オリヴァー・サックス「火星の人類学者 脳神経科医と7人の奇妙な患者」早川書房 吉田利子訳
「もし、ぱちりと指をならしたら、自閉症が消えるとしても、わたしはそうはしないでしょう――なぜなら、そうしたら、わたしがわたしでなくなってしまうからです。自閉症はわたしの一部なのです」
――火星の人類学者
【どんな本?】
「妻を帽子とまちがえた男」や、映画化された「レナードの朝」で有名な、脳神経科医の著者による、一風変わった患者たちを題材とした医学エッセイ集。
事故で色覚を失い灰色の世界に投げ込まれた画家、1970年以降の記憶を失ったデッドヘッズ、45年ぶりに視覚を取り戻した男、故郷の村の過去の風景ばかりを描く画家、自閉症の動物学博士。彼らの症状の不思議さからヒトの世界認識の方法を垣間見ると同時に、様々な生き様は人生の機微を感じさせる。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は An Anthropologist on Mars, by Oliver Sacks, 1995。日本語版は1997年3月15日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約298頁+訳者あとがき5頁。今はハヤカワ文庫SFから文庫版が出ている。9ポイント45字×20行×298頁=約268,200字、400字詰め原稿用紙で約671頁。長編小説なら少し長めの分量。
日本語訳は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。敢えて言えば病因の説明で脳神経科の話が出てくる程度。これも、わからなかったら飛ばして構わない。重要なのは「どんな症状か」であり、ソレさえ分かれば登場人物たちが感じている世界が伝わってくる。中学生でも理解できるだろう。
【構成は?】
謝辞
はじめに
色覚異常の画家
最後のヒッピー
トゥレット症候群の外科医
「見えて」いても「見えない」
夢の風景
神童たち
火星の人類学者
訳者あとがき
【感想は?】
病気とは、何かの機能を失う事だと思っていた。しかし、この本の登場人物たちを、「失っている」と表すのは、何か違う気がする。彼らは、別の形で世界を認識しているのだ。
最初の「色覚異常の画家」から、それが明らかになる。65歳の画家ジョナサンは、事故で色覚を失う。世界がモノクロに見えるのだ。画家として繊細な色覚を持っていた彼はうちのめされる。「かつては豊かな連想と感情と意味をたたえていた自分の絵が、見たこともない支離滅裂なものに変わっていた」。
ヒトが色を感じるのは、目に三種の錐体細胞(→Wikipedia)があるからだ。だが、ジョナサンの目には異常がないらしい。どころか、視力はむしろ良くなって「一ブロック先を這っている毛虫が見える」。
ヒトは色をどう識別しているのか。単に光の波長だけで判断しているわけではなさそうだ。「リンゴが反射する光の波長は、照明によって大きく変化するが、いつも赤だと感じる」。つまり、色は「脳の中で組み立てられるもの」らしい。コンピュータだと目はカメラで、脳がキャプチャ・ボードみたいな?
どうやらジョナサンは色を識別する脳の機構を失ったらしい。しばらくは色を失った事に苦しんだ彼だが、「一年あまりの実験と模索のすえに、I氏(ジョナサン)はそれまでの芸術家としての経歴に勝るとも劣らない力強い生産的な段階を迎えた」。彼を変えたのは、車内から見た日の出だ。
「太陽はまるで爆弾のように昇ってきた。巨大な核爆発のようだった」。その時に見た風景の感動が、彼をキャンバスに向かわせ、新しい作風に挑戦させた。
仮に同じ風景を私が見たら、どう感じただろう。たぶん、「すげえ」の一言で終わったと思う。「巨大な核爆発のようだった」とまで感じるのは、それだけ「見える」世界に感覚を研ぎ澄まし、心が大きく揺れ動くからだと思う。ジョナサンは色覚を失っても、芸術家としての感性は失っていなかった、そういう事だろう。
次の「最後のヒッピー」は、グレイトフル・デッド(→Wikipedia)が好きな私にはとても切ない話。
激動の60年代に青春を迎えたグレッグは、ドロップアウトしてヒッピー文化に染まってデッドヘッズとなり、クリシュナ教団に辿りつく。だが脳腫瘍で盲目となった上に、「新しい出来事を記憶できなくなった」。60年代の事は憶えていても、70年代の事は知らない。
この症状が奇妙で。新しいモノゴトは憶えられないのだが、ギターを始めると「レパートリーを増やすことも、コニー(音楽療法士)に教わった新しいテクニックや指使いを覚えることもできる」。「運動的な熟練や作業手順といった手続き記憶も損なわれていない」。いわゆる「体で覚える」類の事は、できるらしい。
著者は、そんな彼と共に、グレイトフル・デッドのコンサートを見に、マディソン・スクウェア・ガーデンへ出かける。60年代で時間が止まったグレッグだが、ここに集まった連中ときたら「1960年代に逆戻りしたような、あるいは一度もそこから離れなかったような感じだった」。わはは。やたらフケた奴ばっかしだけどねw
コンサートの前半は60年代の曲が中心のため、グレッグは大ノリ。だが後半になると、PIcasso Moon(→Youtube)など彼が知らない70年代以降の曲が中心となる。グレッグ曰く「未来的な音…未来の音楽なのかもしれない」。
ジェリー・ガルシア亡き今、グレイトフル・デッドの新曲はもう出ない。だがグレッグにとっては、デッドの新曲が沢山ある。グレッグの症状はとても悲しいものだが、デッドの新曲を新鮮な気持ちで楽しめるのは、少しだけ羨ましい気がする。
最後の「火星の人類学者」は、自閉症でありながら動物学博士となり、また事業を経営する女性、テンプルの話。人の気持ちがわからない、などと言われる事もある自閉症だが、彼女は明らかに豊かな感情を持っている、どころか家畜の気持ちには人一倍敏感だ。子牛と引き離された雌牛を見た彼女は…
「あれは不孝で悲しく、おろおろしている雌牛です。子供を求めているのです。子供を求めて鳴いて、探している。しばらくすればまた忘れて、やり直すでしょう。ちょうど、誰かを亡くして、悲しむようなものです。そういうことはあまり書かれていないけれど。ひとは、家畜にも思考や感情があるとは認めたがらないのです。スキナー(アメリカの心理学者、行動分析学の創始者→Wikipedia)は、認めないでしょう」
もしかしたら感情が伝わらないのではなく、受け取り方が違うのかもしれない。信号を受け取りそこなっているのか、信号に対し誤まった処理をしているのか。
この本に登場する人々は、我々と違う形で世界を認識している。そんな彼らの視点を通すことで、我々が世界をどう認識し把握しているのかが、少しだけ見えてくる。と同時に、世の中に適応しようとする彼らの姿は、ヒトの持つ豊かな可能性を感じさせる。
爆発的に進歩している脳科学の分野だけに、1995年の作品では医学的な部分が少し古くなっていて、鵜呑みには出来ない。素人の私でも、自閉症に関しては遺伝学的に大きな進展があった事ぐらいは知っている。だが、人間を描く部分は、当時も今も変わらない感銘を伝えてくる。ヒトに興味がある全ての人にお薦め。
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