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2014年8月26日 (火)

マシュー・グッドマン「ヴェルヌの『八十日間世界一周』に挑む 4万5千キロを競ったふたりの女性記者」柏書房 金原瑞人・井上里訳

今夜ニューヨークを発ってサンフランシスコへ向かい、そのまま世界を一周してくれないか――それも、できるかぎりの手をつくして史上最速で。
 エリザベスが返事をするまでに少し時間がかかった。一瞬冗談をいっているのかと思ったが、ウォーカーはにこりともしなければ、それ以上なにかいうこともない。

「世界一周をしたいんです」ネリーはいった。「八十日かもっと短い期間で。わたし、フィリアス・フォッグの記録を破れると思います。挑戦させていただけますか?」

【どんな本?】

 ジュール・ヴェルヌが1872年に著した「八十日間世界一周」は、世界的なベストセラーとなる。イギリスの紳士フィリアス・フォッグ氏が八十日間で世界を一周できるか賭けをして、地球を駆け回る爽快な冒険物語だ。

 その17年後の1889年11月14日、フォッグ氏に挑戦する者が現れる。しかも二人同時に。ネリー・ブライ(→Wiikipedia)とエリザベス・ビズランド(→Wiikipedia)、いずれもアメリカ人の若い女性ジャーナリストである。

 常識の枠を超えた発想を大胆な行動力で実現し、ニューヨーク・ワールド紙のヒット記事をモノにしてきた突撃型の新聞記者、ネリー・ブライ。豊かな読書量に支えられた教養と繊細な表現力で、月刊のコスモポリタン誌のコラム「書斎から」を担当してきたエリザベス・ビズランド。

 一見、対照的な両者ではあるが、共通点もある。出身は決して豊かではないこと。男社会のアメリカ、それも競争の激しいニューヨークで、己と家族の食い扶持をペンで稼いできたこと。そして社会における女性の立場を女性の視点で暴く論調であること。

 二人の旅は無事に進むのか。当事の交通機関や旅行事情はどのようなものなのか。二人が見たアメリカ西海岸・フランス・インド・香港そして日本の印象は、どんなものか。当事のアメリカの新聞・出版界はどんな様子だったのか。ネリーとエリザベスのいずれが勝者となるのか。

 若い女性が単独で世界を一周するという、無謀とすらいえる旅行を成し遂げた両者を軸に、当事の世界情勢やアメリカの報道界の事情を織り込んだ、歴史と冒険のドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Eighty Days : Nellie Bly and Elizabeth Bisland's history - making race around the world, by Matthew Goodman, 2013。日本語版は2013年11月10日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約533頁に加え、訳者あとがき4頁+石橋正孝の解説「19世紀という時代の立体写真」6頁。9.5ポイント43字×19行×533頁=約435,461字、400字詰め原稿用紙で約1089枚。長編小説なら2冊分の大容量。

 文章はこなれていて読みやすい。読みこなすのにも、特に前提知識は要らない。背景となる当事の世界情勢やアメリカ社会の様子も、本書中でわかりやすく説明してあるので、心配はいらない。この旅行を可能とした要素は二つ、スエズ運河と大陸横断鉄道なのだが、それについても自然に書き込んでいる。

【構成は?】

  • プロローグ
  • 1 自由なアメリカン・ガール
  • 2 ゴッサムに住む新聞の神たち
  • 3 ひみつの食器棚
  • 4 「女性が世界一周するのにかかる時間は?」
  • 5 「フィリアス・フォッグの記録をやぶってみせる」
  • 6 鉄道標準時を生きる
  • 7 世界地図
  • 8 我アルカディアに在りき
  • 9 バクシーシェ
  • 10 中国のイギリス人街
  • 11 ネリー・ブライ・レースのはじまり
  • 12 ライバルのリード
  • 13 死の寺院
  • 14 不思議な旅行代理人
  • 15 臨時列車
  • 16 ジャージーからふたたびジャージーへ
  • 17 時の神を打ち負かす
  • エピローグ
  • 謝辞/訳者あとがき
  • 解説:19世紀という時代の立体写真 石橋正孝
  • 原註/参考文献

 お話は時系列順に進んでいくので、素直に頭から読もう。

【感想は?】

 主人公の二人、ネリー・ブライとエリザベス・ヒズバンドの対照と共通点が、この本のキモだろう。

 ネリー・ブライは行動の人。患者虐待の噂を聞いては精神病院に潜入し、紙工場で低賃金で働き、貧民街の診療所で怪しげな治療を受け、暗黒街の取引に踏み込み、メキシコに渡って数ヶ月生活する。発想力も凄い。そもそも、80日間世界一周の企画を作り売り込んだのは、ネリー自身だ。頭もいい。

