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2015年3月19日 (木)

フォルカー・デース「ジュール・ヴェルヌ伝」水声社 石橋正孝訳

「必要なことは、明晰であることだ。文体とは、単語の正確な使用、文章の姿形にある」
      ――第十三章 <脅威の旅>

「科学の中に空想を持ち込むことは認める。だが、後者が前者と食い違ってはならない」
      ――第十六章 ジュール・ヴェルヌと科学――魅惑と戦慄

【どんな本?】

 「八十日間世界一周」「海底二万里」「十五少年漂流記」などのSF/冒険物語で、昔も今も少年たちを魅了し続けて、H・G・ウェルズと並び「SFの父」と称えられるジュール・ヴェルヌだが、その生涯は伝説に包まれながらも、実態はあまり知られていない。

 ジュール・ヴェルヌ作品のドイツ語訳を手がけるジュール・ヴェルヌ研究家の著者が、私信や手書き原稿・ゲラなど大量の一次資料に当たり、また当事の時代背景を考慮しながら、知られざる巨人ジュール・ヴェルヌの姿に迫る、伝記にして研究書の決定版。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Jules Verne - une biographic critique, by Volker Dehs, 2013。日本語版は2014年6月15日第一版第一刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約572頁+付録約39頁+訳者あとがき5頁。9ポイント51字×19行×572頁=約554,268字、400字詰め原稿用紙で約1,386枚。文庫本の長編小説なら2~3冊分の大容量。

 正直、文体は堅い。文学者っぽい二重否定で皮肉を効かせる文章が多い。物語風の「伝記」を期待すると、かなり厳しい。伝記なら「~である」と決め付け、分かりやすいお話にしてしまう所を、この本は複数の説を並べ、「私は○○説を支持する、その根拠は…」と考察してゆく。つまりは誠実な研究書・学術書なのだ。

 とはいえ、じっくり読めば内容はなんとか理解できる。できれば19世紀後半のフランス史を知っていた方がいいが、Wikipedia でザッと調べた程度でもなんとかなる。それと、もちろん、ヴェルヌ作品を読んでいる事が大事。

【構成は?】

 原則として時系列順に進むので、頭から順番に読もう。

  • 第一章 ナント(1826~1839)
  • 第二章 未来の作家の学校時代(1834~1848)
  • 第三章 あらゆるジャンルを股にかける情熱――初期作品
  • 第四章 パリにおける法学部生(1848~1851)
  • 第五章 リリック座の秘書(1852~1855)
  • 第六章 現代の門口で――19世紀のパリ/li>
  • 第七章 愛という名の陥穽(1855~1857)
  • 第八章 金融取引所と美術(1857~1860)
  • 第九章 旅の流儀――デビュー前夜(1859~1862)
  • 第十章 エッツェル、スタール……そしてヴェルヌ
  • 第十一章 作家としての天命に目覚める(1863=1867)
  • 第十二章 アメリカ合衆国、ル・クロトワ、プロイセン軍の侵攻(1867~1871)
  • 第十三章 <脅威の旅>
  • 第十四章 最始動(1871~1874)
  • 第十五章 多事多難(1875~1878)
  • 第十六章 ジュール・ヴェルヌと科学――魅惑と戦慄
  • 第十七章 蒸気を全開にして(1878~1882)
  • 第十八章 碇を下ろす(1882~1886)
  • 第十九章 成功という荒波、栄光という迷宮
  • 第二十章 「暗黒の期間」(1886~1887)
  • 第二十一章 アミアン市議会にて(1888~1891)
  • 第二十二章 ジュール・ヴェルヌ氏宅にて――その「文学的実験室」の概要
  • 第二十三章 幻滅(1892~1895)
  • 第二十四章 事件の渦に呑まれて(1896~1900)
  • 第二十五章 長引くお別れ(1900~1905)
  • 第二十六章 死後の生――奇跡か、いかさまか
  • 付録一 ガストン・ヴェルヌ関連資料
  • 付録二 ジュール・ヴェルヌの収入及び遺書
  • 註/図版出典一覧/出典と書誌/人名索引
  • 訳者あとがき

【感想は?】

 色々と予想外の事ばかりで、かなり驚いている。

 なんたって憧れのナウティルス号を生み出した人だ。きっとメカ大好き科学大好き未来は明るい、な人かと思ったら、全然違った。

 つまりは常識人なのだ。カトリックで王党派、婦人参政権にも反対。当事のフランスでも保守的な考え方になる。ただし、ゴリゴリの右翼でもない。晩年に居を構えたアミアンでは、穏健な共和派の市長フレデリック・プティと市議会で協調している。理想より現実を優先させるタイプらしい。過激な理想主義者ウェルズとは対照的だ。

