« トビー・グリーン「異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖支配」中央公論新社 小林朋則訳 | トップページ | SFマガジン2014年7月号 創刊700号記念特大号 »

2014年6月 1日 (日)

村上春樹「アンダーグラウンド」講談社文庫

 一緒に小伝馬町の駅前でほかの乗客の救助にあたっていた人たちの姿を、病院で何人も見かけました。みんな救助しているときにサリンを吸い込んで、それで自分も具合悪くなっちゃったんですね。そういうことを僕はこのまま黙っていたくないんです。
  ――当時28歳の男性

【どんな本?】

 1995年3月20日の月曜日。東京都の地下鉄の複数の駅で体調不良を訴える人が続出し、多数の人が駅周辺で倒れたり座り込んだ。オウム真理教が毒ガスのサリンをまいた同時多発テロ、地下鉄サリン事件(→Wikipedia)である。13人が亡くなり、3800人以上が重軽傷を負った。

 被害者はどんな人生を歩んできたのか。何が好きでどんな仕事をしているのか。休日は何をしているのか。その日はどう出勤し、どこでテロにあい、何を見て何を考えどう行動したのか。その時、現場の状況はどうだったのか。救出・治療体制はどうだったのか。どんな症状があり、体調や生活にどんな変化があったのか。

 ベストセラー作家の村上春樹が、62人の被害者や関係者にインタビューを重ね、その生の声を伝えるノンフクション。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 初出は1997年3月30日、講談社より単行本で出版。文庫版は1999年2月15日第1刷発行。私が読んだのは2009年8月3日の第30冊。 凄い売れ行きだ。文庫本縦二段組で約762頁。8ポイント21字×19行×2段×762頁=約608,076字、400字詰め原稿用紙で約1521枚。長 編小説なら3冊分の大容量。

 ベストセラー作家だけあって、文章は読みやすい。ただし、いつものハルキ文体ではない。インタビュー集として語り手の雰囲気を伝えるためか、「です・ます」調が基本の文章になっている。語り手に一人だけ英語ネイティブの人がいて、そこだけハルキ文体なのがニヤリとさせられる。

 読むのに前提知識は要らないが、若い人は事件そのものを知らないかも。松本サリン事件(→Wikipedia)や坂本弁護士一家殺人事件(→Wikipedia)などを、軽く調べておくといいだろう。また、事件のあった路線や駅周辺に詳しいと、迫力が増す。被害者の多くが家庭を持つ勤め人であり、同じ立場の人なら身につまされるだろう。

【構成は?】

 「はじめに」
千代田線 9本
丸の内線(荻窪行き) 9本
丸の内線(池袋行き/折り返し) 3本
日比谷線(中目黒発) 8本
日比谷線(北先住発中目黒行き) 32本
 「目じるしのない悪夢」

 各インタビューは、二つの部分からなる。一つは著者が2頁ほどで語り手を紹介する部分、もう一つは語り手が語る10頁~20頁ほどの本文。また、各路線の冒頭で、その路線で起きた事件のあらましを2~3頁で解説している。興味のある所だけ拾い読みしてもいいが、実際に起きた事を把握するには、頭から順番に読むほうがいい。

【感想は?】

 事件の実態が、自分が思い込んでいたのと全く違うのに驚いた。

 恥ずかしい話だが、同時多発だって事すら私は知らなかった。当時、私にとっても身近な事件だったのだが。知人が一本違いで被害にあわずに済んだのだ。

 毒ガスの恐ろしさも、よくわかる。そもそも毒ガスだという事に、なかなか気づかないのだ。まず、多くの人が咳をしはじめる。息苦しさのようなものを感じた人もいる。そこで、大半の人が「毒ガス」などとは考えず、「風邪ひいたかな、花粉症かな」と、自分の体調のせいだと考えている。時期的にも季節の変わり目で、微妙な頃ではあるのだけど。

