レドモンド・オハンロン「コンゴ・ジャーニー 上・下」新潮社 土屋政雄訳
「こいつらはみな貧しい。商売人や村人、要するに三等船客よ。この屋根なしの艀で二週間――いや、三週間――暮すんだ。死人が必ず何人かは出る。夜、寝返りを打って、艀と艀の隙間から水に落ちて死ぬ子供が一人や二人はいる。なにしろ三千人からの人間だからな。いや、もっとか」
【どんな本?】
イギリス人レドモンド・オハンロンは思った。「コンゴ人民共和国(現コンゴ共和国、→Wikipedia)の奥地テレ湖に住む怪物モケレ・ムベンベを見に行こう」。道連れはアメリカ人の友人で動物行動学者のラリー・シャファー博士,モケレ・ムベンベを目撃したコンゴ人の生物学者で動植物保護省の役人マルセラン・アニャーニャ博士,マルセランの異父弟マヌー,従弟のヌゼ。
恐らく時は1989~1990年ごろ。木の根につまづき、虫に咬まれ、マラリアに苦しみ、水ぶくれに悩み、泥水をすすり、マニオクとナマズとアオダイカー(→Wikipedia)を食べ、村人に騙され呪われボラれて旅は続く。
社会主義政権化のコンゴ人民共和国の統治の実情、金と呪術と権力が入り混じったバンツー族やピグミー族の社会、現代文明n利器と伝統的な道具を取り混ぜ厳しい森の中で生きる人々の生活、入り込んだ人間を容赦なく襲う猛々しい哺乳類・爬虫類・昆虫・寄生生物そして森。
首都ブラザビルから奥地テレ湖まで、激しい生存競争に中に飛び込んだ、無謀な白人の無謀な旅行記。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原初は CONGO JOURNEY, by Redmond O'Hanlon, 1996。日本語版は2008年4月25日発行。単行本ハードカバー縦一段組みで上下巻、約373頁+約383頁=約756頁。9ポイント45字×20行×(373頁+383頁)=約680,400字、400字詰め原稿用紙で約1701枚、長編小説なら3冊分ちょい。
文章そのものは日本語として比較的にこなれている。が、かなり読みにくい。著者オハンロンの視点で一貫しているのはいいが、場面転換が唐突で、動植物の学名が出てきたと思えば過去の追想になるなど、妄想と現実は入り混じる。登場人物の言葉も問題で、そもそも信用できない上に、一見無意味な台詞の中に意味深な一言があったりする。村人の言葉も理解するのに苦労する。舌足らずな言葉使いの奥に、大抵は下心を隠していて、注意深く彼らの意図を探る必要がある。
【構成は?】
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【感想は?】
へっぽこ白人旅行者の、へっぽこコンゴ紀行。
いや、それなりに学識はある人なのだ、著者のレドモンド・オハンロンは。アチコチに動植物の学名が出てくるし、観察眼もある。現物を見て特徴を捉え、図鑑をめくれば動植物の名前もわかる。
が、この本の中の著者は、どうしてもへっぽこに見えてしまう。というのも、舞台が極端な弱肉強食の競争社会たからだ。当事のコンゴ人民共和国はソ連の影響下にある社会主義国だが、そこに生きる人々は金と利権とポジションを巡り激しく争っている。
これは首都ブラザビルだけでなく、奥地の村も同じだ。村の村長同士は互いの威厳を賭け争い、他の村に恥をかかされた男はなんとしても汚名を返上しなければならない。争っているのは人間だけじゃない。森の生活は、一時も気が抜けない。ヒョウやニシキヘビなど肉食獣はもちろん、サスライアリの群れに襲われたらたちまち白骨になってしまう。
冒頭の引用は、首都ブラザビルから北東部の都市インプフォンドへ、コンゴ川を遡る汽船に乗る場面。大型の汽船を多数の艀が支援して航行する大型船で、「三千人からの人間」が乗っている。その大半は青天井の甲板に寝泊りだ。駆け回る子供の事故もあるし、沿岸の村から乗客相手に商売する丸木舟もやってきて、不運な船乗りは艀に巻き込まれる。
