ジョン・ダワー「増補版 敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本人 上・下」岩波書店 三浦陽一・高杉忠明・田代泰子訳 3
君主制と民主主義の理想と、そして平和主義の結合――およそ近代国家のうちで、これほど見慣れない憲法はあったためしがない。そしてそれまでまったくなじみのなかった文書が、やがて国家憲章としてこれほど完全に吸収され、力強く擁護された例は少ない。
――第一二章 GHQが新しい国民憲章を起草する――憲法的民主主義(一)21世紀への戸口にある日本を理解するためには、日本という国家があいも変わらず連続している面をさがすよりも、1920年代後半に始まり、1989年に実質的に終わったひとつの周期に注目するほうが有利である。(略)これを精密に観察すれば、戦後「日本モデル」の特徴とされたものの大部分が、じつは日本とアメリカの交配型モデル a hybrid Japanese-American model というべきものであったことがわかる。
――エピローグ 遺産・幻影・希望もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。(略)近代文明の尺度で測れば、われわれが45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、(日本は)12歳の少年といったところでしょう。
――エピローグ 遺産・幻影・希望 より、マッカーサーの演説
ジョン・ダワー「増補版 敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本人 上・下」岩波書店 三浦陽一・高杉忠明・田代泰子訳 2 から続く。
【どんな本?】
1945年8月。日本の降伏により、ダグラス・マッカーサー率いるアメリカの占領軍が日本に進駐する。戦争は3年8ヶ月だったが、占領はその倍近い6年8ヶ月に及んだ。旧来の支配体制の保存を目論む日本政府に対し、占領軍は大胆な国家体制の改革を強いた。
抑圧的な支配体制から民主主義へ、軍国主義から平和主義へ。戦勝国による復讐に他ならない東京裁判は日本人の被害者意識を裏打ちし、新憲法とあいまって平和志向を強める反面、中国の共産化も手伝い加害者としての認識を薄れさせてしまう。
と同時に、日本での左派勢力の伸張と冷戦の一端である朝鮮戦争は、マッカーサーの構想を大きくねじれさせ、中小企業に飛躍の機会を与えると共に、保守勢力の復活を許し現代日本の基礎となる巨大な官僚機構を発達させてゆく。
2000年度ピュリッツァー賞一般ノンフィクション部門など多くの賞を獲得した、占領時代の日本を描きつつ現代日本の基本構造を分析する、ドキュメンタリーの傑作。
【感想は?】
下巻が扱う内容は、今の日本でもデリケートな問題が多い。天皇制・新憲法、そして東京裁判だ。
●天皇制
天皇制の維持は、結構あぶなかった事がわかる。「当時、天皇に対して敵対的な連合国側の世論の声は高かった」。日本国内でも、退位を求める声があった。民間人では、雑誌『新潮』にが詩人の三好達治(→Wikipedia)による退位を求めるエッセイを掲載している。
大阪で実施された世論調査では、回答者の1/4以上が、裕仁はただちに、あるいは適切な時期に退位すべきだと考えていた。他の資料では、もし天皇の退位について投票を行なった場合、おそらく50%ほどの人が退位を支持するであろうし、天皇個人が退位の意思を表明すれば、支持はもっと高くなるだろうとしていた。
ばかりでない。なんと、「三笠宮が、枢密院の緊迫した会議において天皇に敗戦の責任をとるよう間接的に促した」。現代より過激な意見が多かったし、それを堂々と言える状況だったのにも驚く。
だが、マッカーサーの意思は固く、これは誰にも変えられなかった。理由は共産主義を畏れた事と、占領統治をスムーズにすること。理由はともかく、天皇制維持の方法は幾つかの点で日本側の思惑と一致する。「『軍国主義者のギャングたち』は日本人をだましただけでなく、聖なる君主も裏切ったのだ」。そういうシナリオで事を進める。
という事で、占領軍も日本政府も、天皇に対し戦争責任を一切認めないよう説得した。やがて巡幸が始まる。大げさな米軍の護衛がついたが、「攻撃はついぞ起こらなかった」。なかったわけじゃないけど、最初の抗議行動は…
京都大学の急進的な学生が、敵意に満ちた質問を記した公開質問状を天皇にわたそうとしたのだ。この時、天皇の前で、彼らは国歌の代わりに「平和の歌」を歌った。
というから可愛いもんだ。全般的に天皇制は占領軍の思惑通り保全され、どころか新憲法による規定で、吉田茂首相の予言どおりになる。曰く…
天皇と政治のより明白な分離の結果、天皇の「内的地位」――おそらく天皇の精神的役割という意味であろう――は、「その分だけ一層拡大するであろうし、天皇の地位はいっそう重要性と微妙さを増すだろう」
事実、その通りになっている。現代の日本で天皇制打倒を叫んだら、良くて変人、悪けりゃ過激派扱いである。
●新憲法
天皇制は占領軍・日本政府・皇室による協調の取れたダンスなのに対し、新憲法はドタバタ劇である。
日本政府は、明治憲法の手直しで済むと思っていたし、そういう方向で事を進めた。占領軍は完全な刷新を求めた。遅々として進まぬ日本政府の作業に業を煮やした占領軍は、自分たちで憲法の草案を作ってしまう。これは英語だったため、日本政府が日本語に訳すのだが…
