マイケル・ルイス「マネー・ボール 完全版」ハヤカワ文庫NF 中山宥訳
きっかけは、ごく素朴な疑問だった。
《メジャー球団のなかでもきわめて資金力の乏しいオークランド・アスレチックスが、なぜこんなに強いのか?》
――まえがき「なにより難しいのは」とビリーが話し始める。「プライドをしっかり持たないと、あるいはプライドを捨てないと、正しい選択を貫けないことだ」
――第2章 メジャーリーガーはどこにいる
【どんな本?】
かつては将来を嘱望されたメジャーリーグのルーキー、ビリー・ビーン。だが成績はパッとせず、自らの才能に見切りをつけて引退し、オークランド・アスレチックスのアドバンススカウト(対戦相手の視察係)に転進する。ゼネラルマネージャーのサンディ・アルダーソンの下で修行するビーンは、奇妙な書物へと誘われる。
ビル・ジェイムズ著「野球抄」
やがてジェネラル・マネージャーに昇格したビーン。しかし球団は収支悪化に喘いでいる。有力選手を招き好成績を上げれば観客は増える。だが最近は選手の年棒が急激に上昇した。貧乏球団のアスレチックスに有力選手を招く余裕はない。そこでビーンはかねてからの計画を持ち出し、アスレチックスの大改造を目論む。
ヤンキースみたいな金満球団とはまったく違う野球で、アスレチックスを強豪へ押し上げてやる。
弱く貧しい球団が革命的な手法でリーグ上位へと浮かび上がるドラマであり、革命的な手法「サーバーメトリクス」誕生と発展の物語であり、その革命を推し進めるビリー・ビーンをはじめとする革命児たちの群像劇であり、そんな革命に翻弄されるメジャーリーガーやファンたちを描くルポルタージュでもある、傑作ノンフィクション。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は MONEYBALL : The Art of Winning an Unfair Game, by Michael Lewis, 2003/2004。日本語版は2003年3月にランダムハウス講談社から単行本が刊行、20066年3月に武田ランダムハウスジャパンから文庫版を刊行。ハヤカワ文庫の完全版は2013年4月15日発行。
文庫本で縦一段組み、本文約442頁に加え丸谷才一の解説「思考と生き方のためのマニュアル」6頁+訳者あとがき4頁。9ポイント40字×17行×442頁=約300,560字、400字詰め原稿用紙で約752枚。文庫本としては分厚い部類。
訳文は比較的にこなれている。内要はデータ野球の話なので、統計と野球の話が中心となる。統計の方は特に難しくない。少し数式も出てくるが、加減乗除だけなので、小学校卒業程度の算数でついていける。稀に回帰分析なんて言葉も出てくるが、「なんか統計の専門的な方法っぽい」程度の理解で問題ない。
むしろ前提知識が必要なのは野球の知識。野球ファン向けに書いてあるので、ルールはもちろん、打率・打点・防御率などの数字に加え、ドラフト/トレード/フリーエージェントなどの制度についても、「見当がつく」程度には知っている方がいい。メジャーリーグは日本と制度が違うが、日程や指名できる選手数などの細かい違いは本文中に説明がある。
中盤以降はグランドでのプレイの描写が増えるので、野球に詳しい人、特に「投手は次にどのコースにどんな球種を投げるか」と一球ごとに予想するタイプの人なら、臨場感あふれるドラマを楽しめるだろう。
【構成は?】
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基本的には頭から読んだ方がいい。実は私、我慢しきれずアチコチ拾い読みして味見した後、全体を通して読んだんだが、拾い読みした時も楽しく読めた。
【感想は?】
映画「メジャーリーグ」の、データ野球版。
様々な要素が、この著作には入っている。一つは、貧乏球団が金満球団相手に勝ち進む爽快なドラマだ。一つは、古い体質の組織を新しい哲学が変えてゆく革命の物語であり、革命をなすまでの群像劇だ。そして、当たり前だが、舞台となるメジャーリーグの内情を報告するレポートでもある。
野球は幾つかの点で他のスポーツと大きく違う。特に違うのが、細かく記録が残る点だ。投手が一球投げるごとに、スコアラーはストライク・ボールばかりでなく、コースや球種まで記録する。そして、この記録は選手の評価に大きな影響を与える。
反面、数字に振り回されている部分もある。私のような素人にもわかりやすいのが、打点だ。走者が帰ってくれば、打者に打点がつく。だが走者がいるかいないかで、打点がつくかつかないかが変わる。同じ打者でも、一番打者と四番打者は条件が全く違う。一番は最初の打席じゃ走者がいない。不公平ではないか。
数字だけじゃない。最終的に評価するのは人間だ。そして人間は感情に左右される。地味に走者を進める二番打者より、派手に本塁打を打つ四番に注目してしまう。監督やコーチに好かれない選手は試合に出られない。選手の年棒は高騰しているにも関わらず、その評価には好き嫌いが大きく影響している。
こういった所を、本書は見事に暴きだす。主人公ビリー・ビーンは、球界の古い体質が埋もれさせた優れた選手を安く発掘し、安上がりに強いチームを作ろうと目論む。オーナーやマネージャーは、誰だって安く強いチームを作りたいはずだ。だが、現実はそうなっていない。そのスキをついて、のし上がろうというわけだ。