首都ブラザビルはコネとカネで動く。必要な書類を揃えるにも、賄賂が必要だ。ここで「都会は汚れている」なんて呆れていたら、奥地に向かう中盤から後半では、更に呆れるだろう。
例えば、マカオ村からベランゾコ村へ向かう場面だ。ここではマカオ村の村長のあっせんで、ミシェル・ワレンゲとアントワーヌ・モキトの二人を雇う。この雇用には事情があり、村長も説明してくれる。ところが、どうも裏があるらしい。その裏事情を、マルセラン・マヌー・ヌゼの三人の説明は、全く違っているのだ。何か村長同士の沽券に関わる因縁があるらしいのだが…
この結末が、いかにもご都合主義で笑ってしまう。こういう所がへっぽこと感じる所以。鬱陶しい村同士の意地の張り合いのツケは、なぜかオハンロンに回ってきて、四千CFAをもぎ取られるのだ。
恐らく著者は温厚で誠実な人間なんだろう。だが、コンゴじゃそういう人間は食い物にされる。それを見事に象徴しているのが、同行するマヌーとヌゼ。いずれもマルセラン博士の血縁で、家庭を持つ若い男。この両者の性格が綺麗な対象をなしていて、混乱する物語を理解する助けになる。
慎重で温厚で学究肌、誠実で家族想いのマヌー。お調子者で気分屋、大口ばかり叩き後先考えず、だが人を出し抜き女を口説く術には長けているヌゼ。道中もレドモンドにたかった金で女を口説きまくり、毎晩寝る間もなくハッスルしちゃ性病を貰ってくる。
ハッキリ言ってヌゼはチンピラまがいの嫌な奴なんだが、この本の舞台のコンゴじゃ、どう考えても将来成功するのはヌゼだろう、と思えてくるからやるせない。嘘でもハッタリでも、「奴は強い」と思わせたほうが勝ちなのだ。
この「強い」、コンゴの地じゃ一筋縄じゃいかない。体格・体力ばかりでなく、コネをいかに利用するか、周囲をいかに扇動するか、目先の利益をいかにカスめるか、相手をどう貶めるかなど、口先が巧く目端が利く者が有利となる。根拠のない自信にあふれ、スキを見ては紛れてマヌーを貶し、レドモンドからたかりまくるヌゼこそ、有望な若者に見えてしまう。
「ここはアフリカだからな。リンガラ語にはありがとうという言葉がない。誰かに贈り物をするのは、向うにもらう権利があるからだ。それか、家族の一員か、こっちが向うに何かを期待しているときだ」
厳しい社会だが、読むと、「そりゃそうなるよなあ」と思えてくるのが、現地コンゴの自然環境。主人公のレドモンドも、首都ブラザビルで早速マラリアにやられる。川にはワニが潜む。アカスイギュウは人の足を舐め骨だけにする。ツェツェ蝿は眠り病を、蚊はマラリアと象皮病を媒介し、ヌゼは淋病を媒介し、村にはイチゴ腫(→Wikipedia)が蔓延する。
人の死があふれている、苛烈な世界なのだ。日常のリスクが大きいので、長期的な計画はオジャンになる可能性が高い。だから、まず目先の確実な利益をカスめる戦略のほうが有利なのだ。
そこに社会主義が入り込んで権力構造をゆさぶり、呪術が混乱に拍車をかける。留学経験まであるマルセラン・アニャーニャ博士は、同時に政府の役人でもある。高い科学的な素養に加え、役人として政府の権力闘争も知る教養人だが、同時にバンツーの有力者の血筋でもある。現代コンゴの矛盾を一身に背負った人物だ。
女出入りが激しく胡散臭い彼の言葉は、なかなか底が知れない。読み終えた今でも、やはり底が知れないが、その理由の一端は見えた気がする。世襲村長と呪術が支配する従来のコンゴと、発展を目指す現代のコンゴ。教養のないヌゼは自分の利益だけを考えてアッサリと割り切れるが、全体を俯瞰する視野を持つマルセランは割り切れないんだろう。
無謀なへっぽこ白人の冒険紀行として読み始めたが、進むに従いコンゴ社会の複雑さや苛烈さも見えてくる。確かに自然は豊かだが、そこで生きる人間は狡猾だ。混沌とした現代のコンゴを、そのまま読者に突きつけ熱病で悩ませる、そんな本だった。
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