 メカは好きだったようだっが、カトリックらしく科学の進歩には疑念を抱いている。とはいえ、少なくともこの本には教会に熱心に通う場面は出てこない。信仰を見せびらかすタイプではなく、己の信念としてカトリックの道徳に従う人だったようだ。実際、創作においては、実に誠実な姿勢でウラをとっている。

 この辺を詳しく書いているのが、「第十六章 ジュール・ヴェルヌと科学――魅惑と戦慄」。彼はナウティルス号をゼロから創った訳ではなく、既に前例があった。「ロバート・フルトンが十九世紀の初めに建造した乗り物はある程度まで航行可能であり、その名もナウティルス号だった」。

 これは「八十日間世界一周」も同じで、「1869年11月17日のスエズ運河開通後、理論的には80日間で世界一周が可能であることを示す計算が新聞各紙に掲載され」ている。ヴェルヌは未来を予見したというより、当事のホット・ニュースを巧くアレンジした、というのが妥当らしい。

 とまれ、当事の話題をアレンジするにしても、彼の姿勢は誠実だった。月に行く際、ヴェルヌはタンパ近郊から出発し、現実ではケープ・カナベラルが選ばれる。著者はこれを「角運動量に関する論拠に基づいてヴェルヌを北アメリカで最も赤道に近い場所を選んだからにすぎない」としている。

 が、当事の文学者で、角運動量を計算に入れる者が、どれだけいただろう? 他にも、地理学会の刊行物や新聞記事を常にチェックしていた。数学は苦手だったようだが、ちゃんと専門家にチェックを依頼してるし。

 などと誠実な執筆態度ではあったものの、フランスの文学界からは冷たくあしらわれ、表向きは諦めた様子でありながらも、未練はあった模様。当時は子供・大衆向けの冒険小説家みたいな位置づけで、ブンガクではないと見られていたらしい。たぶん、派手な売れ行きも災いしたんだろうなあ。

 やはり意外なのが、舞台との関係。そもそもデビューが、デュマ・フィスとの共作、一幕物の韻文劇「折られた麦藁」で、その後も舞台とは深い関わりを続けていく。アミアンでも、熱心に劇場を支援してるし。この本を読むと、当事の舞台は、今の映画に当たる、ヴィジュアルな娯楽に該当する位置づけっぽい。

 法学の徒としてパリに留学してるぐらいだから、そこそこ豊かな育ちではあるが、パリでの困窮生活で貧乏性が身につき、生活は安定重視となる。奥さんとの結婚も、半分は生活の安定が目当てだったように見えるが、外で愛人を作っていた様子はない。

 安定重視が顕著に出ているのが、編集者エッツェルとの関係。敢えて旧作の権利をエッツェルに渡し、定期収入を確保している。色々とヤリ手のエッツェルに、手もなくやり込められているように見えるが、こういった文学の場での弱気は最後まで続いていた様子。

 これは彼の得意なジャンルが、大衆向けの冒険小説だったのも大きいみたいだ。今ならスティーヴン・キングみたく「ホラーで何が悪い」と開き直る人もいるが、彼は…

生涯を通じて、旧守的(アカデミック)な芸術観に愛着を抱き続け、彼自身のジャンル――冒険旅行小説――を下位に位置づける価値序列を奉じていた。

 それでも舞台で培ったサービス精神は旺盛で、ウケる作品の書き方は身に染みこんでいる。

「必ず常に――これは絶対的なルールなのですが――観客を打ち明け話の相手にし、彼らを不意打ちしてはならず、間違った予想に誘導するのもご法度です。[……]悪人は負けると最初からわかっていることが彼らにとって喜びとなるのです」

 意外に保守的で堅実で現実的なヴェルヌの人となり。そんな彼の生涯をなぞるだけでなく、彼の作品評価に欠かせない当事の社会背景も丹念に調べ書き込んだ、文句なしの一級品の研究書だ。今までマトモな伝記すら出なかった日本で、いきなり決定版が出てしまった。

 ただ、贅沢を言うと、さすがにこのボリュームと値段は若い読者には厳しい。少年向けに、手に入れやすく読みやすい抄訳版も出して欲しいところ。いや値段に見合う内容ではあるんだけど、やっぱり憧れのナウティルス号を創った人がどんな人か、子供だって知りたいじゃないか。

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