 匂いがあるという人もいるし、ないという人もいる。あるという人の大半は「なんともいえない匂い」といっているが、特に刺激的でもないらしい。ただ一人、「イソプロピルアルコールのにおい」と証言している人がいる。仕事で扱いなれているそうだ。事実、サリンの溶剤としてイソプロピルアルコールを使っていた。ってことは、サリン自体は無臭なのか。

 この時点で気分が悪くなり立てなくなる人もいるが、多くの人は強い自覚症状がない。だもんでウロチョロと動きまわる。駅でも何人かが倒れるのだが、ソレと自分の症状を結びつけて考える人は少ない。今から思えば「おかしいだろ」なんだが、もしかしたらサリンの作用で一時的に思考能力が落ちるのかもしれない。

 サリンが入った袋は駅員さんが手で片付けたり、乗客が蹴り出したりしている。床に水のような液体が溜まっているんだが、誰もソレと自分の悪さを結びつけて考えていない。まあ、普通は自分がテロに遭うなんて考えないし、爆弾と違い大きな音や煙が出るわけでもない。静かに被害が広がってゆく。

 そのため、丸の内線などは折り返し運転までしている。異常の原因が何なのか、なかなか掴めなかったのだ。

 息苦しさと喉のいがらっぽさの後は、世界が暗くなる。縮瞳と言って、瞳孔が小さくなる。この時点でフラつく人もいるが、やはり元気に歩き回る人もいる。この取材では、構内や出口の階段で縮瞳がおきた人が多い。その後、涙や鼻水が止まらなくなる。動けなくなるのは、その後だ。つまりジワジワと効いてくるのである。

改めて考えると、ジワジワ効くはサリンの症状ではなく、髪や服についたサリンを吸い込んだためかも知れない。

 喉がいがらっぽく、視野が暗く、鼻水が止まらない。こういう症状で、「テロにあった」と思う人は少ない。この本でも、多くの人が「暫く休んでりゃ治るだろう」と考えている。職場のテレビでテロの報道を見て、やっと病院に行った、という人も多い。

 そう、皆さん「とりあえず出勤しなくちゃ」と考えているのだ。私も最初は「日本人の勤勉さ」と思っていたんだが、もしかしたらサリンの作用で一時的に思考能力が低下し、本能的に慣れた行動に従った可能性もある。

 などのサリンの怖さも重要だが、それ以上に、この本の特徴は、語り手の人生や生活に踏み込んでいる点だ。登場する人の大半が勤め人なんだが、実に世の中には様々な仕事があるんだなあ、と感心する。ネジに5桁もの規格があったり、呉服を一人で扱ってたり、問屋で先物取引を扱ってたり。

 今の職に就いた経緯も様々だけど、親戚や知人に誘われた、というケースが多い。コネってほどでもないが、やはり雇うなら直接に見知っている人なら安心できる、って事なんだろうか。まあいい。そんな風に、「自分が知らない人の生活や人生に触れる」という、ちょっと下世話な面白さもあるのだ、この本は。

 ちょっと意外なのが、官公庁関係は全般的にガードが固いのに対し、防衛庁は協力的だったという点。勝手に想像すると、原因は三つ。

 一つは組織として取材慣れしていること。やはり作家などに取材される事が多いんだろう。もう一つは、情報管理のルールがハッキリしているんじゃないか、という事。機密情報の多い組織だけに、「公開していい事・マズい事」が明確に規定されていて、そのために、中の人も「話していい事」を充分に了承しているんじゃないかな。三つ目は、立場的に事件の実態を多くの人に知って欲しいと望んでいること。いや三つとも、全く根拠はないんだけど。

 後遺症は人によりけりで、しかも大半が歳のせいかどうかハッキリしない。全般的に目の焦点を合わせようとすると頭痛がする人が多いようだ。症状への対処も様々で、それぞれの人柄が出ている。中には勤め先が気を回して「暫くは負担の軽い職場に」と異動したのに、「もっとバリバリやりたい」と感じる人もいて、なかなか難しい。

