。住民は様々な民族が混在していて、大きな軋轢はない模様…一つの大きな対立を除いて。中でも中心を占めるのはカリブ系で、文化・風俗もカリブ系が主流を占めている。
問題の対立は、ウィキッドハイ山脈の東と西。東側は半島で、先端にある都市キャピトルシティを中心に多数の集落が海岸沿いに点在している。特に都市間の対立もなく、一つの国として平和にまとまっている。気候は地球の赤道付近に近いようで、半島の中心部は密林が占めているらしい。
怖いのが山脈の西側。こちらは地球のメキシコにあったアステカのような社会で、神官が治めている。アステカといえばヒトの心臓を神に捧げる血生臭い儀式が有名で、この物語でも同じ風習が何度も強調され、恐怖を盛り上げてゆく。
地球のアステカの神は多神教だった。ナナガダのアステカにも神がいる。これが、なんと、本当に神が実在するのが、この物語の背景事情として重要な要素となっている。
全般を通し最もスポットを浴びるのは、主人公のジョン・デブルン。記憶を失い、浜に打ち上げられた男。かつて北への探索航海に出かけ、片腕を失いながらも生還し、英雄となった男。彼が失った記憶が、この小説を引っぱるキーとなる。
お話は、アステカの大軍が、不可能と思われていたウィキッドハイ山脈越えを実現させた所から始まる。今は海沿いの町ブルングスタンで漁師として生活していたジョン。アステカの神の目的の一つは、彼が失った記憶だった。
アステカとの戦いは、グレナダ侵攻(→Wikipedia)をモデルとしているらしい。私はその辺に疎いのと、不可能と思われた山脈越えを実現したアステカ軍は、朝鮮戦争での中国の人民解放軍を思い浮かべた。だって補給無視だし、兵の命を使い捨てにする人海戦術だし、戦況も…
文明が19世紀レベルなためか、エンジンは蒸気機関だし、銃器も単発らしい。ところが奇妙な事に、表紙には飛行船が描いてある。技術的にはアンバランスだが、いいじゃないですか、だって飛行船はカッコいいし。けどあまり活躍しないんだよなあ。
物語は、怒涛のように押し寄せるアステカ軍と、彼らを押しとどめようとするナナガダの血生臭い戦いを中心に描かれる。半島全域に薄く広がって守ろうとするマングース隊は、大群で押してくるアステカ軍に押され、次第に後退してゆく。このあたりも、朝鮮半島北部でのマッカーサーの苦戦を思い浮かべたり。
むしろガジェットとして活躍するのは、終盤に出てくるラ・レヴァンチェ号。北方の海へ向かうための蒸気船だが、意外な秘密兵器も積んでいて。この秘密兵器がお出ましする場面は、なかなかの迫力。いやあ、普通考えないでしょ、蒸気機関の○○なんて。
それと、贅沢を言うと、投槍器アトラトル(→Wikipedia)が活躍する場面が欲しかったなあ。
登場人物として印象的なのは、謎の男ペッパー。明らかに人間を越えた身体能力を持ち、デブルンに近づこうとする男。ドレッドヘアーに山高帽とトレンチコートという気取ったいでたちで、他の登場人物のいずれとも異なる目的で動いている、物騒だが頼りにもなる男。
読み終えて舞台の構造が見えてから改めてグレナダ侵攻を調べると、実は皮肉な影響を与えているのが見えてきて、これが相当に苦い。
が、そういう小難しい事を考えなければ、謎とアクションと陰謀が絡み合う、危機また危機の冒険アクション小説として楽しめる。凶暴で強大な侵略軍に対し、一発逆転の奥の手を求め男達が暴れる、血生臭く緊迫した場面が続く、娯楽SF小説だ。
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