ブルース・カミングス「戦争とテレビ」みすず書房 渡辺将人訳
CNN に出演する中国専門家は、「責任ある、信頼できる」とされている(どのようにしてそう分類されるのかまったく不明だが)プールされた一群の人びとから寸分違わずに選出された。この場合の信頼というのは、中国について信頼度の高い発言をするという意味ではなく、暗黙の共通認識となっているアメリカ人の中国観をくつがえすような真似はけっしてしないことへの信頼である。
【どんな本?】
ヴェトナム戦争では、テト攻勢の報道が合衆国の世論を厭戦へと変え、最終的には米軍の撤退へと動かしたと言われる。それは事実なのだろうか? 湾岸戦争では、現地から大量の映像が届いたが、そこには合衆国政府の作為はあったのか? ニュース番組には政治姿勢の偏りがあると思われているが、どれぐらいバリエーションに富んでいるのか。
シカゴ大学教授であり近代朝鮮史を専門とする著者が、現代アメリカの戦争テレビ放送の偏り具合とその原因を分析すると共に、著者が朝鮮戦争のドキュメンタリー番組の制作に関わり、北朝鮮への取材を行なった経験を元に、ドキュメンタリー番組が放送されるまでの過程を日記風に綴り、番組制作の裏側を報告する。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は War and Television, by Bruce Cumings, 1992。日本語版は2004年5月10日発行。単行本ハードカバー縦一段組で本文約302頁+訳者あとがき・解説12頁。9ポイント45字×18行×302頁=約244,620字、400字詰め原稿用紙で約612枚。少し長めの長編小説の分量。
学者さんの著作だけに、文章は少し硬い。朝鮮戦争・ヴェトナム戦争・湾岸戦争の報道を中心に取り扱っており、当時から現代までのアメリカの有名な政治家・軍人そしてニュースキャスターや論客の名前が頻繁に出てくる。そのため、上三つの戦争の大まかな流れと有名な事件や、アメリカの政治・軍事・マスコミの有名人を知っていると、内容が掴みやすい。
政治や軍事は軍オタならわかるが、マスコミ関係は日本人には馴染みがない。私がわかったのはマイケル・チミノ(→Wikipedia)とマイケル・ムーア(→Wikipedia)ぐらいだった。あとはウォルター・クロンカイト(→Wikipedia)の名前を聞いた事がある程度。
【構成は?】
日本の読者へ/謝辞/序論
Ⅰ
第一章 テレビとはなにか?
第二章 ドキュメンタリーとドキュドラマ
第三章 ヴェトナム戦争 はたして「テレビ戦争」だったのか
第四章 「ノーモア・ヴェトナム」 湾岸戦争
Ⅱ
第五章 始動 テレビ以前――知られざる戦争
第六章 準備段階 「他者」への接近
第七章 本番 最後の共産主義者を撮る
第八章 放送まで 「知られざる戦争」をめぐる駆け引き
エピローグ
訳者あとがき・解説/原注/索引
全体は大きく2部に分かれる。両者はほぼ独立しているので、片方だけを読んでもいい。
Ⅰ部はヴェトナム戦争と湾岸戦争を対比させて、テレビが戦争の報道で果たした役割を検証すると共に、現代アメリカのドキュメンタリー映像の制作状況や政策手法を紹介・検証してゆく。
Ⅱ部は、著者自身がドキュメンタリー番組の制作に関わった際の体験談だ。主題は朝鮮戦争で、北朝鮮へも取材で訪れている。;企画会議からシナリオ作成・取材・放送までの経緯を描き、ドキュメンタリー番組がどう作られるかの内幕物としても読めるし、北朝鮮取材の貴重な体験談としても興味深い。
【感想は?】
本書が取り上げているのはアメリカのテレビだが、だいたいの所で日本のテレビも変わらない気がする。
アメリカはテレビのチャンネル数が多い。著者は39のチャンネルを選べる環境にいるそうだ。どんな局や番組でも、何らかの立場に立って番組を作る。「第一に、テレビとはビジネスである」。どうしたって、片よりはでる。なら、多くの幅広い番組を見れば、中立な視点を得られる…んだろうか?
