デイヴィッド・クレイ・ラージ「ベルリン・オリンピック1936 ナチの競技」白水社 高儀進訳
「党とドイツの若者にとって、ベルリンでオリンピック大会を催すことは、国家社会主義の教義によって世界が征服された象徴なのである。もしオリンピックがベルリンで催されなければ、それは新生ドイツの国内で国家社会主義の名声が蒙る最も深刻な打撃の一つになるし、外部の世界が国家社会主義の教義についてどう考えているのかを、ドイツの若者に示す最も効果的な方法の一つになるだろう」
――ベルリン駐在アメリカ総領事ジョージ・メサースミス
【どんな本?】
クーベルタン男爵の尽力により1896年のアテネ大会から始まった近代オリンピック。発足当初はあまり注目を集めず、予算も少なく、選手たちは参加するのに苦労した。だが次第に規模も大きくなり、選手たちの待遇も充実し、世界的にも注目を集め始める。
第一次世界大戦の中断をはさみ再開したオリンピックは、1932年のロサンゼルス大会で斬新な試みを多数投入し、大成功を収める。ドイツ・オリンピック協会のテーオドール・レーヴァルトとカール・ディーム、そしてIOC会長のバイエ=ラトゥールは、次のベルリン大会も成功させるべく奔走する。
だが、当事のドイツ首相アドルフ・ヒトラーはオリンピックを「フリーメーソンとユダヤ人の陰謀」と非難していた。そして諸外国は、急激に成長するドイツの国家社会主義に警戒を強めてゆく。
様々な思惑が渦巻く中で開催された1936年のベルリン・オリンピックを、ナチスは政治宣伝に徹底的に利用する。近代オリンピックとIOCの歴史と内情・政治とスポーツの関係・話題の映画「オリンピア」創作秘話に加え、四冠王ジェシー・オーエンスを初めとするベルリン・オリンピックで活躍した選手たちのエピソードを豊富に収録した力作ドキュメンタリー。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は NAZI GAMES - The Olympics of 1936, by David Clay Large, 2007。日本語版は2008年8月10日発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約527頁+訳者あとがき4頁。9ポイント45字×20行×527頁=約474,300字、400字詰め原稿用紙で約1186枚。長編小説なら2冊分ぐらいの分量。
文章は比較的にこなれている。読みこなすのに前提知識も特に要らない。敢えて言えば、第二次世界大戦前夜のドイツを中心とした欧州情勢がわかっていると、緊張感が増す。スポーツに関しても、テレビのオリンピックやワールドカップのダイジェスト番組を見て楽しめる程度の興味があれば充分。
【構成は?】
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原則として話は時系列順に進むので、素直に頭から読もう。やたら登場人物が多いので、できれば主要登場人物一覧か、人名索引が欲しかった。
【感想は?】
著者の政治的なメッセージがハッキリと出ているので、人によっては不愉快かも。メッセージはこうだ。
「1936年のベルリン・オリンピックを、ナチスは徹底的に政治宣伝に利用した。当時は足元が危ういヒトラー政権は、大規模なボイコットがあれば態度を変えただろう」
よって、国家社会主義を支持する人や、オリンピックはボイコットすべきでないと考える人には、不愉快な本だろう。書評には評者の立場も影響するんで、私の立場も明記しておく。私は国家社会主義が嫌いだ。ボイコットについては、わからない。読む前は何も考えていないから、わからなかった。読んでから色々考えたが、やっぱりわからない。
内容的には、競技の話が半分ほどで、政治やIOCの内情などが残りの半分を占める。書名やカバー・デザインは白水社の「地名○○19xx」シリーズみたいだが、ベースボール・マガジン社から出ても違和感がない本だ。
