ジョエル・G・ブレナー「チョコレートの帝国」みすず書房 笙玲子訳
あれは年増女を乙女にして
肉体は生き生きと動き出す
みんなが欲しがる例のあれ
チョコレートを一口飲めば
――ジェームズ・ウォッズワースミルトン・ハーシーは産業ユートピアの建設を夢見たのだ。働きたい者には仕事があり、子供は香しく爽やかな空気を吸って育ち、幸福は永遠に続き、住宅ローンは減ってゆく、そんな本物のチョコレートタウンだ。澄んだ水に澄んだ心。これがミルトンの思い描く、懐かしき我が家だった。
【どんな本?】
キスチョコで有名なハーシー社。創設者ミルトン・ハーシーは手作りのキャラメルから始め、大企業へと育て上げた後は、新製品開発の傍ら、ユートピア建設を夢みてハーシータウンを建設し、信託基金を設立して孤児院を作る。勤勉で職人肌のミルトンが育てたハーシー社は、保守的・家族的な社風を誇り、アメリカを中心にビジネスを展開している。
M&Mやスニッカーズでお馴染みのマーズ社を設立したのはフランク・マーズだが、社風はその子で攻撃的なビジネスマンのフォレスト・マーズの性格を反映している。給与は他社より優遇する反面、役員や従業員の勤務にも製品の品質にも完璧を求め、製品開発にも海外市場にも積極的に挑む。
一見、対照的な両社だが、共通点もある、極端な秘密主義だ。
ハーシー社とマーズ社、全米のチョコレート市場でしのぎを削る両社の歴史を軸に、アメリカの発展と共に変転してきた菓子産業の過去と現在や、人々を惹きつけるチョコレートの謎を絡め、ビジネス帝国アメリカの誕生と成長を描き出す傑作ノンフィクション。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Emperors of Chocolate : Inside the Secret World of Hershey and Mars, by Joel Glenn Brenner, 1999。日本語版は2012年5月22日発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約381頁+訳者あとがき6頁。9ポイント48字×19行×381頁=約347,472字、400字詰め原稿用紙で約869枚。小説なら長めの長編の分量。
文章は比較的にこなれている。内容もわかりやすく、読みこなすのに特に前提知識は要らない。強いていえば、両社のチョコレートを食べた経験ぐらい。
日本の菓子メーカーのチョコレートの多くは市場に合わせたのかマイルドな舌触りにアレンジされてるけど、他国の製品は甘みが強かったりザラつく舌触りだったり香りにクセがあったり、たかがチョコレートと言ってもバラエティは豊かで、人により好みが大きく違うことを知っていれば充分。
【構成は?】
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基本的に時系列順に話が進むので、素直に頭から読もう。
【感想は?】
マーズ社の代表製品m&mは、「お口でとろけて、手にとけない」のキャッチフレーズで有名だ。最初のmはマーズのm。では二番目のmは?
Murrie のm。R・ブルース・ムリーのmだ。ブルースの父はウィリアム・ムリー、ハーシー社の元社長で、ミルトン・ハーシーの片腕だった男。
「第1章 チョコレート戦争」は、物騒な状況で始まる。1990年7月31日、イラク軍のクウェート侵攻直前に、マーズ社の中東担当マネージャーのオマール・シャリールが、拠点のクウェートシティのホテルから姿を消す。酷暑のアラビア半島では、チョコレートが溶ける。店頭のチョコレートを冷やすマーズ社特製のフリーザーで、湾岸の小売店の店頭を占拠するのがシャリールの任務だ。
さすがに「ギブミーチョコレート」とGIに叫んだ読者は少ないだろうが、チョコレートと軍の関係は深い。どうも進駐軍が配ったチョコレートはハーシー社製らしい。当事の「軍への売上実績のトップはもちろんハーシー」。手軽で高カロリーだから、軍用食品としては理屈にあってる。
というとミルトン・ハーシーは物騒な人のように思えるが、実は「誰もが豊かに暮せる町」を夢見て私財をはたいてハーシータウンを作り、孤児や貧しい子供たちを受け入れるミルトンハーシースクールを開設している。経営はハーシートラスト、ハーシー社の最大株主だ。元CEOのリチャード・ジマーマン曰く「最大株主が孤児院なんて会社、どこにありますか?」