残念ながら、そういうワケにはいかないようだ。確かに様々な立場での報道はあるが、大半の局や番組は共通した偏りを持っている。アメリカの番組は、アメリカ人が見る。だから、視聴者の期待を裏切るモノは放送しない。ヴェトナム戦争でも湾岸戦争でも、視聴者が持つヴェトナム人やサダム・フセインの印象を覆すような視点は、提供しない。
ヤラセを好む体質も、日本と共通している。NBCから北朝鮮に関するインタビューを受けた著者の体験談だ。取材に来た記者は北朝鮮について何も知らず、番組の趣旨も知らない。それで45分のインタビューをしたが、放送されたのは10秒の音声だけ。これはCNNも同じで、30分のインタビューから放送されたのは6秒。悲惨だ。
私は昔からテレビのニュース番組、特に海外の紛争報道には大きな不満を持っている。「何が起きたか」は報道するが、「どんな歴史的な経緯で事件に至ったか」は、ほとんど触れない。軍事・外交系の本を読むようになったのも、ソレが知りたいためだ。が、これを読んで諦めがついた。無理なのだ、現状では。だって、作ってる人が知らないんだから。
テレビだけでなく、映画も槍玉にあげているが、マイケル・ムーアのロジャー&ミーには好意的だ。マイケル・ムーアは、その独特のスタイルを「ユーモアと知性と大胆さ」、そして左翼主義をはっきり示す点が好きらしい。つまり、「偏るのは仕方がない。どう偏っているのかを予め明らかにしろ」というわけだ。
対して、一時期は流行ったベトナム戦争をテーマにした映画はバッサリ切っている。フランシス・コッポラの「地獄の黙示録」、オリヴァー・ストーンの「プラトーン」、マイケル・チミノの「ディアハンター」。共通点は、というと。
ヴェトナム人は空白で無色透明の「他者」としてしか出てこない。これら三作品に共通して底辺に流れている感情は、「恐怖、とにかく訳のわからない恐怖」である。
米兵はそれぞれに顔があるけど、ヴェトナム人はみんな同じ顔をして、何を考えているのか全くわからない、誰が味方で誰が敵なのか、どこから撃たれるのか見当もつかない、そういう怖さだ。
ヴェトナムについで、豊富に映像が提供された湾岸戦争へと話は進む。ここでは、米軍の徹底した検閲を次々と暴くと同時に、あの戦争がヴェトナム撤退の屈辱を晴らすリベンジだったと述べる。たしかに、合衆国市民にとっては、そんな気分があったんだろうなあ。
などに続くⅡ部は、朝鮮戦争のドキュメンタリー制作に関わった著者が、番組制作の実態を綴った体験記。ここでは、テレビ番組制作の内幕と、取材で訪れた北朝鮮の報告が楽しい。制作陣には、けっこう毒舌。いきなり…
調査スタッフたちの文書史料の軽視と、目撃者の記憶に過度に信頼を置く傾向には驚かされた。また、目撃証言者の社会的地位が高ければ、それだけ信頼性も高いと思い込んでいた。
とカマす。完成した番組はそれなりに評価するものの、やはり不満タラタラの模様だけど、読んでいくにつれ、「しゃーないな」とも、他のテレビ番組が無難な姿勢ばっかりなのも、なんとなくわかってくる。
原因は、文書と映像の制作体制の違いだ。文書は、基本的に一人の人人間が作る。スタッフの協力を得る場合もあるが、結局は著者の独裁で方向性や内容が決まる。だから、極端な立場での作品も出てくる。
対して、映像は、多くの人による共同作業で作る。著者ばかりでなく、プロデューサーやディレクターや局の意向も番組に反映する。その結果、あまり極端な偏りは出にくい。著者は不満タラタラだが、自分の言い分で全部を仕切れた学者が本業の人にとっては、不満が残るのも当たり前って気がする。
と同時に、Ⅱ部で興味深いのは、やはり北朝鮮の描写だ。この時点では金日成の時代だけど、今でも大きくは変わらない…んじゃ、ないかなあ。
ビザ発行に手間取った挙句に北京から入るのだが、ここで早速トラブル。なんと、ビザが盗まれるのだ。再発行を求め北朝鮮の大使館に訪れるが、ひたすら待たされるばかり。これには裏があって、取材を終え平壌をたつ際に…
北朝鮮側の担当者のひとりが私に朝鮮語でこういった。「北京でのやりとりを憶えていると思うが、あなた方を受け入れる用意があのときはまだできていなかったのだ」。そう、つまり、連中が私のビザを盗んだのだった。
平壌では「見張り役がしっかりとついて、どこへ行くにも付き添う」。北朝鮮は戦争当事の米軍の残酷な行いを印象付けようとし、「北朝鮮人に会うとかならず空爆で亡くなった人の関係者に出会ってしまう」が、平壌では「老人と障害者が隠されており、見当たらない」。被害を訴えるなら、戦傷者を目立たせたほうが効果的だろうに。
どこにでもある指導者様の肖像、正体不明な「甘い肉」、円高の意外な影響、やっぱりな選挙の実態、平壌の外国人、平壌のテレビ事情、なかなか進まない取材の交渉など、北朝鮮事情は下世話な読み方をしても楽しかった。
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