選手では、やはり表紙にも出ている四冠王ジェシー・オーエンス(→Wikipedia)の話題が多い。走り幅跳び予選で最初の機会をウォーミングアップと勘違いしたアメリカのオーエンス、あせりまくって二回目もミスる。そこに声をかけたのがドイツのルッツ・ロング(→Wikipedia)。オーエンスを崇拝するロングは、たどたどしい英語で話しかける。
「あなたの実力なら数インチぐらい踏み切り板の前から跳んだって予選は通過できるでしょう」
ヒトラーの人種差別政策への反発がボイコットにまで発展しそうだった経緯と、オーエンスが黒人である事実を考えれば、なかなか感慨深い。両者は競技後、腕を組んでトラックを歩く。「ナチのベルリンの通りだったら二人とも逮捕されうる振る舞いだった」。
この話には後日譚がある。1951年8月22日、巡業でベルリンのオリンピック・スタジアムを訪れたオーエンスに、少年がサインを求める。少年はロングの息子だった。ロングは第二次世界大戦で戦死していた。オーエンスは語りかける。
「君と僕は話をして、お互いのことを知らなくちゃいけない」
かくして遺族との友好は末永く続きましたとさ。
やはり爽快なのが、イタリアの女子四百メートル障害物競走のトレビソンダ・「オンデーナ」・ヴァラ。当事のイタリアじゃ女性のスポーツは受け入れられず、ロサンゼルス大会では法王ピウス11世の反対で女子選手を送れなかった。「女は家」って発想。だがイタリアの宣伝になると考えたムッソリーニは、ベルリンに7人の女性を送り込む。
見事金メダルを獲得したヴァラは…
「スポーツの成果を称えるイタリア金メダル」をムッソリーニから貰った。そして法王でさえ、彼女と握手をした。それは、イタリアの女性にとって大きな飛躍だった。
ってな綺麗な話ばかりでなく、各種のインチキやえこひいきの話も沢山ある。競技ごとの性質も面白くて、選手・観客ともに血の気が多いアイスホッケーとサッカー、予めルール等を説明するために講演会まで開いたのにイマイチ盛り上がりに欠けた野球。日本人読者としては、マラソンのソン・ギジョン(→Wikipedia)が印象深い。
個人が競う事を目指したクーベルタン男爵の理想は、各国のナショナリズムに飲み込まれてゆく。当初は消極的だったナチスも、態度を急変させ徹底的に政治宣伝に利用する。ヒトラーの宣伝が巧みで、合ったらしいメディアの利用に積極的だたった由は、ラジオの利用に現れている。「我が闘争」に曰く。
「その使い方を知っている者の手に落ちると、それ(ラジオ)は恐るべき武器になる」
ってんで街頭にスピーカーを設置してオリンピック番組を流す。好評だったのはいいが…
スピーカーの欠点は、放送を聴こうと歩行者が立ち止まるだけでなく、乗用車やトラックの運転手も停車することが多く、交通警官にとって悪夢のような事態になったことである。
オリンピックの宣伝効果に気づいたのは他国も同じ。ユダヤ人差別を非難する各国はボイコットを検討するが、足並みは揃わない。アメリカのユダヤ人団体は反対でまとまるが、おなじ被差別側の黒人は二派に分かれる。有色人種が表彰台に立てばチョビ髭オヤジの面子を潰せる、と。
宣伝が目的だけに、一時的にヒトラーもベルリンじゃ体裁を取り繕う。反ユダヤの新聞を隠し、選手には尾行をつける。郵便物は徹底的に検閲し、カメラマンはドイツ人ばかり。その分、他では色々とサービスして…
近代オリンピック揺籃期の驚きエピソードから始まり、ボイコットの賛否両論からスポーツ関係者の姿勢、商売熱心な開催地の住民、そしてレニ・リーフェンシュタールの問題作「オリンピア」制作秘話など、下世話で楽しい話題が満載。一見、おカタい本に見えるし、そういう部分もあるが、むしろ芸能・スポーツ系の本として楽しめる本だった。
でもやっぱり、オリンピック参加のボイコットの是非は解が出せません、はい。
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