子供はできなかったが、両親と奥さんを深く愛し、勤勉に働いて社会に奉仕する事で尊敬されようとする、古きよきアメリカ人の典型みたいな人だったりする。勤勉さと質素な生活スタイルは母親譲りだが、父親譲りのヤマッ気も多く、新製品開発には率先して取り組む。
これに対比するのがマーズ社。大きく飛躍させたのは二代目のフォレスト・マーズ。イェールの学生時代から、処分品のネクタイを仕入れて学友に売り商売を始める。欧州へ渡り工場で働き、チョコレート作りの技術を見よう見真似で学ぶ。
チョコレート進化の表舞台に立つヨーロッパでは、スパイがはびこったせいで、メーカー側が探偵を雇って従業員を調べるようになった。
これが現在の秘密主義の源流らしい。企業家精神旺盛で完璧主義のフォレストは、イギリスでチョコレート・バーを作り売り出す。従業員には高給を支払う見返りに、完全な献身を求める。
品質維持のためチェックアンドバランスの複雑なシステムを作り、不具合に気づいたら製造ラインを止める権限を従業員全員に与えた。その権限を行使しない者は激しく叱責された。
市場開拓に熱心なマーズ社を象徴するのが、ロシアおよび東欧市場。ソビエト崩壊から間もない1990年1月4日、モスクワに臨時だが店舗を開き、開店を待つ人々は400m以上の列を作った。キャンペーンは1989年11月17日から始めている。「マーズはロシアの菓子売上の40%以上を占める、国内最大の菓子メーカーだ」。
今はウクライナを巡ってアメリカとロシアが睨みあってるけど、この辺を読むと「オオゴトにはならないんじゃないか」って気がしてくる。マーズ社以外にもロシア市場に進出している欧米企業は多いし、それらは衝突を避けるべく熱心にロビー活動するだろうから。
ハッカー精神旺盛な食品肌で謹言実直なミルトン・ハーシー、機会を逃がさぬ鋭い目とビジネス拡大の熱意に燃える起業家フォレスト・マーズ。両者を対照させる人間ドラマも面白いが、これは同時にアメリカの産業界の歴史でもある。手作りで菓子を作り売っていた19世紀末から、大規模な機械化が進んだ現代までの変転は、グローバル化の流れそのもの。
かつて手作りの零細・小企業が中心だった菓子業界も、吸収合併が進んでいる様子。日本はどうなんだろ。和菓子屋はまだ残ってるけど、最近は羊羹もメーカー品がビニールに入ってスーパーで売ってるし。でもたい焼き屋はアチコチにあるなあ。
当然、私たちを魅了してやまないチョコレートの歴史と製法も、ちゃんと扱っている。と言っても実際のレシピは秘密なんだけど。チョコレートの歴史は古くて、「考古学の世界では、なんと紀元前一千年の昔にメソアメリカの古代人たちが楽しんでいた証拠がある」。征服者エルナン・コルテス(→Wikipedia)がスペインにカカオ豆を持ち帰る。
カルロス一世はチョコラトルに魅了され、東洋から運ばれた蔗糖で甘味を加えて楽しむ一方、チョコラトルのレシピを守って改良を加えるよう修道院に命じる。
次第に上流階級にも広がってゆく。チョコーレートが持つ高級感は伊達じゃないのだ。ただし当事のチョコレートは飲料。以後、オランダ人科学者コンラッド・バンホーテンやスイスのダニエル・ペーターとアンリ・ネスレなど、どっかで聞いた名前の人が様々な改良を施し…と、これだけでもワクワクしてくる物語だ。
製品の広報に熱心なマーズ社に対し、広告には及び腰のハーシー社が、初めて映画とタイアップした話も楽しい。直前に作った映画が大コケした監督の新作で、グロテスクなエイリアンと9歳の少年が出てくる作品。少年が撒いたハーシー社のリーセスピーセスに、エイリアンがおびき寄せられる。あなたなら、このタイアップの話、受けます?
ちなみにコケた映画は1941(→Wikipedia)。ジョン・ベルーシが暴れまわるドタバタ・ギャグの怪作で私は大好きなんだけど、今は黒歴史扱いされてる。監督の名はスティーブン・スピルバーグ、新作はE.T.。
謎が多く調整が困難なレシピと、市場競争力のために強いられる大規模工業化の板ばさみ。原材料のカカオは価格変動が激しい上に品種による違いも大きく、児童労働が問題になっているなどの企業側の話も面白い。同時に、チョコレートが含む化学物質は未だ分析し切れておらず、チョコレートが人にもたらす幸福感も原因が分かっていない。
世界の覇者として勃興してくるアメリカを象徴するハーシー社・マーズ社の歴史を辿りつつ、不思議な、でも皆を虜にするチョコレートの秘密に迫った力作。人間ドラマとして、企業の成長物語として、美味しいお菓子の来歴として。複雑な味を絶妙に絡めたノンフィクションの傑作だ。
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