ニコラス・マネー「ふしぎな生きものカビ・キノコ 菌学入門」築地書館 小川真訳
菌糸はクエン酸や蓚酸(しゅうさん)のような有機物を分泌して、花崗岩に含まれるミネラルを溶かしながら、岩の中へもぐりこみます。菌糸は溶け出してくるミネラルを吸収しながら、その先端を前へ押し出し、岩の隙間をこじ開けて、どんどん深く潜入します。菌が花崗岩の割れ目に入ると、そこに水が浸透し、凍ると氷の結晶が岩の風化を速め、土壌のもとになる小さな岩屑を作り出します。
【どんな本?】
朽木や草原にニョキニョキ生えてくるキノコ。浴室のタイルの隙間を真っ黒にするカビ。水虫の原因になる白癬菌。イネに被害を与えるいもち病。多くの場合、ヒトにとって嬉しくない菌類だが、パンや酒を作る酵母はヒトの生活に欠かせないし、ペニシリンなど奇跡の新薬を生む母体でもある。
万を超える種がある菌類について、その不思議な生態や繁殖方法を紹介すると共に、菌と同じぐらい奇妙な菌学者たちの生活や研究も紹介する、一般向けの科学解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Mr. Bloomfield's Orchard : The Mysterious World of Mushrooms, Molds and Mycologists, by Nicholas P. Money, 2002。日本語版は2007年12月25日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約278頁+訳者あとがき4頁。9.5ポイント44字×18行×278頁=約220,176字、400字詰め原稿用紙で約551枚。標準的な長編小説の分量。
訳者も菌学者だが、意外と日本語の文章はこなれている。生物学の本なので、高校卒業程度の生物学の基礎があるとより楽しめるが、義務教育修了程度でもなんとか読みこなせるだろう。
【構成は?】
各話はほぼ独立しているので、気になった部分だけを拾い読みしてもいい。
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【感想は?】
ちょっと風呂場を掃除したくなった。クロカビでタイルが変色してる所があるんだ。
なにせ連中が出す胞子の数がハンパない。アイルランドにジャガイモ飢饉をもたらしたフィトフトラだと、「毎日30万個もの胞子嚢が飛び出すのです」。中には兆単位のものもあって、我々は否応なしに日頃から菌の胞子を吸い込んで生活している。
あの黒い色の元は、メラニン色素。我々の膚にあるのと同じだ。これは紫外線を防ぐ。実験でメラニン色素のないアルビノも作れるけど、「色素を持った系統とアルビノ系統を競争させると、多くの場合アルビノ系統が抑えられます」。メラニンは紫外線を防ぐ他にも、幾つかの機能を担っているらしい。つかカビにもアルビノってあるのね。
で、クロカビ。大抵の場合は大きな害はないが、「エイズ患者には黒いしみがついたシャワーのカーテンさえ脅威になります」。つまりは免疫力・体力と、胞子の数のバランスなんだろうなあ。あと、傷跡から侵入する場合もあるとか。
ヒトへの感染で笑っちゃったのが、ワンギエラ・デルマテティデス。なんと脳に侵入して黒い塊を作る。これが集団発生した事があるんだが…
多くの男性がきわめて繊細な例の組織を刺激しようとして、湯が噴き出すノズルを使っていた、日本の浴場にたどりつきました。不孝なことに、この黒いカビも熱い湯が好きで、ノズルのホースの表面についている金具の隙間で繁殖し、皮膚の中へもぐりこんだのです。
ひえ~。
ちっぽけに思える菌類だが、甘く見ちゃいけない。オレゴン州ブルーマウンテン付近で見付かったナラタケ(→Wikipedia)の仲間は、「2200エーカー(約3km×3km)の土地に広がっていたと言います」。年齢は「2400年から7200年の間」。シロナガスクジラなんて目じゃない、世界最大の生物だ。
と言っても、あのキノコが3km四方に広がっているわけじゃなく、地中に菌糸を張ってるわけ。キノコは繁殖用に胞子を飛ばす器官なのだ。しかも、あの傘の形は、流体力学的に意味があるとか。この先生、なんと風洞実験までしている。
…風がキノコに当たると、空気の流れが傘のヘリに当たって別れ、上、下流とも流れが速くなることがわかりました。この空気の流れ方は、飛行機の翼の上に見られる航空力学的な動きに似ています。
そうやって空気の流れを制御し、胞子を飛ばしているらしい。
傘の裏のヒダなど複雑な構造をしているキノコだが、不思議なことに「子実体(キノコ)は同じ細胞がからみ合った塊にすぎない」。つまり、器官ではなく、単なる集団なのだ。にも関わらず、ちゃんと機能のある形になるのは不思議だ。
キノコというと、気になるのは毒キノコと食べられるキノコの見分け方。これは実に難しくて、専門家のはずの著者も間違って毒キノコを食べちゃったりしてる。移民の国アメリカならではの話もあって…
母国で採っていたキノコだと思って食べてしまった移民に多く見られます。たとえば、ドクツルタケやタマゴテングタケは、ちょっと見たところアジアでたくさん見られるフクロタケに似ています。そのため、ベトナムやラオスからの移民がよく間違えて中毒するのだそうです。
やはり菌による中毒だと、魔女裁判もカビが原因の可能性があるとか。ライムギを侵すクラビセプス、別名を麦角菌、LSDの元でもある。血管収縮毒素エルゴタミンを含み、これは「高温でも壊れないため、パンを焼いてもそのまま残っています」。これがセーラムの魔女裁判(→Wikipedia)の原因だ、と著者は主張している。
などの菌の話も面白いが、菌学者の話も混じってるのが本書の特徴。なかでも酵母学者に関しては…
…多くのことを酵母から学んできたのは事実です。でも酵母の専門家は、さらに我慢ならない存在なのです。何十年もの間、彼らはまじめな実験学者としての評判が、キノコ採りの低級なイメージによって損なわれるのを恐れて、菌学者とよばれることを拒否してきました。
わはは。
などの軋轢も面白いが、菌の繁殖も複雑。胞子が菌糸に成長して更に胞子を飛ばす無性生殖もあるし、交配して有性生殖する場合もある。成長過程で大きく形が違うんで、「数多くの菌が二度記載され、二つの名前をもつことになってしまった」。そりゃわからんがな。
イギリス風の、ちょっと皮肉の効いたユーモアを交えて語る、菌学への案内書。一般向け自然科学の解説書としては、身近で親しみやすいテーマだし、内容も難しくない。わからない所は飛ばして、気軽に読もう。
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