スコット・フィッシュマン「心と体の『痛み学』 現代疼痛医学はここまで治す」原書房 橋本須美子訳
知覚神経は、ときとして激しくあるいは繰り返し、痛み信号を送り続けることがある。その原因は二つにわけることができるだろう。一つは、正常な神経が、身の危険や異常を知らせるときだ。もう一つは、神経そのものに傷がついたり、異常が生じたりするときである。
【どんな本?】
頭痛や腰痛など、しつこい痛みに苦しむ人は多い。怪我や病気などで原因がわかっている場合もあれば、いくら調べてもわからない痛みもある。常に痛む時もあれば、ばぶしさ・疲れ・カフェインなど何かの刺激や体調で起きるもの、周期的だが不定期にやってくる発作もあり、症状が酷ければ患者は仕事や家庭まで失ってしまう。
著者は、マサチューセッツ総合病院で疼痛医療を担当し、今はカリフォルニア大学デーヴィス校で疼痛医学部長を務め、痛みを訴える患者の治療に当たる、経験豊富な現役の医師だ。
著者が今までに診療した様々な患者の症状・診断そして治療の過程などの具体例を挙げながら、痛みとは何か・痛みを感じる原因・適切な治療法などの科学的な面に加え、どんな痛み方があるか・痛みが患者の生活や性格にどんな影響を与えるか・医師と患者の関係をどう変えるかなどの医療のあり方を語り、また現在開発中の診断法・治療法・新薬などの未来展望を垣間見せる、一般向けの医学解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は THE WAR ON PAIN - How Breakthroughs in the New Field of Pain Medicine Are Turning the Tide Against Suffering, by Scott Fishman, M.D. with Lisa Berget, 2000。日本語版は2003年2月25日第1刷。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約412頁+訳者あとがき2頁。9ポイント47字×19行×412頁=約367,916字、400字詰め原稿用紙で約920枚。文庫本の長編小説なら2冊分に少し足りないぐらい。
日本語は比較的にこなれている。専門家が書いた本の割に、拍子抜けするほど中身は親しみやすい。これは、個々の症状を語る際に、実際の患者の仕事・家庭・生活パターンや病気の影響などを、物語のような形で紹介しているためだろう。健康だった人が病に苦しみ、それを克服してゆく話が展開するので、つい応援したくなるのだ。
とはいえ、専門家が書いた本だから、仙骨硬膜だのプロスタグランジンだのの専門用語も出てくる。でも大丈夫。わからなければ「なんか骨に近い所だろう」「何かの物質かな」ぐらいに思っておこう。あなたが医師でない限り、その程度の理解でも充分にこの本は楽しめる。
【構成は?】
まえがき(トーマス・ムーア)/はじめに
第1部 痛みと苦しみの謎を探る
第1章 なぜ痛みを感じるのか――危険信号としての痛み
第2章 痛み信号を消す――麻酔薬の発明と疼痛医学の進歩
第3章 慢性痛の謎――背中の痛みが人生の痛みに変わるとき
第4章 痛み信号が狂うとき――傷ついた神経から生まれる痛み
第5章 神経細胞のネットワーク――痛みが脳の構造を変える
第6章 心が痛みに勝つとき――プラシーボ、エンドルフィン、および意識の作用について
第2部 痛みの克服に向かって
第7章 腰痛と関節痛――傷ついた組織の痛み
第8章 神経の異常――病気や外傷による難治性の痛み
第9章 頭痛治療に頭を痛めるとき――重症の頭痛と闘うには
第10章 科学を超越した治療――代替療法の活用
第11章 終末期の痛み――体と心が苦痛から解放されるとき
第12章 痛みのない社会へ――疼痛医療の将来
エピローグ/訳者あとがき
【感想は?】
この本は、尻上がりに面白くなる。
