石井光太「物乞う仏陀」文藝春秋
「暇をつぶすのって大変じゃないですか」
たった二分で草むしりに飽きたらしく、彼は土の上にすわりこんで笑いながらこう答えた。
「暇じゃなかったらザグリじゃないよ」
「じゃあ、仕事はしたくないんですか?」と私は訊いた。
「暇が仕事だから大好きだ」
――第七章 ネパール ヒマラヤ~麻薬と呪術師 氷山の祈る人々
【どんな本?】
テレビ番組の猿岩石の旅に触発された若き日の著者は、アフガニスタンとパキスタン国境へ旅に出る。彼がそこで見たのは、障害を抱えた人が渦巻く難民キャンプの厳しい現実だった。両足の脛から下を切断された人、水泡だらけの皮膚、顔全体を覆うケロイド、眼球のない顔。
帰国後、彼は現実を見据えるために再び旅に出る。主に東南アジアを中心に、物乞いとして生きる障害者たちの生き方を取材するために。カンボジア・ラオス・タイ・ベトナム・ミャンマー・スルランカ・ネパール・インドを回り、彼らが障害を負った原因や、今の生活を聞き出してゆく。
福祉の行き届かない発展途上国で生きる障害者たちの生活を生々しく綴った、衝撃のノンフィクションにして、作家・石井光太のデビュー作。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
2005年10月15日第1刷。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約250頁+あとがき7頁。読みやすい10ポイントの字で43字×19行×250頁=約204,250字、400字詰め原稿用紙で約511枚。標準的な長編小説の分量。今は文春文庫から文庫本が出ている。
デビュー作とは思えぬほど文章はこなれていて、読みやすい。読みこなすのに、特に前提知識は要らない。せいぜい、「かつてベトナム・ラオス・カンボジアは戦場だった」ぐらいに知っていれば充分。それより深い事情は本文中に説明がある。中学生でも読みこなせるだろう。少々、刺激が強すぎるので、あまり若い人にはお薦めできないけど。
【構成は?】
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第一章 カンボジア 生き方~買春と殺人 クメールの虜/父と子の人殺し
第二章 ラオス 村~不発弾と少数民族 死神の村にて/悲しみのモン族
第三章 タイ 都会~自立と束縛 村を離れて/奴隷のソナタ
第四章 ベトナム 見守る人々~産婆と家族 仏のような人/星降る晩餐
第五章 ミャンマー キリスト~信者 イエスの使徒
第六章 スリランカ 仏陀~業と悪霊 業によりて/哀しき悪霊
第七章 ネパール ヒマラヤ~麻薬と呪術師 幻覚の都/氷山の祈る人々
第八章 インド 犠牲者~悪の町と城 魑魅魍魎/人喰い
あとがき――その後の物乞う仏陀
主要参考文献
各章は比較的に独立しているので、気になる章だけを拾い読みしてもいい。ただし、第八章だけは最後にとっておこう。本書のクライマックスだから。
【感想は?】
どうにも居心地が悪い。
「ちょっと変わったアジア旅行記」だと思ってたんだが、全く違った。かなり話題になった本だし、少し調べれば分かるだろうに、迂闊な話だ。確かに旅行して書いた本だが、取材を目的とした旅行である。つまり旅行記ではなく、ルポルタージュなのだった。
取材先は、カンボジア・ラオス・タイ・ベトナム・ミャンマー・スルランカ・ネパール・インド。いずれも発展途上国で、福祉は行き届かない。どうしても弱者は切り捨てられる。そこで職に就けない重度の障害者は、どうやって生きてゆくのか。
カンボジア・ラオス・ベトナムには、戦争で負傷した人が沢山いる。おまけにカンボジアでは、ポル・ポトを筆頭としたクメール・ルージュが、狂った独裁を敷いた。手始めは知識人の皆殺しだ。国民の大半を占める農民は、強制的に集団農場に移住させる。
結果はご想像のとおり、深刻な飢餓である。その後、ベトナム軍が攻め込みクメール・ルージュの支配は終わったものの、幾つのも勢力が入り乱れた戦争でバラ撒かれた地雷は、今でも農地や観光地にウジャウジャ残っている。
今でもカンボジアは復興に苦労している。本書によれば、乞食の一日の稼ぎは「二ドルか三ドル」。それでも生きていけるのは、物価が安いからだ。為替レートのトリックで、1ドルの使いでが日本やアメリカの10倍ぐらい違う…国産品に限れば。だから、外国人観光客は美味しいカモになる。
ここで生きる若者リンは、意外と明るい。まとまった金が入ると、奥さんを放置して「今日は女を買いに行く」。「暖かい南国では、家がなくても生きていける」とはいえ、暢気なものだ。
などと明るい話で始まったと思ったら、次の「父と子の人殺し」では、ズシンと重い話になる。全く油断できない。
ラオスは我々にあまり馴染みのない国だ。「死神の村にて」では、ベトナム戦争中に大量の爆弾が落ち、今も不発弾が沢山埋まっている村が舞台となる。たった一つの不発弾が見付かっただけで、周囲の住民を退去させ列車が止まり、自衛隊が出動する日本とは大違いである。彼らは不発弾を鉄屑として売っているのだ。
禍々しいタイトルの説だが、登場するトンディーさんは明るく逞しい。「朝から晩まで働いても食べていけるかいけないか」と言いつつ、村人たちと笑顔で冗談を言い合う。自分の力で稼ぎ、家族や村人などの仲間がいるからだろうか。
構成の妙か、重い話と明るい話が交互に出てくる感じになっている。ネパール編もそうで、「幻覚の都」はヤク中の売人の話で始まる。ちなみにガンジャ=マリファナは葉っぱ、チャラス=ハッシシは樹脂だそうです(→Wikipedia)。登場するラジュは、ハッシシから始まり重いドラッグにハマった男。この節は、ドラッグの恐ろしさがヒシヒシと伝わってくる。
これまで私はいくつもの国で多くの乞食と話をしてきた。彼らの中には、臭う者と臭わない者がいる。
一概にはいえないが、臭う者は乞食への道を自ら選んだ者、臭わない者は仕方なく乞食にならざるをえなかった者であることが多い。
ラジャがどちらかは、見当がつくと思う。
続く「氷山の祈る人々」は、呪術師ザグリと、両足が萎えた16歳の女の子サヌミアの話。峻険な山道ばかりのヒマラヤでは、足の障害は致命的となる。心配した父親は、呪術師ザグリの元にサヌミアを連れてくる。このザグリ、呪術師としての評判は高いが、毎日昼寝ばかりのノラクラ親父で、著者との会話もエロ噺ばかり。果たしてサヌミアは…
そしてクライマックスは、インドのムンバイ。南アジアや東南アジアの大都市では、乞食は珍しくない。外国人観光客と見れば、集団で寄ってくる。障害者も多い。だが、インドでは妙に不自然な点があって…
明るい話もあれば、悲惨な話もある。悲惨な話で居心地が悪いのは当たり前だが、著者の独白が居心地の悪さを増幅している感がある。これは好みが分かれるところだろうが、私はドライに事実だけを記述するスタイルの方が好きだ。そんな記述スタイルの好みはともかく、内要は文句なしに衝撃的な話が多い。
かなり精神的にキツいので、心身の状態がいい時に読もう。感受性の高い人は、不調な時に読んではいけない。
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