アルフレッド・W・クロスビー「史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミック」みすず書房 西村秀一訳
このパンデミックは、海を越えて飛ぶような航空機もない時代にあって、数ヶ月で地球を一巡りしている。このときのインフルエンザの感染性は極端に高く、少なくとも不顕性のものを含めれば当事の全人類の大多数がこれに罹ったとさえいわれている。亡くなった人の数は3000万人を下らず、たぶん5000万人かそれ以上であった。
――日本語版への序文
【どんな本?】
第一次世界大戦の終戦が近い1918年、世界をもう一つの悲劇が襲った。俗称スペインかぜ、インフルエンザである。当時は原因であるインフルエンザ・ウイルスは発見されておらず、適切な治療法もない。しかもアメリカは第一次世界大戦のため、国を挙げて西部戦線への戦力投入に全力を傾けていた。
狭い場所で大人数が寝起きする軍は、インフルエンザにとって絶好の温床となり、陸海軍の将兵を蝕んでゆく。そればかりでなく、大西洋を越えての大量の兵員輸送は、インフルエンザの感染範囲を世界中に広げていった。
爆発的に広がり、しかも急激に症状が悪化した1918年~1919年のインフルエンザ。第一次世界大戦の陰に隠れ注目されにくいが、それは戦争の数倍の命を奪っている。
それはどう広がり、どんな被害をもたらしたのか。正体も適切な予防法も治療法もわからぬ状態で、アメリカはどう対応したのか。どんな対策が有効で、どんな対策が無駄だったのか。そしてインフルエンザはどんな影響をもたらしたのか。地政学・歴史学を専門とする著者による、1918年~191年のパンデミックのドキュメンタリー。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は America's Forgotten Pandemic - The Influenza of 1918, by Alfred W. Crosby, 1989。日本語版は2004年1月16日発行。なお原書の初版は書名「Epidemic And Peace, 1918」で1976年の発行。単行本ハードカバーで縦一段組み、本文約395頁+訳者あとがき6頁。9ポイント51字×20行×395頁=約402,900字、400字詰め原稿用紙で約1008枚。文庫本の長編小説なら2冊分ぐらいの分量。
お堅い本が多いみすず書房の上に、訳者はインフルエンザの専門家で、一般向けの著述を職業とする人ではない。だが、意外と日本語はこなれている。内容も特に前提知識は要らない。必要な事柄は、本文や訳注で補っている。敢えて言えば、細菌とウイルスの違いがわかっていることと、風邪で寝込んだ経験ぐらいだろう。
【構成は?】
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原則として時系列順に話が進む。素直に頭から読もう。
【感想は?】
たかが風邪と侮っていたが、とんでもない。看護という役割の偉大さが実感できる一冊。
俗にスペイン風邪(→Wikipedia)と言われるが、実はスペインとは何の関係もない。どうやら発生源はアメリカらしい。当時は戦争でどの国も報道管制を敷いており、参戦しなかったスペインが多くの情報を提供したため、そう呼ばれる事になったとか。
なぜ怖いのか。私が怖いと思ったのは三つ。第一に爆発的な感染力。先に引用したように、「当事の全人類の大多数がこれに罹った」。次に、突発的な発症。「見るからに健康だった者がほとんど動けなくなるのに発症からほんの1~2時間」。食事中に突然倒れるエピソードもある。そして最期に症状の重さと長さ。
体温は38.3~40.6℃にまで跳ね上がり、患者はおしなべて衰弱し、体中の筋肉や関節、そして背中や頭にひどい痛みを訴えた。みな、まるで「全身をこん棒で打たれた」ような感じと表現している。
それが数日続き、悪化すると肺炎を併発する。回復したって数ヶ月は体力が戻らず、マトモに仕事もできない。中には毛髪を完全に失ったエピソードもある。ひええ、恐ろしい←をい。
この三つが重なると、地獄絵図になる。日頃から顔を突き合わせている人同士が、一斉に発症して倒れるのだ。家族が全員倒れ、幼い子供がほったらかしになるエピソードも何回か出てくる。ご近所に助けを求めようにも、みんな倒れている。病院は突然の患者の急増で病室が埋まってしまう。
ばかりでない。肝心の医師・看護師まで倒れ、病院も機能しなくなるのだ。どないせえちゅうねん。
つまりは町が突然機能不全に陥ってしまうわけだ。これが船だと、更に悲惨な事になる。当時は第一次世界大戦中で、アメリカは西部戦線に必死になって将兵を送り込んでいた。ギッシリ将兵を詰め込んだ兵員輸送船が、大西洋の洋上を航海中に、乗員・乗客がインフルエンザを発症したら…