 中でも深刻なのが、「必ず仮名にして欲しい」と念を押す人。「オウムにつけ狙われるんじゃないか」と不安を感じているのだ。そもそもオウムが一体何を考えていたのか、私もわからない。不安を感じるのも当然だろう。

彼らのやっていることがあまりにも荒唐無稽で、漫画的すぎて、ピエロの仮面の奥にあるその底なしの恐ろしさを、見通すことができなかったということです。

 私も見通せなかったし、今も見通せない。

 多くの人を救った英雄的な行為も出てくる。松本サリンの経験から得た対応策を都内の病院へファックス送信した信州大学医学部の医師、そこらを走る一般車両を止めて被害者を搬送した人、被害者を救いに構内へ何度も戻った人、そして最後まで奮闘した地下鉄職員。

 著者は敢えて整理せず、関係者の生の声を伝えようとしている。矛盾する証言もある。全体を通して一貫するテーマのようなものは、なかなか見つからない。下の関連記事も、選ぶのに苦労した。「こんな本ですよ」と一言で説明できないのだ。それこそが、この作品の価値なんだと思う。

【関連記事】

|

« トビー・グリーン「異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖支配」中央公論新社 小林朋則訳 | トップページ | SFマガジン2014年7月号 創刊700号記念特大号 »

書評:ノンフィクション」カテゴリの記事

コメント

私はなにげなく「こうばいつきげ」と読んでいましたが、疑問を感じて確認するあたりは、さすがにプロだと感心します。改めて見ると、「こうばい」は音読みで「つきげ」は訓読みですね。でも「べにうめつきげ」はリズムが良くないし。

投稿: ちくわぶ | 2014年8月 4日 (月) 23時05分

ありがとうございました。私は、時々、小さな喫茶店等で朗読をやりますので、読み方わからなくて困ってました。ありがとうございました。私は、元は役者でした。ありがとうございました。金田拓三(かねだたくぞう)

投稿: たく | 2014年8月 3日 (日) 12時51分

「こうばいつきげ」で正解のようです。「山本周五郎作品館」(http://homepage3.nifty.com/yamashu-kan/index.html)の「おごそかな渇きのページ」(http://homepage3.nifty.com/yamashu-kan/sub4s15.html)より。

投稿: ちくわぶ | 2014年7月30日 (水) 23時12分

こんばんは。
お元気ですか?猛暑お見舞い申し上げます。
すみません、『紅梅月毛』の読み方なんですが、『こうばいつきげ』でよろしいのですか?すみません、教えてください。よろしくお願いします。

投稿: たく | 2014年7月30日 (水) 20時02分

「紅梅月毛」いいですね。昔の少女漫画の黄金パターンは山本周五郎が創ってるような気もします。

投稿: ちくわぶ | 2014年6月 8日 (日) 23時31分

こんばんは。お元気ですか?私はSFは、全くわからないのですが、山本周五郎が大好きなんですよ。「紅梅月毛」ご存知ですよね?いい話ですね(*^o^*)

投稿: たく | 2014年6月 7日 (土) 20時01分

たくさん、コメントありがとうございます。被害者にその家族や親しい人を加えると、膨大な数の人が迷惑を蒙った事件でしたね。

投稿: ちくわぶ | 2014年6月 3日 (火) 22時21分

おはようございます。ちょっと調べ物をしていてこちらのブログにたどり着きました。サリンの時は、日比谷線の人形町にある劇場に出演しておりましたが、楽屋入りがかなり遅れ、座長と母に心配をかけてしまいました。運良くサリンの被害には合いませんでしたが。恥ずかしながら私は、この本は読んでません。「羊をめぐる冒険」と「1Q84」しか読んでません。勉強になりました。また時々お邪魔させていただきます。ありがとうございました。失礼します。

投稿: たく | 2014年6月 3日 (火) 06時26分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/201750/59737945

この記事へのトラックバック一覧です: 村上春樹「アンダーグラウンド」講談社文庫:

« トビー・グリーン「異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖支配」中央公論新社 小林朋則訳 | トップページ | SFマガジン2014年7月号 創刊700号記念特大号 »