アメリカ側は、日本人がGHQ草案を「翻訳」する際に、多くの実質的な変更をもぐりこませていたことを発見した。
当事の日本政府は、最後の最後まで抑圧的な体制の保全を目論んだわけだ。ここで「人民」か「国民」か、という言葉の選び方を分析していて、なかなか鋭い。国民だと、外国人を排除している。また「国家」に対立する概念も含まない。合衆国憲法修正2条が、合衆国政府に対し武装する権利を認めているのとは対照的だ(この解釈には異論もあるけど)。
にも関わらず、「憲法草案が民政局で生み出されたことを認めるのはタブーであった」。が、「憲法に関する限り、アメリカがかなり介入していたことは公然の秘密だった」。国民の声はほとんど反映してないが、「成人教育学校や夜間学校に関わっていた教員連合が、義務教育を六年間の無料初等教育に制限する文言の削除を国会の飲ませた」のは手柄だろう。
問題の九条は、当時から解釈が分かれている。邦楽博士の松本烝治(→Wikiepdia)は枢密院で「自衛行為まで禁じるという趣旨を有するものではない」とするが、吉田茂首相は国会で「自衛権の放棄をも必然的に伴うと指摘」している。「日本は今後の安全保障を国際的な平和組織に委ねることになるだろう」と。
いずれにせよ、当時は問題じゃなかったのだ。だって米軍の占領下だし…朝鮮戦争が、問題を突きつけるんだけど。
●東京裁判
東京裁判は勝者による復讐だ、というのが著者の見解だ。「検察の方針や戦略におけるアメリカの支配は絶対に近かった」と。
裁判手続きのまやかしを延々と書いているが、私は「ある種の集団、ある種の犯罪がそこから見逃されていた」点に注目する。東京裁判は戦勝国が敗戦国を裁いたのだ。「インドネシア(略)ベトナム、マレー半島、ビルマで日本人の手にかかって辛酸をなめたアジア民族も、独自の代表を送れなかった」。そしてもちろん…
人びとに恐れられた憲兵隊の隊長は誰も起訴されなかった。超国家主義秘密結社の指導者も、侵略によって私腹を肥やし、「戦争への道」を拓くことに親しく関与してきた実業家も、起訴されていなかった。
日本国内でも声はあったのだ。
1945年9月半ばには、『朝日新聞』などの新聞に、戦争犯罪人とおぼしき者たちのリストを日本人の手でまとめるべきだ、そのほうが連合国の作成するであろうリストよりもずっと長くなるだろう、そして、できれば日本人自身による裁判も行なうべきだ、とする論調が現れた。多くの読者がこれに賛同した。
が、そんな裁判は行なわれなかった。児玉誉士夫も笹川良一も岸信介も釈放され、辻政信は潜伏する。裁判と処刑が終わってしまえば、清算は済んだという事になり、その後の追及は難しい。かくして日本人の庶民には被害者意識だけが残り、権力者はホッとする。
●その他
やがて占領軍も経済に手をつけ、財閥解体と土地改革を進める。
超インフレーションは企業や個人の借金を大幅に減らしたが、その一方で、SCAPはそのおかげで地方の大地主からほとんど没収に近いかたちで土地をとりあげ、家族保有の財閥会社を解散させることができた。
このスキに中小企業が発展する。爆弾の外包を炭火鉢に、弾薬箱を米櫃に、砲弾の殻を茶筒に改造する。逞しいもんだ。これに傾斜生産方式(→Wikipedia)による特定産業の支援が始まるが、「汚職にうってつけのシステムを作り、実業家、官僚、政治家は時を移さずその濫用にとりかかった」。
そこに朝鮮戦争がやってくる。日本経済は特需に沸き立ち、再軍備も始まる。大量生産の需要に応えるため、日本はW・エドワーズ・デミング博士の品質管理を導入し、驚異的な品質の向上を実現する。朝鮮戦争を巡るゴタゴタは、笑ってしまう。
再軍備の実行を日本にねじこむためにジョン・フォスター・ダレスが訪日したとき、朝鮮戦争に参戦せよという極端な要求が出るのを非情に警戒して、吉田(茂)は二人の社会党指導者に密使を送り、ダレスの使節団に見せるために、再軍備に反対するデモを政府の外で組織してくれないかと頼んだ。
見事な腹芸だ。
そして、マッカーサーの演説、「日本人は12歳の少年」だ。これは日本人を馬鹿にした発言として引用される場合が多いし、実際にそういうニュアンスもある。だが、それには、こう続くのである。
指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい模範とか新しい考え方を受け入れやすかった。あそこでは、基本になる考え方を植えつけることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです。
「指導」と上から目線では、ある。が、同時に、柔軟な頭の持ち主だ、とも言っている。幼くはあるが、若くもある。あの戦争は若気の至りで、指導次第じゃいくらでも伸びるぞ、そういう目線もあるのだ。もちろん、「指導したのは俺だ」という自負もたっぷり含んでいるけど。
●おわりに
現代日本の基礎を築いた時代の物語として読んでも面白いし、戦勝国による巧い統治の話としてアフガニスタンやイラクと比べて読んでもいい。ショッキングな事実も沢山暴露しているし、読み応えは充分。終戦70周年を記念して、文庫で出してくれないかなあ。
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コメント
図版(実に多数の写真!)を全部収録するべき書籍ですので、どうしても縮小、精選がいる文庫化は、できないでしょうなあ。
投稿: | 2017年10月28日 (土) 19時58分