これ自体がゾンビ映画並の恐ろしい状況だが、現実は更に恐ろしい。船内で感染した将兵が、イギリスで下船して英国内にウイルスを撒き散らす。フランスに渡った将兵は、前線にウイルスを撒き散らす。倒れた将兵の輸送で輜重は混乱し、傷病兵で手一杯の野戦病院は完全にパンクする。
だが、幸いにして、戦線は崩壊しなかった。ドイツでもインフルエンザが猛威を奮ったからだ。
陸軍医療部隊は当初、この戦争を「病気による人員損失数が戦闘行為での損失を下回る合衆国にとっての初めての戦争」にするという目標を設定していたが、ほぼ達成寸前というところになって失敗していた。
結局、1:1.02で病気による損失が上回りましたとさ。
当時は原因もわからず、感染ルートも不明だった。なにせウイルスである。わかっているのは「どうやら感染症らしい」ぐらいで、予防法も治療法も手探りだった。できる事は人の行き来を制限して外からのウイルス襲来を防ぐのと、大規模な集会を控えて蔓延を抑えるぐらい。でも戦争中で、戦時債キャンペーンなどの群集が集まるパレードが盛んに行なわれ…
とはいっても、人の行き来を止めれば都市は生きていけない。この本にも隔離作戦で成功した例が出てくるが、太平洋の島サモアと、アラスカの幾つかの村ぐらい。日頃から外との往来が少なく、隣の集落とも距離があるケースばかりだ。
結局、都市では、パンデミックが起きるという前提で対策するしかない。既にパンデミックを経験したフフィラデルフィアに、サンフランシスコが問い合わせたところ、与えられたアドバイスは…
まず木工職人と家具職人をかき集め、棺作りを始めさせておくこと。次に、街にたむろする労務者をかき集めて墓穴を掘らせておくこと。そうしておけば、少なくとも埋葬が間に合わず死体がどんどんたまっていくといった事態は避けられるはずです。
これは皮肉でもなんでもない。フィラデルフィアでは遺体収容所があふれ、棺も墓掘り人も足りず、葬儀屋は値段を釣り上げていたのだ。もう一つ、フォラデルフィアは賢い対策をしている。予備訪問だ。いずれ医師と看護師が足りなくなる。そこで、情報センターを作り、そこの職員が助けを求める電話に応じて現場に出かけ、緊急度を確かめるのである。
実際現場に行ってみれば、単にインフルエンザについての情報提供や、不安をやわらげる励ましだけで十分だったケースがしばしばであり、この予備訪問制度のおかげで医療機関への紹介要請の約1/3がその段階で解決されたのだった。
終盤では、インフルエンザの病因を解明しようと努力する医学者・生物学者たちの奮闘を描いてゆく。この描写が、ある意味、科学の現場をリアルに伝えていて、この本に独特の価値を与えている。なにせ、間違った仮説に入れ込んだ例・失敗した事件が、次から次へと出てくるからだ。
科学の成功は、失敗の屍の山の上に築かれる。まずはファイファー棹菌を疑い、菌の培養技術を改良するが、空振り。連鎖球菌も外れ。動物実験で肺の病巣を再現できたと思ったら、当事の一般的な屠殺法の欠陥だった。結局は、一見遠回りに見える、イヌのジステンバーの研究が、活路を切り開く。
この本が紹介しているのは、失敗例のごく一部だ。それでも、科学は決して直線的に進んだわけではない事が、実によくわかる。例えば…
ファイファー棹菌は分離・培養が難しい。すぐに他の菌が混じり、ファイファー棹菌を圧倒してしまう。間違って培養プレートの蓋を開けっぱなしにした研究者は、カビを発生させてしまう。ところがこのカビ、邪魔な連鎖球菌は殺すが、、ファイファー棹菌は生きていた。この件で研究者は論文を発表する。
「ある種の培養アオカビの抗菌作用、特にそのインフルエンザ棹菌分離への応用について」。この論文で、彼アレクサンダー・フレミングは、画期的な抗菌物質ペニシリンの可能性を示唆したのだ。
この本は主にアメリカの統計や資料を元にしているため、アメリカの話が中心である。そのためやや偏った印象もあるが、資料が最も充実しているのもアメリカぐらいなんだろう。幸か不幸か当事のアメリカは多くの植民地を抱えていたため、アラスカやトンガなど様々な気候の地域のデータも参照できた。
初版が1976年で、改訂版が1989年と、今の科学の進歩を考えるとやや古いが、訳者も専門家なので、翻訳時点(2004年)で分かっている事柄は注などで補っている。今でも手軽な予防法・治療法は見付かっていないインフルエンザだが、パンデミックを防ぐ、または被害を最小限に抑える社会的な対策は参考になる。
結局のところ、最後の砦は自分の体力と献身的な看護なんだなあ、などと痛感する本だった。
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