ジョージ・ジョンソン「量子コンピュータとは何か」早川書房 水谷淳訳
問題なのは、装置の素材でなくその「構造」なのだ。コンピュータの概念を本質まで凝縮すれば、それを必ずしも電子部品で作る必要はなくなる。ディンカートイという木製のおもちゃを使っても作れるのだ。
【どんな本?】
量子コンピュータは、既存のスーパーコンピュータより遥かに優れた能力を持つといわれる。だが、何が優れているのかがわからない。今のコンピュータと何が違う? そもそも、私が使っているパソコンとスーパーコンピュータも、何が違うんだ?
<ニューヨーク・タイムズ>紙の科学記者である著者が、話題の量子コンピュータを題材に、「そもそもコンピュータとは何か」「なぜスーパーコンピュータが必要なのか」「今のスーパーコンピュータでは何が困るのか」から始まり、「量子コンピュータは何が違うのか」「どんな理屈で動くのか」「何が嬉しいのか」「今はどこまで出来ているのか」を、あまり科学やコンピュータに縁のない人に説明する、一般向け科学解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は A SHORTCUT THROUGH TIME - The Path to the Quantum Computer, 2003。日本語版は2004年11月30日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組みで約248頁。9.5ポイント43字×17行×248頁=約181,288字、400字詰め「原稿用紙で約454枚。小説なら標準的な長編の分量。なお、今はハヤカワ文庫NFから文庫本が出ている。
翻訳物の科学解説書としては、文章はこなれている方だろう。量子力学を扱っている割には、意外と内容も難しくない。数式や分子式も出てこない。一応、原子核の話も出てくるので、中学卒業程度の数学と理科の素養は必要だが、「真ん中に陽子と中性子があって、その周りを電子雲が取り巻いてる」程度で充分。
【構成は?】
はしがき――ブラックボックスの中身
序章――ブルーマウンテンへの道
第1章 「シンプルな電脳マシンの作り方」
第2章 ティンカートイの論理
第3章 鏡遊び
第4章 時間の近道
第5章 ショアのアルゴリズム
第6章 暗号破り
第7章 見えない機械
第8章 原子の計算機
第9章 口の堅い量子
第10章 宇宙一の難問
結び 90億の神の御名
細目――注と出典/謝辞/訳者あとがき
素人向けの科学解説書に相応しく、ひとつひとつ段階を踏んで説明しているので、素直に頭から読もう。
【感想は?】
ノイマン型コンピュータの原理を知っていれば、序章だけで「量子コンピュータの何が嬉しいのか」が、感覚的に掴める。特に画像処理やフーリエ変換など、大量の数値データを行列計算するプログラムを作った経験があれば、「おお!」と納得するだろう…残念ながら、それは早トチリだが。
序章で感覚的にわかる「量子コンピュータの長所」は、ベクトル・プロセサやグラフィック・プロセサなどSIMD(Single Instruction Multi Data、→Wikipedia)のソレだ。多数の数値データに対し、同じ命令を一斉に処理する。
量子コンピュータだと、2量子ビットのレジスタは、2ビットのレジスタが4個のベクトル・プロセサに相当する。3量子ビットなら3ビットのレジスタ8個、4量子ビットなら4ビットのレジスタ16個…となるので、16量子ビットは16ビットのレジスタが65536個のベクトル・プロセサに相当する。32量子ビットは32ビットのレジスタ40億(4ギガ)個ぐらい?
現実のコンピューティングだと、SIMDが活躍する場面は限られてて、グラフィック処理や音声処理など、情報と言うより信号を扱う処理が多い。が、この本を読むと、量子コンピュータの能力は、それだけに留まらないことが分かる。
量子コンピュータという科学の最先端の話題を扱うにも関わらず、この本の頁数はそれほど多くない。が、思ったより内容は充実している。量子コンピュータの話に入る前に、まず今のノイマン型コンピュータの原理から話を始めていて、これはなかなか親切な配慮だろう。
続けて「量子コンピュータに何が出来るか」を語り、その原理へと話が進む。原理の話になると、どうしても量子力学が入ってくる。量子コンピュータの意味不明さの多くは、「一つの量子が0と1を重ね合わせた状態にある」所にあるんだが、このケッタイた量子の性質を、ガラスにあたる光(光子)で説明しているあたりは、なかなか見事だ。
透明な窓ガラスは、外の景色が見える。と同時に、ガラスに映る自分の姿も見える。ガラスに当たった光(光子)は、跳ね返ったり通過したりする。その違いは何か。
物理学者は何年もかかって、今では当たり前に受け入れられているある事実を見出した。一個一個の光子は自らの振る舞いをランダムに「決定」する、という事実だ。
ここまでで、「何ができるか」「なぜできるか」が、おぼろげながら掴めてくる。続くのは、「どうやるか」「今はどこまで出来ているか」そして「何が嬉しいのか」だ。特に、一般読者としては、最後の「何が嬉しいのか」が気になるだろう。
ここで重要なのが、因数分解。「んなモン、とっくの昔に忘れたよ」と言う人もいるだろうが、実は多くの人が知らないうちに使っている。暗号だ。SSL だの HTTPS(→Wikipedia) と言っても分からないかも知れないが、Amazon などで買い物をしたり、携帯電話で銀行振り込みをしていれば、ちゃんとご厄介になっている。
あなたのクレジットカード番号や口座番号やパスワードが、悪人に知られたら、困った事になる。携帯電話の電波を盗聴されたら、口座がカラになりかねない。そこで、一般に携帯電話の信号は暗号化しているし、特にお金に関わる部分は、二重三重の暗号化を施している。ここで、因数分解を使っているのだ。
ってな部分も面白いが、やはり科学やSFに興味を持つ人こそ、この本は美味しく読める。「第9章 口の堅い量子」では、アーター・エカートの暗号通信のアイデアが面白い。「一個の原子から反対方向に飛び出した二個の光子は、お互いに絡み合っている」事を利用し、二者間で完全に安全な暗号を作れるのだ。
実はこれ、同時に両者間の距離を無視したリアルタイム通信も可能なんで、ソレをネタにしたSF小説があったんだが、思い出せない。なんだっけ?
「第10章 宇宙一の難問」では、「具体的にどう応用できるか」を解説している。最初の例がタンパク質分子の三次元構造の話で、身近な例ではアルツハイマー病や狂牛病に関係あるらしい。タンパク質分子が自分の折りたたみ方(三次元構造)を「知って」いるのか、何か抜け道があるのか。そういえば、DNAのコピーも凄まじい伝送速度なんだよなあ。
CPUの例としてペンティアムやPowerPCが出てくるなど、少し古くなった感はあるが、量子コンピュータの原理と仕組みについて素人が直感的に掴むには、かなり上出来な本だろう。「結び」の章でわかるように、多少SFを知っていると、更に楽しめる。少し妄想を働かせると、夢はどんどん広がってゆく。
少しの科学知識と溢れる野次馬根性、そして滾る妄想力を解放しながら読もう。
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