 アテもなくニューヨークに出てきたネリーだが、半端仕事で食いつなぐ毎日。当事の報道界は男社会で、女性記者はファッションやゴシップしか書かせて貰えない。そこにファンから手紙が来る。「ニューヨークで女性記者は成功できますか?」 いや無理でしょ、と書こうとしたネリーだが、ここで発想を転換する。

 他社の新聞記者を装い、ニューヨークの大新聞社のデスクにインタビューを申し込むのだ。そして、こう尋ねる。「女性がニューヨークで記者になるにはどうすればいいでしょう?」

 対するエリザベス・ヒズバンドは、没落した南部の名家のお嬢様。かつては豊かでも、今は厳しい暮らし。幼い頃から本に親しみ、20歳の時に文芸誌に詩を投稿し始める…B.L.R.ディーンという男性のペンネームで。これが気に入った編集長のペイジ・M・ベイカーが、問い合わせを寄越す。「そのあたりにディーンという名の詩人がいないか?」

 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアみたいなエピソードだ。ちなみに、この時ディーンをプッシュしたのは、文芸局編集者のラフガディオ・ハーン。そう、小泉八雲(→Wikipedia)だ。どうやら、小泉八雲に日本趣味を吹き込んだのはエリザベスらしい。日本に寄港したときの描写は、かなり好意的だし。

 知的で穏やかな印象のエリザベスだが、女性の地位にも深い関心を抱いていたり。ニューオーリンズでは、婦人協会を組織して初代会長に選ばれている。

 エリザベスの出発は慌しい。冒頭にあるように、エリザベスが出発を命じられたのは、なんと当日の朝。無茶苦茶だ。穏やかな印象の奥に潜む逞しさに、社主のジョン・ブリスベン・ウォーカーは気付いていたんだろうか。

 冒頭に両者の旅程の地図が載っている。ネリーはニュージャージーから大西洋に乗り出す東回り、エリザベスはニューヨークから大陸を横断する西回り。出発して早速、船酔いに苦しむネリーが可愛い。エリザベスは食事を摂るヒマもなく、シカゴ駅の軽食堂でひとりで食べている。この行為も「当時は非常識だと見なされた」。

 今の日本でも、吉野家で若い女性が一人で牛丼を食べるのは滅多に見かけないけど、そんな感じかな?

 なんにせよ、旅に出たら、生活は普段どおりにはいかない。寝る所も食べるものも違う。ネリーはメキシコ取材などで慣れているが、エリザベスは…というと、意外と素直に順応しちゃってたりする。初めての外国、日本の感想は…

「アメリカは蒸気トラクターと大きな新聞社のある平凡な国。でもここは、磁器と詩歌の国、どんなにありふれた場所にも美しい物がある国だわ」

 などの二人の旅行に交え、当事の苛烈な火夫や車夫の仕事、アメリカに移民した中国人の厳しい暮らし、船室の等級による露骨な差別、ブルーリボン賞に象徴される蒸気船の進歩など、当事の人々の暮らしや変わってゆく世界の様子も生き生きと描いてゆく。

 と同時に、その奥にあるのは、世界を制覇している大英帝国の影だ。香港、シンガポール、コロンボ、アデン、スエズ運河。太平洋・インド洋・地中海の要所は、全てイギリスが押さえている。これに対するネリーとエリザベスの感想も対照的で、それは当事のアメリカの対英感情も象徴していたり。

 ゴールが近づくにつれ、盛り上がるアメリカの世論と、それを煽り利用するニューヨーク・ワールド紙の手並みのあざとさは、AKB商法すらしのぐ。ネリーの世界一周にかかる時間を賭けにするのだ。正解者には世界一周旅行をプレゼント。ただし、応募にはニューヨーク・ワールド紙に付属のクーポン券を忘れずに。

 そして便乗して氾濫するキャラクター商品の数々。ドレス、手袋、スクールバッグ、人形、万年筆、お菓子、ノート、コーヒー、タバコ、ベーキングパウダー。現代のマスコミの手口は、この時に既に出尽くしていたのかも。

 勝者・敗者ともに、この旅行はその後の人生に大きな影響を与えてゆく。これを踏み台にして羽ばたこうとするネリー、心の奥に仕舞いこみながらも、晩年に再び極東を訪れるエリザベス。

 対照的に見えながら、実は二人とも厳しい男社会の中で、自らの力で人生を切り開いてきた女性だ。その二人を中心に、当事のアメリカ社会や世界の様子も生き生きと描いてゆく。科学と工学が世界を切り開き、人々が闇雲な活気に満ちていた時代を、社会の頂点から底辺まで描いた、ノスタルジックだけどダイナミックな本だ。

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