ダニエル・T・マックス「眠れない一族 食人の痕跡と殺人タンパクの謎」紀伊國屋書店 柴田裕之訳
これはプリオン病についての本だ。それがどんな病気か、何が原因か、だれが罹るか、どうすれば治療の可能性があるか、現在の知見はどうやって得られたのか、ということを取り上げる。
――序章
【どんな本?】
イタリアのある一族は、遺伝的な病気を伝えている。発病は中年期以降だ。首から上がこわばり、瞳孔が極端に収縮する。やがて震えがきて、多量に汗をかく。やがて眠れなくなり、不自然に活発になるが、疲れは取れぬまま。そして錯乱して動けなくなり、死に至る。この病気はFFI(致死性家族性不眠症)と名づけられた。
1772年、イギリスのハンティントンシャー州の聖職者トマス・コンバーは不穏な話を聞く。羊に妙な病気が流行っている。猛烈なかゆみを感じているようで、尻や頭のてっぺんをたえずどこかにこすりつける。やがて羊はふらつき転び、倒れて死ぬ。やがてこの病気スクレイピー(→Wikipedia)はイングランドを席巻し、19世紀にはスコットランドにまで及ぶ。
第一次世界大戦の戦勝国オーストラリアは、1918年にニューギニア島の東半分を委任統治領として得る。1947年、巡察官は内陸部でフォレ族と出会う。自給自足生活の彼らは、巡察官を歓迎した。だが暫くすると、妙なことに気がつく。未婚の男が不自然に多い。原因が分かったのは1950年代。女と子供に、奇妙な病気が流行っていたのだ。
1970年代後半から、イギリスでは異変が始まっていた。おとなしい乳牛が人をけり、ふらつき、つまずき、震え、転び、倒れて死んでゆく。スタガーズと名づけられた牛の病気も、次第に拡大し…
FFI、スクレイピー、クールー病、狂牛病。奇妙な症状を示すこれらの病気は、すべてプリオン(→Wikipedia)、すなわち変異したタンパク質が関係していた。
プリオンとは何か。それはどう感染し、どうやって作用し、どんな症状をひき起こすのか。なぜ発見が遅れ、なぜ治療が難しいのか。プリオンが原因なのに、なぜFFIやBSEなど異なった症状があるのか。そして、いつ、誰が、どのようにして原因を特定し、発表したのか。
話題の狂牛病を含むプリオン病の歴史を辿りながら、それを追う研究者たちの奮闘と、病気に振り回され立ち向かう人々の姿を描く、ミステリ仕立ての科学ドキュメンタリー。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Family That Couldn't Sleep - A Medical Mystery, by Daniel T. Max, 2006。日本語版は2007年12月22日第1刷発行。私が読んだのは2008年2月15日発行の第3刷。売れたんだなあ。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約312頁。9ポイント48字×18行×312頁=約269,568字、400字詰め原稿用紙で約674枚。長編小説なら少し長めの分量。
文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。実は難しい話もアチコチに出て来るんだが、大半は判らなくても問題なく楽しめる。「なんか専門的な事が書いてあるな」ぐらいに思っておこう。
抑えるべきは、難しい名前の病気二つ。一つはFFI(致死性家族性不眠症、→Wikipedia)で、これは本書全体を通し少しずつ分かる仕掛けになっている。もう一つはBSE(狂牛病、→Wikipedia)で、「昔騒ぎになった牛肉に関係してるアレ」程度に知っていれば充分。
贅沢を言うと、遺伝子座のホモ接合(→Wikipedia)とヘテロ接合の違い、アルツハイマー症(→Wikipedia)、タンパク質(→Wikipedia)を知っていると更にいい。
全般的に、中学校卒業程度の理科の知識があれば充分に読みこなせる。狂牛病騒ぎを知っていれば更によし。
【構成は?】
ミステリ仕掛けで話が展開するので、素直に頭から読むと楽しみが増す。
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【感想は?】
ミステリ仕立ての構成が巧みで、面白さを盛り上げると同時に、原因を調べる科学者たちの奮闘が伝わってくる。
ミステリとして見ると、最初から犯人はわかっている。プリオンだ。この本の面白さはフーダニットでもハウダニットでもない…というか、実は発症の仕組みは最後までハッキリしない。面白いのは、犯人を突き止めようとする多数の捜査陣が、少しずつ証拠を集めて犯人像に迫ってゆく追跡劇にある。
