アブラハム・アダン「砂漠の戦車戦 第4次中東戦争 上・下」原書房 滝川義人・神谷壽浩訳
運河まで約1500mの地点に近づいた時、突如として対戦車ミサイルRPGの攻撃を受けた。PRGにまじって機関銃が猛烈に撃ってくる。ヤグリ大隊は敵歩兵陣地にまともにぶつかったのである。ほぼ時を同じくして、運河両岸のサンドバリヤーと土塁による敵戦車数十輌がいっせいに発砲した。サガーミサイルも飛んでくる。戦場は一瞬にして修羅場と化し、味方戦車が次々と被弾し、炎上する戦車から飛び降りる搭乗兵の姿が見えた。
【どんな本?】
1973年10月6日、エジプトとシリアがイスラエルに奇襲をかける。第四次中東戦争(→Wikipedia)だ。充分に準備を整えた大軍を擁するアラブ側に対し、完全に虚を突かれたイスラエル軍は小数の兵で広い戦線を支える羽目になる。
エジプト軍と対峙するシナイ半島では、防空体制の整ったエジプト軍にイスラエル空軍は苦戦する。戦場が交通網の貧弱な砂漠でもあり、不整地走行能力を持つ戦車が戦闘の主力となった。戦場に駆けつけた戦車は、エジプト軍が仕掛けた地雷に頓挫し、または歩兵の持つサガーやRPGなど対戦車ミサイルの餌食となってゆく。
当時、南部(シナイ半島)軍管区における3師団の一つを率いたアブラハム・アダンが、自らの経験を元に、戦後に集めた資料を加え描き出す、第四次中東戦争のシナイ半島方面のドキュメントである。また、シナイ半島の先頭は、第二次世界大戦以降の最大の戦車戦であり、戦場における戦車の役割や位置づけを大きく変えた戦闘の記録でもある。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は ON THE BANKS OF THE SUEZ - An Israeli General's Personal Account Of The Yom Kippur War, by Avraham (Bren) Adan, 1979。日本語版は1984年に原書房から一度出ているが、私が読んだのは1991年2月14日の新装第1刷。単行本ハードカバーで縦一段組み、上下巻で約254頁+約278頁=約532頁。9.5ポイント45字×18行×(254頁+278頁)=約430,920字、400字詰め原稿用紙で約1074枚。長編小説なら2冊分ぐらいの分量。
文章は比較的にこなれている。ただ、内要はかなり敷居が高い。当事者が書いただけあって迫力は充分なのだが、なにせ専門家が書いた本である。基礎的なことは「それぐらい常識だよね」的な姿勢で、あっさり省いてある。当事の国際情勢などの背景事情や、戦争に至る歴史の流れなどの政治知識や、当事のイスラエル軍の装備や師団・大隊などの編成と規模など軍事知識がないと、読みこなすのは難しい。
また、刻々と作戦や戦況が変化するので、地図を見ながら読む事になり、読み通すには相応に時間がかかる。その分、表紙の裏や本文中の要所に地図を、裏表紙の裏に編成表を付けた心遣いはありがたい。特に地図は何度も見直すので、栞を沢山用意しておこう。また、本文中に豊富に収録した写真も、記述の迫力を増している。
【構成は?】
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【感想は?】
戦車好きには、ちと厳しい内容かも。というのも、戦車が活躍する本と言うより、戦車が苦戦する本なのだ。
まず、この本の位置づけから。第四次中東戦争の全体を俯瞰する本では、ない。対エジプト戦を戦ったイスラエル陸軍の三師団(後に五師団)中の、一師団を指揮した師団長の視点で見た従軍記、といった性格が強い。第四次中東戦争の全体を俯瞰した本は、例えばアブラハム・ラビノビッチの「ヨム・キプール戦争全史」がある。
もちろん戦後に集めた資料も参照し、背景事情やエジプト軍側の様子も入っているが、シリア戦の様子は伝聞風だし、空軍の事情も書いていない。逆にスエズ戦線の状況は、軍管区司令官のシュムエル・ゴネンや隣の師団を率いるアリエル・シャロンとの軋轢などを含め、赤裸々に書いている。
その分、戦車が好きな人にはたまらない本だろう。様々な事情で、否応なく戦車が前面に出て活躍するしかない状況に追い込まれ、散々の苦戦の末に逆転する話なのだから。反面、「様々な事情」の説明を省いちゃってるのが、素人には辛い所。省かれた背景を、私なりに解説してみよう。
多くの国民を抱えるエジプトやシリアは、大きな常備軍を維持できる。小国イスラエルは無理だ。そこで、徴兵制で国民の多くに兵役経験を持たせつつ平時は予備役とし、常備軍は小さく抑える。戦時には常備軍が守って時間を稼ぎ、その間に予備役を招集して前線へと送り込む。これで平時は小さい軍で負担を軽くし、戦時には大きな戦力を持てる。