冒頭の第1章・第2章は歴史的・学術的な話なので、人によっては退屈に感じるかもしれない。だが、著者が実際に治療に当たった患者の話が出てくる第2章の後半から、ぐっと親しみやすく面白くなってくる。
ここで出てくる患者はスミス氏、某社の重役。手術で胆嚢を摘出したが、術後に痛みを訴えるので多量のモルヒネを与えた。しかし、痛みは治まらない。ここで著者が着目するのが、スミス氏の過去と性格。かつて海軍で指揮官を務め、今は会社の重役だ。主導権を握る立場に慣れており、他人、つまり医師や看護師に従うのには慣れていない。
そこで著者はPCA(患者管理鎮痛法)を採用する。患者が痛いと思った時、自分で鎮痛剤を打てる装置だ。だが患者は心配する。「モルヒネの打ちすぎで中毒になったら?」でも大丈夫。複数の安全システムがあり、医師が決めた限界までしか薬が出ない仕掛けになっている。
この説明を受け納得したスミス氏、装置をセットしたら、すぐさまスイッチを押して安全装置の具合を確かめ、思ったとおりに動くとわかったら、すぐに機嫌がよくなり薬の量も減り、回復も早くなった。
スミス氏の問題は何か。自分がコントロールできないのが、不愉快だったのだ。機嫌が悪いと、感じる痛みも増す。機嫌と痛みが、深く関係している場合もある。この場合は、互いが互いを増幅する関係にあって、痛い→不機嫌→更に痛い→更に不機嫌…と、悪循環に陥ってしまう。
スミス氏の症例では、これを逆用して、スミス氏自身が管理できる範囲を広げる事で、彼の自信を取り戻し、機嫌を良くすることができ、お陰で痛みも小さくできた。
「気のせい」ってのは、確かに事実なのだ。だが、感じている痛みは本物だ。である以上、「痛みを取り去るのも医療の務め」というのが、著者の姿勢である。そのためには、プラシボも代替療法も使う。別にオカルトに傾倒しているわけではない。「痛み」には、患者の気持ちが大きく関係するから、使えるものは何でも使う、そういう事だ。
私が治療メニューを作るときは、その患者が何を必要としているかを、一番に考える。まったく同じ症状を訴える患者が二人いても、それぞれの治療プランを立てた方が、いい結果につながるかもしれないのである。つまり、患者の人格や、病気が患者の人生に及ぼした影響をじゅうぶんに考慮しなければ、最良の治療プランは立てられないということだ。
疼痛医療は最近になって発展した分野なので、医者にも患者にも馴染みがない。この本に出てくる症例で共通しているのが、患者が多くの医師にかかっている事。しつこい痛みに悩まされ、様々な治療を受け、それでも治らない。だもんで、患者は医師に不信感を持っている。こういう患者の気持ちを察する文章が多いのも、この本の特徴だろう。
例えば、抗うつ剤を処方する場面。あなた、足の痛みで病院に行って、抗うつ剤を処方されたら、どう思います?「俺はうつ病じゃねえ、ナメとんのかヤブ医者」と思うよね、普通。まして、何度も失望を繰り返した患者なら、なおさら。でも、これにはチャンと理由があって…
ケッタイな治療法は他にもあって、脊髄刺激装置とかは、モロにグレッグ・イーガンの世界。痛みは神経を介して信号が脳に届くから感じる。そこで、神経に「わずかにちくちくとした感覚をもたらす」信号を流し、痛みの信号を攪乱するのだ。具体的には、局所麻酔でケーブルを脊髄に埋め込み、電源を胴体か腹に埋め込む。患者がスイッチを入れると、チクチクするが激しい痛みはなくなるという仕掛け。
さすがに新しい治療法なんで、後遺症とかは分かってないし、「痛みが消えない場合もある」。笑っちゃうのが、「空港の金属探知機に反応してしまう」こと。
他にも、麻酔の発明者が歯医者だったり、体を動かした方がいい腰痛もあったり、神経を切っても痛みが消えるとは限らないなど、歴史・医学・心理学などの話題のほかに、痛みが生活にもたらす影響など、読み所は多い。特にオリバー・サックスの著作が好きな人は、楽しんで読めると思う。
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