全体は、幾つかの縦糸から成る。最初に登場するのは、イタリアの一族だ。遺伝的な疾病を抱えていて、因子を持つ者は50歳代ぐらいで発症する。書名にもなっている、「眠れない一族」だ。眠れなくなるというのが、私には肌身に迫って恐ろしく感じる。
分かっている限りで最も古い記録は、1765年に亡くなった男。彼の症状も恐ろしいが、原因不明の奇病に苦しむ彼に対し、医師が施す治療も怖い。なんたって18世紀である。感染症の原因を見つけたコッホ(→Wikipedia)より前の時代だ。医師に自信はあっても、近代の科学的な知識はない。アーサー・ヤングの言葉が真に迫る場面だ。
「良き医師と悪しき医師のあいだには天地の隔たりがあるが、良き医師と医師の不在のあいだにはほとんど差がないというのはだれの言葉だったか?」
それでも医師って職業は成立し、洋の東西を問わず尊敬されていたのだから不思議だ。
続く縦糸は、18世紀イギリスで家畜の品種改良に貢献したロバート・ベイクウェルから始まり、羊のスクレイピーへと続く。ベイクウェルの手法は近親交配である。優れた雄羊は娘や孫娘と交配させ、「遺伝関与率を95%にまで高めた」。これは極端にせよ、今でも優れた牛の冷凍精液は高価な資産となっている。
彼の品種改良は大きな成果をあげたが、スクレイピーのオマケもついてきた。この病気に対処しようとした当事の人々の苦闘は、何らかのトラブル対策を仕事にしている人なら、きっとわが身の事のように感じるだろう。羊小屋の温度か? 餌の多寡か? 牧草か? 昆虫か? ダニか? 交尾のしすぎか、足りないのか?
今の我々には、原因がプリオンだとわかっている。だが、当事の人々は、プリオンどころか病原菌の知識すらなかった。手当たり次第に考えられる対策を施すしかなく、その苦労は察して余りある。
続いて登場するのが、パプアニューギニアのフォレ族である。峻険な地形のニューギニア、その中心部の高地に人が住んでいるとは誰も思わず、航空機が登場してやっと見つかったという伝説の土地だ。ここに住んでいたフォレ族との接触の様子も楽しいが、彼らの歪な人口構成に潜む謎に迫る部分は、この本の構造を圧縮した感がある。
意外と好意的に巡察隊を受け入れたフォレ族だが、未婚の男がやたら多い。というか、女と子供が異様に少ない。ここで二転三転する病気の原因もいいが、活躍する医師カールトン・カイジュシェック(→Wikipedia)のキャラも際立っている。
フィールドワークが大好きで、フォレ族の村を楽しげに次々と訪ねて回る。「ノーベル賞授賞式の際にスウェーデン人の友から贈られるまで、彼はスーツの類いは一着も持っていなかった」というから強烈だ。おまけに困った癖もあって…
そんなカイジュシェックと対照的なのが、次に登場するスタンリー・プルジナー(→Wikipedia)。組織を率いるのに長け、研究費の調達に優れた手腕を発揮する。優れたリーダーではあるが、手柄を一人占めする傾向もある。何より彼の性格が現れているのは、「プリオン」という名前を考え出した事。
問題のソレにはまだ名前がなく、例えばスクレイピーや狂牛病は「伝達性ウイルス性海綿状脳症」と呼んでいた。これを「単純でインパクトのある言葉」を選ぶように助言された彼は、「プリオン」という名前をひねり出す。確かにインパクトがあるし、何より憶えやすい。世間の話題をさらうにのにうってつけだ。そういう考え方をする人なのだ、プルジナー先生は。
第10章で展開するイギリスでの狂牛病騒ぎは、お役所仕事の見本そのものの格好のサンプルだ。影響の重大さに恐れをなし、後手後手に回るイギリス政府。対して、迅速な対応を取ったペット業界。懸念のある飼料の禁止に五ヶ月の猶予を与えた政府に対し、ペット用飼料の業界団体は即刻の禁止令を出す。この結果…
つまりイギリスでは五ヶ月のあいだ、人間でいるより犬でいるほうが安全だったというわけだ。
というから笑える。リバタリアンが喜びそうなネタだなあ。
大騒ぎになった狂牛病だが、ヒトに感染して発症するクロイツフェルト・ヤコブ病で亡くなったのは、この本では150人(Wikipediaによるとイギリスで176人、世界全体で280人)。大げさなカラ騒ぎと見るべきか、押さえ込みが成功したと見るべきか。
ジリジリと真相に迫ってゆくミステリの面白さを縦糸に、カイジュシェックやプルジナーなどの強烈な個性の登場人物、致死的な病を抱えながら生き抜こうとするイタリアの一族、杜撰なイギリスとアメリカの政府の対応、新素材として期待できそうなタンパク質、そして遺伝子構成の偏りが示す人類の歴史。
科学・歴史・産業など広い範囲の話題を盛り込んだ、読んで楽しい一級品の科学ノンフィクションだった。
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