イスラエル軍の理想の戦い方は、こんな感じだ。まず空軍で敵の空軍・長距離砲・戦車を潰し、長距離砲の支援を受けた戦車が雪崩れ込む。だが第四次中東戦争でのエジプト戦はアテが外れた。エジプト軍は緻密な防空体制を敷き、イスラエル空軍の攻撃を阻む。戦車に対しては地雷をバラまき、また多くの歩兵が対戦車ミサイルで対抗してくる。
エジプト軍の大軍を抑える小数の守備隊を支援するため、イスラエル軍は救援を送る。だがシナイ半島は交通路が未発達で、歩兵や長距離砲の移動が難しい。不整地も走れる戦車が突出し、歩兵や長距離砲や空軍の掩護がないまま、準備万端整えて待ち受けるエジプト軍の対戦車包囲網へと突っ込んでゆく。
やはり省いているのが、当事のイスラエル軍の機甲部隊の編成の規模。裏表紙の裏に大隊までの編成表はあるんだが、それぞれの規模はピンとこない。文中の記述で、機甲小隊は戦車3輌~5輌らしき事がわかる。これを元に戦車の数を想像すると、こんな感じか。
機甲小隊:戦車3~5輌
機甲中隊:戦車10~20輌
機甲大隊:戦車20~60輌
機甲旅団:戦車60~200輌
機甲師団:戦車200輌~600輌
上巻は地雷や対戦車ミサイルに戦車が次々と屠られる場面が延々と続く。冒頭の引用が、そのサンプルだ。戦闘場面も怖いが、この本で痛感するのが、補給の難しさ。シナイ半島は砂漠地帯のため、道路網が未発達だ。戦場へ向かう車両は、一車線の細い道路に集中する。そこに砲撃を受けると…
運転手は路外に飛び出て退避するのである。輸送隊のトラックには、燃料と弾薬が満載されているので無理もないが、運行は全く停止してしまうのであった。
と、師団長ともなれば交通整理にも気をくばらにゃならん。巨大な渡河用資材を運ぶ場面は、戦闘場面以上のサスペンスだ。師団長という立場ならではの苦労が分かるのも、この本の特徴。混雑してるのは道路ばかりではなく…
各旅団がそれぞれ戦闘の真っ最中で状況は刻々と変化し、無線連絡を確保する事は極めて難しかった。旅団長もが指揮下部隊と懸命に行進しているとなればなおさらである。
これにエジプト軍の妨害電波も加わり、通信確保は更に難しくなる。夜間の戦闘では、敵味方の識別まで難しくなる。加えて部隊が次々と消耗してゆく激戦だけに、毎日のように再編成や部隊の貸し借りがあり、指揮系統もコロコロ変わってるのが凄い。ここで面白いのが、暗号通信。ったって符丁だが、その符丁が毎日変わる。各日の符丁はカードに書いてあるけど、睡眠不足で…
当の私が、今日が一体何日なのか判らなくなっていたのだ。そこで私は、指示伝達に先立って日付を明示することを考えた。イスラエル放送を真似て、“10月10日、水曜日であります。今日この日レビ人は…
戦術面では、下巻の中国農場での戦いが、歩兵による対戦車戦の重要な示唆を与えてる。ここには枯れた用水路が縦横に走り、歩兵には格好の隠れ家を提供している。用水路に潜んだ歩兵は活発に移動しつつ、対戦車ミサイルで機甲部隊を屠ってゆく。たまたま都合の良い地形があったから利用しただけだが、歩兵の対戦車戦闘に重要なヒントを示す例だ。水路がなけりゃ壕を掘ればいいんだから。最強の武器はスコップ。
など、書名には戦車戦とあるが、読み終えると「どうすれば歩兵が戦車に対抗できるか」みたいな内容になっている。戦闘でも、空軍が使えりゃ楽なんだが、イスラエルはシリア方面に空軍戦力を集中し、エジプト軍はイスラエル空軍との戦いを避けあまり出撃していないため、前線では更に戦車の存在感が大きくなる状況にあったのだ。
と、散々な目にあったのに、著者はやっぱり戦車が好きなようで、「確かにやられたけど、それは歩兵の掩護がなかったから。無限軌道を備えたAPC(Armoured Personnel Carrier,装甲兵員輸送車、→Wikipedia)を配備して歩兵が戦車に置いてかれないようにしろ」と主張する。「戦闘ヘリ?持久力ないから一定地域を確保できないよね」と厳しい。
APCじゃ「ハーフトラックに機関銃を装備して走りながら戦えるようにしたのはイスラエル軍が最初、アメリカ・ソ連・ドイツが後から真似したのさ」と得意顔だけど、さすがにトヨタ・ウォーズ(→Wikipedia)までは予想できなかっただろうなあ。
前線で部隊を指揮した師団長の著作のため、戦争全体を俯瞰するものではない。反面、現場が近いだけに、臨場感は半端ない。前線でいかに戦車部隊を運用するか、前線における師団長はどんな仕事をするのか、そして戦車はどうやって戦い、または戦車にはどうやって対抗すればいいのかが、皮膚感覚で伝わってくる。
部隊編成や補給を含め、戦車を中心とした戦術・運用面に興味がある人、逆に「いかに戦車を叩くか」を知りたい人、それに加え師団長クラスの前線での職務の実態を実際を知りたい人にお薦め。
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