そこでビリーが採用したのが、サイバー・メトリクス。これの基礎を作ったビル・ジェイムズの「野球抄」の物語が、これまた同人誌をシコシコ作っている作家志望の青年が夢見る物語そのものなんだから笑ってしまう。
従来、選手の評価に使われていた数字の多くを「ナンセンス」と投げ捨て、全く新しい考えでコツコツと数字をかき集め、自分なりの仮説で解釈・計算し、最初は謄写版(ガリ版)の小冊子として75部を売る。ビルの発想は様々な野球ファンを惹きつけ、年を追うごとに発行部数は増し…。そんなビルを見守る奥様スーザンの目が、これまた笑わせる。
「こんなに熱狂的だとわかっていたら、深く関わるのをよしていたかもしれません」
わはは。太平洋の向うでも、オタクってのは奥様に理解されない生き物なのだ。なんたって、彼が最初に野球抄を出したのは1977年。当然、パソコンなんか普及していない。大量の雑誌や資料から数字を写し、または自分で数えなおし、電卓か計算尺で膨大な計算をこなしたんだろう。道楽でコレをやるんだから、凄まじい執念である。つくづくオタクってのは。
やがてパソコンやインターネットが普及し、彼の手法も多くの人びとの手で洗練されてゆく。これが野球とは関係ないオタク連中ばっかりで、やがて球界関係者との軋轢の種となる。
ビリー・ビーンが、この手法を採用する過程は、組織の変革を描くビジネスのドラマとして面白い。彼の手法は当事の球界にとってあまりに独創的にすぎ、なかなか受け入れられなかった。仮にビリーを幕末の高杉晋作とするなら、実は吉田松陰に該当する先導者もいたのだ…って、すんません、わかりにくい喩えで。好きなんです「世に棲む日日」。
つまり革命ってのは一夜にして成るものでなく、それなりの理論と舞台と状況が必要である、そういう事です、はい。理論はビル・ジェイムズが創りあげ、舞台はアスレチックスの元ジェネラル・マネージャーのサンディ・アルダーソンが整え、そこにアスレチックスの困窮とビリー・ビーンのジェネラル・マネージャーという状況が整い…
などの小難しい話とは対照的に、これに振り回される選手たちの物語も、これまた実に楽しく、汗臭い臨場感がたっぷり。
まずはスコット・ハッテンバーグ(→Wikipedia)。コロラド・ロッキーズの捕手だったが、右腕を壊してしまう。走者を刺せない捕手などお荷物でしかない。放り出される時に、現れた救いの手がオークランド・アスレチックス。ただし、とんでもない条件がついてきた。「ちなみに、きみの守備位置は一塁だから、よろしく」。
打席に立った彼が、ベテラン投手のジェイミー・モイヤーと対戦する場面は、まさしく狐と狸の化かしあい。
次にチャド・ブラッドフォード(→Wikipedia)。メジャーじゃ珍しいアンダースローの投手だ。若き日の彼の野球人生は、ちばあきおの漫画「キャプテン」の谷口君そのもので、モデルじゃないかと疑ってしまうぐらいだ。特に彼と父親の関係は、まんまエピソードをパクったんじゃないかと思うぐらいにソックリ。いや時系列的にありえないんだけど。
だが、アマチュアからプロに至るまで、どの監督にも強い印象を残せず、埋もれていたが…
そしてジェレミー・ブラウン(→Wikipedia)。アラバマ大学の捕手。ルーキーだ。目立つ成績じゃない上に、なにより体格が悪い。身長175cmなのに体重95kg。彼がドラフトで指名を受ける場面も、小説のようにドラマチック。アスレチックス以外の誰もが、ジェレミーの指名を予想していなかった。なにより本人が指名を信じようとしなかった。
などの成功譚の他に、アメリカらしいドライな場面も沢山ある。まずベテランのスカウトがバサバサと首を切られてゆく。選手もそうだ。シーズン途中に、容赦なく他球団へトレードしてゆく。すべては安くいい買い物をするためだ。ビリー・ビーンの冷酷な哲学が、ここで露わになってゆく。彼は選手を育てようなどとは思っていない。
「選手を変えることなんてできない。あるがままの姿しか認めない」
今の成績と年棒、それに現役として活躍できる年数だけを計算し、決断を下す。俺のやり方に合う者を集めろ、それ以外はいらない、というわけだ。ビジネス書として読むと、簡単に解雇できるアメリカだからできる方針だよなあ、と思う。まあ日本でも最近は非正規雇用が増えているから、応用できるかもしれないけど。困った事に。
サイバーメトリクスが起こす革命の様子も面白かったが、同じぐらいに、それと対比される当事のメジャーリーグの内情も楽しかった。野球は比較的に数字が多く使われるスポーツだが、あまり数字が出ないスポーツだと、この本以上にフロントや監督やコーチ陣が強い影響を与えるのが容易に想像できる。
貧しく弱いチームが新兵器を用いて強豪に立ち向かう物語として、埋もれていた才能が花開くドラマとして、メジャーリーグを巡る群像劇として、新しい思想が古い仕組みを変える革命の記録として。様々な面白さを含んだ本だが、それでもやっぱりメイン・ディッシュには野球を据えた本だと思う。
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